澄憲

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澄憲(ちょうけん、大治元年(1126年)- 建仁3年8月6日(1203年9月12日))は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧。父は藤原通憲(信西)。蓮行房・安居院法印とも号する。娘に勅撰歌人の八条院高倉がいる。

経歴

珍兼に師事して天台教学を学び、初め比叡山北谷竹林院に、その後は竹林院の里房である安居院に住した。平治元年(1159年)におきた平治の乱では下野国に配流となったが、まもなく帰京している。承安4年(1174年)、最勝講で祈雨法を修して権大僧都に任じられ、治承元年(1177年)には明雲から一心三観の血脈を相承した。多くの法会で導師を勤めた。

二条天皇の中宮であった姝子内親王と密通したとされ、弟子の海恵は、澄憲と姝子内親王の間の子であるといわれている[注釈 1]。


高松院との関係

澄憲は、二条天皇の中宮であった高松院姝子内親王と関係を持ち、両者の間には海恵や八条院高倉が生まれたとされる。二人の関係は、当初は仏教の導師と施主という宗教的なものであり、高松院の病気平癒の祈祷や、母である美福門院の追善供養などを通じて深まっていったと考えられている[1]。

高松院との宗教的交流

永暦元年(1160年)8月、高松院は重病に陥り、出家した。金沢文庫所蔵の澄憲草「高松女院笠置如法供養表白」の末尾には、同年8月20日から三七ヶ日の法華三昧行法を始め、9月10日・11日には『法華経』を書写したとみられる記述がある。この表白の本文は現存しないが、澄憲が高松院の出家直後から法会に関与していた可能性がある[2]。

また、金沢文庫所蔵『転法輪鈔』の「高松院日吉社七箇日金泥御経供養開白」によれば、高松院はある年の夏に重病となり、名医による治療でも回復しなかったが、日吉社への祈願によって平癒したという。その翌年、病気平癒への報恩として、澄憲を導師とする七日間の法会が営まれた。この病が永暦元年の重病を指す可能性もあるが、法会の実施年は確定していない。高松院と澄憲が接触する契機については、両者と関係の深かった後白河上皇が、高松院の病気平癒のために澄憲へ祈祷を依頼した可能性も考えられている[2]。

澄憲は高松院の母・美福門院の追善供養にも繰り返し関与した。応保3年(1163年)には、高松院が父の鳥羽法皇と美福門院のために行った十日間の修善に関わり、その結願表白を作成した。この法会では、鳥羽法皇が書写を始め、美福門院が引き継いだものの完成に至らなかった『金光明経』の書写を高松院が完成させ、両親の追善供養とした[3]。

さらに、澄憲は美福門院のための百花供養や御月忌供養の表白を作成している。百花供養の表白では、四恩のうち父母の恩が最も深く、父母のうちでも母の恩徳が殊に厚いことを説き、母の懐胎・出産・養育の恩を強調した。澄憲の表白には母の恩を重視する思想が繰り返し見られ、高松院の亡母への追慕を表現する文章も多い。こうした法会を通じて、高松院は澄憲を宗教的な導き手として重用するようになったと考えられている[4]。

聖天供と高松院

国立歴史民俗博物館所蔵の旧田中家本『転法輪鈔』には、澄憲が自身のために作成した聖天供の祭文が収められている。

嘉応2年(1170年)4月10日の「為自身祈令修聖天供祭文」では、名利を解脱の妨げ、癡愛を輪廻の鎖としながら、それらを捨て去ることのできない自身の心情が述べられている。また、因果の道理を悟りながらも「未截愛心之綱」として、愛欲への執着を断ち切れないことを告白している。この聖天供は、後に高松院との間に海恵が生まれていることや、聖天が夫婦和合・子授けなどの現世利益とも結びつくことから、高松院との関係の成就を願ったものであった可能性が指摘されている[5]。

同祭文には、二、三年来、官職を辞して仏法に専念したいと考えていたものの、君主の許可を得られずにいたことも記されている。澄憲は後白河法皇の信任を受け、公的な法会でも活躍していたが、高松院が法皇の異母妹であったことから、辞官願望の背景に高松院との私的な関係への葛藤があった可能性も考えられている。ただし、辞官願望と高松院との関係を直接結びつける史料はない[6]。

安元元年(1175年)12月17日には、高松院の援助を受け、釈迦堂供養を祈願する聖天供を行った。その祭文「為小堂供養祈修同供祭文」では、高松院を「大願檀那」と呼び、翌年が厄会に当たるとして、その身体の守護と長寿を祈願している。また、この祭文によれば、澄憲は嘉応2年から聖天供を行うようになり、その後も日々あるいは月々に供養を継続していた。翌安元2年(1176年)に高松院が没したことや、その死因が出産に伴う疾患であった可能性を踏まえ、この祈願には高松院の出産と健康に対する願いが込められていたとも考えられている[7]。

高松院没後の追善供養

安元2年(1176年)6月に高松院が没した後も、澄憲はその追善供養に関わった。

治承元年(1177年)6月には、高松院に仕えた男女の房人を中心として営まれた一周忌の法会のために「高松院御周忌表」を作成し、導師を務めた。表白では高松院の生涯を回顧し、皇女としての成長、二条天皇への入内、出家後の仏道生活などが述べられている。また、女院の早世への悲嘆や、生前に受けた恩への追慕が表現され、極楽浄土における再会が願われている[8]。

建久3年(1192年)3月13日には、高松院のために曼荼羅供を行ったことが『三僧記』に記されている[9]。

また、後白河法皇の綸旨により、高松院のために一寺を建立して女院の本尊や自筆の五部大乗経などを安置したことが、旧田中家本『転法輪鈔』所収の「十二天供表白」に見える。この寺院は澄憲の建立した浄仏寺(七観音院)とされる。表白には「法皇綸命之上、弟子之懇懐也」とあり、法皇の命令であるとともに澄憲自身の願いでもあったことが示されている。『京都府地誌』の記述から建久5年(1194年)頃の供養とする可能性があるものの、建立や法会の正確な年代には不明な点が残る[10]。

「十二天供表白」には、澄憲自身の願いとして、悪縁の遠離、病患からの回復、衣食の充足、周囲との和合、臨終正念、観音の来迎なども記されている。名利や愛欲を捨てきれない苦悩を述べた嘉応2年の祭文と比較して、後年には心身の安穏と来世への願いが前面に現れている[11]。

唱導の名人

澄憲は説法唱導の名人として知られ、安居院流唱導(安居院唱導教団)の祖とされている。 その父譲りの知識から来るわかりやすさ、そして美声は「富楼那尊者の再誕」「説法の上手」と評され人びとを惹きつけ、多くの聴衆の感涙を誘ったと伝わっている[12]。

法然に帰依し、その弟子として高名であった澄憲の息子の聖覚もまた「舌端玉を吐く」と称されるほどの唱導の名手であった。澄憲譲りの聖覚の才能により、浄土宗は唱導の力を取り入れ、世間への布教が進んだ。また、法然門下での弟弟子に親鸞がいる。聖覚を尊敬していた親鸞は、聖覚の安居院流唱導の技術を手本に、浄土真宗の庶民布教を行った。

澄憲の著作としては、『源氏表白文』『法滅の記』『唱導鈔』『澄憲作文集』『澄憲作文大体』『澄憲表白集』『言泉集(ごんせんしゅう)』など、聖覚の著作としては『唯信鈔』などが知られる。

系譜

脚注

注釈

  1. ↑ 九条兼実の日記『玉葉』に記載されている。

参照

  1. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲 : 表白の検討を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第188巻、2015年3月、99-113頁、doi:10.15024/00002291。
  2. 1 2 筒井早苗「高松院と澄憲」100-101頁。
  3. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」102頁。
  4. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」102-104頁。
  5. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」104-105頁。
  6. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」105頁。
  7. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」105-107頁。
  8. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」107-108頁。
  9. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」110頁。
  10. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」108-109頁。
  11. ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲」109頁。
  12. ↑ 黒田(1979)p.239

参考文献