裕成弁館毒入りパン事件

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裕成辦館毒麵包案
Esing Bakery incident
裕成辦館(1857年『イラストレイテド・ロンドン・ニュース 』より)
日付1857年1月15日 (1857-01-15)
場所イギリスの旗イギリス領香港ヴィクトリア市
原因ヒ素中毒
死傷者
300から500人、大部分はヨーロッパ系
死者直後の死者なし、3人が後遺症により死亡
逮捕者華人57名
被告張霈霖ら10名
罪状毒物投与ならびに殺人未遂および謀殺(英語版) [1]
評決犯罪不成立

裕成弁館毒入りパン事件(ゆうせいべんかんどくいりパンじけん、中国語: 裕成辦館毒麵包案、英語: Esing Bakery incident[注釈 1])、別名亞霖事件(中国語: 亞霖案、Ah Lum affair[注釈 2])とは、イギリス領香港の開港初期、アロー戦争中の1857年1月15日に起きた食品汚染および食中毒スキャンダルである。香港在住の数百人の西洋人がヒ素中毒に陥ったが、直ちに生命の危険にさらされることはなかった。華人が経営する裕成弁館のパンからヒ素が検出されたことで、当局はまもなく同店オーナーの張霈霖(中国語版)[注釈 3]を中毒事件の首謀者として起訴したが、後に陪審団により無罪判決が下された。しかし、張は民事賠償請求を受け、国外退去処分となった。この事件の責任の所在やその背後にある動機が、清政府により周到に計画されたテロ攻撃だったのか、香港商人に打撃を与えるためであったのか、戦争犯罪であったのか、それとも単なる事故であったのか、今日に至るまで定説はない。

この事件はイギリス本国で政治的争点となり、パーマストン首相が1857年総選挙(英語版) で支持を獲得するための材料となった。一方、香港では、この事件によって植民地支配者たちは恐慌に陥り、植民地統治の基盤が揺らぐことを懸念した。また、中国人と西洋人の間の相互不信が深まるとともに、西洋人同士の内部対立も激化した。毒入りパン事件の規模とその潜在的な影響は、大英帝国にとって前例のないものであった。植民地当局の官僚たちは、香港にいる西洋人が一夜にして全員死亡するような事態になれば、その結果は計り知れないと考えていた。

背景

1841年、アヘン戦争のさなか、イギリス軍のチャールズ・エリオットは、穿鼻会議において清朝に香港をイギリスへ割譲するよう要求した[5]。香港初期の植民地官僚たちは、香港がイギリスの影響力を中国全土に広げるための玄関口となり、イギリスの統治制度と中国の「機知に富み、進歩の速い職人たち」を結びつける役割を果たすことに大きな期待を寄せていた。また、香港は苦力を西インド諸島へ輸送するうえでも役立つと考えられていた[6]。しかし、香港の華人人口の急増に加え、華南における海賊問題[7]、清政府によるイギリス政府への敵対的態度の継続などにより[8][9]、香港政庁は香港の統治が次第に困難になっていることを認識するようになった[10][11]。1856年、パーマストン首相の支持を受けていた香港総督ジョン・ボウリングは、香港在住の華人が所有するアロー号を清当局が拿捕したことについて、清政府に賠償を要求した。しかし、この要求が拒否されたため、アロー戦争(第二次アヘン戦争)が勃発した[12]。

1856年後半に戦争が始まると、清朝の両広総督・葉名琛は香港で一連の布告を発し、華人に対して「洋狗」のために働くことをやめるよう命じるとともに、イギリスやフランスの「蛮夷」を殺害した市民に報奨金を与えるとした。これはテロ行為を組織する行為とみなされた[13]。一方、新安県(中国語版)では、「沙井練勇(中国語版)」と呼ばれる武装集団(団練、郷勇)が組織され、イギリスに抵抗した[14]。同時に、香港在住の西洋人たちは、太平天国の乱によって中国社会が混乱し、香港の華人住民による犯罪が増加することを懸念していた[12]。華人と西洋人の関係が極度に緊張するなか、香港政庁は1856年12月と1857年1月に緊急法令を制定し、すべての中国人に夜間外出禁止令を発令した。また、警察には華人犯罪者を逮捕・国外追放するための広範な権限が与えられ、夜間には致死的な武力の行使も認められた。生活の自由が次第に制限され、警察による暴力も深刻化するなか、裕福な華人住民の間でも政庁に対する不満の声が日増しに高まり、華人と西洋人の間の相互不信は頂点に達した[15]。

経過

1857年1月21日、中央警署の差役(警察官)が捜査を行う様子。現場では、差役が逮捕された華人の一人から供述を聴取し、その様子を華人や西洋人たちが傍らで見守っている

1857年1月15日、香港在住の多数のヨーロッパ人が、普段どおり裕成辦館(イェール式広東語: Yuhsìhng baahngún)の焼いたパンを朝食に摂ったところ、突然、吐き気、腹痛、めまい、嘔吐などの症状を訴えた。被害者の数は300人から500人に上ると推定されている。検査の結果、裕成辦館が提供したパンには大量のヒ素が含まれていたことが判明した[16]。その含有量は、摂取した人が直ちに嘔吐するほど多く、致死量に達するものであった[17]。毒入りパン事件による死者は当初発生しなかったものの[18]、同年中に香港総督夫人を含む3人が、ヒ素による長期的な影響で死亡した[17]。植民地医官(英語版、中国語版)ウィリアム・オーレリウス・ハーランド(William Aurelius Harland)が率いる香港の医師団は、ヴィクトリア市内でパンに毒が含まれていることを広く知らせるとともに、嘔吐した後に生卵を食べるよう市民に呼びかけた[19]。

裕成辦館の経営者である張霈霖は、事件当日の朝、偶然にも家族とともにマカオ行きの汽船に乗っていたため、直ちに毒物混入の犯人として疑われた[20]。張はその後、マカオ海域にいた船上で拘束され、翌日香港へ連れ戻された。最終的に、事件との関係を疑われた華人52人が拘束された[16]。律政司トーマス・チザム・アンステイ(英語版)を含む西洋人の大多数は、張を軍事法廷にかけるよう要求し[21]、私刑に処すべきと主張する者もいた[22]。しかし、ボウリング総督は、陪審員による裁判を行うべきだとの立場を堅持した[21]。

1月19日、警察は拘束者のうち10人を最高法院に送致し、裁判にかけることを明らかにし[注釈 4]、その2日後、警察による予備調査が行われた。一方、その他の逮捕者は「交差点警察署(英語: Cross Roads police station、中国語: 交叉路口差館)[注釈 5]」の狭い留置室に収容された。この留置室は後に、「カルカッタのブラックホール(英語版)」にちなんで「香港のブラックホール(中国語: 香港黑洞)」とも呼ばれるようになった[20]。拘束者の一部は数日後に国外追放されたが[16]、残りの者たちはその後も約3週間にわたって拘束され続けた[24]。

最高法院開審

律政司のアンステイは、張が事件について知っていたかどうかにかかわらず、絞首刑に処すべきであると主張した

2月2日、この事件の裁判が最高法院で始まった[1]。イギリス刑法(英語版) には、地域社会全体を毒殺しようとした事件の前例がなかったため、当局は適切な罪状を選ぶことに苦慮した[25]。最終的に、張霈霖とほかの被告9人は、「植民地医官ジェームズ・キャロル・デンプスター(James Carroll Dempster)に対し、毒物投与によって殺害を企てた罪(英語版) 」で起訴された。また、当局は被害者のうち1人を訴追の対象となる代表的な被害者として選んだ[1]。検察側の主任弁護士はアンステイが務め、弁護側の主任弁護士はウィリアム・トーマス・ブリッジズ(中国語版)とジョン・デイ(John Day)が務めた[26]。裁判は、自身も毒物混入事件の被害者であった正臬司(中国語版)[注釈 6]のジョン・ウォルター・ヒューム(英語版) が担当した[27]。

審理では、毒物混入事件そのものよりも、張の人物像に焦点が当てられた。弁護側は、張が中国人社会で高い地位を占める裕福な人物であり、本業とは無関係な毒殺計画に加担する理由はほとんどないと強調した。そして、被告は商売上の競争相手によって陥れられたのだと主張した。一方、検察側は、張が経済的に困窮していたため、金銭と引き換えに自らを売り渡し、清朝のスパイとなって香港を破壊しようとしたと主張した[28]。

弁護側はさらに、張の子どもたちにも中毒症状が見られたと指摘した。これに対し、律政司のアンステイは、その症状は単なる船酔いによるものだと反論した[29]。また、アンステイは、たとえ張が事件について何も知らなかったとしても、「イギリス人の知恵と行動力をもってしても真犯人を見つけられないと認めるくらいなら、無実の者を誤って処刑するほうがましだ」と強く主張した[30]。これに対し、ヒューム正臬司は「無辜を誤って処刑しても、正義の実現にはつながらない」と批判した[20]。一方、張自身は、有罪判決を受けた場合には、中国人の伝統と連座制に従い、自分だけでなく一族全員を斬首してほしいと当局に申し出た[31]。2月6日、陪審団は証拠不十分と判断し、5対1の多数決で犯罪不成立の評決を下した。陪審団は検察側の主張を認めなかったのである[1]。

張の国外追放

最高法院の判決は社会に大きな衝撃を与え、西洋人たちは張霈霖に対して強い不満を抱いた。行政局における総督[注釈 7]は、最高法院での審理が行われている間に、判決の結果にかかわらず張を無期限に拘留すべきだと決定していた[32]。張が無罪判決を受けて間もなく、警察は緊急法例に基づき、張を「不審人物」として再び逮捕した。『華友西報(英語版) 』編集者のウィリアム・タラント(英語版) は、張に対して損害賠償を求める民事訴訟を起こし、最終的に1,010ドルの賠償金を獲得した[33][注釈 8]。一方、当局が張を処刑する前に、署理輔政司のブリッジスは、華人社会から提出された請願を受け入れ、張が身辺整理を終えた後、平穏に香港を離れることを認めると約束していた。張は最終的に釈放され、事業を放棄して8月1日に香港を離れた[32]。なお、香港在住のイギリス人全体が張の無罪釈放に不満を抱いたため、香港政庁が張を国外追放としたとする説もある[35]。

タラントは張が香港から無事に立ち去ったことに不満を抱き、その怒りの矛先をブリッジスに向けた。そして、ブリッジスが私利私欲のために不正行為を働いたとして、新聞紙上で繰り返し激しく非難した。その後、ブリッジスはタラントを名誉毀損罪で告訴した。これは香港開港以来、新聞報道をめぐって起こされた初めての名誉毀損訴訟となった。裁判官は、タラントの言論について「言葉遣いが激しく、私的な品行にまで言及し、ブリッジスの名誉を傷つけ、現職官吏を誹謗した。……これは過失によるものではなく、明らかに故意によるものである」と判断した。その結果、タラントには名誉毀損罪で有罪判決が下され、100ポンドの罰金が科された[36][37][注釈 8]。

分析

責任の所在

ロンドンの新聞各紙は、両広総督の葉名琛が毒入りパン事件を背後で計画したと非難した

現代の研究者の間でも、毒物混入事件の責任が誰にあるのかについては、いまだに見解が一致していない。歴史家のジョージ・ビア・エンダコット(中国語版、英語版)は、清朝の官僚の指示によって毒物が混入されたと強く主張している。一方、ジャン・モリス(英語版、中国語版)は、張霈霖が愛国心から単独で犯行に及んだと説明している。また、毒物がパンに混入された直後、裕成辦館の職長2人が香港から逃亡しており、張自身は事件に関与していなかったとする文献もある[27]。これに対し、清朝政府の命令によって張氏一族が編纂した『誥授通奉大夫沃生張公伝』では、毒入りパン事件は完全な事故であり、パンの製造過程における不注意によって生じたもので、故意に毒物を混入したわけではないと強調されている[38]:

当時は多くの使用人が働いており、日々の仕事に追われて休む暇もなかった。ある使用人が不注意から小麦粉に異物を誤って混入させたため、そのパンを購入して食べた西洋人たちは皆、めまいを起こして倒れた。

時は咸豊丙辰年(1856年)の秋であり、英仏が粤城内に入寇し、朝廷は戦争への対応に追われていた。イギリス人は、公〔張霈霖〕が〔朝廷の〕命を受けて自分たちを害そうとしたのではないかと疑い、遂に公を捕らえて法により処罰しようとした。しかし、公は誠実さと信義によって相手を納得させ、速やかに訴訟を解決することができた。

(中国語: 時工役眾多,日無暇晷,有某役因不慎誤投雜物於麵粉,西人售食悉皆暈眩顛倒。 時咸豐丙辰秋,英法入寇粵城,朝廷有事兵戎,英人因疑公受命以謀已者,遂執公欲置諸法,公卒能感以誠信,立解訟籐。)

Lowe & McLaughlin (2015)は、合理的に考えられる仮説を大きく三つに分類した。すなわち、張自身またはその従業員の一人が清朝の官僚の指示を受けて毒物を混入したという説、張の商売上の競争相手が張を陥れるために毒物を混入したという説、そして中毒事件は単なる事故だったという説である[39]。2人によれば、当時の化学分析の結果は事故説を裏づけるものではなかった。張氏一族の記録には、「ある日、一人の労働者が不注意から小麦粉の中に何らかの『奇妙なもの』を落としてしまった」と記されている。しかし、実際に大量のヒ素が検出されたのはパンだけであり、小麦粉、酵母、菓子類、さらには作業台の上に残っていた削りかすからもヒ素は検出されなかった。検査結果が正確であったとすれば、パンは毒物が混入されてから短時間のうちに焼かれたことになる[17]。さらに両者は、毒入りパン事件が周到に計画されたものであった可能性が高いと主張している。第一に、毒物が混入されていたのは西洋式のパンだけであり、中国人は一般にこうしたパンを食べなかったことから、特定の集団を標的にした可能性がある。また、ヒ素は中国の自然界にも存在し、摂取後すぐに作用するため、毒殺に用いる物質として適していたと指摘している[19]。

1857年6月、『香港政庁官報(英語版)(英語: Hong Kong Government Gazette、中国語: 香港政府憲報)』は、「沙井練勇」の指導者である陳桂籍の弟、陳芝廷が兄に宛てて書いた、当局によって押収された書簡を公開した。その書簡には香港で発生した中毒事件についての情報が記されていた。しかし、書簡の内容は伝聞に基づくものであったため、彼らが直接毒物混入に関与した可能性は低いと考えられている[40]。

中毒の情況

総医官ウィリアム・オーレリウス・ハーランドは、パンをはじめとする裕成辦館の物品について予備的な化学検査を行い、その結果を次のように記録した:

(中毒に関する)最初の警告を受けて間もなく、私はパンに何が含まれているのかを急いで調べようとした。その後、ブラッドフォード医師も駆けつけ、私たちはともに、それがヒ素であると確信した。翌日、輔政司の要請を受け、私たちはパンを一つひとつ、さらに詳しく分析した。その結果、すべてのパンからヒ素が検出された。……パン1ポンド当たり、ほぼ1ドラムのヒ素が含まれており、その大部分は亜ヒ酸であった。なお、1ドラムは60グレーンに相当する[注釈 9]。……16日の午後、ある警察官が私のもとに二つの容器を持ってきた。一つには14日の夜に使用された酵母が、もう一つには酵母の製造材料が入っていた。そのほか、小麦粉、裕成辦館の菓子類、皿からこそげ落とした生地、ブリキ製の型に入った菓子類も持ち込まれた。私はこれらの物品から、ヒ素やその他の金属系毒物の痕跡を一切検出しなかった(英語: Soon after the first alarm, I endeavoured to ascertain in a hasty way what was in the bread, and Dr Bradford coming in, he and I satisfied ourselves that it was arsenic. Next day, at the request of the Colonial Secretary, we made a more careful analysis of each piece of bread separately, and found they all indicated the presence of arsenic. ... we found that one pound [0.45 kg] loaf of bread contained nearly a drachm of arsenic, sixty grains to the drachm, common white arsenic. ... I also, on the afternoon of the 16th, had two jars brought me by a policeman, one containing yeast used on the night of the 14th, the other the materials for making yeast, together with some flour and some pastry from the bakery, paste scraped from the table, and some pastry in tin moulds. I found no trace of arsenic or other metallic poison in any of the materials.)[41]。

毒入りパンの一部は密封されたうえでヨーロッパへ送られ、化学者のフレデリック・エイベル[17]、ユストゥス・フォン・リービッヒ、およびスコットランド人外科医のジョン・アイヴァー・マレー(英語版) によって詳細な検査が行われた[42]。マレーは化学分析の結果、パン1ポンド当たり62.3グレーンの亜ヒ酸が含まれていることを確認した。これは毒物の含有率が8.9‰(約0.89%)に相当する量であった。マレーは、これほど大量のヒ素が含まれていたにもかかわらず、死者が数人にとどまったことを興味深いと考えた[42]。一方、リービッヒはパン1ポンド当たり64グレーンの亜ヒ酸を検出した。これは毒物の含有率が9.1‰(約0.91%)に相当する。リービッヒは、被害者たちがヒ素を消化・吸収する前に嘔吐によって体外へ排出したため、多数の死者が出なかったのではないかと推測した[42]。

当時のパンに大量のヒ素が含まれていた理由については、現在に至るまで議論が続いている。一説によれば、裕成辦館が購入した小麦粉は、汽船で輸送される際、同じ船倉に積まれていたヒ素鉱石によって汚染されたという[43]。

事件のその後と反響

イギリス本国

サー・パーマストン(1857年)

イギリス首相パーマストンがアロー戦争の開戦を支持した後、議会では政府に対する譴責決議が可決され、総選挙が前倒しで実施されることになった[44]。裕成辦館事件の知らせがイギリス本国に届いたのは、ちょうどこの1857年総選挙の最中であった[45]。有権者のパーマストンおよび戦争に対する支持を高めるため、ロンドンの『モーニング・ポスト(英語版) 』紙は中毒事件を激しく非難し、「中国の獣どもが行った醜悪かつ邪悪な行為であり、前例のない背信行為である。……その行為があまりにも卑劣であったため……成功しなかった(英語: "[a] hideous villainy, [an] unparalleled treachery, of these monsters of China", "defeated ... by its very excess of iniquity")」と誇張して報じた。さらに同紙は、犯人を「有害な動物、人間の皮をかぶった野獣(そして悪魔)であり、何一つ取り柄のない存在(英語: "noxious animals ... wild beasts in human shape, without one single redeeming value" and "demons in human shape")」と酷評した[45]。同じくパーマストンを支持していた『グローブ(英語版) 』紙は、張霈霖が「総督〔葉名琛〕の命令を喜んで受け入れ(英語: "had acted agreeably to the order of the Viceroy")」、毒物を混入したと認める偽造書簡を掲載した[46]。一方、張の無罪判決の知らせがロンドンに届いたのは4月11日になってからであり、その時点ですでにパーマストンは選挙に勝利していた[47]。

5月22日、ロンドンに滞在していたドイツの思想家フリードリヒ・エンゲルスは、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』紙に寄稿し、中国人が周到に計画を立て、卸売店で西洋人向けのパンに毒物を混入したと述べた。そして、次のように論じた。「気高い英国の報道機関がそうしているように、我々も、これが『祭壇と炉のための』戦争、すなわち中華民族を存亡をかけた戦争であることを認識すべきである。そこには、横柄な偏見や愚かさ、学識ある無知、あるいは小賢しい野蛮さといったものがすべて含まれているかもしれないが、それでもなお、人民の戦争であることに変わりはない(英語: "as the chivalrous English press does, we had better recognize that this is a war pro aris et focis, a popular war for the maintenance of Chinese nationality, with all its overbearing prejudice, stupidity, learned ignorance and pedantic barbarism if you like, but yet a popular war.")[48]」。

一方、香港で中毒事件が発生したこと自体を否定するイングランド人もいた。庶民院議員トーマス・ペロネット・トンプソン(英語版)は、この事件が虚偽の宣伝活動の一環として捏造されたものだと主張し、当局がアロー戦争を正当化するために事件を利用しようとしていると非難した[49]。事件の真偽が疑われた大きな理由の一つは、張霈霖の名前にあった。19世紀のイギリスでは、パン職人が生地を白くするために明礬を混ぜることが一般的であり、偶然にも、明礬を意味する英語の「alum」と、張霈霖の英語名「Alum[注釈 2]」は同じ綴りであったため、事件は物笑いの種となった[50]。Lowe & McLaughlin (2015)は、「『張亞霖(Alum)』という名のパン職人がいるだけでも滑稽だが、その『張亞霖』というパン職人が自分のパン生地に毒物を混入したとして起訴されたとなれば、あまりにも出来すぎた話で、かえって嘘らしく聞こえる」と述べている。また、植民地省のある官僚も、張に関する報告書に「おそらく偽名に違いない」と記していた[51]。

香港

香港総督のボウリング

毒入りパン事件の規模とその潜在的な影響は、大英帝国の歴史上、前例のないものであった[52]。植民地当局の官僚たちは、もし計画が成功していれば、香港在住の西洋人が一夜にして全員死亡する可能性もあり、その結果は計り知れないと考えていた[20]。

モリスは、この事件を「あのヴィクトリア時代の怖い話、黄禍論が劇的に現実となったもの(英語: a dramatic realization of that favourite Victorian chiller, the Yellow Peril)」と表現し、香港の華人と西洋人の間の緊張関係をさらに悪化させたと指摘している[53]。事件後、香港社会は恐慌状態となり[54]、香港政庁は華人に対する大規模な一斉検挙と国外追放を実施した[55]。警察は新たに100人の警察官を採用し、商船1隻を香港海域の巡視に投入した。香港総督ボウリングは、イギリス政府に対して5,000人の兵士を香港に駐屯させるよう要請した[54],また、華人に対する夜間外出禁止令を継続するとともに、中国船舶が香港から300ヤード (270 m)以内の海域に進入することを禁止し、必要に応じて武力を行使することも認めると布告した[56]。陳芝廷は、兄に宛てた書簡の中で、事件後の香港の状況を次のように記録している[57]:

……イギリスの夷狄たちは現在、ひどく混乱している。彼らは毎日のように布告を出し、2日もすれば3つもの規則を公布する。夜間に外出する者は急いで出かけ、急いで帰宅する。午後8時以降は外出が許されない。……(中国語: ……英夷現在十分迷惘,他們每日發一公告,兩日就公佈三套規例。晚上出門的人都出得快回得快;八點鐘後不得外出……)

裕成辦館は最終的に閉店し、西洋人たちは湾仔南西部に店を構えるイギリス人商人ジョージ・ダッドル(George Duddell)からパンを購入するようになった[58],歴史家のナイジェル・キャメロン(Nigel Cameron)は、ダッドルを「植民地で最も狡猾な詐欺師の一人」と評している[37]。しかし、同年3月6日にはダッドルのパン屋の倉庫が放火され、華人と西洋人の間に依然として強い敵意が存在していたことがうかがえる[58]。同月には、何者かが2,000ドルでダッドルのパン屋の従業員を買収し、ビスケットの生地に睡眠薬を混入させようとしているとの噂も流れた。ただし、この噂の真偽は確認されていない[25]。その後も、ブリッジス、アンステイ、タラントや香港政庁の高官たちが関与した一連の不祥事が相次いだ。これらも華洋の人種間関係に関わるものであり、「コールドウェル事件(英語版)」として知られている[59]。

張霈霖は香港を離れた後、マカオやベトナムで生活し、多額の収入を得た。その後、ベトナムにおける清朝の道銜となり[注釈 10]、輪船招商局の業務にも携わった後[60]、1900年に70歲で死去した[27]。一方、毒入りパンは大量のヒ素を含んでいたため、腐敗せずに保存することができた。その一部は最高法院の首席按察司執務室にある戸棚に保管され、1930年代まで残されていた[53]。

脚注

注釈

  1. ↑ 「裕成辦館」は、しばしば「裕盛辦館」[2]や「裕昇店」[3]などと誤記されてきた。また英文での表記は、Esing以外にも、ESing、E-sing、E Singなどと表記ブレがある。
  2. 1 2 張霈霖の英語名には表記ブレがあり、張という姓はCheungまたはCheong、別名の「亞霖」はAh-lum、Ah Lum、Ahlum、A-lum、Alum、Allumなどと書かれた。
  3. 1 2 張霈霖は別名を「張亞霖」、「張阿霖」といった[4]。
  4. ↑ 10名被告はそれぞれ、張霈霖[注釈 3]、張亞超(Cheong Achew)、張亞協(Cheong Aheep)、張亞錯(Cheong Achok)、張亞滿(Cheong Amun)、林亞蘇(Lum Asow)、譚亞連(Tam Aleen)、方晏義(Fong Angee)、方亞速(Fong Achut)、張偉江(Cheong Wye Kong)であった[23]。張霈霖以外の姓名は、全て音訳による表記である。
  5. ↑ おそらくは波斯富街と禮頓道の交差点に所在した一號差館か、皇后大道中と威靈頓街の交差点に所在した五號差館、堅道の附近にあった九號差館のいずれかであろう。
  6. ↑ 香港における司法部のトップであり、最高法院の最高位にある法官
  7. ↑ 英語においてGovernor-General-in-Council、中国語においては總督會同行政局と表記される。執行権の行使に関して、枢密院の助言と承認により行為する君主を指す憲法上の用語である「枢密院における国王(King-in-Council)」に相当する語であり、「香港政庁」と同義に扱われる。
  8. 1 2 英領香港初期の社会では、ポンド、メキシコドル、スペインドル(英語版)などの様々な通貨が流通していた[34]。洋銀の項目も参照。
  9. ↑ 1ドラムは1⁄8トロイオンス (3.9 g)に相当し、1グレーンは1⁄7000ポンド (0.065 g)に相当する。これは、パンに含まれていた毒は8.9‰であったことを意味する。
  10. ↑ 『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』は、これを誤って「consul(領事)」と訳している[27]。

出典

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  7. ↑ Carroll 2007, p. 19
  8. ↑ Munn 2009, p. 57
  9. ↑ Carroll 2007, p. 21
  10. ↑ Carroll 2007, p. 48
  11. ↑ Tsai 2015, pp. 12–3
  12. 1 2 Tsai 2015, p. 13
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  17. 1 2 3 4 Lowe & McLaughlin 2015, p. 197
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  19. 1 2 Lowe & McLaughlin 2015, p. 196
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  22. ↑ Lowe & McLaughlin 2015, p. 200
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  40. ↑ Lowe & McLaughlin 2015, pp. 197–8
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  42. 1 2 3 Murray 1858, p. 16
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参考文献

関連項目