鷹山頼一

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鷹山 頼一
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永12年7月24日(1635年9月5日)
別名 勝三郎、勝左衛門尉(通称)[1]
戒名 宗徳、頼一大徳
墓所 鷹山円楽寺(現在の高山竹林園内[2])
主君 筒井順慶、定次、松倉重政
藩 伊賀上野藩、肥前日野江藩藩士
氏族 窪庄氏、鷹山氏
父母 父:窪庄藤宗、母:筒井順政の娘
養父:筒井順慶、鷹山頼貞
兄弟 窪庄宗重、頼一
妻 坂上尊忠の娘、長谷氏の娘
子 頼茂、頼直、宝寿院長測
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鷹山 頼一(たかやま よりかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。筒井氏家臣、のち松倉氏家臣。

生涯

大和国窪庄城主・窪庄伊豆守藤宗の二男として生まれる[1]。母は筒井順政の娘[1]。藤宗の父・頼円は同国鷹山城主の鷹山頼慶の弟として生まれ、窪庄城主となっていた[1]。

頼一は初め、筒井順政の孫で筒井順慶の甥にあたることから順慶の養子になったという[1]。

鷹山氏では、天正8年(1580年)に鷹山弘頼の嫡男の頼貞が、翌天正9年(1581年)に頼貞の弟の頼盛が戦死し、家名が絶えようとしていた[1]。そのため鷹山氏の老臣たちが筒井順慶に子細を告げて、鷹山弘頼の娘と坂上尊忠の間に生まれた娘を頼一に娶わせ、頼一に鷹山氏の名跡を継がせて鷹山城主とした[1]。

天正12年(1584年)に順慶が死去し、筒井定次がその跡を継ぐ[3]。天正13年(1585年)、定次が伊賀に転封となると、頼一は鷹山城を去り、定次を頼って伊賀上野に移り住んだ[1]。その際、一部の家臣は鷹山に残った[1]。慶長7年(1602年)には、頼一の長男・頼茂が鷹山で誕生している[1]。

その後筒井定次は、慶長8年(1603年)に改易され、慶長20年(1615年)、大坂冬の陣で豊臣家に通じたとして、嫡男・順定とともに自害させられる[4]。筒井家が滅亡した後、頼一は所縁あることから肥前国島原の松倉重政のもとへと赴いた[1]。

寛永12年(1635年)7月24日、頼一は病により死去した[1]。法名は宗徳だが、鷹山に残る譜代の者たちにより頼一大徳へと改められ、鷹山円楽寺に石碑が立てられた[1]。

頼一の子には、坂上尊忠の娘との間に生まれた頼茂の他、大和国の住人である長谷氏の娘(母は松倉重政の妹)との間に生まれた頼直[注釈 1]、同じ母から生まれた宝寿院長測[注釈 2]がいる[1]。

脚注

注釈

  1. ↑ 松倉重政・勝家に仕え、松倉氏が滅んだ後亀井茲政、播磨赤穂城主浅野長直・長友・長矩に仕えた[1]。
  2. ↑ 興福寺の僧[1]。碩学となり、一乗院門跡の師となる[1]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 生駒市教育委員会 2020, pp. 74–77, 「鷹山氏系図写」.
  2. ↑ “円楽寺”. 生駒市デジタルミュージアム. 生駒市. 2022年8月17日閲覧。
  3. ↑ 金松 2019, pp. 94–96.
  4. ↑ 金松 2019, p. 100.

参考文献

  • 生駒市教育委員会 編『興福院所蔵 鷹山家文書調査報告書』生駒市教育委員会〈生駒市文化財調査報告書 第38集〉、2020年。全国書誌番号:23381716。 
  • 金松誠『筒井順慶』戎光祥出版〈シリーズ・実像に迫る019〉、2019年。ISBN 978-4-86403-314-5。