貰い子殺人

ウィキペディアから、無料の百科事典

貰い子殺人(もらいこさつじん)とは、不倫もしくは父親不明などといった何らかの事情により育てられない新生児を育てるといって貰い子にし、親から養育費を受け取った後で殺害する殺人である[1]。

概要

事例として最初に記録されているのは、セント・オレイブズのアビゲイル・ヒルのケースである。乳母であった彼女は、事件が発覚して1658年12月22日に処刑されるまでに、判明している限りで4人の乳児を絞殺した[2][3]。

嬰児殺人の因習自体は古来からあると思われるが、戦前に司法制度が整うにつれて殺人事件として立件されるようになり、新聞で報道されることで社会問題化した。第二次世界大戦後までの日本では、刑法で堕胎は違法とされ、人工中絶も合法化されていなかった。そのため、不倫の子や父親不明の私生児が少なくなかった。特に、不倫の子の誕生は母親にとってはそれだけで離婚理由になるばかりでなく姦通罪で収監される危険があった。また、社会自体が貧しかったため、既に多くの子供のいる家庭では養うことはできない場合も多かった。

これらの事情により、育てられない新生児などを、ある程度の養育費をつけて貰い子、すなわち、里子に出す場合が少なくなかった。しかし、中には養育費目当てで貰い子を引受け、金銭受領後に邪魔になった新生児を殺害する者が存在した。被害者が新生児であるうえに、実親も多くは子供の運命に関心のないことが多かったことから、事件が露見しにくかった。そのため、大量殺人に至った場合も多かった。また、1955年ごろまでの医療技術・医療体制・出産に対する体制では、新生児・乳児の死亡は珍しいことではなかったため、医師も訴え出ればそれほど深く調べずに死亡診断書を書いてしまうことが多く、こうした犯罪の温床になっていた。

現在の日本では人工中絶が合法化された事もありこのような養育費をつけて貰い子にだすことが多くないことと、助産師制度が国家資格化され医療と一体化されたこと、新生児死亡率が極度に下がり不審死と自然死が厳密に判定できるようになったことなどから、同種の犯罪はほとんど発生していない。

具体例

事件名 犯人 画像 国 死者数 発覚日・逮捕日 備考
ジュリア・フォートマイヤー事件 ジュリア・フォートマイヤー(英語版) アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 3+人(確認済み) 100+人(報告済み) 1875年 堕胎医が乳児を焼殺。
ヘレン・オーギュスト・ガイゼン=フォルク事件 ヘレン・オーギュスト・ガイゼン=フォルク(英語版)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 53人 1925年 1925年に乳児養護施設にて殺人事件が発覚し、最大44人の乳児が死亡したと推定された。犯人は53人の乳児殺害の罪で起訴された。裁判官は「残酷で獣のような、人類の忌まわしい異端者」と評した。
ヘンリエッタ・バンバーガー事件 ヘンリエッタ・バンバーガー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 8-300人 1899年 望まれずに生まれた赤ん坊を引き取り、溺死させたり殴り殺したりしてその遺体を大型の暖房装置に投げ込んでいたある中絶医は、失敗した中絶手術によって女性たちをも死なせていた。[4] [5] [6]
ジョージア・タン事件 ジョージア・タン(英語版)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 19人以上 1950年 児童人身売買業者であるソーシャルワーカーが5000人以上の乳児を誘拐し、虐待によって19人を死亡させた。
フィラデルフィア乳児預かり業者事件 エリザベス・アシュミードと共犯者たち。 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 18-100+人 1910年 自分の子供たちの協力を得て、女性たちを自身の経営する出産施設におびき寄せ、そこで生まれた赤ん坊を殺害して焼却炉に遺体を投棄した女医。[7] [8] [9]
マーガレット・ウォーターズ事件 マーガレット・ウォーターズ(英語版)
イギリスの旗 イギリス 1 - 19人以上 1870年 少なくとも19人の乳児を殺害されたと考えられた事件、1件の殺人罪により絞首刑に処された。
ジェシー・キング事件 ジェシー・キング(英語版) イギリスの旗 イギリス 3人? 1888年 3人の乳児が殺害されたとされる事件、犯人は絞首刑となった。
アメリア・ダイアー事件 アメリア・ダイアー(英語版)
イギリスの旗 イギリス 6 - 400人以上 1896年 イギリスにおいて19世紀末に200人から400人以上の子どもを殺した事件。未婚の女性の生活苦につけ込み、経済的に育てられない子どもを手数料をとってひきとり、連続的に殺害した。その遺体は、テムズ川に遺棄し、証拠隠滅を図っていた。6件の殺人罪で有罪判決が言い渡され、絞首刑に処された。
アメリア・サッチ、アニー・ウォルターズ(英語版)
イギリスの旗 イギリス 12人以上 1896年 正確な犠牲者数は不明だが少なくとも12人の乳児が殺害された、絞首刑執行。
エイダ・ウィリアムズ事件 エイダ・ウィリアムズ(英語版) イギリスの旗 イギリス 1人 1900年 生後21ヶ月の乳児が絞殺された事件。
ローダ・ウィリス事件 ローダ・ウィリス(英語版) イギリスの旗 イギリス 1人 1907年 非嫡出子が殺害された事件、犯人はウェールズで絞首刑に処された最後の人物であった。
青茶婆事件
江戸幕府 10人以上 1771年 1771年、青茶婆という別名のみで知られる京都生まれの氏名不詳の中年女性が十数人の貰い子を殺害したとして処刑された、処刑後、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の3人によって解剖された[10]。
ハットピン殺人事件 ジョン・メイキン、サラ・メイキン(英語版)
オーストラリアの旗 オーストラリア 15人以上 1892年 ニューサウスウェールズ州の家から15人の乳児の遺体が発見された、乳児の正確な死因は特定されなかったが、衣服に血痕が付着しており、針で心臓を刺され刺殺されたと考えられているためハットピン殺人事件とも呼ばれた。
フランシス・ノール事件 フランシス・ノール(英語版)
オーストラリアの旗 オーストラリア 2人 1892年 2人の乳児が絞殺され埋没された事件。
ブルクス通りのエンジェル・メーカー事件 ヒルダ・ニルソン(英語版)
 スウェーデン 8人 1917年 8人の乳児が殺害された事件、犯人は自殺。
アルバ・ノルドバーグ事件 アルバ・ノルドバーグ(スウェーデン語版)  スウェーデン 5人 1917年 10年間で5人の乳児が死亡した事件、犯人は2年半の重労働の判決が言い渡された。
ダグマー・オーヴァーバイ事件 ダグマー・オーヴァーバイ事件(英語版)
 デンマーク 9 - 25人以上 1920年 20世紀初頭でデンマークで保育士が少なくとも9人の乳児を殺害したとして告発され、最大で25件の殺人容疑がかけられた、乳児は受け取られた後に溺死、絞殺、オーブンで焼くなどといった方法で殺害された、死刑判決が言い渡されたが、後に終身刑に減刑され、1929年5月6日に死亡するまで精神病院に入院した。
バターボックス・ベイビーズ事件 アイディアル・マタニティ・ホーム(英語版)(ライラ・グラディス・ヤングとウィリアム・ピーチ・ヤングがマネジメントを担当) カナダの旗 カナダ 100-600人 1936年 カナダのノバスコシア州でライラ・ヤングと夫ウィリアムが運営していた産院では、深刻なネグレクト(育児放棄)が行われていた。その結果、最終的に何百人もの乳児が命を落とし、遺体がバターの木箱に入れられていた。
ザンクトパウリのエンジェル・メーカー事件 エリザベス・ヴィーゼ(英語版) ドイツの旗 ドイツ 5人 1903年 元助産師が5人の乳児を溺死させ、遺体をストーブで焼いた。
マリアンナ・スクブリンスカ事件 マリアンナ・スクブリンスカ(および数名の共犯者) ロシア帝国 70人 1890年 育児サービスを提供していたある助産師が、少なくとも70人の乳児を殺害し、その遺体を豚の餌にしていました。彼女は自ら放火した自宅の火災から逃げ出した際、事件が発覚した。[11] [12] [13]
天満貰い子殺人事件 木幡松 日本の旗 日本 23人以上 1872年頃[14] 大阪府天満にて人力車夫・木幡平吉(18歳)の母・松(50代)が23人の乳児を絞殺した事件が発覚、逮捕後自宅の床下から3人の乳児の遺体が発見された[15]。
白金貰い子殺人事件 中川吉之助
日本の旗 日本 4人以上 1885年 飢餓、撲殺、絞殺、火傷などの方法で少なくとも4人の乳児を殺害、死刑判決が言い渡され、1888年3月29日に死刑執行[16]。
淀橋貰い子殺人事件 榎本とう 日本の旗 日本 6 - 40人以上 1905年頃 東京府豊多摩郡淀橋町(現東京都新宿区)の榎本とう(36歳)は養育費を受け取って乳児6人を貰い受け、1人を布団で窒息死させ殺害、5人を遺棄して殺害し床下の穴に遺棄した。40人以上を殺害した疑いが持たれたが6人の殺害で立件され死刑判決。[17][18]
大阪貰い子殺人事件 箕形イチ 日本の旗 日本 11 - 300人以上 1906年 1906年6月27日に大阪府日本橋にて井戸から5人の乳児の遺体が発見された事で箕形イチ(54歳)が逮捕された。事件は大きな話題となり海外でも報道された。逮捕当時は10年前から100人または200人、300人以上の乳児が箕形によって殺害された考えられていた。また護送中に箕形は激怒した野次馬らによって「鬼婆、人鬼、鬼婆、殴り殺せ」と罵声が浴びせられ、葬儀に参列した箕形の姉が「鬼婆はあいつの妹だ」と言われリンチを試みた群衆によって負傷するという事件も発生している。後日共犯者が2人逮捕され、翌日には箕形に乳児を周旋したとして豊前菊枝(51歳)という女が逮捕され、翌月8日には箕形が殺害した乳児を麻袋に詰めて古井戸に遺棄したとして川原あきの(54歳)が逮捕された。箕形には11件の殺人罪によって死刑判決が言い渡され、乳児の遺体を遺棄した川原にも死刑が言い渡され、1906年12月25日に死刑が確定し、周旋屋の豊前には重懲役9年が言い渡された。1908年5月26日に2人の死刑が執行された[19][20][21][22][23][24][25][26][27][28][29][30][31][32][33][34]。
本庄貰い子殺人事件 永井慶次郎、永井ゲン
日本の旗 日本 40 - 56人以上 1910年 本所在住の人力車夫・永井慶次郎(44歳)と妻のゲン(34歳)がえい児と養育費を貰っては捨てあるいは殺害するという行為を十数年から繰り返していた、白米商の西山仁助と妻の下宿ふくが別れ、5月11日に産まれた男児をガラス職人の加藤兼次郎に預け、兼次郎の世話で10円を添えて永井夫婦に渡した、男児を受け取った永井夫婦は男児を捨てた、捨てられた男児は養育院に保護され、事件が発覚した。永井夫婦は56人を栄養不良によって死亡させ、10人を捨てたことが発覚し拘引された[35][36]。永井夫婦は逮捕される十数年間前から贅沢三昧で生活しており[36]、250銭の家賃6畳1間の長屋に住みながら毎月45円を使って友人たちと酒盛りをしていたため近隣住民は永井夫婦に対して憤慨していた[35][37]。
愛知貰い子殺人事件 坂倉しげ 日本の旗 日本 200人以上 1913年 愛知県愛知郡在住の坂倉しげ(45歳)は、1898年より私生児を40 - 50円の養育費と共に引取ると次々と殺害[38]。犯行の足がつかないように2、3人殺すごとに引越しを繰り返し、日露戦争時には夫が出征・死亡するなどして未亡人となった女性の子供が犠牲となった。浮気相手を連れ込むための隠れ家で貰い子を殺害した2人の女性も共犯となり[39]、1913年5月までには既に200人ほど殺害していたとされている[38]。子供を40円で預けたある芸妓が子供の顔を見ようと何度も女性の許を訪れたが会うことが出来ず、不審を抱き警察に相談して事件が発覚[38]。3人は1914年10月21日に死刑が言い渡され、1915年9月9日に死刑が執行された[40]。
福岡貰い子殺人事件 柴田與三郎 日本の旗 日本 14人以上 1917年 少なくとも14人の貰い子を殺害した[41]。
赤バッチ事件 中内丑太郎 日本の旗 日本 5人 1921年 5人の乳児が絞殺された事件、犯人は過去に数件の傷害致死などの罪で服役した前科を持っていた。[42][43][44]。
お初殺し 松村関蔵、兼崎まき 日本の旗 日本 1人 1922年 10歳の少女を虐待死させた。
関東地方貰い子殺人事件 山の井武平 日本の旗 日本 12 - 21人 1923年 裁縫職人・山の井武平(32歳)は不倫によってできた子を養育すると偽って関東地方各地で養育費を詐取した上で幼児12人を貰い受ける。この内3人は鼻や口を塞いで窒息死させ殺害、他9人は空地に遺棄して殺害した。1924年12月12日に東京地裁で無期懲役の判決を受け、1925年4月25日控訴棄却。同年7月7日上告棄却。[45][46][47][48][49]
岩の坂貰い子殺人事件 小川きく 日本の旗 日本 1人 1930年 東京の板橋にあった岩の坂地区で貰い子が1年で41人が殺害された疑惑が発覚した。この地区の長屋の住民には、古くから上流階級などの不義の新生児などを貰い、子殺しをしていた者がいたとみられる。容姿の優れた女児と体力のある男児は育て、炭鉱夫や遊女として売ることもあったという[50]。また、わずかな期間で不審な死に方をした新生児も多かった[51]が、犯罪として実証された事例はほとんどなかったようだという[52]。
大久保貰い子殺人事件 中島伊八郎 日本の旗 日本 7人 1930年 元巡査が7人の乳児を絞殺、死体遺棄に妻が関与したため妻も殺人に関与したと疑われた。
本郷貰い子殺人事件 長谷川たね 日本の旗 日本 2 - 100人以上[53] 1930年 本郷区にて産婆が2人の乳児を死亡させた。1927年12月に男児を150円と共に受け取って故意に栄養不良によって死亡させた。1929年1月には人工呼吸などの然るべき手当を行わずに乳児を死亡させた。懲役3年6ヶ月の判決が言い渡された[54][55]。
目黒貰い子殺人事件 川俣初太郎
日本の旗 日本 25人以上 1933年 東京目黒在住の33歳の男が、「子供やりたし」の広告をみてはその広告の主である産婆の下に行き、何十円かの養育費を受け取ったうえで殺害していた。5年で25人を殺害していたが、その多くは主人が女中に産ませた子供や、働くために子供を手放した職業婦人の子供だったという。遺体は現在の西郷山公園などに遺棄した。1933年に逮捕された男には貰い子殺しの前科(犠牲者数不明)があり、1934年に死刑になった[56][57]。
亀戸貰い子殺人事件 小口実夫 日本の旗 日本 5人 1933年 5人の乳児を空き地で絞殺しては自宅の床下に埋没、犯人は同時期に発覚した目黒貰い子殺人事件の犯人である川俣初太郎にちなんで川俣二世と呼ばれた。
向島貰い子殺人事件 平林留次、澤村さく
日本の旗 日本 7 - 8人以上 1936年 貰い子殺人の嫌疑で砂町署にて1936年12月12日から留置取り調べがされていた平原留次(48歳)と妻の澤村さく(43歳)は14日の朝に一連の貰い子殺しを自白した、昭和3年春に本所区横川町4-9に一戸を持ち、人夫として働いており、夫婦は先妻の遺児を郷里に預けていたため寂しさから知人を介して7月に人夫の子を貰って育てていたが翌年5月16日に消化不良によって死亡し、埋葬手続きが簡単にできたことから味をしめ、澤村は貰い子殺しを思いついた。最初の犯行は竹村いせ(50歳)の世話で川口明の娘・さだ子(昭和4年1月22日生まれ)を養育費15円で貰い受け、やがて邪魔になると感じ牛乳を飲ませず、風邪をひいても医者に連れていかず虐待し続けたため同年10月5日にさだ子は死亡した。同年11月3日に5円の養育費付きで受け取った女児を3日後に死亡させ、1934年1月20日に生後9日の乳児を京都から養育費50円と共に受け取って4月17日に死亡させ、1935年11月5日には千葉から80円の養育費と共に貰い子を受け取って翌年4月に死亡させ、同年五月末には栃木から養育費20円と共に貰い子を受け取って9月29日に死亡させた、また同じく栃木から4月に養育費20円付きで受け取った教員の私生児は10月5日に死亡、2人は一連の貰い子殺しで養育費約200円を横領し、自宅の棚からは3つの白骨が発見され係官を唖然とさせた、他の4つは墓地に埋めたと話した[58]、他にも9月15日には産婆の田中ちよ(34歳)から岡崎俊雄の子供を受け取っており、逮捕後に保護されたが同月19日の朝に栄養不良によって死亡した[59][60]。
神奈川貰い子殺人事件 石橋安老 日本の旗 日本 6 - 11人 1939年 按摩師が少なくとも6人の乳児を殺害し、1人の乳児を捨てたとして懲役12年の判決が言い渡された。
寿産院事件 石川ミユキ、石川猛
日本の旗 日本 84人以上 1948年 ミルクや食べ物をほとんど与えないなど必要な世話をせず、また、病気になっても治療をしないことによって、1946年4月から預かった嬰児(大半は私生児)のうち、84人を死亡させた。預かり料は嬰児一人あたり2千円から1万円で、事件発覚までに90万円から100万円を荒稼ぎしていた。刑事裁判では、最終的に不作為による5人の殺害が認定され、院長の女に懲役4年、その夫に懲役2年の判決が確定した。
マリー・オーバン・ジュハス事件 マリー・オーバン・ジュハス オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 不明 1885年 1880年代のペシュトにおいて、数不明の乳児を遺棄し、餓死させた地元の保育者。彼女は1885年に発覚し、軽微な罪で禁錮3ヶ月の判決を受けた。[61]
ホドメズーヴァーシャールヘイ中毒事件 マリ=ザライ・イェーガー(マリア・ヴァルガ、リディア・チョルダス、その他数名の共犯者とともに) オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 11-100+人 1895年 ヒ素、水銀、ベラドンナなどの物質を用い、代理人による連続毒殺のネットワークを組織した農村の女性(マリ=サライ・ヤーゲル)。主な標的は、夫、厄介な親族、そして望まれない赤ん坊でした。[62][63]
ミニー・ディーン事件 ミニー・ディーン(英語版) ニュージーランドの旗 ニュージーランド 3人 1895年 2人の乳児と3歳の男児の合計3人が殺害された事件。
ダニエル・クーパー事件 ダニエル・クーパー(英語版) ニュージーランドの旗 ニュージーランド 2人 1922年 1922年12月3日に乳児2人の遺体が発見され夫婦が殺人罪で起訴された、妻は証拠不十分により無罪、夫は絞首刑に処された。
ルイーザ・デ・ジーサズ事件 ルイーザ・デ・ジーサズ(英語版) ポルトガル王国 33 - 34人 1772年 33人の乳児が殺害された事件、34人の乳児が行方不明となったが1人の遺体が見つかることはなかった、1772年7月1日にルイーザの拷問処刑が執行され、両腕が切り落とされ、赤くなるまで熱された鉄で体を焼かれ、絞首刑に処された、遺体は焼却され、遺灰は撒かれた。
奉天貰い子殺人事件 溫宗溫、久保田トシ 満州国 1人 1940年 夫婦が貰い受けた貰い子を生活苦から虐待死させた[64]。
リトルエンジェルズのヒューマンクラッシャー事件 フェリシタス・サンチェス(英語版) メキシコの旗 メキシコ 40 - 50人 1941年 助産師が複数人の乳児を絞殺または毒殺した事件、遺体はバラバラにされ焼却または下水道に捨てられた。

関連作品

  • 安武わたる『寿産院もらい子殺し事件』
  • 天ヶ江ルチカ『乳児殺人』
  • 北上祐帆『嫌ノ坂の女』

脚注

  1. ↑ 村野薫『日本の大量殺人総覧』p69
  2. ↑ Anônimo (1658) (英語). A true relation of the most horrid and barbarous murders, committed by Abigail Hill of St Olave, Southwark, singlewoman, on the bodies of four infant-children, committed to her trust to nurse: with the manner of her tryal at the Sessions House in the Old Baily ... and her execution at Cheapside ... the 22 of this instant December, 1658. ロンドン: Printed for G. Horton 2026年7月5日閲覧。
  3. ↑ Anônimo (1658年12月20日). “The Publick Intelligencer, Communicating the chief Occurrences and Proceedings within the Dominions of England, Scotland, and Ireland”. The Publick Intelligencer (英語). No. 156. ロンドン: Printed by Thomas Newcomb.
  4. ↑ Klose, Roland (2023年4月8日). “'The baby burner'”. Roland Klose Journal (英語). Publicação original em 14 de maio de 2022. 2026年7月6日閲覧. {{cite web2}}: 不明な引数|resumo=は無視されます。 (説明)
  5. ↑ St. Louis Post-Dispatch, Redação (1899–1900). “The Case of Mrs. Henrietta Bamberger: Midwifery and Illegal Operations on Chouteau Avenue”. St. Louis Post-Dispatch (英語). St. Louis, Missouri. {{cite journal2}}: 不明な引数|nota=は無視されます。 (説明)
  6. ↑ United States Census Bureau (1920). “Thirteenth Census of the United States: 1920 Population Schedule” (英語). 2026年7月6日閲覧. {{cite web2}}: 不明な引数|nota=は無視されます。 (説明)
  7. ↑ The Tacoma Times (1904年4月11日). “File:Philadelphia Baby Farmers.jpg” (英語). Wikimedia Commons. 2026年7月6日閲覧. In 1904, Elizabeth Ashmead of Philadelphia was arrested, along with several of her associates, and charged with running a 'baby farm' [...] and multiple counts of malpractice which involved killing women via botched abortions. Source: Library of Congress (Chronicling America).
  8. ↑ Appeal to Reason (1904年9月3日). “Appeal to Reason, No. 457” (PDF) (英語). 2026年7月6日閲覧. Mrs. Elizabeth Ashmead, a member of one of the most prominent families of Philadelphia, who is accused of being the [leader]... this woman, under the name of Dr. Conde perpetrated [with] her son, Howland.
  9. ↑ “Elizabeth Ashmead 11”. The Times Leader. 1910年5月17日. Newspapers.comより2026年7月6日閲覧.
  10. ↑ 北島三郎・下河嗣朗『日本の科学をおこした人々 (私たちのほこり ; 3)』1956年、74頁、NDLJP:1628835/41
  11. ↑ Janicki, Kamil (2020年9月28日). “Marianna Skublińska. Najgłośniejsza seryjna morderczyni XIX-wiecznej Warszawy”. WielkaHistoria (ポーランド語). 2026年7月6日閲覧.
  12. ↑ Janicki, Kamil (2016). Seryjni mordercy II Rzeczypospolitej (ポーランド語). Varsóvia: Wydawnictwo Literackie. ISBN 978-83-08-06132-9.
  13. ↑ “The Case of Marianne Skoublinska: Baby-Farming and Historical Criminal Records”. Global Crime Chronicles (1890-1897 Archive) (英語). {{cite web2}}: |access-date=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明); |url=は必須です。 (説明)
  14. ↑ 梅原北明『明治大正綺談珍聞大集成 上』文芸市場社、80頁。NDLJP:1217172/61
  15. ↑ “貰い子を養母が次々に絞殺”. 2026年2月9日閲覧。
  16. ↑ 篠田鉱造『明治百話』四條書房、1931年、515頁。NDLJP:1236333/297
  17. ↑ 『直言 2(28);1905・8・13』直行社・平民社、1905年。NDLJP:1514178/2
  18. ↑ 小泉輝三朗『明治の犯科帳』人物往来社、1967年、20頁。NDLJP:3036086/14
  19. ↑ 大久保素公 著『太子に聴け』113-114頁 1936年
  20. ↑ 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』1076頁 1935年
  21. ↑ 東亜協会『東亜の光 1(4)』107頁 1906年8月
  22. ↑ 読売新聞 1906年6月27日
  23. ↑ 読売新聞 1906年6月28日
  24. ↑ 読売新聞 1906年7月8日
  25. ↑ 読売新聞 1906年9月9日
  26. ↑ 大阪時事新報 1906年6月27日
  27. ↑ 朝日新聞 1906年8月18日
  28. ↑ “鬼婆の貰子殺志”. 2026年4月12日閲覧。
  29. ↑ “鬼婆の護送と死児の葬儀”. 2026年4月12日閲覧。
  30. ↑ “JAPANESE BABY FARM. CHILDREN'S BODIES THROWN INTO WELL.”. 2026年4月12日閲覧。
  31. ↑ “A FIENDISH WOMAN. ONE HUNDRED BABIES MURDERED.”. 2026年4月12日閲覧。
  32. ↑ “WOMAN CHARGED WITH MURDERING OVER 100 BABIES.”. 2026年4月12日閲覧。
  33. ↑ “A Fiendish Woman. ONE HUNDRED BADIES MURDERED.”. 2026年4月12日閲覧。
  34. ↑ 官報 1908年06月03日国立国会図書館デジタルコレクション
  35. 1 2 読売新聞 明治43年10月1日 朝刊 3頁「本所の鬼夫婦 貰子数十人 或は棄て或は殺す」
  36. 1 2 “不幸兒數十名 本所の鬼夫婦 貰兒を殺し又は棄つ”. 2026年6月13日閲覧。
  37. ↑ 朝日新聞 明治43年10月1日 朝刊 5頁「不幸児数十名」
  38. 1 2 3 大阪毎日新聞 1913年6月4日
  39. ↑ 大阪毎日新聞 1913年6月12日
  40. ↑ 官報. 1915年09月14日
  41. ↑ 赤城慧『死刑囚 : 絞首して罪は消えるか』大衆社、1956年2月20日、33頁。NDLJP:1662919/21
  42. ↑ 玉木義虎『高知県犯罪捜査集 第1輯』防犯協会、1936年、125-152頁。NDLJP:1228739/73
  43. ↑ 高知県警察史編さん委員会 編『高知県警察史 昭和編』高知県警察本部、1979年3月、44〜49頁。NDLJP:9773093/593
  44. ↑ 官報 1922年04月25日国立国会図書館デジタルコレクション
  45. ↑ 東京地方検察庁沿革誌編集委員会『東京地方検察庁沿革誌』東京地方検察庁沿革誌編集委員会、1974年、91頁。NDLJP:12013642/64
  46. ↑ 警視庁総監官房文書課記録係『警視庁事務年鑑 大正13年』警視庁総監官房文書課記録係、1932年、257頁。NDLJP:10985609/33
  47. ↑ 『警察新報 20(10);10月號』警察新報社、1935年、53頁。NDLJP:1442597/147
  48. ↑ 警視庁史編さん委員会『警視庁史 [第2] (大正編)』警視庁史編さん委員会、1960年、566頁。NDLJP:3035411/323
  49. ↑ 『新聞集成大正編年史 大正13年度版 上ノ上』明治大正昭和新聞研究会、1986年、107頁。NDLJP:12229229/61
  50. ↑ ここまで、明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 p516,p517
  51. ↑ “ある村で子ども30人以上が無残な死……恐ろしすぎる「岩の坂もらい子殺し」事件とは”. 文春オンライン (2020年4月19日). 2022年8月25日閲覧。
  52. ↑ https://bunshun.jp/articles/-/37270
  53. ↑ “赤ん坊を百人以上殺した鬼婆だ長谷川たねの舊惡”. 2025年9月1日閲覧。
  54. ↑ 警視庁総監官房文書課記録係 編『警視庁事務年鑑 昭和5年下巻』55-56、238-239頁 1939年
  55. ↑ “鬼婆とヨタ飛行家 遂に監獄送り”. 2025年9月1日閲覧。
  56. ↑ 明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典 p158
  57. ↑ “25人の子供を殺して埋めた「エリート」のおぞましき屈折…西郷山公園事件の全貌”. 現代ビジネス (2020年12月25日). 2022年8月25日閲覧。
  58. ↑ 読売新聞 昭和11年12月15日 夕刊 2頁「貰ひ子7人を殺す 悽惨、鬼夫婦捕はる」
  59. ↑ 読売新聞 昭和11年12月20日 夕刊 3頁「八人目の貰はれ子も死亡」
  60. ↑ 下条守『子の願ひ』三好堂印刷所出版部、1939年、157-161頁。NDLJP:1029718/82
  61. ↑ “Ein Engelmacherin”. Neuigkeits Welt-Blatt (Vienna, Austria) (1885年9月8日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  62. ↑ “Jáger Mari, a 19. század Vajákos Birije”. Elsovh.hu (1931年1月14日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  63. ↑ “Die Giftmischerbande von Hodmezö-Vasarhely”. Das interessante Blatt (1897年3月18日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  64. ↑ “鬼夫婦留置 みちゑちやんの死因にメス”. 2025年7月28日閲覧。

参考文献

関連項目