複数世界論
複数世界論(英: plurality of worlds, cosmic pluralism)とは、哲学と宇宙論の歴史において、世界が1つではなく複数あるという考えのこと。または我々の世界以外にも生物や知的生物が存在するという考えを指す。世界の複数性や多世界論とも。
複数世界論で扱われる世界の範囲は時代によって異なる。古代ギリシャでは、デモクリトスなどの原子論者が複数世界論を展開した。原子論者のいう世界とは、天体が秩序立っている領域のことであり、それらが無限の空間に無数に存在するとした。
一方でアリストテレスは世界は一つしかありえず、有限の天球で囲まれた領域だと論じた。中世キリスト教社会ではアリストテレスの影響が大きかったが、中世後期には神の全能性から、天球に囲まれた世界は論理的には複数存在しうる、という議論がされた。
ルネサンスと科学革命によってアリストテレスの議論は否定され、無限の空間に、太陽系のような惑星系が無数に存在するという考えが広まった。17世紀末から19世紀にかけて、地球以外の天体にも知的生命が普遍的に存在するという考えが普及した。この時代にはこの考えを複数世界論と呼ぶようになった[1]。
古代ギリシャ
古代ギリシャの原子論者レウキッポスとデモクリトスは、我々の住む世界のほかにも、無数の世界が存在すると考えた。
彼らは、宇宙の無限の空虚のなかで、原子が自然に渦を巻き、重いものは中心に集まり、軽いものは外側に移動することで、平らな地球を中心とした天体系が形成されると論じた[2]。デモクリトスによれば、一つの世界では、地球を中心に月、太陽、惑星、恒星が回っている。世界によっては太陽や月が存在しなかったり、複数存在したりするなど、天体の種類や数が異なる。このような世界は無限に存在するとした[3]。
そうした世界には、我々の世界に似たものもあれば、動物や植物、水が存在しないものもある[4]。キケロが伝えるところによれば、デモクリトスは、互いに似ているだけでなく、人間を含めて完全に同一の世界も存在すると述べている[5]。
古代原子論では、無限の原子と空虚からなる宇宙全体を「万有(ト・パーン)」、そのなかの一つの天体系を「世界(コスモス)」と呼んで区別した[6][7]。
原子論を引き継いだエピクロスも、世界の数は無限であり、この世界に似ているものもあれば、似ていないものもあるとした[8]。エピクロス派のルクレティウスは、他の世界には、さまざまな人間の種族や、獣の種が存在すると記している[9]。
古代ギリシャでは単一世界説が優勢で、複数世界説を唱えた原子論者は少数派だった。アリストテレスは『天体論』で、世界が複数存在することはあり得ないと述べた[10]。
古代末期には原子論がキリスト教から異端視されるようになり、最後に残っていたエピクロス派も途絶えた。
中世キリスト教社会

中世キリスト教社会では、アリストテレスのように世界は一つであり、地球を中心として天球に囲まれているという考えが広く受け入れられていた。 12世紀以降、アリストテレスの『天体論』をはじめとする自然哲学の著作がラテン語に翻訳され、西ヨーロッパに広まった。『天体論』でアリストテレスは、存在しうる世界はただ一つであり、複数の世界が存在することは不可能だと論じていた[10]。しかし、この主張は、神でさえ複数の世界を創造できないという、神の全能性を制限する結論につながるため、中世の神学者や自然哲学者の間で議論の対象となった。
1277年、パリ司教エティエンヌ・タンピエは、「第一原因(神)は複数の世界を創造することができない」という命題を含む219の命題を誤りとして断罪した。これ以降、多くのスコラ学者が、神は複数の世界を創造することができると論じ、その可能性を検討した[11]。
その一人である14世紀のニコル・オレームは、複数の世界が存在するさまざまな形態を考察した。例えば、世界が入れ子状に存在する場合である。我々の地球の内部に、独自の地球と天球を備えた別の世界があり、さらにその世界の地球の内部にも別の世界が存在するという構造である。反対に、我々の世界が、より大きな世界の内部に存在することも考えられる[12][13]。
また、オレームは、天球に囲まれた複数の世界が互いに離れて並存する場合も考察した。この場合、球形の世界の間には、いずれの世界にも属さない空間が存在することになる[12]。そこでオレームは、中世の思想家としては珍しく、世界の外部に無限の空虚な空間を想定した。ただし、それは古代原子論における、物体が運動するための物理的な真空とは異なり、物体を持たない非物質的な空間であった。オレームは、この無限の空間を神の無限性、さらには神自身と同一視した[14]。
このように、中世の複数世界論は、アリストテレスの単一世界という宇宙観を、神の全能性と矛盾しない形で拡張し、複数の世界が存在しうることを論じるものだった。重要なのは、そこで主に問題とされたのが、複数世界の実在ではなく、その創造の可能性だったという点である。実際、オレーム自身も、神には複数の世界を創造する能力があると認めながら、現実には世界は一つしか存在しないと考えていた[15]。
複数の世界が実際に創造されたと考えるスコラ学者は、ほとんどいなかった。科学史家エドワード・グラントによれば、複数世界の実在を認めたスコラ学者として挙げられるのは16世紀のジョン・メージャーのみであり、他にいたとしても一、二人程度にすぎない[16]。また、グラントによれば、別の世界における生物の存在について論じたスコラ学者は、15世紀のギョーム・ヴォリオンのみである[17][注 1]。ヴォリオンは、別の世界に人間が存在すると仮定した場合、原罪やキリストによる救済がどのように適用されるかを考察した[18]。
ルネサンス
ニコラウス・クザーヌスは主著『学識ある無知について』(1440年)で、神学的・形而上学的な考察から、宇宙には固定された中心も境界もなく、地球も宇宙の中心に静止しているわけではないと論じた[19]。また、地球、太陽、月など、どの天体にいる観測者も、自分が静止した中心にいるように感じると考えた。さらに、太陽や月、その他の星々にも、それぞれ異なる性質をもつ生命や知性的存在がいると推測した[20]。ただし、これらは天文学的観測に基づく主張ではなく、天体の運動を説明する具体的な宇宙モデルも提示されなかった。
15世紀には、古代ローマの原子論者ルクレティウスの著作の写本が発見され、エピクロスの思想を伝える文献もビザンツ帝国から西ヨーロッパにもたらされた。これらは1470年代以降、印刷本として流通し、古代原子論の知識が広まった。
1543年、ニコラウス・コペルニクスは『天球の回転について』を刊行し、地球が宇宙の中心に静止しているという従来の地球中心説に代えて、地球が自転しながら他の惑星とともに太陽の周囲を公転するという地動説を提示した。
ジョルダーノ・ブルーノはコペルニクスの地動説を支持しつつ、その枠組みを超えて宇宙は無限に広がると主張した。彼は恒星も太陽と同じような天体であり、その周囲には地球に似た惑星が存在すると考えた。さらに、そのような世界は宇宙に無限に存在し、そこには知性をもつ生命が存在すると論じた[21]。ただし、これらは観測によって確かめられたものではなく、哲学的思索に基づく主張だった。
ブルーノのこの考えはすぐには認められなかった。例えばヨハネス・ケプラーは、恒星が太陽のような存在だという考えを否定した[22]。
17世紀

デカルトは、恒星は太陽と同じような天体であり、それぞれの恒星の周囲には微細な物質の渦が存在するという渦動説を展開した。この理論では、太陽系の惑星の運動は、渦によって惑星が運ばれることで説明された。デカルトの理論は宇宙全体に適用されるものであったが、デカルト自身は太陽系以外の惑星の存在については極めて慎重であり、明確には言及しなかった[23]。また、地球外生命の存在についても判断を留保した。この慎重な態度は初期のデカルト派にも共通していた[24]。

しかし、1686年にベルナール・フォントネルが『世界の複数性についての対話』を出版すると、状況は変化した。フォントネルは、対話形式で書かれたこの科学啓蒙書を通じて、コペルニクスの地動説とデカルトの渦動説を一般読者にもわかりやすく紹介した。さらに、他の恒星の周囲にも太陽系と同様に惑星が存在し、太陽系内外の惑星・衛星には多様な生命や知的生命が存在するという考えを提示した。
哲学者と貴婦人の対話で構成されたこの作品は、その優雅で親しみやすい文体によって、専門的な宇宙論を幅広い読者にとって身近なものとし、大きな成功を収めた。フォントネルの生前に33版を重ね、1800年までには10か国語に翻訳されるなど、広く読まれた[25]。
ホイヘンスも、死後の1698年に刊行された著書『コスモテオロス』において、太陽系の他の惑星に生命や知的生命が存在することや、他の恒星の周囲にも惑星が存在することを論じた。ただし、フォントネルが惑星ごとの住人の多様性を強調したのに対し、ホイヘンスは、他の惑星の住人やその文化が地球と似通っていると推測した[26]。
フォントネルによって最初に普及された他の惑星系の概念は、デカルトの渦動説からニュートン主義的な宇宙観へと理論的枠組みを移しながら、さらに広まった[27]。
銀河構造、世界の機械論的な形成

天の川は、遠方にある星々の集まりだと考えられていたが、1750年にトーマス・ライトは、我々は天の川を構成する星の集団の内部にいるという説を提唱した。ライトに影響されてカントも銀河構造を論じ、ヨハン・ランベルトも独立に類似の考えに至った。ライト、カント、ランベルトはいずれも、天の川のような銀河が宇宙に多数存在すると考え、また地球以外の天体にも知的生命が普遍的に存在するという考えを支持していた[28]。ただし、これらは十分な観測的裏付けを欠く、推測的な議論だった。
ウィリアム・ハーシェルは1785年に、星の数を方向ごとに調べることで天の川銀河の形状を推定し、我々が扁平な恒星系の内部にいるという考えに観測的な根拠を与えた。ハーシェルもまた地球外生命の存在を支持しており、太陽にさえ住人がいると考えていた[29]。
カントとラプラスはそれぞれ独立に[30]、太陽系が宇宙空間に広がる物質から自然法則に従って形成されたとする星雲説を提唱した。こうして、宇宙に存在する多数の天体や惑星系が自然法則に従って形成されるという、古代原子論と類似した考えが、18世紀の宇宙生成論において新たな形で展開された[31][注 2]。
また恒星系という概念が加わることによって、世界の複数性の思想は、恒星を含む無数の世界が互いに隔てられ、相互に影響を及ぼすことなく存在すると考えた古代原子論者たちの宇宙観へと、ある意味で回帰することになった[27]。
地球外知的生命論の最盛期と衰退
19世紀初頭までに、ヨーロッパとアメリカの教養ある人々の間では、複数世界論は広く支持されていた[32]。つまり、恒星は太陽と同じような天体であり、多くの恒星は惑星を伴い、太陽系内外の惑星には広く知的生命が存在すると考えられていた。
それを示す一例として、1835年にニューヨークの新聞『ザ・サン』(The Sun)が、天文学者ジョン・ハーシェルが月面人を発見したとする捏造記事を掲載した事件(グレート・ムーン捏造記事)が挙げられる。知識人を含む多くのアメリカ人がこの報道を信じた[33]。エドガー・アラン・ポーは、10人に1人もこの報道を疑わず、疑ったのはむしろ無知な人々だったと記している[34]。
こうした状況は1850年代から変化し始めた。イギリスのウィリアム・ヒューウェルはかつて地球外知的生命の存在を支持していたが、後に立場を転じ、1853年にその存在を否定する著書を出版した。ヒューウェルはさまざまな議論を展開した。例えば、地質学的証拠から、地球の歴史のほとんどの期間において知的生命体が存在しなかったことを指摘し、神の計画には、人間の目には一見浪費と思えるようなことも含まれていると論じた[35]。また、太陽系のなかで、地球より内側の惑星は暑すぎ、地球より外側の惑星は寒すぎるため、地球のみが「太陽系の温帯」に位置し、知的生命が居住可能であるとした[36]。
ヒューウェルに対しては反論の方が多かったが[37][32]、彼の著書を一つの契機として、地球外知的生命の存在を支持する見解は徐々に衰退していった。地球外知的生命を支持する人でも、知的生命が存在すると考える太陽系の惑星・衛星の数は減っていった[38]。
19世紀後半に地球外知的生命論が衰退した背景には、この時期に科学における目的論的な議論が説得力を失っていったことが大きく影響している。ここでいう目的論とは、自然が神の目的に沿って創造されたとする考え方である。神が創造した星々を無人の荒野として放置するはずはなく、むしろそれらが知的生命に満ちていてこそ、創造者の知恵と力が示される。こうした考え方は、それ以前には、科学者を含めて、他の惑星に知的生命が存在すると主張する際の一般的な論拠だった。しかし、1859年に発表されたダーウィンの進化論の影響によって、目的論的な論法は説得力を失い、科学的な議論において次第に用いられなくなっていった[39]。
また、地質学の発展によって、地球の長い歴史のなかで人間が存在していた期間はごくわずかであるという認識が広がった。その結果、地球の生命史を他の天体に当てはめて考えたとき、知的生命が存在する期間は限られている可能性があり、他の天体にも知的生命が存在すると主張することは難しくなった[38]。
地球外生命体への支持が衰退した要因の一つに、生物科学の発展があり、天文学者たちはそこから生命に必要な条件の繊細さを学んだ[40]。
火星は最後まで知的生命が存在する可能性が論じられ、人工的な運河の存在が騒がれたが、20世紀初頭にはその見方も疑問視されるようになった[41]。こうして、太陽系だけでなく他の惑星系も含めて、宇宙は知的生命がほとんど存在しない、いわば荒涼とした空間として捉えられるようになった[32]。
20世紀以降
20世紀以降、かつて「複数世界論」や「世界の複数性」という言葉のもとで論じられていた問題は、科学的知識の進歩と多様化によって、様々な領域で、それぞれ異なる形で追究されるようになった。
知的生命が宇宙では稀だと考えられるようになっても、地球外生命をめぐる科学的探究は続けられた。20世紀には、従来の天体観測に加えて探査機による太陽系の調査が進められたが、地球外生命の存在は確認されなかった。また、1960年には電波による地球外知的生命体探査(SETI)が始まった。1990年代以降は太陽系外惑星の発見が相次ぎ、生命が存在しうる惑星や生命の痕跡を探す研究も発展している。
一方、我々の知る世界以外にも多数の世界が存在するという古代原子論の発想は、現代宇宙論におけるマルチバース(多宇宙)の仮説とも共通する点がある。また、20世紀には量子力学の多世界解釈が登場し、分析哲学では様々な可能世界の実在を主張する様相実在論が提唱された。ただし、これらの理論は、それぞれ異なる意味で世界の複数性を論じるものである[42]。
脚注
注釈
出典
- ↑ 長尾伸一『複数世界の思想史』名古屋大学出版会、2015年、p28-30
- ↑ 納富信留 2021, p. 298、金澤修 2018, p. 15-17
- ↑ 日下部吉信(編訳) 2001, p. 98(DK68A40)
- ↑ 金澤修 2018, p. 15.
- ↑ 日下部吉信(編訳) 2001, p. 140(DK68A81)
- ↑ 金澤修 2018, p. 54。注21
- ↑ Furley, David, ed., The cosmos of the Atomists, The Greek Cosmologists, 1, Cambridge University Press, pp. 136–151, doi:10.1017/CBO9780511552540.011 2026年10月12日閲覧。
- ↑ 金澤修 2018, p. 33-34.
- ↑ ルクレティウス『事物の本性について (上)』瀬口昌久(訳)、p170-171(第2巻、1074-1076行)
- 1 2 『天体論』第1巻第8章〜第9章
- ↑ Dick 1982, p. 28、クロウ 2001, p. 23
- 1 2 Nicole Oresme, Translated by Albert D. Menut. “The Possibility of a Plurality of Worlds”. www.originalsources.com. 2026年10月12日閲覧。
- ↑ Grant 1996, p. 156-157.
- ↑ Stefan Kirschner (2025年12月17日). “Nicole Oresme”. Stanford Encyclopedia of Philosophy. 2026年10月12日閲覧。
- ↑ クロウ 2001, p. 24.
- ↑ Grant 1996, p. 155, 171.
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- ↑ クロウ 2001, p. 26-27.
- ↑ クザーヌス, ニコラウス『学識ある無知について』平凡社、1994年。、第2部11章
- ↑ クザーヌス, ニコラウス『学識ある無知について』平凡社、1994年。、第2部12章
- ↑ ジョルダーノ・ブルーノ『無限・宇宙・諸世界について (ジョルダーノ・ブルーノ著作集 4)』加藤守通(訳)、東信堂、2024年。、p125-126
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- ↑ カント(1755)『天界の一般自然史と理論』序文、(『カント全集2 前批判期論集Ⅱ』岩波書店、2000年に収録)
- 1 2 3 Michael J. Crowe (2016). “WILLIAM WHEWELL, THE PLURALITY OF WORLDS, AND THE MODERN SOLAR SYSTEM”. Zygon: Journal of Religion and Science 51 (2).
- ↑ クロウ 2001, p. 373-374.
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- ↑ クロウ 2001, p. 486-487.
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- ↑ クロウ 2001, p. 892.
- ↑ 長尾伸一『複数世界の思想史』名古屋大学出版会、2015年、エピローグ
参考文献
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- Dick, Steven J (1982). Plurality of worlds : the origins of the extraterrestrial life debate from Democritus to Kant. Cambridge University Press
- クロウ, マイケル・J.『地球外生命論争1750-1900 カントからロウエルまでの世界の複数性をめぐる思想大全』工作舎、2001年。
- Grant, Edward (1996). Planets, stars, and orbs : the medieval cosmos, 1200-1687. Cambridge University Press