高須元士

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高須 元士
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永2年[1](1522年)
死没 天正20年8月9日[1](1592年9月14日)
改名 高須宮法師(幼名)[1]→高須元士
別名 高洲元士[1]、杉原元士、高須元可[1]
通称:少輔七郎[1]、彦右衛門尉[1]
戒名 緑樹院殿月甫宗眞居士[2]
墓所 福善寺(広島県尾道市高須町)[3]
官位 刑部大輔[1]、河内守[1](受領名)
主君 毛利隆元→輝元
氏族 桓武平氏杉原氏流高須氏
父母 父:高須元盛[1]
兄弟 元胤[1]、元士、万福丸[1]
子 元兼[1]、元与[4]、宮川兼貞[4]、元勝[4]、元之[4]、宮川九郎兵衛[4]、元久[4]、宮川勝之[4]、女(三河内助兵衛室)[4]、女(田口宣政室)[4]
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高須 元士(たかす もとのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備後国沼隈郡高須[注釈 1]を本拠とする国人で、安芸国の戦国大名・毛利氏に属する。名字は「高洲」とも表記し、「杉原(椙原)」の名字を名乗ることもあった。

生涯

大永2年(1522年)、備後国沼隈郡高須[注釈 1]の松尾山城を本拠とする国人[5][6]である高須元盛の次男として生まれる[注釈 2][1]。

天文13年(1544年)6月7日、毛利隆元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられる[7]。

弘治4年(1558年)4月28日、毛利隆元は赤川元久、国司就信、粟屋元種を通じて、安芸国佐東郡大野において江良神六の母に屋敷分として与えられていた10貫文の地を給地として与えられる[8][9]。

永禄8年(1565年)2月21日、毛利輝元から「彦右衛門尉」の官途名を与えられる[10]。

天正5年(1577年)、松永湾において15町歩の面積を干拓し、築島新田(川尻新田)を作った[11]。松永湾での干拓としては最古であり、交通の関係と藤井川から流出する土砂の埋没を利用することが目的だったと考えられている[11]。

年不詳の3月21日[注釈 3]、毛利輝元の命を受けた長井元為から、備中国後月郡井原の内の一方3貫目において、備中国一宮である吉備津神社の神領を除いた1貫800目を給地として与えることを伝達される[12]。

天正12年(1584年)2月26日、毛利輝元から「河内守」の受領名を与えられる[13]。

天正20年(1592年)8月9日に死去[1]。享年71[1]。『西備名区』によると、備後国沼隈郡高須の律宗寺院であった香積山福善寺に葬られた[3]。

脚注

注釈

  1. 1 2 現在の広島県尾道市高須町。
  2. ↑ 高須家の系譜に記された元士の没年月日と享年から逆算すると、生年は大永2年(1522年)となる[1]。ただし、元士は天文13年(1544年)に元服しており[7]、大永2年(1522年)生まれの場合は23歳で元服したことになるため、逆算した生年が誤りである可能性はある。
  3. ↑ 元士が「彦右衛門尉」を名乗っている頃であるため、永禄8年(1565年)から天正11年(1583年)の間となる。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 219.
  2. ↑ 備後叢書 第1巻 1970, p. 544.
  3. 1 2 備後叢書 第3巻 1970, p. 496.
  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 220.
  5. ↑ 沼隈郡誌 1985, p. 729.
  6. ↑ 田口義之 2006, p. 1.
  7. 1 2 『閥閲録』巻67「高須惣左衛門」第14号、天文13年(1544年)6月7日付け、杉原少輔七郎(元士)殿宛て、(毛利)隆元加冠状。
  8. ↑ 『閥閲録』巻67「高須惣左衛門」第16号、弘治4年(1558年)4月28日付け、高須少輔七郎(元士)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。
  9. ↑ 大竹市史 本編 第1巻 1961, p. 113.
  10. ↑ 『閥閲録』巻67「高須惣左衛門」第17号、永禄8年(1565年)2月21日付け、杉原少輔七郎(元士)殿宛て、(毛利)輝元官途状。
  11. 1 2 新修尾道市史 第3巻 1973, p. 594.
  12. ↑ 『閥閲録』巻53「高須八郎左衛門」第3号、高須彦右衛門尉(元士)殿宛て、長井右衛門太夫元為書状。
  13. ↑ 『閥閲録』巻67「高須惣左衛門」第21号、天正12年(1584年)2月26日付け、高須彦右衛門尉(元士)殿宛て、(毛利)輝元官途状。

参考文献