いきている山

ウィキペディアから、無料の百科事典
いきている山
The Living Mountain
ナン・シェパードによるノンフィクション作品
基本情報
原題 The Living Mountain: A Celebration of the Cairngorm Mountains of Scotland
著者 ナン・シェパード
邦訳者 芦部美和子、佐藤泰人
初版発行元 アバディーン大学出版局
原書刊行年 1977年
邦訳刊行年 2022年(みすず書房)
ジャンル ネイチャーライティング、回想録
言語 英語
舞台 スコットランドの旗 スコットランド ケアンゴームズ
執筆時期 1944年 - 1945年頃

『いきている山』(いきているやま、原題:The Living Mountain: A Celebration of the Cairngorm Mountains of Scotland)は、スコットランドの作家ナン・シェパード(en:Nan Shepherd, 1893年 - 1981年)による散文作品である。第二次世界大戦末期の1944年から1945年ごろに執筆されたが、当時は出版に至らず、約30年間机の引き出しに眠っていたのち、1977年にアバディーン大学出版局から刊行された[1][2]。

スコットランド北東部のケアンゴーム山群を舞台に、著者が生涯にわたり山へ通い続けた体験をもとに、高原・水・光・生き物・人間・眠り・感覚といった要素ごとに山との交感を綴った作品であり、20世紀のネイチャーライティングを代表する古典の一つとされる[3]。

概要

本書は、山の頂上を目指す従来の登山記とは異なり、山の「内側」や「奥地」に分け入り、そこに留まりながら五感を通じて山と関わろうとする姿勢を特徴とする[4]。

全12章から構成され、各章は高原・谷間・水・霜と雪・大気と光・植物・鳥獣虫・人間・眠り・感覚・存在といった主題に沿って展開する。物語的な筋立てやドラマは持たず、観察と省察を積み重ねる瞑想的な文体で書かれている点も特徴とされる[5]。

背景・執筆から出版までの経緯

シェパードは生涯をアバディーン近郊で過ごし、教育者として英文学を教える傍ら、青年期から晩年までケアンゴーム山群を繰り返し歩いた[6]。本書の草稿は第二次世界大戦末期の1944年から1945年ごろに完成し、友人であった作家ニール・ガン(Neil Gunn)に読ませたところ、出版は難しいだろうとの助言を受けた[7]。原稿はそのまま長らく手つかずのまま置かれたが、シェパードは晩年になって改めて原稿を取り出し、アバディーン大学との縁を通じて1977年にアバディーン大学出版局から静かに刊行された[6]。

構成・内容

本書は序文に続き、以下の12章から構成される [8]。

  1. プラトー
  2. 奥地
  3. 山群
  4. 水
  5. 氷と雪
  6. 空気と光
  7. いのち――植物
  8. いのち――鳥、獣、虫
  9. いのち――人間
  10. 眠り
  11. 感覚
  12. 存在

各章は山を構成する要素を一つずつ取り上げ、地理的な峰々を個別に扱うのではなく、高原や谷間、水や大気といった山全体を貫く要素として描く点に特徴がある[9]。

終盤の「眠り」「感覚」「存在」の各章では、身体感覚を通じて山と一体化していく著者自身の経験が語られ、単なる自然描写を超えた思索的な内容へと展開する。

出版史

本書は1977年にアバディーン大学出版局から初版が刊行された後、1996年にはシェパードの三つの小説と本書を収めた合本『The Grampian Quartet』としてキャノンゲート・ブックス(Canongate Books)から刊行された[10]。

2011年にはキャノンゲートより単独版が再刊され、ロバート・マクファーレンによる序文が付された[11]。以降の版には、作家ジャネット・ウィンターソン(en:Jeanette Winterson)による後書きが加えられている[11]。

日本語版は、芦部美和子・佐藤泰人の共訳により『いきている山』の題名で2022年10月にみすず書房から刊行された[12][13]。

評価・影響

本書は長らく一般には知られていなかったが、2011年の再刊を機に評価が高まり、『ガーディアン』紙は「英国で自然と風景について書かれた最も優れた一冊」と評した[11]。批評家からは、J・A・ベイカーの『ハヤブサ』(The Peregrine)と並び、20世紀の英国におけるネイチャーライティングの傑作の一つに数えられている[14]。

ロバート・マクファーレンは本書の再評価に大きく寄与した人物として知られ、自身も著書の中でたびたび本書について言及している[14]。こうした再評価の広がりを受けて、2016年にはシェパードの肖像と本書からの一節が、スコットランド銀行(Royal Bank of Scotland)発行の新5ポンド紙幣の意匠に採用された。これはスコットランドで広く流通する紙幣に女性が単独で描かれた最初の例であった[15][16]。この紙幣には、本書の一節から着想を得た図案とともに、著者の言葉が引用されている[17]。

後世への影響

文学における影響

本書は多くの著作家に影響を与えた。ロバート・マクファーレンは、序文の執筆のみならず自著の随所で本書に言及し、シェパードの再評価を牽引した[14]。『スコッツマン』紙の書評によれば、マクファーレンに加え、オークニー諸島を舞台にした回想録で知られる作家エイミー・リプトロット(en:Amy Liptrot)も、本書について雄弁に語ってきた[18]。

シェパード自身の生涯については、2017年には作家シャーロット・ピーコック(Charlotte Peacock)による初の伝記『Into the Mountain: A Life of Nan Shepherd』がガリレオ・パブリッシャーズ(Galileo Publishers)から刊行された[19]。若い時代のスコットランドの哲学者ジョン・マクマレー(John Macmurray, 1891年–1976年)との交流などが描かれるが、シェパードは自身のことをほとんど公にしなかったため、伝記は推測が多い。

また、作家アナベル・アブス(en:Annabel Abbs)は、女性登山家たちの足跡をたどった著書『Windswept: Walking in the Footsteps of Trailblazing Women』(2021年)の中で、シェパードがケアンゴームズを歩いた経路を実際にたどっている[20]。

学術研究における影響

本書の再評価は学術研究にも波及した。バース・スパ大学のサマンサ・ウォルトン(Samantha Walton)は、シェパードの作品を生態批評(エコクリティシズム)の観点から論じた初の研究書『The Living World: Nan Shepherd and Environmental Thought』(2020年)を著し、本書を中心にシェパードの自然観・環境思想を近年の環境人文学の文脈に位置づけ直した[21]。同書は、本書が現代の環境人文学が扱う主題の多くを先取りしていたと論じ、シェパードを哲学者・フェミニスト・アマチュア生態学者としても再評価している[22]。

音楽・舞台芸術における影響

本書は音楽や舞台作品にも翻案・引用されている。シンガーソングライターのジェニー・スタージョン(Jenny Sturgeon)は、本書に着想を得た楽曲群からなるアルバム『The Living Mountain』を制作した。また、アーティストや作家、生態学者らと山や野外空間との関わりを語り合うポッドキャスト番組も配信している[23]。

2024年には、ロンドンを拠点とする音楽家アリス・ボイド(Alice Boyd)が、本書に触発された若手女性を対象とする野外活動プロジェクト The Following Nan Project の遠征に同行して制作したEP『Cloud Walking』を発表した[24]。

舞台作品では、2024年にピトロクリー・フェスティバル・シアター(Pitlochry Festival Theatre)とファイアーブランド・シアター・カンパニー(Firebrand Theatre Company)の共同製作により、シェパードの生涯と本書の出版に至る経緯を題材にした演劇『Nan Shepherd: Naked and Unashamed』(リチャード・バロン、エリー・ジーゲン脚本)が初演された。同公演の告知によれば、本書がすでに16の言語に翻訳されている[25]。同作は好評を博し、2025年にも再演されている[26]。

アウトドア文化・社会活動への影響

本書の「頂上を目指すのではなく、山の内側に留まる」という登山観は、近年のアウトドア文化にも影響を与えている。2023年9月には、本書に触発された多様な経験レベルの女性9人が、シェパードの歩みをたどる小規模な遠征「The Following Nan Project」としてケアンゴームズを踏破した[27]。この遠征は、映像作家エミリー・ベイカー(Emily Baker)とミシェル・サンダース(Michelle Sanders)による短編ドキュメンタリー『To Know A Mountain』として記録され、女性がより気軽に山へ向かうことを後押しする活動として位置づけられている[28]。

日本語版

いきている山
著者:ナン・シェパード/訳:芦部美和子、佐藤泰人/みすず書房/2022年10月19日発売/244ページ/ISBN 978-4-622-09529-3[29]。巻末にはロバート・マクファーレンによる2011年版序文の翻訳のほか、訳者による解説と訳者あとがきが収められている[30]。

関連項目

脚注

  1. ↑ “Robert Macfarlane on the Beauty and Urgency of Nan Shepherd's The Living Mountain”. Literary Hub (2025年3月21日). 2026年7月28日閲覧。
  2. ↑ “'To aim for the highest point is not the only way to climb a mountain'”. University of Aberdeen. 2026年7月28日閲覧。
  3. ↑ “The Living Mountain - A Celebration of the Cairngorm Mountains of Scotland”. Canongate Books. 2026年7月28日閲覧。
  4. ↑ “いきている山”. みすず書房. 2026年7月28日閲覧。
  5. ↑ “The Living Mountain: why a second world war meditation on nature's fragility and wonder is still relevant today”. The Conversation (2025年9月16日). 2026年7月28日閲覧。
  6. 1 2 “'To aim for the highest point is not the only way to climb a mountain'”. University of Aberdeen. 2026年7月28日閲覧。
  7. ↑ “Nan Shepherd - 'The Living Mountain'”. The Birlinn Yarn Company (2018年10月3日). 2026年7月28日閲覧。
  8. ↑ 『いきている山』 - みすず書房
  9. ↑ “The Living Mountain: why a second world war meditation on nature's fragility and wonder is still relevant today”. The Conversation (2025年9月16日). 2026年7月28日閲覧。
  10. ↑ “The living mountain : a celebration of the Cairngorm Mountains of Scotland”. Internet Archive. 2026年7月28日閲覧。
  11. 1 2 3 “The Living Mountain - A Celebration of the Cairngorm Mountains of Scotland”. Canongate Books. 2026年7月28日閲覧。
  12. ↑ “いきている山”. みすず書房. 2026年7月28日閲覧。
  13. ↑ “佐藤泰人(文学部英米文学科)”. 東洋大学研究者情報データベース. 2026年7月28日閲覧。
  14. 1 2 3 “Robert Macfarlane on the Beauty and Urgency of Nan Shepherd's The Living Mountain”. Literary Hub (2025年3月21日). 2026年7月28日閲覧。
  15. ↑ “Nan Shepherd to feature on new Scottish bank note”. Countryfile (2020年8月10日). 2026年7月28日閲覧。
  16. ↑ “Who is Nan Shepherd? All your questions about Royal Bank of Scotland's new £5 note star answered”. CityAM (2016年4月25日). 2026年7月28日閲覧。
  17. ↑ “Who is Nan Shepherd? All your questions about Royal Bank of Scotland's new £5 note star answered”. CityAM (2016年4月25日). 2026年7月28日閲覧。
  18. ↑ “Book review: Into The Mountain: A Life Of Nan Shepherd, by Charlotte Peacock”. The Scotsman (2017年10月26日). 2026年7月28日閲覧。
  19. ↑ “Book review: Into The Mountain: A Life Of Nan Shepherd, by Charlotte Peacock”. The Scotsman (2017年10月26日). 2026年7月28日閲覧。
  20. ↑ “'To aim for the highest point is not the only way to climb a mountain'”. University of Aberdeen. 2026年7月28日閲覧。
  21. ↑ “Samantha Walton, The Living World: Nan Shepherd and Environmental Thought”. Northern Scotland (Edinburgh University Press) 2026年7月28日閲覧。.
  22. ↑ “Samantha Walton, The Living World: Nan Shepherd and Environmental Thought”. Northern Scotland (Edinburgh University Press) 2026年7月28日閲覧。.
  23. ↑ “Jenny Sturgeon, Nan Shepherd and The Living Mountain”. Elsewhere: A Journal of Place (2020年10月25日). 2026年7月28日閲覧。
  24. ↑ “Following Nan: A Cairngorms Mountaineering Journey”. Alpkit Foundation (2024年11月11日). 2026年7月28日閲覧。
  25. ↑ “Nan Shepherd: Naked and Unashamed (2024)”. Pitlochry Festival Theatre. 2026年7月28日閲覧。
  26. ↑ “Nan Shepherd: Naked and Unashamed”. Pitlochry Festival Theatre. 2026年7月28日閲覧。
  27. ↑ “Following Nan: A Cairngorms Mountaineering Journey”. Alpkit Foundation (2024年11月11日). 2026年7月28日閲覧。
  28. ↑ “Following Nan – A project to encourage others to experience the mountains 'Nan Style'”. The Following Nan Project. 2026年7月28日閲覧。
  29. ↑ “いきている山”. みすず書房. 2026年7月28日閲覧。
  30. ↑ “いきている山/著者 ナン・シェパード 訳者 芦部美和子 訳者 佐藤泰人”. らくだ舎. 2026年7月28日閲覧。

外部リンク