寛印

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寛印(かんいん、生没年不詳)は、平安時代中期の天台宗の僧。俗姓は紀氏。願蓮房、丹後先徳と称され、内供奉十禅師を務めた。良源・源信に学び、丹後における迎講の始修者として伝えられる[1][2]。

経歴

丹後国与謝郡出身とされるが、出身地には異説がある。『国史大辞典』は丹後国与佐郡の人とし、『朝日日本歴史人物事典』は丹波国多紀郡波々伯部村の人とする。高橋秀榮は後者に疑問を呈し、丹後出身説を採っている[3]。『尊卑分脈』の紀氏系図では、紀忠方の子とされる[4]。

比叡山延暦寺で良源・源信に学び、正暦年間(990年–995年)頃に内供奉十禅師に任じられた[1]。「寛印供奉」とも記される[5]。

『続本朝往生伝』には、源信とともに越前国敦賀津で宋商人朱仁聡に会い、『華厳経』の偈を師と書き継いで学識を示した逸話がある[6]。また同書は、諸国を巡ったのち丹後に至り、日々『法華経』を読誦し、臨終には西に向かって念仏したと伝える[6]。

皇慶の依頼で舎利講を行い、丹後の大乗寺を再興したとも伝えられる[7]。

生没年は不明である。高橋秀榮は『要抄』の奥書に基づき、長和3年(1014年)夏までは存命であったとしている[5]。

内供奉十禅師

内供奉十禅師は、知徳に優れた僧10人を選び、宮中の内道場に奉仕させた僧職である。内供奉は御斎会の読師や天皇の夜居などを務め、国家鎮護の祈りを担った[8]。宮中で天皇の身体の安穏を祈る護持僧は、清涼殿に侍して祈祷を行い、夜居の僧とも呼ばれた[9]。

寛印が内供奉に任じられたとされる正暦年間は、一条天皇の治世に当たる。寛弘元年(1004年)には東三条院の法華八講、同2年(1005年)および同6年(1009年)には最勝講に招かれたとされ、宮廷の仏教行事に関与していた[10]。

教学と著作

源信の教学を継承し、その流れは滝禅院流と呼ばれた[1]。著作には『嘱累義』1巻、『授菩薩戒自誓受略式』1巻などが挙げられる[7]。

寛印の撰述とされる『阿弥陀仏経論並章疏目録』は、寛印録とも呼ばれ、名古屋の真福寺に伝わる。経論38部77巻、章疏77部114巻、計115部191巻を収める。『新纂浄土宗大辞典』は、この目録が、浄土教の典籍目録の始まりを『長西録』とする従来の理解を改める資料となったと評価している[11]。

丹後の迎講

迎講は、阿弥陀仏と菩薩たちが念仏者を迎える来迎の姿を演じる法会である[12]。『古事談』巻3は、源信の行う迎講を見た寛印が、丹後でもこれを始めたと伝える[2]。

『述懐抄』には、当初は源信の迎講を批判しようとした寛印が、その儀礼に感動し、丹後国府の天橋立で3月15日に行うようになったという説話がある。『壒嚢鈔』にも同様の伝承が見える[2]。

『今昔物語集』巻15第23話に登場する、国守大江清定の援助によって丹後に迎講を始めた無名の聖人を、寛印とみる説がある。ただし、大江清定の丹後国司在任年代との隔たりが指摘されており、同一人物と断定はできない。迎講の具体的な開催場所についても議論がある[2]。

家族・門弟

高橋秀榮は、『尊卑分脈』の紀氏系譜に見える円蔵・円深・行円の3人を寛印の弟子として紹介している。このうち、円深と行円は寛印の子とされる[13]。

円深

円深は寛印の実子で、弟子でもあった僧・絵師。朝日阿闍梨と称された。『尊卑分脈』には「号朝日阿闍梨、絵書也、画図名誉金岡一双也」と記され、巨勢金岡と並び称される絵師として伝えられる[13]。『群書類従』『続群書類従』所収の「紀氏系図」も、円深を寛印の子とする[14]。

心慶の書写した『義科私見聞』や『宗要集』には、寛印と源信との教学上の問答に際し、円深が消息を伝える使者となったことが記される[13]。なお、『源平盛衰記』に登場する画僧円心との同一性は明らかでないとされる[14]。

行円と祇園社

行円は寛印の子で、祇園社(現在の八坂神社)の執行となった。『尊卑分脈』には「法眼、祇園社執行」と記される[13]。行円の子の応円・賢円も執行となり、その子孫に職が継承された[15]。

円蔵

円蔵は、『尊卑分脈』の寛印に関する系譜に名が見え、「寺、阿闍梨」と注記される。高橋秀榮は寛印の弟子の一人として紹介している[13]。

史料

寛印の伝記は『続本朝往生伝』『元亨釈書』『本朝高僧伝』に収められる。後二書には先行する伝記と共通する内容が多く、高橋秀榮は、金沢文庫に保管される中世の天台聖教も用いて、学問や師弟関係を検討している[16]。

脚注

  1. 1 2 3 『精選版 日本国語大辞典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「寛印」、コトバンク、2026年10月24日閲覧。
  2. 1 2 3 4 森島康雄「天橋立へのまなざし」『丹後郷土資料館調査だより』第10号、京都府立丹後郷土資料館、2021年3月26日、4頁。
  3. ↑ 高橋秀榮「丹後先徳寛印と迎講」『駒澤大學佛教學部論集』第34号、2003年、127–128頁。両人名事典の記述は同論文128頁に引用される。
  4. ↑ 高橋、2003年、121頁。
  5. 1 2 高橋、2003年、122頁。
  6. 1 2 高橋、2003年、117–119頁。
  7. 1 2 多賀宗隼「寛印」『国史大辞典』。高橋秀榮「丹後先徳寛印と迎講」、2003年、128頁所引。
  8. ↑ 『デジタル大辞泉』『精選版 日本国語大辞典』「内供奉」「十禅師」、コトバンク、2026年10月24日閲覧。
  9. ↑ 『デジタル大辞泉』『精選版 日本国語大辞典』「護持僧」、コトバンク、2026年10月24日閲覧。
  10. ↑ 高橋、2003年、128–129頁。『新潮日本人名辞典』「寛印」の記述を引用する。
  11. ↑ 能島覚「阿弥陀仏経論並章疏目録」『新纂浄土宗大辞典』、浄土宗、2026年10月24日閲覧。
  12. ↑ 高橋、2003年、125頁。
  13. 1 2 3 4 5 高橋秀榮「丹後先徳寛印と迎講」『駒澤大學佛教學部論集』第34号、2003年、124–125頁。
  14. 1 2 早川厚一・曽我良成・橋本正俊・志立正知「『源平盛衰記』全釈(五―巻二―1)」『名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇』第46巻第2号、2010年、115頁(縦組み14頁)、「円心法師」の注。
  15. ↑ 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年、38頁。
  16. ↑ 高橋、2003年、115頁、117–120頁、123–125頁。

参考文献

関連項目