コルグズ

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コルグズ
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モンゴル帝国の第3代イラン総督
任期
1236年 – 1242年
君主オゴデイ
大書記官シャラフッディーン・ホラズミー
アシル・ウッディーン・ルガード[1]
前任者ノサル
後任者アルグン・アカ
財務大臣バハーウッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニー
個人情報
生誕天山ウイグル王国バルリグ
死没1242年[注釈 1]
チャガタイ・ウルス
子供クトルク・ブカ[2]
ヤイラク・ブカ[2]
宗教仏教[注釈 2]→イスラム教[3]

コルグズ(モンゴル語:Qorγuz、Körgüz、中国語:闊里吉思、生没年:? - 1242年[注釈 1])とは、モンゴル帝国に仕えたウイグル人文官の一人。イラン方面におけるモンゴル帝国の統治機関(モンゴル史家によってイラン総督府と呼称される)の第3代長官となった。クルグズ、クルクズとも表記される。『世界征服者の歴史』などのペルシア語での表記はクールグーズ(کورگوز Kūrgūz)である。

生涯

生い立ち

コルグズは天山山脈東端のビシュバリクから4ファルサング離れたバルリグという小村に生まれた[7][8]。幼くして父を亡くすが[7][9]、唯一の家族である義母は困窮した彼に無関心だった[9]。やがて義母は見知らぬ男と再婚[9]。コルグズはイディクートの元を訪れてレビラト婚の権利を確認しており、権利の放棄と引き換えに義母の再婚相手からわずかな財産を受け取った[9]。その後はウイグル文字の修学に励み、間もなく熟達[7][9]。父方の従兄弟を担保に借金をして馬を買い[10]、チンギス・カンの長男であるジョチのオルドを訪ね、彼の家臣に仕えて牧夫となった[7][11]。ある日、ジョチが巻狩を行っている時にカアンからウイグル文の勅令が届いたが、近くには誰も読めるものがいなかった[7][11]。そこでコルグズが進み出て勅令を読み上げたので、この一件でコルグズの能力を知ったジョチはコルグズを書記官として取り立て[7][11]、やがてモンゴル人の子弟の教育も命じた[12][11]。

イラン総督府の書記官

同じくジョチ家家臣であるチン・テムルがホラズム・シャー朝の旧首都ウルゲンチに軍政官(バスカク)として派遣された際に[13]、コルグズは同行を命じられた[12]。1230年頃、ホラズム・シャー朝の勢力回復運動の鎮圧のためにチン・テムルがホラズム州(現在のウズベキスタン西部・トルクメニスタン北部)ウルゲンチからホラーサーン州(現在のイラン東部・トルクメニスタン南部・アフガニスタン北西部)へ進駐した[13][注釈 3]際にも書記官(ビチクチ)として随行[14]。チン・テムル主導の下でホラーサーン州とマーザンダラーン州(現在のイラン北中部)の統治機関(イラン総督府)がホラーサーン州に組織され[16]、1233年にオゴデイより正式に認められたことで、イランはモンゴルの中央政府の直轄下に入り、軍事占領から民政へと移行した[17]。

イラン総督となったチン・テムルはコルグズとホラーサーン官僚のバハーウッディーン・ムハンマド・ジュヴァイニー(ジュヴァイニー家当主で、『世界征服者の歴史』の著者アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの父)を1235年のオゴデイの第2回クリルタイの開催にあわせてカラコルムに派遣。行政上の治績を報告したコルグズはその雄弁さによってオゴデイを喜ばせ、恩賜(ソユルガル)を得た。コルグズはこの直前にオゴデイ家のウイグル人大書記官(ウルグ・ビチクチ)チンカイの後援を取り付けていた。またオゴデイのホラーサーン官僚優遇の一環として、バハーウッディーンは牌子と朱印勅書を授けられ、財務長官(サーヒブ・ディーワーン)の職に改めて任じられた。[18]

発足当初のイラン総督府にはホラズム官僚とホラーサーン官僚の二派が存在し、両者は権益をめぐって対立関係にあった。ホラズム官僚とはチン・テムルとともにホラズム州からホラーサーン州へと進駐した官僚である。彼らはホラズム州でホラズム・シャー朝より降付した行政官と、モンゴル帝国諸王家から派遣された書記官[注釈 4]などの官僚から構成される。諸王家は共有財産とされた占領地に対して各々の代表者となる官僚を送り込み、権益の拡大を図った。中でも領地が最西端に位置するジョチ家はホラズム州を実質的な所領とするにとどまらず、ホラーサーン州にも強い影響力を有していた。もう一方のホラーサーン官僚とは総督府の置かれたホラーサーン州でホラズム・シャー朝より降付した行政官を指す。彼らは地元イラン人の権益の代表者であった。前述のバハーウッディーンはホラーサーン官僚の典型であり、セルジューク、ホラズム・シャー両王朝で代々財務長官を勤めたホラーサーン州ジュヴァイン地方の名家に生まれ、モンゴル軍に捕らえられたが処刑されずにイラン統治機関で枢要なポストを担うように命じられた。[20][21]

イラン総督

コルグズがイランに帰還するとチン・テムルは既に亡くなっており、イラン総督の地位は将軍のノサルが継いだが、百歳を超えると伝えられる程の高齢であったノサルに事務処理能力はなく、実権はコルグズに移っていった[12]。ノサルが総督に就任した頃、スルークの城主マリク・バハーウッディーンが訴訟のためにカラコルムのオゴデイの下を訪れていたが、イランに戻るにあたってコルグズのカラコルム召喚命令を携えてきた[22]。ノサルとクル・ボラトはカラコルム召喚によってコルグズと中央政府が接近して自分たちの不利益となることを懸念したものの、最終的には同意し、コルグズはマリク・バハーウッディーンらホラーサーンの有力者たちとともにカラコルムのオゴデイの下を訪れた[22]。

カラコルムでは財務官僚のダーニシュマンド・ハージブがチン・テムルの子のエドグ・テムルを次期イラン総督の座に据えんと画策していたが、一方でコルグズに好意的なチンカイが「ホラーサーンの有力者たちはコルグズを望んでいる」とオゴデイに助言していた[22]。そこでオゴデイは再びコルグズをイランに派遣して人口調査を行わせ、その仕事ぶりを見極めた上で処遇を決める、と命令した[22]。この勅令を受けたコルグズは急ぎイランに帰国するとオゴデイの仮の任命書を盾にノサル、クル・ボラトから実権を奪ってイラン経営に取り組んだ[22]。この頃のコルグズの業績は 『世界征服者の歴史』に「民の間に正義と公正を広げた……諸都市復興の希望が顕わとなった」と記されている[22]。コルグズはウイグル人であり経歴としてはホラズム官僚にあたるが、ホラーサーン復興に尽力したため、ホラーサーン官僚やホラーサーンの有力者から厚い支持を受けた[23]。

一方、チン・テムルの死亡とコルグズの抜擢で不遇を託っていた官僚・軍人たちがエドグ・テムルの下に集まり、オゴデイの下にトングズを派遣してコルグズを告発させた[22]。ホラズム官僚の典型でありイラン総督府の大書記官[注釈 5]であるシャラフッディーン・ホラズミーがコルグズの友人を装いながらも陰でエドグ・テムルらを唆していた[26][27]。また、チンカイの敵対派閥もこの動きに協力したため、アルグン・アカ(後の第4代イラン総督)、クルバカ、シャムス・ウッディーンの3名がホラーサーン州の実態調査のために派遣されることになった[28]。この反対運動を知ったコルグズはバハーウッディーンを自らの代理として残して急ぎカラコルムを目指したが、道中でアルグンらと合流し、テムルチという使者を派遣して自らはイランに帰還した[29]。この間、エドグ・テムル一派が官舎からコルグズ派の官僚を追い出し、さらにコルグズ派がそれを再奪還するなど混乱が続いたが、最終的にはカラコルムから戻ったテムルチが「関係者はカラコルムに出頭して裁定を受けよ」というオゴデイからの勅令をもたらした[29]。カラコルムで行われた裁判でも容易に決着はつかなかったが[29]、アルグンはコルグズを支持し[30]、最終的にはオゴデイの命令によってコルグズの勝訴となる[29]。コルグズは改めて第3代総督任命の勅令を得た[29]。敗訴したエドグ・テムル一派とシャラフッディーンは、本来なら誣告罪で死刑となるところだったが、オゴデイの計らいにより棒打ちの刑やコルグズへ引き渡されての首枷の刑に留められた[31]。また、オゴデイはシャラフッディーンの身柄を税務処理のためにコルグズへ引き渡すことに同意したが、コルグズに彼らを私刑にかけぬよう警告した[31]。

カラコルムでの裁判を終えたコルグズは途中ホラズム州を経由してバトゥの弟であるタングトを訪ねてから帰途につき[29]、コルグズの軍政官兼共同統治者に任命されたアルグンが同行した[32]。1239年11月-12月(ヒジュラ暦637年第1ジュマーダ月)にイランに到着し、バハーウッディーンらの歓迎を受けた[29]。同時期にノサルは病死し[29]、クル・ボラトも偶然暗殺教団のフィダーイーの手にかかっていたため、もはやコルグズを遮る者はなく[33][34]、コルグズはイラン総督府の拠点をトゥースに移してイラン経営を再開した[29]。また、この時オゴデイよりコルグズに与えられた勅令には「アム河(以西)、チョルマグンの軍が征服した全土を授ける」とあり[29]、従来のホラーサーン州、マーザンダラーン州に加えてイラン西部からアナトリア半島東部に至る広大な地域がイラン総督府の管轄下に入った[30]。そこでコルグズは自分の息子と財務庁(ディーワーン)の秘書官たちをイラク(イランのイラーク・アジャミー)、アッラーン、アーザルバーイジャーンに派遣して現地の統治を委ねている[35][36]。コルグズはトゥースの再建に着手し、駅伝(ジャムチ)を整備して使者の問題行為を防止し、軍人の暴虐を厳しく取り締まって莫大な不当所得を返還させた[29][37]。また、初代総督チン・テムル、第2代総督ノサルはともにモンゴル伝統の季節移動を行っていたが、コルグズはトゥースへの移住以降本拠を移さず、後のトゥース繁栄の礎を作ったといえる[38]。しかし独断で政治を取り進めたためにアルグンがモンゴルに帰還してしまった[39]。

失脚

シャラフッディーンがトゥース到着後の取り調べで罪を自白したため、コルグズはその報告の使者をカラコルムへ送り[40][41]、自らもイラン総督府についてオゴデイに報告すべくイランを発った[41]。しかし道中でコルグズはチャガタイ家の高官であるサルタク[注釈 6]と口論になり、サルタクがチャガタイの寡婦に訴えたため、チャガタイ家から告発されるに至った[6][41][注釈 7]。一方、シャラフッディーンの妻によってもコルグズが夫をアーザードヴァールに監禁しているとの告発がなされた[6]。この2件の告発を理由にアルグン、クルバカが再びコルグズ逮捕のために派遣され、これに反発したコルグズはトゥースの要塞に立てこもって抵抗したが、最終的にはノサルの子のトバダイに捕らえられ、アルグンらに引き渡された[6]。コルグズはまずチャガタイ・ウルスに送られて裁判を受けたが、最終判決はカラコルムの中央政府に委ねられた[6]。オゴデイは既に亡く、カラコルムではオゴデイの寡婦のドレゲネが国政を代行しており、コルグズの庇護者だったチンカイはドレゲネの陰謀から逃れるために宮廷を去っていた[6][64]。さらにシャラフッディーンがドレゲネの側近のファーティマ・ハトゥンに取り入って政治工作した結果、コルグズはチャガタイ・ウルスに送り返されて口に石を詰められて処刑され[6]、シャラフッディーンの後任の大書記官であるアシル[64][23]もサマルカンドの獄中で毒殺された[3]。

1243-4年(ヒジュラ暦641年)、アルグンが第4代イラン総督として総督府に着任し、シャラフッディーンが大書記官に復職した[39]。イランの財政上の全権を掌握したシャラフッディーンは、徴税を口実に前例のない苛酷さで思うがままに財産を没収した[65][66][注釈 8]。

コルグズ失脚の背景として、バハーウッディーンらホラーサーン有力者・官僚と結びつき[注釈 9]、彼らの支持を背景にイラン総督の地位を保っていた反面、対抗勢力であるホラズム官僚や、占領地の分け前を要求するモンゴル王族、駐屯地を自らの領地と見なして横暴を働くモンゴル軍人などからは強く敵視されていたことが挙げられる。コルグズのイラン総督としての活動は「ホラーサーン官僚とホラズム官僚の政争」と表裏一体であり、『世界征服者の歴史』もこの点に多くの記述を割いている。現地に多くの敵がいる中で中央政府のオゴデイとチンカイという強力な庇護者を失ってしまえば、必然その立場は危うくなる。加えて、ホラーサーンの有力者の独立心を挫くために彼らの求める勅書と牌子の下付を行わぬようチンカイと決定して[69]彼らの期待に反したこと、下層出身者のアシルを大書記官に抜擢してホラーサーン官僚の顰蹙を買ったこと、などでホラーサーン人からの支持が弱まったことも痛手となった。[70]

イラン総督府歴代総督

  1. チン・テムル
  2. ノサル
  3. コルグズ
  4. アルグン・アカ

コルグズを取り扱った作品

脚注

注釈

  1. 1 2 同時代の史料にコルグズの没年月日を明記したものがないため、通説の1242年は前後の出来事からの推定である。チャガタイの死(通説では1242年の春[4])の後であることは間違いなく、アルグンが第4代イラン総督として総督府に着任した1243-4年(ヒジュラ暦641年)以前である可能性が高く、処刑を決定したカラ・フレグがチャガタイ・ウルスのカンの地位にあった1242-1246年である可能性が高い(これ以前にイラン総督のコルグズの裁判で判決を下したのがモンゴル帝国カアンのオゴデイであるため)。一方、後代に編纂された史書ではあるが『選史』に"Amir Jintimur made governor of Persia until A. H. 633, when he was succeeded by Naw-sal, who died in A. H. 637 and was succeeded by Gurkuz. After 8 years, he was put to death in A. H. 645, and was succeeded by Arghun,"(チン・テムル将軍はヒジュラ暦633年までペルシア総督を務め、ノサルが後を継いだが、ノサルはヒジュラ暦637年に死亡し、コルグズが後を継いだ。8年後、コルグズはヒジュラ歴645年に処刑され、アルグンが後を継いだ)[5](日本語訳は引用者による重訳)と記されているため、1247-8年に処刑されたとする説も存在する[6]。なお、『選史』にはノサルの死亡後にコルグズが総督に就任したとする誤りが含まれている。加えて、コルグズの総督就任から処刑までの8年間を、ノサルが死亡したヒジュラ暦637年でなく、チン・テムルが死亡しコルグズが実権を握ったヒジュラ暦633年に加算すると、コルグズの処刑は通説とほぼ一致するヒジュラ暦641年となる。
  2. ↑ コルグズの生まれ育った村にはキリスト教の教会があり、コルグズという名もキリスト教の聖者聖ゲオルギオスに由来するモンゴル系の男性名(同じ由来の名を持つ人物の記録が複数人残っており、中でもオングト部のコルギスは西洋人のモンテコルヴィノやマルコ・ポーロによってプレスター・ジョンの末裔として西洋社会に報告されたことで知られる)だが、彼自身は晩年まで仏教徒だった[3]。
  3. ↑ 『集史』の「オングト部族史」などの諸部族史によればホラーサーン進駐時はノサルが軍司令官であり、チン・テムルは僚友として、コルグズは書記官として同行したという[14]。ノサルもジョチ家(バトゥ家)の家臣であり、初代から第3代までのイラン総督は全員がジョチ家の家臣出身だった[15]。
  4. ↑ モンゴル帝国初期の書記官は原則としていずれかの王家と主従の関係を結んでおり、中央政府の職務を担う書記官も諸王家より派遣された者たちから構成され、中央政府直属の書記官は存在しなかった[19]。
  5. ↑ シャラフッディーン・ホラズミーの書記官としての派遣元はジョチ家(バトゥ家)である[24][25]。
  6. ↑ 『世界征服者の歴史』によれば、口論の相手はチンギス・カンの血筋に連なることを鼻にかける高官であり、それが彼とコルグズの口論の原因となった[42]という。
  7. ↑ 通説では、オゴデイは1241年12月に死亡してチャガタイはその数ヶ月後に死亡したとされる[43][4]。『世界征服者の歴史』には、オゴデイが1241年12月11日に亡くなり、それから間もなくチャガタイが死亡したと記されている[43]。後代に編纂された『集史』では多くの写本で「チャガタイ・カン紀」にオゴデイの死の7ヶ月前にチャガタイが死亡したと記されており[44]、「オングト部族史」や「オゴデイ・カアン紀」で語られるこの事件もチャガタイの死を侮辱されたという寡婦からの告発を受理したオゴデイがコルグズを捕らえるのみならず処刑するように命じたことになっていて[45]、コルグズは裁判を経ずに殺害される。生前のオゴデイがコルグズの逮捕を命じたとする史料はラシードの著作以外に見つかっていない[46](なお、「グユク・カン紀」の前半には簡潔にだが、オゴデイ・カアン死後の混乱期にドレゲネの陰謀によって失脚させられた高官の事件が列挙される中に、カラ・フレグ、チャガタイの妃たち、エルゲネ・カトゥン(オルガナ)がオゴデイ家家臣のアルグン・アカにコルグズを捕らえさせ処刑させたという通説と一致する記述が残っており、『集史』の他の部分と矛盾している。さらに「グユク・カン紀」の後半には、オゴデイの命令でコルグズが逮捕されたがオゴデイが亡くなったためウルグ・エフ(チャガタイの大オルド)へ送られ、結論が出ずにドレゲネのオルドへ送られたが、チンカイがここから逃亡していたことなどからチャガタイのオルドへ送り返されて処刑された、とする複数箇所と矛盾する文章も存在する)。『集史』編纂はガザン・ハンとオルジェイトゥ・ハンの勅命で行われた国家事業であり、その記述はフレグ家(トルイ家)によるイルハン朝=フレグ・ウルス支配の正当化のために必ずしも史実に基づいていない点が指摘されている[47][48][49]。オゴデイの死の前にチャガタイが死亡したと記す写本群(テヘラン写本やレニングラード写本,PNS46など)は狭義の『集史』の系統に位置付けられるものであり、オルジェイトゥ・ハンへ献呈したものと考えられるテヘラン写本[50]や献呈本を底本とする写本などから成り、イルハン朝のいわば公式の歴史書として整った形式を持つ反面、政治的意図に基づいた改変や削除が多数施されている[51][52]。一方でオゴデイの死から一年以内にチャガタイが死亡したと記す写本群(イスタンブル写本やタシュケント写本など)も存在し、矛盾や筋の通らない箇所が多く様式が未整理で混乱を招く部分もあるが元となる史料や口伝の情報を比較的損なわずに伝えているとされ[51][52][53]、原史料の1つである『世界征服者の歴史』との比較でも原文により近い記述であることが確認できる。こうした系統の異なる写本間での記述の異同の理由については、テヘラン写本(の底本)に加筆修正を行ったのがイスタンブル写本(の底本)とする説、イスタンブル写本(の底本)に検閲と削除を行ったのがテヘラン写本(の底本)とする説、検閲前の草稿をさらに増補したものがイスタンブル写本(の底本)とする説などが存在する[54][55]。ただしイスタンブル写本にもコルグズ処刑への加担を含む派閥争いの記述が原史料から削除もしくは軽減されている部分があり、オゴデイとドレゲネの息子を5人とする『集史』そのものの内容[56]にも続々と異説が提唱されている[57]。ファーティマによるコデンへの呪詛容疑に関しても、『世界征服者の歴史』では誹謗中傷と密告によって他者を処刑させたファーティマがシラによる誹謗中傷と密告のためにグユクに処刑され、シラもアリ・ホージャ・エミルによって、ホージャもまた別の人物によって、と悪意ある言葉や裏切りのもたらす破滅、その連鎖を他山の石として戒める内容[58]である一方、『集史』ではファーティマに関して虚偽の告発をした悪人であるシラが因果応報で処刑されたという程度の内容[59]である。また、イスタンブルのトプカプ宮殿で発見され、『集史』「系図集」の途中経過的な著作物と考えられる『五族譜』も[60][61][62]、『集史』「モンゴル史」と同様にトルイ家をチンギス・カンの正統なる後継者とする歴史観に基づいて制作されており、モンゴル帝国皇帝の中でグユクのみが独立した系図を制作されずオゴデイに付記されるに留まるのに対し、クビライとのカアン位争いに敗れたアリクブケの妻や息子、諸部将は独立したページを作成されている[61][63]。
  8. ↑ ドレゲネはシャラフッディーンやアブドゥッラフマーンらを重用して民に重税を課し、没収した財産を自らの支持基盤を固めて息子グユクの登極を確実なものとするための賄賂の資金源に利用した[67]。
  9. ↑ 特にジュヴァイニー家のバハーウッディーンは個人的にもコルグズと親しく、その息子で歴史家のアターマリクはコルグズの死後にモンケ・カアンのオルドを訪ねた折、コルグズの出身地を訪れてもいる[68][8]。

出典

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参考資料

書籍

  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年3月25日。ISBN 978-4130261005。 
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。 
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 4巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫235〉、1973年1月。ISBN 4582802354。 
  • Ata Malik Juvayni (1958). The History of the World-Conqueror. John Andrew Boyle. Harvard University Press 
  • Hamdullah Mustawfi-i-Qazwini (1913). The Tarikh-i-Guzida, or "Select history" of Hamdullah Mustawfi-i-Qazwini. 2. Edward Granville Browne. E. J. Brill 
  • Рашид ад-Дин (1952). Сборник летописей. Л.А. Хетагурова,А. А. Семенова,О. И. Смирновой. Издательство АН СССР 
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年7月5日。ISBN 978-4-13-021077-5。 
  • 志茂碩敏、志茂智子『モンゴル帝国史研究 完篇』東京大学出版会、2021年3月11日。ISBN 978-4-13-021085-0。 
  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年2月28日。ISBN 978-4-7599-1497-9。 

論文

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先代
ノサル
モンゴル帝国のイラン総督
第3代
1236年 - 1242年
次代
アルグン・アカ