陳承昭
経歴
はじめ南唐の李璟に仕えて保義軍節度使に任じられた。保大13年(955年)、後周の世宗柴栄が南唐に親征してくると、承昭は濠泗楚海水陸都応援使をつとめた。保大15年(957年)、世宗が泗州を陥落させ、兵を率いて東下させると、趙匡胤が武装した兵士数千を率いて先鋒となり、承昭を淮上で撃破した。承昭は山陽の北まで追撃を受け、趙匡胤に捕らえられて世宗に献上された。世宗に釈放され、右監門衛上将軍に任じられた。右領軍衛上将軍に転じ、分司西京をつとめた[1]。
宋の建隆元年(960年)、承昭は開封に入朝し、水利を熟知していることを太祖(趙匡胤)に買われて五丈二河に水運を通す工事を監督した。建隆2年(961年)、水運工事が完了すると、銭30万を賜った。承昭の婿の王仁表が南唐にいることを言上して、太祖が李璟に信書を送ると、王仁表を開封に入朝させた。承昭は右神武統軍・左神武統軍を歴任した[2]。
建隆4年(963年)春、太祖が開封周辺の成年男子数万人を徴発して、畿内の黄河の堤防を修築すると、承昭はその夫役を監督するよう命じられた。また諸軍の子弟数千を監督して、朱明門外に池を掘り、水戦を演習させた。承昭は北漢に対する征討に従い、汾水を城にそそいで水攻めにするよう献策したが、軍が撤退し、功績は成らなかった。乾徳5年(967年)、承昭は右龍武軍統軍に転じた。開宝2年(969年)、死去した。享年は74。太子太師の位を追贈された[2]。
脚注
伝記資料
- 『宋史』巻261 列伝第20
参考文献
- 『宋史』中華書局、1985年。ISBN 7-101-00323-0。