ミスター マリック Mr.マリック | |
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| 生誕 |
松尾 昭 1948年12月29日(76歳) |
| 別名 |
栗間太澄(1997年初演) 松尾幻燈斎(2003年初演) |
| 職業 | マジシャン |
| 活動期間 | マジック界では十代後半から現在まで。テレビ界では1988年(39歳時)から現在まで。 |
| 著名な実績 | マジックのジャンル「超魔術」とそのブームを創出 |
| 配偶者 | あり |
| 子供 | あり(著名人は LUNA) |
| 公式サイト | Mr.マリック公式サイト |
Mr.マリック(ミスターマリック、英語表記:Mr. Maric [2]。1948年12月29日(戸籍上は1949年1月1日[3])- )は、日本のマジシャン[4]。本名・出生名は 松尾 昭(まつお あきら)。別名義として、栗間 太澄(くりま たすみ)と 松尾 幻燈斎(まつお げんとうさい)がある。身長160cm。著名な親族として、実娘のLUNA(ラッパー)がいる。
所属する芸能事務所は有限会社マリックエンターテイメント、テレビ朝日映像株式会社[5]。関連会社に株式会社マリックプロモーション(芸能事務所)もある[6]。「超魔術師[1]」「サイキックエンターティナー[注 1]」を名乗る。
(事実上)1948年(昭和23年)12月29日に岐阜県岐阜市[1]で生まれる。岐阜市立伊奈波中学校を卒業。岐阜県立岐阜工業高等学校を卒業[7]。岐阜のアマチュアマジシャン兼歯科医の沢浩に師事。
高校卒業後はガス器具メーカーのパロマ工業(現・パロマ)に就職するも[7]、マジックへの夢捨てがたく、数多くのマジシャンのコンテストに出場するようになり、コンテスト番組で優勝することもあった[7]。パロマ工業には半年ほど勤務していたが、行き付けのオリエンタル中村百貨店(※現在の名古屋三越)にて、テンヨー社製マジック用品売り場の実演販売員の空きができたことから、親の反対を押し切って実演販売員に転職した[8]。その後はこの職場で経験を重ね、やがてマジックショップの経営や新人の指導を行うようになり、全国各地でマジック教室を開設するようにもなった。しかしこの時代に初めて出場したマジック大会で初代・引田天功らのショーとして完成度の高いマジックを目の当たりにして衝撃を受け、本格的にプロを目指し始めている。
20歳の時(※計算上は1969年/昭和44年)に上京し[7]、マジック用品メーカーに勤務する[7]。この年に開催された環太平洋マジックアソシエーション(Pacific Coast Association of Magicians、頭字語:PCAM)ハワイ大会における「クロースアップ部門」コンテストで日本人として初優勝を果たす[7]。
「名門ホテルのラウンジで行うクロースアップ・マジックのテーブルホッピングショー[注 2]」という演出形態を採用し、ラウンジライブを全国展開するようになったマリックは、そのさなかに日本テレビのディレクターと出会い、それをきっかけにして1988年(昭和63年、39歳の年)、日本テレビ系の人気番組『11PM』でテレビ界にデビューし[1][7]、クロースアップ・マジックに超能力的な演出を付け加えた「超魔術」を披露すると、視聴者からの大きな反響を得た。大がかりな設備を必要としないマリックのスタイルはテレビ局にとっても番組を組みやすく、その後たびたび出演するようになった。「超魔術」はマリックが番組制作スタッフらと考え出した造語である。同番組への出演を含む1974年(昭和49年)の初来日以来、世界でも日本でも数年前まで“超能力”ブームを巻き起こしていたユリ・ゲラーの番組を観てきたのが、「超魔術」のスタイルを編み出すきっかけになった。
超能力ブーム華やかなりし頃、マリック本人もユリ・ゲラーの超能力と酷似するショーを行って収入を得ていた。しかしあるイベントにおいてマリックの技を見た観客が超能力肯定派と否定派で真っ二つに対立し、一触即発の緊張状態となった会場でマリックは咄嗟に「ハンドパワーです」とアピール。これにより殺気立っていた観客は得心して平静を取り戻すということがあった。その後、「マリックは本物の超能力者なのか」「手品と同じでタネがあるのか」という疑問には全て「ハンドパワーです」と答え、この台詞はマリックの専売特許とも言うべきものとなった。超能力や占いの類を蛇蝎の如く嫌っていた当時タレントの上岡龍太郎もマリックの技を懐疑的な目で見ていたが、「ハンドパワーです」の説明でマリックと打ち解けた。なお、別バージョンでは「手力(てぢから)です」[注 3]もある。このフレーズは流行語となり、様々なバラエティや漫画でパロディされた。元々は「手から何か出てるんですか?ハンドパワーですか?」と尋ねた客の質問から生まれた言葉。「来てます」のセリフも「来てますか?」という客の質問に「何か来てるんでしょうね」と答えた事が始まり[9]。
「マリック」という名前は「マジック」と「トリック」を合わせた造語である[10]。また、栗間太澄(くりま たすみ)、松尾幻燈斎(まつお げんとうさい)という別名を持つ。「くりまたすみ」は、「ミスターマリック」を「クリマタスミ」と反対側から読んだ回文のようなもの。
登場時やマジック披露後には専用BGMが流れる。曲はアート・オブ・ノイズ (The Art of Noise) の『レッグズ (Legs)』である(legacyというタイトルでベスト盤に収録されている場合もある)。いとうせいこうはラジカル・ガジベリビンバ・システムの劇中に同曲が使用されたことに触れ、番組ディレクターの大塚恭司がラジカルのファンであったことから「大塚さんはラジカルの印象がものすごくてあの曲を使ったんだと思う。そうとしか考えられない。」と述べている。[11]。
サングラスをトレードマークにしており、NHK番組『課外授業 ようこそ先輩』でも子どもたちにだけサングラスを外した顔を見せるなど、テレビ画面では滅多に目を見せない。栗間太澄としては眼鏡をかけ、バラエティ番組で松尾幻燈斎として出演したときや、マギー司郎、ゼンジー北京に扮したときなど、ごく稀にサングラスを外す(後述のドラマ出演の際も同様)。また、テレビに出始めの頃は素顔で出演しており、かけ出した後も近視なので日によってかけたり外したり一定していなかった。かけ続ける様に成ったのは度付きのサングラスが発売されてから[9]。
のちにクロースアップ・マジックで名を挙げる「ふじいあきら」こと本名「藤井明」は、超魔術が大ブームになっていた頃にマリック門下の若者であった。「元神」の芸名でアシスタントを務め、下積み生活を送っていた藤井は、マリックのテレビ番組の映像にもその姿を残っている[10]。しかし彼は下積み生活の愚痴を周囲に漏らしてしまい、それが師に伝わるのを恐れて、2001年(平成13年)に逃げ出してしまった。その後、芸名を本名の平仮名表記に改めたうえで独力で研鑽を重ねて大成した。二人はのちにテレビ番組で共演し、和解している。
古典奇術を現代的手法・演出で蘇らせる能力が高く、毎年公演されるマリックのライブツアーは高い完成度と不思議さ・楽しさが融合しているとの評判を得ている。また、銀座博品館劇場ではMr.マリック超魔術団公演を旗揚げさせ、内外有力な若手マジシャンとともに、ストーリー仕立てのマジックエンターテイメントに挑戦、ステージでも精力的に活動をしている。奇術愛好家を増やすための活動や、日本国外そして国内若手マジシャンとのコラボレーションなども行う。また、歌舞伎や芝居、松任谷由実などのアーティストコンサートの演出も監修する。
血液型はB型。
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