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ベオグラード、カレメグダン城の L3/35(ハンガリー仕様) | |
| 性能諸元 | |
|---|---|
| 全長 | 3.17 m |
| 車体長 | 3.17 m |
| 全幅 | 1.42 m |
| 全高 | 1.30 m |
| 重量 | 3.15 t |
| 懸架方式 | リーフスプリング、ボギー式 |
| 速度 |
42 km/h(整地) 15 km/h(不整地) |
| 行動距離 | 120 km |
| 主砲 | 8mm重機関銃×2 |
| 装甲 | 15-5 mm |
| エンジン |
フィアットSPA CV3-005 水冷直列4気筒ガソリン 43 hp/2,400 rpm |
| 乗員 | 2 名 |
L3は、戦間期にイタリアで開発され、第二次世界大戦まで使用された豆戦車。
ただし、イタリアでは、L3は、豆戦車ではなく、軽戦車(carro armato leggero、カルロ・アルマート・レジェッロ)に分類されている。L3とは、「3トン級の軽戦車」を意味する。どの兵器をどのカテゴリーに分類するかは、それぞれの国の(軍の)自由である。本項では、混乱を避けるため、実質を重視して、本車を「豆戦車」と呼称する/として扱うことにする。
各型式を合わせ2,000輌から2,500輌が生産され、第二次世界大戦突入時、イタリア軍が最も多く装備する装甲戦闘車両であった。
イギリス製のカーデン・ロイド豆戦車の独自発展型で、当初C.V.33(Carro Veloce 33、カルロ・ヴェローチェ=快速戦車 33年型)として採用され、その後改良型のC.V.35、C.V.38などが作られた。
1938年、イタリア陸軍の車両分類名称変更により、5トン未満は「軽戦車」に分類され、それぞれL3/33、L3/35、L3/38と改称されることになった。
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第一次世界大戦後、ルノー FT-17 軽戦車を基にしたフィアット3000 軽戦車が、イタリア戦車の大半を占めていたが、イタリア半島北部の山岳地帯だけでなく、北アフリカの広大な砂漠も巡回する必要があったイタリア陸軍にとって、軽量ではあったが鈍足なフィアット3000は理想的ではなかった。1923年には、リビア領内で反乱が起こり、軍はより速い戦車が必要となった。1920年代後半までに、イタリア陸軍が活動する全ての地形で運用可能な、軽量かつ高速の装甲車両の必要性が確認された。
1929年、ウーゴ・カヴァッレーロ(Ugo Cavallero)将軍の主導により、イタリアはイギリスから、ヴィッカース 6トン戦車 Type B(単砲塔型)とともに、数輌のカーデンロイド Mk.V*とMk.VIを輸入し、評価試験の後、C.V.29の名称で、21輌のMk.VIの完成品を輸入+Mk.VIのライセンスを得て、4輌をイタリア国内でノックダウン生産した(C.V.29は計25輌)。C.V.29について、「4輌を輸入し、21輌をライセンス生産した(この説ではC.V.29は21輌)」と、間違って逆に書かれていることがある。
さらに、C.V.29を基に、独自の発展型がフィアット社とアンサルド社によって開発され、フィアット=アンサルドC.V.33(もしくはCV33、C.V.3/33)として制式採用された。開発者はアンサルド社の主任戦車設計者である、ジュゼッペ・ロッシーニ。
C.V.33は、カーデンロイド Mk.VIおよびC.V.29同様の無砲塔・2人乗りの豆戦車だが、車体は完全に新設計の、それらよりも大幅に延長されたものとなった。カーデン・ロイド Mk.VIの初期の無蓋の戦闘室は、着席した乗員の肩の高さまで装甲板があるのみで、後期のタイプやC.V.29ではこれに四角錐台型の装甲フードを付けた。これに対し、C.V.33では戦闘室が増積され、上面には2つの平板なハッチを持つ。また乗員の配置はC.V.29までとは逆に、右が操縦手、左が車長兼機銃手となった。前に起動輪、後ろに誘導輪がある、リアエンジン・フロントドライブ方式である。エンジン・コンパートメント(機関室)のデザインは、以降のL6/40軽戦車や、M11/39やM13/40などの中戦車でも踏襲された。極論すれば、C.V.33と、それ以降のイタリア戦車は、全て、カーデン・ロイド豆戦車を始祖とする発展型と言っても差し支えない。
1935年には、小改良型であるC.V.35が登場する。C.V.33では戦闘室の組み立ての一部に溶接が用いられていたが、イタリア(のみならず1930年代当時はほとんどの国が同様であった)では溶接技術が未熟だったので、C.V.35では全面的に堅実なリベット接合に変わっている。
武装はC.V.33の初期生産型(セリエ I。セリエは英語でのシリーズ(series)にあたる)ではフィアット レベリM1914 6.5mm重機関銃1挺(試作車では水冷式、以後の量産車では空冷式)、後に8mm重機関銃(フィアット レベリM1935重機関銃またはブレダM38車載機関銃(ブレダM37重機関銃の車載型)2挺となり(セリエ II)、これがC.V.35まで標準となった。その他、ゾロターン S-18 20mm対戦車ライフル(資料によっては、全自動の「S-18/1100」、もしくは、半自動の「S-18/1000」、と異なる)を搭載した対戦車型、火炎放射型などのバリエーションも作られた。
1938年には、トーションバー・サスペンションを使った足回りを持ち、マドセン7mm機関銃2挺もしくはブレダM31 13.2mm重機関銃(原型はオチキスの海軍艦艇向け装備)1挺もしくはブレダM35 20mm機関砲1門を搭載する改良型、C.V.38が登場するが、これはごく少数が作られたのみに終わった。
各タイプを合わせた生産数は2,000輌を越え、これはカーデン・ロイド豆戦車の海外での発展型の中では、フランスのルノー UE牽引車、ソ連のT-27に次ぐ大量生産であった。
L3/C.V.33系列は、1935年のエチオピア侵攻に投入され、さらには1936年のスペイン内乱でも使用された。
本来、偵察・警備用の軽車両として開発されたものだけに、この時点ですでに、その弱武装と軽装甲は第一線で使用するにふさわしくないことが明らかとなった。無砲塔のため機銃の左右の射界も限られた。とはいえ、第二次世界大戦に突入したとき、イタリア軍が装備する「戦車」は、約100輌のM11/39を除いてはL3のみで、その後も、イタリアが参加したほぼすべての戦場で使われた。ただし、既に1940年末時点で、最前線で使われるL3は少数であって、その活躍の場は少なく、連絡任務や後方警備やパルチザン対策など、限られた用途(豆戦車の本来の用途に戻ったともいえる)で、終戦まで運用され続けた。
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ほか、アフガニスタン、アルバニアなどが少数を輸入したとされる。また、ギリシャは侵攻したイタリア軍から若干のL3を鹵獲使用した。
大日本帝国陸軍も日中戦争で、中華民国との戦闘で鹵獲したC.V.33を前線後方で使用している。
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