カーチス・ルメイ

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カーチス・ルメイ
Curtis LeMay
生誕 (1906-11-15) 1906年11月15日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州コロンバス
死没 (1990-10-01) 1990年10月1日(83歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州マーチ空軍基地
所属組織 アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍
アメリカ合衆国空軍の旗 アメリカ空軍
軍歴 1929年10月 - 1965年2月
最終階級 空軍大将
出身校 オハイオ州立大学中退
除隊後 副大統領候補
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カーチス・エマーソン・ルメイ(英語: Curtis Emerson LeMay、カーチス・ルメイ[1]またはカーチス・E・ルメイ[2]、1906年11月15日 - 1990年10月1日)は、アメリカ合衆国の空軍軍人。最終階級は空軍大将。

経歴

1906年11月15日にオハイオ州コロンバスにて、放浪者の父と教師の母の間に6人兄弟の長男として誕生した。父親の先祖はフランス人である。リンドバーグにあこがれて大空を目指すことになった。オハイオ州立大学在学中に陸軍の予備役将校訓練課程(ROTC)に1927年入隊、修了すると、その後は大学を中退して国境警備隊に入る。

ルメイがアメリカ軍に入隊した時にはアメリカ空軍は独立した形では存在せず、航空部隊は陸軍の下部組織であったためルメイについては陸軍軍人と記載された文献もある。

1929年10月12日に陸軍航空軍予備役で少尉を拝命し、1930年2月1日に正規任官された。ミシガン州セルフリッジフィールドの第27戦闘飛行隊に着任。

1934年6月、ヘレン・メイトランドと結婚し、1人の子女が誕生した。

1935年3月12日に中尉となり、1937年8月に爆撃機に転科するまでは戦闘機パイロットとして任務に就いた。1938年3月に南アメリカへ向かうB-17型機初の編隊飛行に参加した[3]。1940年1月26日に大尉、1941年3月21日に少佐に昇進する。

第二次世界大戦

ヨーロッパ戦

1941年12月の真珠湾攻撃の後にアメリカが第二次世界大戦へ参戦すると、1942年1月23日に中佐になり、ルメイは南大西洋・アフリカ・北大西洋・イギリスへの空路を開いた。6月17日に大佐に昇進する。10月に第305爆撃隊を組織・訓練し、ヨーロッパで戦闘する部隊を指導した。優れた操縦技術を持つ敵に対抗するため、ヨーロッパの作戦でB-17の爆撃隊によるフォーメーションや爆撃技術を改良する。3機で三角形の編隊を組み、それを左右後ろ、最後尾と高さや位置をずらしながら4つ組み合わせ、コンバットボックスを作り、そのユニットを同様に高さや位置を変えて組み合わせ、48機で編隊を組み、死角を減らし、一斉攻撃も可能にする密集編隊だった[4]。これらの基本的な手順や技術は後に太平洋で活躍するB-29にも適用された[3]。1942年9月から1943年5月までイギリスにおいて第8爆撃軍団傘下で陸軍航空軍大佐として同隊の指揮を執り、のちに第4爆撃航空団を率い、1943年9月に同航空団が第3航空師団に再編成されたときにはドイツのレーゲンスブルク爆撃の功績により9月28日に准将に昇進し、その最初の司令となって1944年3月3日には少将に昇進した。

ドイツ本土への爆撃に赴く搭乗員に対し、「君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供の上に崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ3歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいのなら、そんなものは忘れることだ」と言い聞かせたこともある[5]。

対日戦

空襲を受ける東京市街(1945年5月25日)

1944年にルメイはポール・ティベッツたちからB-29の操縦法を学んだ課程の終わりに「この飛行機で戦争に勝てるぞ」と予言している[6]。

1944年8月20日にイギリス領インド帝国のカラグプル(英語版)に司令部を置く第20爆撃集団司令官に赴任し、同じ連合国のイギリスや中華民国と共同で行う対日作戦として、中華民国の成都に設けられた基地からの八幡製鉄所爆撃に携わった。ルメイは中国北部を実効支配していた毛沢東と交渉し、物資と引き換えに中国北部に気象観測所を設置させて定期的に情報提供させた。この情報は中国からの爆撃で役に立ち、ルメイは後にマリアナに移ってからも毛沢東から情報を得ていた[7]。蔣介石の実効支配する中国南部と同じようなB-29の飛行場の建設も毛沢東はルメイに提案していた[8]。

ルメイは精密爆撃の技術改良に力を入れ、飛行機工場を目標にした昼間精密爆撃で成果を上げていった。1944年10月25日には、大村第21海軍航空廠を目視で爆撃させ、その大半を破壊した。第21爆撃集団司令ヘイウッド・ハンセルがよくて14パーセントの精度だったのに対し、ルメイは41パーセントを目標300メートル以内の高精度で投下している。またルメイはハンセルと違い兵站上の難問にも対処しなければならなかったが、空襲成果を上回って全く言い訳をせず、延期も無く問題を解決していった[9][10]。

アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた[10]。12月9日、ルメイに対して「B-29ならどんな飛行機も成し遂げられなかったすばらしい爆撃を遂行できると思っていたがあなたこそそれを実証できる人間だ」と手紙を送った。アーノルドは中国からの爆撃をやめさせてルメイをマリアナに合流させると、翌1945年1月20日にルメイを第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に任命した。

3月10日には東京大空襲を指揮。ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500メートルから9500メートルの昼間爆撃を行っていたが、高度1500メートルから3000メートルに変更した。理由はまず、ジェット気流により機体が進まなかったり正確に狙っても爆弾が流されたりする影響を避けることにより、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積載できる爆撃の命中精度が上げられるなどの効果が期待できる。また、低空であれば雲の影響をあまり受けずに地上を視認できるため、作戦計画への天候の影響の減衰・命中精度の上昇・目標地区への着弾密度の上昇が期待できる。しかし低空では敵の迎撃機・対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃・弾薬・機銃手をB-29から取り除き一機当たり爆弾を200キロ増やせるようにした。また飛行法を低空単直列にし先頭の投下誘導機の着弾火炎から後続機が目標地点を把握しやすいようにした。ルメイの変更に乗員は恐怖したが、結果的にB-29の損害は軽微であった[11]。誘導機を務めたトム・パワー参謀長は「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし」と実況報告した。3時間で、日本は死者行方不明含め10万人以上、被災者100万人以上、約6平方マイル内で25万戸の家屋が焼失した。一方、ルメイの部隊は325機中14機を損失した[12]。

ルメイが東京の空襲に成功すると、3月10日にアーノルドは「おめでとう。この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した」とメッセージを送る[13]。またルメイに「空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と賛辞を送った[14]。戦後のルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女・子供を殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは(中略)ふざけるな」と語った[15]。

焦土作戦は東京・大阪・名古屋などの大都市を焼き払った後は、富山市・郡山市などの地方の中小都市も対象となった[注 1]。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」「皆殺しのルメイ」と渾名された[注 3]。

1945年5月に原爆投下部隊である第509混成部隊が準備を終えて、ルメイの部隊に移動してきた。ルメイは投下部隊の要望を最優先事項として便宜を図るように命令されていた。当時のルメイは空襲に絶対的な自信を持っていたため、日本への原子爆弾投下が必要とは考えていなかった。指揮官のポール・ティベッツ大佐が立案した原爆投下命令書草案をもとに、8月2日にティベッツらはルメイ司令部で細目の決定を行った。ルメイは「京都は大した軍事的目標ではない。神社みたいなものがいっぱいあるだけだ。それに普通の市民を爆撃してみたって何の役にも立ちはしない。(中略)引き合わんよ」と京都市への投下には反対した。一方で多くの軍隊と軍需工場がある広島市には賛成した[18]。その後ルメイはティベッツが作成した草案をほぼそのまま命令書第13号としてティベッツに渡した[19]。『タイムズ』誌1945年8月13日号の表紙を似顔絵が飾り、賞賛の記事であふれる。

1945年8月15日に終戦となり、9月20日に記者会見でルメイは「戦争はソ連の参戦が無くても、原爆が無くても2週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は戦争終結とは何ら関係ありません。」と答えている。しかし晩年の1988年には著書で「原爆を使用せずに戦争を終わらせることができたとしても、私は原爆投下は賢明な決定だったと思います。何故なら原爆投下が降伏交渉を早めたのです。」と語り、原爆投下は上陸作戦前に日本を降伏させ、百万のアメリカ兵の命を救った(=ダウンフォール作戦を決行せずに済んだ)というアメリカ政府の公式説明を支持している[20]。終戦後、ルメイは北海道からシカゴまでノンストップ記録でB-29を操縦して帰国した[3]。戦争が終わったため1946年6月22日に准将に降格している。終戦後に日本の破壊された現状を見て、むしろ力によって平和を保てると信じるようになったと回想している[21]。

大戦後

終戦後は航空資材軍団司令本部に着任し、国防総省で初代の研究開発航空副参謀長を務める[3]。爆撃機開発の責任者としてヴァルキリー計画を指揮し、当時の主力機であるボーイングB-52爆撃機や、世界初の超音速爆撃機であるコンベアB-58爆撃機の後継機となる超音速爆撃機の開発を指揮する。

1947年9月18日、陸軍航空軍は正式に独立し、アメリカ空軍が設立された。10月、ドイツのヴィースバーデンにあるアメリカ軍航空ヨーロッパ本部(現在の在ヨーロッパアメリカ空軍)の指揮官に任命。ベルリン封鎖に対抗する空中架橋作戦に従事し、1948年1月26日、中将に昇進。この後、帰国して2月19日に空軍に籍を変えて少将に任じられると、新設される戦略空軍を想定し、ネブラスカ州オファット空軍基地本部を設立する[3]。

1948年10月から1957年6月まで戦略航空軍団司令を務めた。1950年6月に開始した朝鮮戦争においてアメリカ空軍は大きな役割を果たした。ルメイはソ連・中国に対する核攻撃計画も作り上げていた。しかし、大統領トルーマンは核使用を認めず、焼夷弾による無差別爆撃が主体となった。戦後、ルメイは「我々は朝鮮の北でも南でも全ての都市を炎上させた。我々は100万以上の民間人を殺し数百万人以上を家から追い払った」と語った[22]。1951年10月29日、大将に昇進。1955年、ルメイの顔見知りの元陸軍パイロトで当時人気のハリウッド俳優ジェームズ・スチュワートが企画主演した『戦略空軍命令』がヒット、戦略空軍も後押しした冷戦下の戦略空軍の活動を描いた映画で、戦略空軍の知名度が一気にあがる[23]。

1957年7月、空軍副参謀長に任命される。同年11月11日、KC-135による無給油連続飛行世界記録樹立を指揮し、年度優秀パイロットに贈られるハーモン・トロフィーを受賞している。1961年7月、空軍参謀総長となり、1965年2月に空軍を退役するまで務めた。

1960年から本格化したベトナム戦争では空軍参謀総長の任にあり、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進した。この言葉は編集者の創作だったとする説もあるが、世界的にたちまち有名になった[23]。リンドン・B・ジョンソン政権下で1965年2月7日から北爆が開始された。しかし、マクナマラのもとで全都市全面破壊を目指すような全面的攻撃ではなく補給路中心の限定的なものにとどまった。なお、ルメイ自身は、必要以上に攻撃することより必要なだけの攻撃をしないことはもっと不道徳的なことだ、それは戦争を長引かせ多くの兵士の犠牲を増やすと語る人物であった[23]。

1962年10月、キューバ危機が勃発。ルメイら空軍首脳部は圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると確信し、キューバ空爆をケネディ大統領に提案したが却下された。かつての部下で今や上司となった国務長官マクナマラはキューバ攻撃に反対する立場をとっている。ソ連はキューバ危機の時点で既にキューバに核ミサイル数十基を配備済みであり、この提案は第三次世界大戦を招きかねないものであった。米ソの協議が成立したが、ルメイは和平に反対し、今からでも攻撃しようと訴え続けた[23]。このことからケネディは「撃って出るときにはルメイに指揮を任せたい、だが撃って出るべきか否かの判断はルメイにだけはさせたくない」と述べている。

1964年、全米航空協会よりコリアー・トロフィーを受賞。

同年12月7日、日本の勲一等旭日大綬章が授与される[24]。(詳細は後述)

1965年2月、退役。1968年にベトナム戦争の推進と人種差別的政策を掲げた大統領候補で、アラバマ州のジョージ・ウォレス前州知事と共に独立党の副大統領候補として出馬するが落選した。ウォレスは保守強硬派として知られ、かつてルメイのもとで日本空爆にも参加していた。

1970年12月14日、テニアン島の福祉・生活向上への優れた功績でテニアン島民から表彰状を受賞した[25]。イギリスのチャーチル首相から授与された空軍十字章 (イギリス)(英語版)が自慢だった[26]。

1990年10月1日にカリフォルニア州マーチ空軍基地にて、心臓病のため、83歳で死去した。

2019年11月アメリカ空軍の戦略部司令部がカーチス・ルメイ ビルディングという名の新ビルを竣工させ、そこで執務がとられることになった[4]。

評価

人物

第二次世界大戦中は第20空軍隷下の第21爆撃集団司令官に赴任し、東京大空襲を指揮。1961年6月から1965年2月まで第5代空軍参謀総長を務め、在任中はキューバ危機の間にキューバのミサイルサイトの爆撃を呼びかけ、ベトナム戦争の間に持続的な北ベトナム爆撃キャンペーン(いわゆる北爆)を求めた。「鉄の尻」「悪魔」「皆殺しのルメイ」といったあだ名がある[4]。また、「鉄のロバ」(頑固者)と呼ばれ、訓練が実戦で生死を分けると信じており、作戦と作戦の間に部下を徹底的にしごき、寡黙で鬼のように厳しかったが、部下からは絶大な信頼を寄せられていた。[要出典]

戦後、ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについて大して悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた[27]。また自著で「焼夷弾空襲での民間人の死傷者を思うと、私は幸せな気分にはなれなかったが、とりわけ心配していた訳でも無かった。私の決心を何ら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人―民間人と軍人の両方―を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」と述べている[28]。

日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し、現場で効果的な戦術を考案し実行した責任がある。しかし爆撃はアーノルドに命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃の枠組みは統合参謀本部の決定・焼夷弾攻撃の準備・東京や名古屋でのハンセルによる無差別爆撃の試行など、ルメイの就任前から進められていた[29][30]。短期間で敵の効果的な箇所に出来るだけ徹底的な破壊を行い、敵の戦意を奪うことによって戦争を終結させ、将来の犠牲を少なくするという戦略思想があったという意見もある[4]。

戦後、ヘイウッド・ハンセル准将は、ルメイとの第20空軍第21爆撃集団司令官交代の辞令は精密爆撃から無差別爆撃への政策転換の結果と語っている。しかし、実際はハンセルのころから無差別爆撃の準備は進められており、実験的に実行もしており、無差別爆撃の方針についてルメイは基本的にハンセルの戦術を踏襲している[31]。一方、1945年1月3日アーノルドの参謀総長で民家焼夷攻撃論者のローリス・ノースタッド(英語版)少将の名古屋空襲で焼夷弾による無差別攻撃を命じたにも拘らず、ハンセルは従来の工場攻撃に重点を置き、焼夷弾爆撃は一部の機体に試行的に実施させたに過ぎなかったことが、ルメイへの交替を決心させる契機となったという意見もある。ルメイも当初は工場爆撃を主とする考え方に与する立場であったが、ノースタッドの命令を忠実に実行する意思は持っていた[17]

統計学などを駆使して効率的な爆撃作戦の研究をしたハーバード大学のロバート・マクナマラ助教授は、第二次世界大戦時の爆撃任務における高い任務中止率に関する報告書に「指揮官の一人にカーティス・ルメイというB-24部隊を指揮する大佐がいた。彼は私が戦中に出会った者の中で最も優れた戦闘指揮官だった。しかしルメイは異常に好戦的で、多くの人が残忍だとさえ思った。ルメイは爆撃機の空爆任務の中断率に関する調査で、高い中止率の原因は隊員が撃墜を恐れてこじつけの理由で任務放棄しているに過ぎないと結論づけたマクナマラの報告書を受けた後、命令を出した。『これから全ての任務において自分が先陣の爆撃機に搭乗する。今後は出撃した全ての爆撃機が攻撃目標まで到達する。これを成し遂げないものは全員軍法会議にかけ処分する』。任務中止率は瞬く間に低下した。彼はそういう類の指揮官だった。」と記している[32]。

日本での叙勲

1964年12月4日、第1次佐藤内閣は、閣議決定で、ルメイに対し勲一等旭日大綬章授与を決めた[33][34]。7日朝、入間基地(旧ジョンソン基地)で行われた航空自衛隊創立10周年式典に招待し、浦茂航空幕僚長から授与された[24]。ルメイは7日に防衛庁で防衛長官小泉純也を訪問予定であったが[34]、当日は三輪良雄事務次官が代理で面会している[24]。この叙勲に関して、当時の公的発表・文書と異なる様々な主張が後に現れているため、一次資料が明らかな公的な事実と一次資料が不明な出典の主張を分けて記載する。

一次資料が明らかな事実は次の通り。

叙勲理由は、総理大臣佐藤栄作は「ルメー空軍大将が戦後におきまして、わが国の自衛隊の建設につきまして非常な功労があった、こういうことであります。」と説明している[35]。また、賞勲局からは「戦後におけるわが国の航空自衛隊の発達にお尽くしになった。そういう方に対しまして、儀礼的に相互に勲章を交換し合うという国際慣例に基づきまして、叙勲せられたものでございます。なお、勲一等旭日章というのは、大将という軍隊の階級と申しますか、たとえば特命全権大使は勲一等旭日章、特命全権公使は勲一等瑞宝章というような慣例に基づきまして叙勲せられたものでございます。」と説明されている[36]。

東京大空襲や原爆の際の司令官がルメイであったことから叙勲は不適切ではないかという日本社会党議員辻原弘市による質問に対し、佐藤は「戦時中の問題につきましてはいろいろ議論があると思います。ただいま日米両国は友好関係を続けております。戦争時代の敵国であったアメリカと友好関係を続けております。その方が戦後におきましてわが国の自衛隊の建設につきまして非常に功績があったといえば、過去は過去、もうすでにそのことを忘れて、新しい事態について私どもがその功をねぎらうというか、報いるというか、これは当然のことだと思います。私は、大国の国民というものはいつまでもそういう事柄にとらわれないで、真に今後のあり方、またその後のわが国に対する功績、それを十分考えて処置する、これはあたりまえのことだ、かように思っております。」と答えた。また、防衛長官小泉純也は「ルメー大将に対する勲章授与の問題につきましては、先ほど総理大臣からお答えがあったとおりでございまするが、私どもの考え方におきましては、ルメー大将の戦後のわが航空自衛隊に対する顕著な数々の貢献に対する勲章の授与でありまして、これは戦時中の問題とは別個に考えるべきものであるという観点に立っておるのであります。なおまた、先ほど辻原委員がお述べになりました中に、日本に対する原爆投下の直接の責任者がルメー大将であったというおことばがございましたが、この点について私どもの調査を参考まで申し上げますると、当時日本に原爆投下を行なったのは、アメリカの第二十航空軍に所属する第三百九十三飛行隊でございました。投下が行なわれたのは、御承知の一九四五年八月でございまするが、ルメー大将は、その前の七月十六日付で他に転任をいたしておるのでございまして、直接部隊の責任者ではその当時なかったのであります。さらにまた、原爆投下はアメリカのトルーマン大統領が直接これを指揮したということが、アメリカの戦史に詳細述べられておるところでございまして、この点も御参考までに申し添えておきます。」と答えた。これに対し辻原は、ルメイが原爆時に司令官だったことや報道に原爆被災者から批判の投書が来てることから、佐藤に再検討を促したが、佐藤は「私は、先ほどの防衛庁長官のお話でおわかりのような事情もございましょうし、またそういうことを資料にいたしまして決定いたしたのでありまして、私はこれを変える考えはございません。」と答えた[37]。

1964年12月7日の朝日新聞夕刊では、ルメイが原爆投下と関係があったため、日本社会党、原水爆禁止団体、被爆者から国民感情として納得できないという反対の声があったと報じられている[24]。 1978年3月9日に初回放送された『NHK特集 東京大空襲』でのNHKの取材で、戦争責任についての問いにルメイは何も言うことはない、もう忘れたいと語り、その勲章を見せた。

一次資料が不明な主張は次の通り。アメリカの無差別殺戮に謝罪も賠償も要求しないことを形にしろとジョンソン大統領が要求したとする主張[38][要文献特定詳細情報]。橋本登美三郎官房長官が小泉防衛長官と叙勲決定を主導したとする主張[39]。 池田勇人元首相が授与したとする主張[40]。防衛長官の小泉と元航空幕僚長の源田実参議院議員が推薦したとする主張[41]。しかし、外国人叙勲の推薦は、外務以外はその都度、外務省大臣(当時椎名悦三郎)と省庁の大臣(当時防衛庁長官小泉純也)の連名で行われており[42]、ルメイ叙勲は佐藤栄作内閣の閣議決定で行われ、池田や源田は参加していない[43]。 勲一等の叙勲は天皇による親授が通例と主張し、さらに、ルメイの叙勲は航空自衛隊幕僚長浦茂から授与され、授与場所も皇居でなく自衛隊入間基地であったことから、天皇にとって授与は不本意だったとする主張がある[44]。しかし、天皇からの親授式があるのは毎年4月29日と11月3日に行われる春秋叙勲であり[45]、ルメイは春秋叙勲とは別日の12月7日である[24]。春秋叙勲以外での外国人への旭日大綬章授与には他に次のような例があり、いずれも授与は宮中ではなく、天皇の親授でもない。2016年6月30日に駐日韓国大使柳興洙が東京の外務省庁舎で岸田文雄外相から授与される[46]。2024年4月22日にアメリカ合衆国インド太平洋軍司令官ジョン・アクイリノが東京の防衛省において木原稔防衛大臣から授与される[47]。

伝記

題材にした作品

脚注

注釈

  1. ↑ 富山市空襲については中山伊佐男著『ルメイ・最後の空襲』桂書房に詳しい。青木慶一も同市が民家焼失率で全国一(99パーセント)となったことを指摘している。
  2. ↑ 服部卓四郎は著書『大東亜戦争全史』第10章で「アメリカ空軍が鉄道に対する本格的攻撃を延引したことは、日本のために真に僥倖であった。巨大な本土決戦兵力と、軍需品の展開が出来たのも、戦時産業活動で国民生活を辛うじて支え得たのも、実にそのためであった。戦後になってからアメリカ爆撃調査団は、空軍のこの戦略的過失を鋭く指摘している」と述べている。
  3. ↑ この点は南北戦争時の海への進軍とその後の北上進撃でアメリカ連合国の盟主だったジョージア州やサウスカロライナ州を壊滅させ、南部人を震え上がらせた、同じオハイオ州出身で北軍のウィリアム・シャーマンの戦争の考え方を踏襲している[16][要文献特定詳細情報]。ただし、陸上の物流の主役であった国鉄を始めとする鉄道網に対してはルメイの他陸軍航空隊が明確に主目標に据えたことはほとんどなく、組織的な鉄道網攻撃として実施したのは1945年8月15日の岩国機関区に対する爆撃が唯一であった[注 2]。また、第21爆撃集団は当時日本国内で数地区に集中していた炭田への集中爆撃も実施しなかった[17]。

出典

  1. ↑ 木下昌明. “ドイツ映画『ドレスデン、運命の日』「大空襲」―62年が経過して 日本で「訴訟」ドイツで「映画」”. 木下昌明の映画の部屋・第22回. レイバーネット公式ホームページ. 2021年8月3日閲覧。
  2. ↑ 「「超」空の要塞 B29爆撃機 写真特集」『時事ドットコム』時事通信社。2024年6月10日閲覧。
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  6. ↑ ドキュメント原爆投下 1980, p. 119
  7. ↑ ドキュメント原爆投下 1980, p. 124
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  10. 1 2 ドキュメント東京大空襲 2012, p. 136
  11. ↑ 荒井 2008, pp. 136–137
  12. ↑ ドキュメント原爆投下 1980, pp. 151–152
  13. ↑ ドキュメント東京大空襲 2012, p. 142
  14. ↑ 荒井 2008, p. 136
  15. ↑ 荒井 2008, p. 139
  16. ↑ ロナルド・シェイファー著、深田民生翻訳「アメリカの日本空襲にモラルはあったか―戦略爆撃の道義的問題」草思社
  17. 1 2 青木慶一「国鉄運賃問題の一考察」『政策月報』、自由民主党、1966年4月、doi:10.11501/1385433、ISSN 0582-4400。(服部卓四郎『大東亜戦争全史』第10章を参照している)
  18. ↑ ドキュメント原爆投下 1980, pp. 368–369
  19. ↑ ドキュメント原爆投下 1980, p. 375
  20. ↑ 鈴木敏明『原爆正当化のアメリカと「従軍慰安婦」謝罪の日本』展転社、2006年、17頁。ISBN 4-88656-291-4。
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  22. ↑ 荒井 2008, p. 190
  23. 1 2 3 4 “映像の世紀バタフライエフェクト 将軍ルメイ “悪魔”と呼ばれた男”. NHK. 2026年6月8日閲覧。
  24. 1 2 3 4 5 朝日新聞夕刊昭和39年12月7日
  25. ↑ ドキュメント原爆投下 1980, p. 465
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  27. ↑ 鬼塚英昭『原爆の秘密』 国内篇(昭和天皇は知っていた)、成甲書房、2008年、117頁。ISBN 978-4-88086-233-0。
  28. ↑ カーチス・E.ルメイ、ビル・イェーン『超・空の要塞 B-29』朝日ソノラマ〈新戦史シリーズ 37〉、1991年、[要ページ番号]頁。ISBN 4-257-17237-1。
  29. ↑ 荒井 2008, pp. 136, 139
  30. ↑ ドキュメント東京大空襲 2012, pp. 62–63
  31. ↑ 荒井 2008, pp. 128–129
  32. ↑ ドキュメンタリーを撮ったエロール・モリス(英語版)監督による引用。The Fog of War: Eleven Lessons from the Life of Robert S. McNamara, Documentary Film, 2003「One of the commanders was Curtis LeMay-Colonel in command of a B-24 group. He was the finest combat commander of any service I came across in war. But he was extraordinarily belligerent, many thought brutal. He got the report. He issued an order. He said, 'I will be in the lead plane on every mission. Any plane that takes off will go over the target, or the crew will be court-martialed.' The abort rate dropped overnight. Now that's the kind of commander he was.」
  33. ↑ 国立公文書館「(外国人叙勲)アメリカ合衆国空軍大将カーチス・イー・ルメイへ勲一等に叙し旭日大綬章を贈与するについて」請求番号分館-01-039-00・平3総00673100件名番号007、作成部局賞勲局年月日昭和39年12月04日
  34. 1 2 朝日新聞夕刊昭和39年12月4日
  35. ↑ 昭和39年12月07日47回 衆議院 予算委員会 8号
  36. ↑ 「昭和39年12月15日47回衆議院 外務委員会 1号 総理府事務官賞勲局長岩倉規夫政府委員の答弁」
  37. ↑ 昭和39年12月07日47回 衆議院 予算委員会 8号
  38. ↑ 高山正之『変見自在 マッカーサーは慰安婦がお好き』
  39. ↑ 『軍縮問題資料』308号2006年7月43頁
  40. ↑ 斎藤貴男、森達也『日本人と戦争責任』高文研197頁
  41. ↑ 渡辺良明『J.F.ケネディvs.二つの操り人形』熊本出版文化会館125頁
  42. ↑ 総理府賞勲局監修『栄典事務手続き 第4次改定版』96-97頁
  43. ↑ 国立公文書館「(外国人叙勲)アメリカ合衆国空軍大将カーチス・イー・ルメイへ勲一等に叙し旭日大綬章を贈与するについて」請求番号分館-01-039-00・平3総00673100件名番号007、作成部局賞勲局年月日昭和39年12月04日
  44. ↑ “茶飲み話[11]”. 日本退職者連合. 2026年6月8日閲覧。
  45. ↑ “内閣府 勲章・褒章制度の概要”. 内閣府. 2026年8月30日閲覧。
  46. ↑ “駐日韓国大使が離任式 「両国関係発展のための種まいた」”. 聯合ニュース. 2026年9月1日閲覧。
  47. ↑ “在ホノルル日本国総領事館便り第1号”. 在ホノルル日本国総領事館. 2026年9月1日閲覧。

参考文献

軍職
先代
トーマス・D・ホワイト
アメリカ空軍参謀総長
第5代:1961年7月1日 - 1965年6月30日
次代
ジョン・P・マコーネル(英語版)