金子小一郎

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金子 小一郎(かねこ こいちろう[1]、1895年〈明治28年〉2月19日[2] - 1983年〈昭和58年〉10月17日[2])は、日本の政治家。藤沢市長(通算6期)、神奈川県会議員[3]。位階は正五位。勲三等瑞宝章。

概要

神奈川県高座郡明治村(現藤沢市大庭)出身。金子角之助の長男[1][4][5]。1916年、東京農業大学専門部卒業[1][4]、農業を営んだ[3]。父・角之助が亡くなると藤沢町農会長となり、1942年に藤沢市議会における旧村町間の対立を収める格好で藤沢市長となる。同時に大政翼賛会の推薦候補として神奈川県会議員に初当選するが、戦後このことが問題となり1946年に藤沢市長を辞職。続いて公職追放処分となる[6]。

追放解除後の1952年に藤沢市長選挙に出馬。藤沢市政運営につまづき赤字財政に転落させた現職の伊沢十郎に対し、財政再建を訴え藤沢市長に返り咲く。以後、藤沢市長を5期連続当選を果たす。

復帰後は緊縮財政と市債による資金吸収につとめ、1957年に公約である黒字化を達成させる。同時に新たな財源としていすゞ自動車を筆頭に工場誘致につとめ、また、非戦災都市のため難航する中で各地区の区画整理を推し進め人口増加に務めた。現在、藤沢市が湘南地区の中核都市とされるのは、これら金子時代の公共事業の成果に負うところが大きいが、同時に1960年代末期になると公害などで開発行政の歪が現れるようになり、自身の高齢多選批判も重なった1968年の藤沢市長選挙では藤沢市議会における批判者であった葉山峻に辛勝、1972年に藤沢市長を退任する。

1958年以来、藤沢市長を退任まで神奈川県市長会会長を務め、1972年に藤沢市名誉市民[7] 。また姉妹都市提携を結んだ長野県松本市[8]とアメリカ合衆国フロリダ州マイアミビーチ市からも名誉市民を授与された。1983年10月17日死去。88歳没。死没日付をもって正五位に叙され、勲三等瑞宝章を追贈された[9]。

人物

趣味は漢詩、歴史小説[1]。宗教は真言宗[4][5]。住所は神奈川県藤沢市大庭[1][4][5]。

家族・親族

金子家

金子家は古くから藤沢町や農会に有力な地位を占める藤沢の旧家である。

親戚
  • 甥・山本捷雄(元藤沢市長、正子の子)

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 『人事興信録 第23版 上』か124頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2025年9月6日閲覧。
  2. 1 2 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、160頁。
  3. 1 2 3 4 5 6 7 『人事興信録 第11版 上』カ132頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月24日閲覧。
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』神奈川38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年3月10日閲覧。
  5. 1 2 3 4 5 『人事興信録 第15版 上』カ31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年12月24日閲覧。
  6. ↑ 公職追放の該当事項は「武徳会支所長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、214頁。NDLJP:1276156。 )
  7. ↑ “名誉市民”. 藤沢市. 2022年7月30日閲覧。
  8. ↑ “名誉市民”. 松本市. 2022年7月30日閲覧。
  9. ↑ 昭和58年 1983年11月2日付 官報 本紙 第17025号 14頁
  10. ↑ 2025年9月11日確認

参考文献

  • 人事興信所 編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
  • 交詢社 編『日本紳士録 第44版』交詢社、1940年。
  • 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年。
  • 人事興信所 編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
  • 人事興信所 編『人事興信録 第23版 上』人事興信所、1966年。