角南重義
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
|---|---|
| 生誕 | 天文7年(1538年)[1] |
| 死没 | 慶長14年9月9日(1609年10月6日)[1][2] |
| 別名 |
通称:新五郎[1] 法号:如慶[1]、恕慶[3] |
| 戒名 | 日眼[4] |
| 墓所 | 本圀寺(京都府京都市山科区御陵大岩) |
| 官位 | 刑部少輔[1]、刑部卿[1] |
| 主君 | 宇喜多直家→秀家→徳川家康 |
| 氏族 | 藤姓角南氏 |
| 父母 | 父:角南伊賀守[1] |
| 兄弟 | 重義、友行[5] |
| 子 | 重勝 |
角南 重義(すなみ しげよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、僧侶。美作国英田郡江見荘角南[注釈 1]の土豪で、備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣。父は角南伊賀守[1][6]。弟は角南友行[4][5]。子に角南重勝。敬虔な日蓮宗徒であり、法号の角南如慶(恕慶)で知られる。また、『美作太平記』[注釈 2]によると美作国の蓮花寺の住職を務めていたとされる[7]。
生涯
宇喜多直家時代
天文7年(1538年)、美作国英田郡江見荘角南[注釈 1]の土豪である角南伊賀守の子として生まれる[1][6]。
弟の角南友行と共に備前国の国人である宇喜多直家に仕え、弟の友行が武勇に優れていたのに対し、重義は陽気闊達かつ弁舌爽やかであることから、外交の場で活躍した[5]。
主君の宇喜多直家からの信頼も厚く、直家の使者として天正2年(1574年)には備中国の三村元親が毛利氏から離反したことを伝えるために小早川隆景のもとに赴き[1][8][9]、天正6年(1578年)には和睦の使者として播磨国飾東郡の飾磨津に在陣する織田信忠のもとへ赴いている[1][4][9][10]。
天正9年(1581年)11月から天正10年(1582年)1月の間に宇喜多直家が病死すると、家督を相続した宇喜多秀家に仕えた。後に作成された「浮田家分限帳」によると、重義には1000石が与えられていた[5][11]。
宇喜多秀家時代
天正12年(1584年)、富川秀安と共に津田宗及の茶会に招かれる[12]。
天正16年(1588年)7月に毛利輝元の一行が上洛し、7月24日に聚楽第で豊臣秀吉に拝謁した[13]。翌7月25日に宮中に参内する前の毛利輝元が諸大名への御礼をする際に宇喜多氏に対しても贈り物をしており、宇喜多秀家には金覆輪の太刀一腰、馬一疋、銀子50枚を贈り、明石行雄、長船貞親、重義に対してはそれぞれに太刀一腰と銅銭1000疋を贈っている[14][15]。
天正19年(1591年)11月に法印に叙せられ、刑部卿を称した[16]。また、法華宗に深く帰依し、重義は楢村玄正や嫡男の角南重勝と共に不遇にあった法華宗僧侶・日奥を援助しており[1][17]、特に角南重勝は日奥から「御信力の段、奇妙の至りに候」と賞されている[17]。天正20年(1592年)に妙覚寺の住職を継いだ日奥は、重義を含む3人の有力檀越に対して自らの覚悟を披露している[17]。
慶長2年(1597年)、日奥が清澄に詣でて一宇建立の志を立て、重義をはじめとする信徒の外護を受けて一宇を建立した[18]。
慶長3年(1598年)6月5日、筑前国から越前国に移封された小早川秀秋の旧領処分の対応のために石田三成に従って九州に赴いていた是斎重鑑が備前国児島郡下津井で宿泊した際に、重義は7里離れた岡山から下津井の是斎重鑑を訪ねている[19]。
慶長4年(1599年)8月16日、備前国の蓮昌寺の開堂供養のために日奥が備前国岡山に到着した[20]。日奥は8月19日から10日間に渡って妙経万部会を執行し、妙経万部会を終えた翌日の8月29日に重義が日奥を饗応した[20]。
慶長4年(1599年)末から慶長5年(1600年)にかけて宇喜多家中で起こった重臣間の紛争(宇喜多騒動)により宇喜多家を退去した[1]。
晩年
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が改易された後、慶長9年(1604年)に徳川家康に召し出されて少禄で仕え、伏見城松の丸の守衛を担当し、軍配団扇を与えられた[2][4][16]。
年不詳だが、多武峯(後の談山神社)の寺領の安堵について初鹿野賀右衛門が大久保長安の副状と共に朱印状を提示したため、窪島神内と共に対応し、異議無く所務を仰せ付けその事を百姓たちに申し聞かすことを返答している[21][22][23]。
慶長11年(1606年)、慶長4年(1599年)から対馬国に流罪となっていた法華宗僧侶・日奥の赦免運動について日経と談合して各方面に働きかけている[24][25][26][27]。
慶長14年(1609年)9月9日に死去[1][2][16]。享年72[1][16]。本圀寺に葬られた[16]。後を継いだ嫡男の角南重勝は大和国で1000石の知行を与えられた旗本となっている[25]。
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 戦国人名事典 1987, p. 437.
- 1 2 3 『寛政重修諸家譜』巻第千十。
- ↑ 談山神社文書 1929, pp. 89–90.
- 1 2 3 4 戦国大名家臣団事典 西国編 1981, p. 163.
- 1 2 3 4 立石定夫 1988, p. 144.
- 1 2 戦国大名家臣団事典 西国編 1981, p. 162.
- ↑ 新編吉備叢書 第1巻 1976, pp. 245–246.
- ↑ 戦国大名家臣団事典 西国編 1981, p. 1632.
- 1 2 立石定夫 1988, p. 147.
- ↑ 立石定夫 1988, p. 160.
- ↑ 浮田秀家分限帳(国書データベース)
- ↑ 渡邊大門 2011, p. 203.
- ↑ 毛利史料集 1966, pp. 378–384.
- ↑ 毛利史料集 1966, pp. 385–386.
- ↑ 大西泰正 2019, p. 92.
- 1 2 3 4 5 宮崎英修 1969, p. 259.
- 1 2 3 藤井學 1958, p. 29.
- ↑ 宮崎英修 1969, p. 235.
- ↑ 広島県史 古代中世資料編1 1974, p. 662.
- 1 2 日蓮宗不受不施派研究所 1985, p. 286.
- ↑ 談山神社文書 1929, pp. 89–91.
- ↑ 『談山神社文書』第59号、年不詳10月25日付け、初鹿野賀右衛門殿宛て、角南法印恕慶・窪島神内山田連署状写。
- ↑ 『談山神社文書』第60号、年不詳10月16日付け、多武峯御寺中宛て、大久保十兵衛(長安)副状。
- ↑ 宮崎英修 1969, pp. 259–260.
- 1 2 坂本幸男 1965, p. 211.
- ↑ 常楽院日経正師全集 上巻 1996, pp. 74–75.
- ↑ 『常楽院日経正師全集 上巻』第58号、年不詳2月18日付け、日奥尊師様宛て、日経書状。
参考文献
- 談山神社刊書奉賛会 編『談山神社文書』星野書店、1929年11月。全国書誌番号:47007288。
国立国会図書館デジタルコレクション - 藤井學「法華宗不受不施派についての一考察 ―近世初頭におけるその思想と社会的基盤を中心として―」『日本史研究』第36号、日本史研究会、1958年4月、17-37頁。
国立国会図書館デジタルコレクション - 坂本幸男『法華経の思想と文化』平楽寺書店、1965年3月。全国書誌番号:65007052。
国立国会図書館デジタルコレクション - 三坂圭治 校注『毛利史料集』人物往来社〈第二期 戦国史料叢書9〉、1966年12月。全国書誌番号:50007671。
国立国会図書館デジタルコレクション - 宮崎英修『不受不施派の源流と展開』平楽寺書店、1969年10月。全国書誌番号:74004669。
国立国会図書館デジタルコレクション - 広島県 編『広島県史 古代中世資料編1』広島県、1974年3月。全国書誌番号:73022360。
国立国会図書館デジタルコレクション - 新編吉備叢書刊行会 編『新編吉備叢書 第1巻』歴史図書社、1976年5月。全国書誌番号:73001922。
国立国会図書館デジタルコレクション - 山本大・小和田哲男 編『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年8月。全国書誌番号:81041872。
国立国会図書館デジタルコレクション - 日蓮宗不受不施派研究所 編『学行院日秀聖人撰集』不受不施派研究所、1985年11月。全国書誌番号:86060213。
国立国会図書館デジタルコレクション - 阿部猛・西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年3月。全国書誌番号:87024504。
国立国会図書館デジタルコレクション - 立石定夫『戦国宇喜多一族』新人物往来社、1988年10月。全国書誌番号:89004269。
国立国会図書館デジタルコレクション - 窪田哲城 監修『常楽院日経正師全集 上巻』法華ジャーナル〈顕本法華宗史料第4巻〉、1996年1月。全国書誌番号:97010566。
国立国会図書館デジタルコレクション - 渡邊大門『宇喜多直家・秀家 ―西国進発の魁とならん―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2011年1月。ISBN 978-4-623-05927-0。
- 大西泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家』KADOKAWA、2019年9月。ISBN 978-4-04-082287-7。