紀行円
紀行円(き の ぎょうえん)は、平安時代後期の僧。僧名は行円(行圓)。祇園社(現在の八坂神社)の初代執行とされ、永保元年(1081年)に同職に就いた。紀氏の出身と伝えられ、系図では紀長谷雄の五世の孫に位置づけられる[1]。その一族はのちに祇園社の執行職をはじめとする上層の職を担った。社領に関する文書・記録には「大別当大法師行円」「祇園大別当行円」として現れ、丹波国波々伯部保や近江国の社領に関与したことが記されている[2][3][4][5]。
出自
『群書類従』所収「紀氏系図」では、中納言紀長谷雄から、淑光・文相・忠方・寛印を経て行円に至る系譜が掲げられており、行円は長谷雄の五世の孫にあたる。同系図は寛印に「内供奉」、行円に「祇園別当」「法眼」と注記する[1]。
- 紀長谷雄 → 紀淑光 → 紀文相 → 紀忠方 → 寛印 → 行円。[1]
『尊卑分脈』巻4を引用する誉田慶信も、行円を寛印の子、応円の父とし、寛印について恵心僧都源信の弟子で内供奉であったと記す[6]。行円を寛印の子とする説明は、高原美忠および小杉達にも見られる[7][8]。小杉は寛印を「天台碩学」と表現する[8]。
宝寿院(建内家)に伝来した「祇園執行系図」では、寛印と紀有方が兄弟とされ、行円は有方の子とされる。同系図は鎌倉時代に制作されたとされている[要出典][9]。
下坂守は、祇園社の執行職は紀有方の子である行円に始まると伝えられる、と述べている。応永35年(1428年)の房意の申状も、行円を「紀中将有方」の子とし、白河院の時代に神託によって執行に補任されたという由緒を掲げる[3][10]。有方から行円へ続く系譜は、『八坂神社文書』上巻840号「社僧系図」にも見られる[11]。
また、高原は、紀百継の四代の孫にあたる真行が、比叡山の円融房良真に従って出家し、行円と改名したと述べる。出家以前の経歴については、このような伝承も記されている[7]。
執行への補任と比叡山との関係
行円の執行補任は永保元年(1081年)とされる。福眞睦城はその日を同年10月晦日とする。執行は祇園社の社頭経営を担う実務職であり、比叡山側の支配機構を構成する検校・別当とは区別される[2][12]。
福眞によれば、祇園社と延暦寺との関係は、行円の補任以前から段階的に整備されていた。延久4年(1072年)の後三条天皇の行幸を画期として、祇園別当は天台座主の交替に伴って補任される職となり、永保元年(1081年)には天台座主による祇園検校職の兼帯が定着したとされる。[2]
福眞は、承暦3年(1079年)に検校職の譲与をめぐって生じた混乱が、座主による検校職の吸収・兼帯につながった可能性を指摘する。そのうえで、永保元年(1081年)の行円の補任を、良真の座主就任と前後して進められた祇園社の管理強化の一環と解釈している[2]。
社領への関与
丹波国波々伯部保
承徳2年(1098年)10月15日付の「草南条波々伯部村田堵等立券解文案」には、波々伯部村の各領主から大別当行円に土地の権利が伝えられたことを述べる記事がある。行円は「大別当大法師行円」と記され、権別当・小別当・上座・寺主・都維那などの所司とともに署判者として列記されている[4]。
宮地直一はこの文書について、波々伯部村の各田の領主から行円が「加徴米代」を伝領したことを明らかにするものと説明している。また、その写しは少なくとも鎌倉時代までさかのぼり、紀年のある旧建内家文書のうち最古に属するとしている[13]。
近江国の開発田と守富保
「社家条々記録」は、近江国守富保の初代保司を行円とする。同記録には、承徳2年(1098年)に、近江国浅井西郡の「祇園大別当行円開発田」について国司庁宣が下されたとある。さらに康和3年(1101年)には、行円の申請によって守富保と改められ、「御塔御封代」と定められたことが記されている[5]。
同記録は、のちに保司良円が守富保を三分し、山上保・宮河保・成安保として子らに譲ったことも伝える。行円の名は、この社領の成立・伝領を説明する記事の起点に位置づけられている[5]・
祇園会の馬上十二鉾
「馬上十二鉾相伝系図」は、行円以来の十二鉾の相伝を伝える系図である。八坂神社編『八坂神社』は、これを祇園社執行・建内氏の祖である行円からの継承を示すものと説明している[14]。
同書は、この系図と応永16年(1409年)6月7日付の「馬上御鉾次第事」をもとに、鉾の所有・管理が祇園社に属し、代々の社務執行のもとで職員が分担していたとする。行円はこうした祭礼上の権限の伝来においても祖とされている[14]。
一族による継承
高原美忠によれば、行円の子の応円と賢円はいずれも執行となり、とくに賢円の子孫が繁栄した。小杉達は、保元3年(1158年)には行円の子らが大別当大法師として祇園社の上層を占めていたと述べ、行円以後の紀氏一族による職の継承を、同社における血縁相続の重要な事例として論じている[7][8]。
ただし、行円を祖とする一族の継承と、後世の宝寿院による執行職の独占とは区別される。瀬田勝哉は、南北朝期には行円の後裔の複数の流れが執行に補任されており、宝寿院の体制が確立したのは顕深の時代であると論じた。下坂守も、宝寿院が執行職を世襲するようになる時期を、南北朝時代末の顕深以後とする[12][3]。
瀬田はさらに、史料編纂上は行円らにも宝寿院の院号が冠されているものの、自身が検討した祇園社関係文書・記録では、至徳2年(1385年)6月2日付の足利義満御判御教書が「宝寿院」の初見となると指摘している。[12]
後世の由緒と執行職相承をめぐる争論
応永35年(1428年)、房意は執行職を求める申状で、行円から自分たちに至るまで一門が340余年にわたり同職を相続し、一門以外の者が補任された例はないと主張した。そのうえで、紀氏の出身ではない顕縁が顕深の正孫を称して執行となっていることに異議を申し立てた。行円の由緒は、この争論で房意が職の継承の正統性を主張する根拠として用いられている[10][3][8]。
小杉達は、この争論と、それに先立つ応永18年(1411年)の良晴による訴えを検討し、祇園社では血縁による継承が強く意識される一方、師弟関係に基づく相承も認められていたと論じている。行円を祖とする由緒は、後世の相承秩序をめぐる議論の中でも重要な位置を占めた[8]。
脚注
- 1 2 3 『群書類従』系譜部巻63「紀氏系図」、国立公文書館蔵、請求番号214-0039、冊次0086、件名番号0160。公開画像7–9コマ。長谷雄から行円までの父子線による。
- 1 2 3 4 福眞睦城「祇園別当の成立と変遷―比叡山との関係から―」『ヒストリア』151号、1996年6月、「はじめに」「二、祇園別當の成立」「おわりに」。
- 1 2 3 4 下坂守『中近世祇園社の研究』法藏館、2021年、「一、祇園社(執行、社代〈執行代、執行雑掌〉)」「1、執行」。
- 1 2 八坂神社社務所編『八坂神社文書』下巻、1683号「草南条波々伯部村田堵等立券解文案」、承徳2年10月15日。
- 1 2 3 『八坂神社記録』2所収「社家条々記録」、近江国守富保条。
- ↑ 誉田慶信「平泉仏教の歴史的性格に関する文献資料学的考察」『平泉文化研究年報』14号、岩手県教育委員会、2014年3月、46頁。『尊卑分脈』巻4からの引用。同論文の表記は「寛院」だが、本文では「紀氏系図」、高原美忠、小杉達の表記「寛印」に従った。
- 1 2 3 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年、「二 古代の八坂」「三 八坂神社(祇園社)の創立」および馬上十二鉾の説明。
- 1 2 3 4 5 小杉達「祇園社の社僧(上・下)」『神道史研究』18巻2号・3号、1970年3月・5月、「三、社僧の相続」および注。
- ↑ 「祇園執行系図」(建内家蔵)。原本・翻刻・公開画像は未実見であり、兄弟関係と成立年代は要確認。『八坂神社文書』840号「社僧系図」との同一性も未確認。
- 1 2 八坂神社社務所編『八坂神社文書』上巻、874号「社務執行宝寿院房意申状案」、応永35年4月。
- ↑ 八坂神社社務所編『八坂神社文書』上巻、840号「社僧系図」、642–643頁。有方と行円の父子線を原PDFの図版で確認。同書下巻の編年目録は840・841号を「吉野時代と推定せらるゝもの」に分類しており、建内家蔵「祇園執行系図」の鎌倉時代成立を裏付ける資料としては扱っていない。
- 1 2 3 瀬田勝哉『増補 洛中洛外の群像―失われた中世京都へ』平凡社、2009年、所収「中世の祇園御霊会」。
- ↑ 宮地直一「八坂神社の古文書に就いて」『八坂神社文書』下巻所収、波々伯部保に関する解説。
- 1 2 八坂神社編『八坂神社〈改訂新版〉』学生社、1997年、「馬上十二鉾」。
参考文献
- 福眞睦城「祇園別当の成立と変遷―比叡山との関係から―」『ヒストリア』151号、1996年6月、「はじめに」「二、祇園別當の成立」「おわりに」。
- 下坂守『中近世祇園社の研究』法藏館、2021年、「一、祇園社(執行、社代〈執行代、執行雑掌〉)」「1、執行」。
- 高原美忠『八坂神社』学生社、1972年、「二 古代の八坂」「三 八坂神社(祇園社)の創立」および馬上十二鉾の説明。
- 小杉達「祇園社の社僧(上・下)」『神道史研究』18巻2号・3号、1970年3月・5月、「三、社僧の相続」および注。
- 宮地直一「八坂神社の古文書に就いて」『八坂神社文書』下巻所収、波々伯部保に関する解説。
- 八坂神社編『八坂神社〈改訂新版〉』学生社、1997年、「馬上十二鉾」。
- 瀬田勝哉『増補 洛中洛外の群像―失われた中世京都へ』平凡社、2009年、所収「中世の祇園御霊会」。
- 『群書類従』系譜部巻63「紀氏系図」、国立公文書館蔵、請求番号214-0039、冊次0086、件名番号0160。
- 誉田慶信「平泉仏教の歴史的性格に関する文献資料学的考察」『平泉文化研究年報』14号、岩手県教育委員会、2014年3月、43–54頁。