海恵
海恵(かいえ、承安2年(1172年) - 建永2年9月16日(1207年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の真言宗の僧。仁和寺の学侶。父は安居院法印澄憲、母は二条天皇の中宮で女院となった高松院姝子内親王とされる。祖父は藤原通憲(信西)。
守覚法親王から法流を受け、仁和寺理智院を継承した。のち権僧都。号は功徳院、通称は大円房僧都。祖父信西の文章から秀句を集めた『筆海要津』を編纂したほか、自身の表白・願文などを集めた『海草集』や、真言教学に関する『密宗要決鈔』などを残した[1][2]。
生涯
出生
父の澄憲は、平治の乱で自害した信西の子で、比叡山延暦寺で天台教学を学び、京都の安居院を拠点として唱導に活躍した僧である。後世、子の聖覚とともに安居院流唱導の祖と位置付けられた。
母については、同時代の日記『玉葉』が、海恵を高松院姝子内親王と澄憲との間に生まれた子であると明記している。
今日澄憲真弟子、御室御弟子、高松院御腹、澄憲令生之子也、雖密事、人皆知之。於仁和寺受戒灌頂
(『玉葉』建久2年4月24日条)
高松院は鳥羽天皇と美福門院藤原得子の皇女で、二条天皇の中宮となったが、永暦元年(1160年)に出家し、応保2年(1162年)に女院号を受けて高松院と称した。
海恵の出生については後述のように、当時から秘事として扱われながらも公家社会では広く知られていたとされる。
高野山での学修
海恵は若年より真言教学を学んだ。
『悉曇要決鈔』の奥書によれば、文治5年(1189年)6月1日、18歳の海恵は高野山の往生院において同書を書写している[5]。
本云文治五年六月一日於高野往生院書写了 真言宗末学沙門海恵十八歳
(本奥書にいう。文治5年6月1日、高野山往生院において書写を終えた。真言宗の末学である沙門海恵、18歳)
往生院は、心覚をはじめとする真言僧の活動と深い関係を持ち、海恵の一族である信西流の僧侶とも関係の深い寺院であった。
守覚法親王への入門
海恵は後白河天皇の皇子で仁和寺御室となった守覚法親王に師事した。
建久2年(1191年)4月24日、海恵は守覚法親王から灌頂を受けたことが『玉葉』に見える[6]。同日の記事で、九条兼実は海恵を「御室御弟子」と記しており、守覚法親王の弟子として仁和寺御室の法流に属していたことが分かる。のち仁和寺の理智院を継承し、仁和寺の学侶として活動した。
海恵の遺した『海草集』には、仁和寺の御室や道法法親王のもとで行われた法会・灌頂・供養などに用いられた表白や願文が多く収録されており、海恵が単なる教学研究者にとどまらず、仁和寺における宗教儀礼の実務にも深く関わっていたことが指摘されている[7]。
表白・願文作者として
海恵は表白・願文など漢文体の仏教文書の作者として活動した。
海恵の作品を集成した『海草集』には約90篇の文章が収められ、その内容は仁和寺内部の宗教儀礼、女院・公卿の主催する法会、追善供養、経典供養など多岐にわたる[8]。
『海草集』所収作品のうち、成立年を確認できるものは建久7年(1196年)から建永元年(1206年)に及び、海恵が死去する前年まで継続して文章制作を行っていたことが分かる[9]。
その文章は『本朝文粋』『本朝続文粋』などに連なる四六駢儷文の伝統を受け継ぐものとされ、院政期から鎌倉初期における仁和寺学侶の文筆活動を知る重要な資料となっている。
藤原定家母の追善供養
元久2年(1205年)1月13日には、歌人藤原定家の母である美福門院加賀の十三回忌法要に導師として招かれた。定家の日記『明月記』には同日の導師として「海恵僧都」が記録されている[10]。
このことから、海恵が仁和寺内部にとどまらず、公家社会の追善供養において導師を務める地位に達していたことが知られる。
死去
建永2年(1207年)9月16日に36歳で死去した。没時までに権僧都に進んでいたとされ、功徳院と号した。また大円房僧都とも称された。
澄憲と高松院の密通と海恵の出生
『玉葉』の記事
海恵の出生について最も重要な同時代史料は、九条兼実の日記『玉葉』建久2年(1191年)4月24日条である。
この日、仁和寺における海恵の記事に関連して、兼実は海恵について次のように記している[11]。
御室御弟子、高松院御腹、澄憲令生之子也。雖密事人皆知之
現代語では、「御室(守覚法親王)の弟子である。高松院の腹から生まれ、澄憲が生ませた子である。秘密の事ではあるが、人々は皆これを知っている」という意味になる。この記事は海恵が19歳頃の時点で記されたものであり、海恵の出生から約19年後の同時代史料である。
特に「雖密事人皆知之(密事といえども、人皆これを知る)」という記述から、澄憲と高松院の関係および海恵の出生は公式には秘されていた一方、公家社会では広く知られた事実として認識されていたことがうかがえる。
『血脈類集記』と海恵の出生
真言宗の法脈を記録した『血脈類集記』にも海恵に関する記録があり、現代の研究では『玉葉』と併せて海恵の出自を確認する史料として用いられている[12]。
筒井早苗は、これらの史料をもとに、承安2年(1172年)に高松院が澄憲の子を出産し、その男子が後の海恵であったと整理している。
また、海恵研究でも、牧野和夫・矢口郁子は海恵を「安居院澄憲を父」とする仁和寺の学侶とし、先行研究によって「澄憲と高松院との密通の所生」であることが明らかにされているとする[13]。
高松院と澄憲の関係
高松院姝子内親王は二条天皇の中宮であったが、二条天皇との間に皇子女はなく、永暦元年(1160年)に出家した。澄憲は高松院より15歳年長で、当時、説法・唱導の名手として知られていた僧であった。筒井早苗は、国立歴史民俗博物館蔵旧田中家本『転法輪鈔』や金沢文庫所蔵の澄憲作の表白類を検討し、澄憲と高松院の接触が単なる私的な男女関係から始まったものではなく、当初は僧侶と施主という宗教的関係であったと論じている[14]。澄憲は高松院の病気平癒のための祈祷に関与し、また高松院の母である美福門院の追善供養にも導師として関わった。こうした宗教活動を通じ、高松院は澄憲を自身の宗教的な導き手として重用するようになったと考えられている。
筒井は、二人の関係について、導師と施主という信仰を媒介とした関係の積み重ねによって深まったものと評価している。また、澄憲が作成した聖天供関係の表白などには、高松院に対する通常の導師・施主関係を超えた感情がうかがえると指摘されている。
海恵の誕生
このような関係の中で、承安2年(1172年)、高松院は男子を出産した。この子が海恵とされる[15]。高松院は当時すでに出家した女院であり、澄憲も僧侶であったため、この出生は公的に認知される性格のものではなかった。『玉葉』が「密事」と表現しているのも、この事情によるものと考えられる。もっとも、『玉葉』の記述は海恵自身の出生から約19年後に記録されたもので、兼実が出産の現場を直接確認した記録ではない。そのため、史料批判上は、母子関係を近代的な意味で客観的に証明する資料ではない。
しかし、海恵の生存中に記された公家の日記が、父を澄憲、母を高松院と具体的に記し、さらに「人皆これを知る」としていること、『血脈類集記』など別系統の資料および後世の研究とも整合することから、現代の研究では高松院と澄憲の間に生まれた子とする理解が採用されている[16][17]。
八条院高倉との関係
高松院と澄憲の間には、海恵のほか、歌人として知られる八条院高倉も生まれたとする説がある。
この説については田中貴子らの研究によって検討されており、筒井早苗も高松院と澄憲との間に海恵と八条院高倉の二人が生まれたとの先行研究を紹介している[18][19]。
ただし、八条院高倉の母を高松院とする史料関係は、海恵の場合の『玉葉』建久2年4月24日条ほど直接的ではないため、海恵の出生とは史料上の確実性を区別する必要がある。
著作
海草集
『海草集』は海恵の表白・願文などを集成した別集である。
現存本には約90篇が収められ、仁和寺における灌頂・法会、女院や公卿の法要、追善供養などに用いられた文章を含む[20]。
『海草集』には他の僧のために海恵が代作した表白も含まれており、海恵が当時の仁和寺において専門的な文章作者として活動していたことが分かる。また、近親者に関する文章も多く、作中の「先師」が父澄憲を指すことも確認されている。
筆海要津
『筆海要津』は、海恵の祖父である信西の遺文から秀句を摘出し、分類した文章集である[21]。祖父信西は学者・文人としても著名であり、海恵はその文章資料を整理・継承する役割を果たした。同書は、信西一門における漢文学・願文制作の伝承を考える上でも重要な資料とされる。
密宗要決鈔
海恵には真言教学書『密宗要決鈔』の著作がある。
同書は後世の真言教学にも利用され、重誉の『秘宗教相鈔』などとの関係から研究されている[22]。
『密宗要決鈔』は『真言宗全書』にも収録されている。
系譜
海恵は父方では藤原南家に属し、祖父信西の一門には多数の公家・僧侶が存在した。
海恵自身も『筆海要津』の編纂などを通じて、信西一門の学問・文章文化を継承した人物として位置付けられる。
評価
海恵は長らく父澄憲や師守覚法親王の陰に隠れた存在であったが、『海草集』の研究によって、鎌倉初期の仁和寺における重要な学侶・文章作者であったことが明らかにされている。
矢口郁子は、海恵の『海草集』を、仁和寺の宗教儀礼と密接に結びついた文書集として分析し、海恵が御室のもとで行われる儀礼の運営と文章制作に関与したことを指摘している[23]。
また、『筆海要津』の編纂に見られるように、祖父信西以来の漢文学的伝統を継承する人物でもあり、信西一門と仁和寺学侶双方の文脈から研究されている。
脚注
- ↑ 矢口郁子「表白・願文作者としての海恵僧都―『海草集』の基礎的考察―」『和漢比較文学』24、2000年
- ↑ 牧野和夫・矢口郁子「山岸文庫蔵『海草集』解題・翻刻」『実践女子大学文芸資料研究所年報』20、2001年
- ↑ 『玉葉』建久2年4月24日条
- ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲―表白の検討を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』188、2015年
- ↑ 牧野和夫「『海草集』影印・解説」『実践女子大学文芸資料研究所年報』
- ↑ 『玉葉』建久2年4月24日条
- ↑ 矢口郁子「表白・願文作者としての海恵僧都―『海草集』の基礎的考察―」『和漢比較文学』24、2000年
- ↑ 牧野和夫・矢口郁子「山岸文庫蔵『海草集』解題・翻刻」『実践女子大学文芸資料研究所年報』20、2001年
- ↑ 牧野和夫・矢口郁子「山岸文庫蔵『海草集』解題・翻刻」『実践女子大学文芸資料研究所年報』20、2001年
- ↑ 『明月記』元久2年1月13日条
- ↑ 『玉葉』建久2年4月24日条
- ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲―表白の検討を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』188、2015年
- ↑ 牧野和夫・矢口郁子「山岸文庫蔵『海草集』解題・翻刻」『実践女子大学文芸資料研究所年報』20、2001年
- ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲―表白の検討を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』188、2015年
- ↑ 『玉葉』建久2年4月24日条。『血脈類集記』
- ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲―表白の検討を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』188、2015年
- ↑ 矢口郁子「表白・願文作者としての海恵僧都―『海草集』の基礎的考察―」『和漢比較文学』24、2000年
- ↑ 田中貴子「法華寺の八条院高倉―来迎寺文書から」田中貴子『外法と愛法の中世』砂子屋書房、1993年
- ↑ 筒井早苗「高松院と澄憲―表白の検討を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』188、2015年
- ↑ 牧野和夫・矢口郁子「山岸文庫蔵『海草集』解題・翻刻」『実践女子大学文芸資料研究所年報』20、2001年
- ↑ 藤原通憲著・海恵編『筆海要津』
- ↑ 増山賢俊「重誉撰『秘宗教相鈔』における即身成仏理解をめぐって―海恵撰『密宗要決鈔』における引用を中心に」『智山学報』60、2011年
- ↑ 矢口郁子「表白・願文作者としての海恵僧都―『海草集』の基礎的考察―」『和漢比較文学』24、2000年
参考文献
- 山岸徳平「海恵僧都と海草集」『日本漢文学研究』有精堂出版、1972年。
- 矢口郁子「表白・願文作者としての海恵僧都―『海草集』の基礎的考察―」『和漢比較文学』24、2000年。
- 牧野和夫・矢口郁子「山岸文庫蔵『海草集』解題・翻刻」『実践女子大学文芸資料研究所年報』20、2001年。
- 筒井早苗「高松院と澄憲―表白の検討を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』188、2015年。
- 田中貴子「法華寺の八条院高倉―来迎寺文書から」『外法と愛法の中世』砂子屋書房、1993年。
- 増山賢俊「重誉撰『秘宗教相鈔』における即身成仏理解をめぐって―海恵撰『密宗要決鈔』における引用を中心に」『智山学報』60、2011年。
- 『玉葉』
- 『血脈類集記』
- 『明月記』
- 『海草集』