シャルロット・コルデー

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シャルロット・コルデー
Charlotte Corday
生年 1768年7月27日
生地 フランス王国 エコルシェ(フランス語版)
没年 (1793-07-17) 1793年7月17日(24歳没)
没地 フランス共和国(第一共和政) パリ
活動 フランス革命
所属 ジロンド派
裁判 ジャン=ポール・マラー殺害
影響を受けたもの プルタルコス、ピエール・コルネイユ
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マリー=アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン(フランス語: Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont, 1768年7月27日 - 1793年7月17日)は、ノルマンディ地方におけるセーズ近郊のサン=サテュルナン=デ=リニュリ(Saint-Saturnin-des-Ligneries) (フランス語版)生まれ。フランス革命期における暗殺者である[1]。

ジロンド派の支持者であり、対立する山岳派の議員であったジャン=ポール・マラーを暗殺した[2]。通称シャルロット・コルデー(フランス語: Charlotte Corday)。フランスの詩人のアルフォンス・ド・ラマルティーヌからは暗殺の天使(フランス語: l'ange de l'assassinat)と呼ばれた。

略歴

生家

小貴族の出身[3]。古典主義の時代の劇作家、ピエール・コルネイユの子孫であったが、貧しかったためカーンでの修道院暮らしも経験し、そこで教育を受けた。ルソーに心酔し読書を愛する物静かな女性だったという[1][4]。

ジロンド派がパリの蜂起と対峙した後、国民公会は蜂起民の威圧のもとで、ジロンド派議員29名と大臣2人の逮捕を決定した。ジロンド派議員に対する監視は緩く、何人もが逃亡に成功し、ノルマンディなどに逃れた議員はパリを批判する連邦主義の反乱(フランス語版)を煽動した[5]。

当時、シャルロットが住んでいたカーンは連邦主義の反乱における中心地となっていた。パリから逃れてきたジロンド派議員、特にシャルル・バルバルー[1]の話に共感し、連邦主義の反乱を支持したシャルロットは、マラーの暗殺を決意する。マラーは議員ではあるが政治的な主張は過激で、パリのサン=キュロットからも支持と共感を得ていた、いわば議会と民衆運動の接点に立つ人物だった[6]。

1793年7月9日、叔母の家からパリに単身上京して11日に到着した。シャルロットはパリの店で短刀を購入し、マラーの住所を調べて見つけ出した[7]。7月13日夕刻、持病の皮膚病が悪化し自宅では薬湯に浸かって仕事をしていたマラーに対して、シャルロットは反革命的陰謀の情報を持っていると言って近づき浴槽に案内された[8]。「その上、私は自由の大義のために迫害されています。悲しい思いをしています。あなたによって保護される権利が私に与えられるにはそれで充分です」[2]。

シャルロットはマラーを隠し持っていたナイフで胸を一突きした[9]。検死によれば、胸の真ん中を刺されたために片方の肺に穴が開き、頸動脈が切断されていた[10]。ほぼ即死だったという[11]。マラーのアパルトマンには、彼の配偶者シモーヌ・エヴラール(英語版)の他に女性3人、陸軍省にマラーの新聞の最新号を何部か持っていくため受け取りに来ていた男性1人がいた。彼らはシャルロットを止め、後に現場には治安委員、国民衛兵隊、何人かの人民代表者(ドルエとシャボ)、エベールが到着した。シャルロットがアベイ牢獄(フランス語版)に連行されるため現場を離れた時、数百人の人々(ドルエによれば4,000人から5,000人)が彼女を待ち受けていたが、ドルエ達が執り成したためシャルロットは民衆の報復を免れた[12]。

1793年7月13日 マラー暗殺

裁判の際、自身の犯罪動機について尋問されたシャルロットは、このいわゆる人民の友は1792年9月の虐殺(九月虐殺)について責任があり、彼は全王国に内戦の火をつけ、独裁者になることを欲していたと躊躇なく答えた[13]。また裁判長が、マラーの家に入れたのは、いつも不幸な人々の立場を擁護しようとしていたマラーの人間味豊かな行為のおかげだったのではないかと問うたところ(実際は、マラーは反乱が起きていたカルヴァドス県の状況について新たな情報を得ようと心掛けていたためと考えられる)、シャルロットは「他の人々に対しては怪物なのだから、彼が私に対して人間味豊かな態度を取ろうと、それはどうでもよいことだ」と答えた。また、「私は1人の人間から10万人の命を救うために、その1人の人間を殺した…」とも答えている。パリへの旅について問われた時は、マラーを殺すためだけにパリに来た、殺害のあと逃亡できれば、イギリスに渡ろうと考えていた、と陳述した[14]。

愛国者マラーの死(ジャン=バティスト・モレ画 1793年)

7月14日に国民公会は革命裁判所に調査をするように命じた。16日にコンシェルジュリーに移送された。7月17日に革命裁判所にて公判が開始された。裁判官にアントワーヌ・フーキエ=タンヴィル、後にマリー・アントワネットの弁護人も務めるクロード・フランソワ・ショヴォー・ラガルド(フランス語版)が官選弁護人として弁護に当たった。陪審員による評決で死刑と決まった[15]。なお、死刑執行人サンソンとのエピソードがサンソン家の回想録に収録されているが、この回想録は架空のものと判明している[16]。

謀殺、放火、あるいは毒殺の罪で死刑判決を受けた者は、誰でも処刑の場まで赤シャツを着せられて護送されるという決まり通り、シャルロットも処刑のため連行される際、赤シャツを着用した[17]。ギロチンによってシャルロットの首が切断された際の逸話に、サンソンの弟子の一人がその首を掲げ、さらにその頬を平手打ちした。見物人たちはこの行為に憤慨し、シャルロットの頬が赤く染まり怒りの眼差しを向けるのを見たと証言する者もいた[18]というものがある。

ポール・ボードリー画 1860年

シャルロットの死後、マラーが亡くなったことで政治的な位置関係が変化した。彼女は、過激な暴力に酔っているパリの目を覚まさせ、革命を正しい方向に連れ戻そうとしたのだが、人々はむしろ革命が脅かされていると受け止め、山岳派が指導する議会を守ることで団結しようとした。当時、フランス革命戦争の戦況が悪化していたことも人々の危機感を煽った。この「祖国と革命が脅かされている」という不安と危機感は、革命政府の形成と恐怖政治の遠因となる。シャルロットによる暗殺は、彼女自身の意図とは正反対に、議会からのジロンド派追放を正当化し、国民公会とサン=キュロットを危機に対して一致団結させ、さらには貴族・ジロンド派・女性への抑圧全般をも正当とみなす雰囲気を作り出した[19]。

政治的状況に応じた変化

シャルロットのマラーの事件に関する見方は、時代によって変化していった。シャルロットが神話化されるとマラーは悪魔化されるといった具合に、この殺害事件の2人の立役者は逆の役割を与えられてきた[20]。

ジャン=ジョセフ・ウェールツ画 1880年頃

例としては、フランス第二帝政期の画家ポール・ボードリーが描いた「マラーの暗殺」では、シャルロットは正面に美しく描かれ、マラーの表情は苦悶に歪んでいる。シャルロットは悪しきジャコバンを倒し、祖国を救ったヒロインと見做され、その背後にはフランス地図がある[21]。

1880年以降、ブーランジスムやドレフェス事件などの危機はありつつも共和制は確立に向かうが[22]、画家ジャン=ジョゼフ・ウェールツがマラーの人気が再び高まる中で描いた「マラーの暗殺」では、暗殺者シャルロットは民衆や国民衛兵から糾弾され、慄いている[23]。

絵画としては、ピカソ[24][25]やデニス・カードン(英語版)[26]もマラー暗殺事件を描いている。

ギャラリー

サブカルチャー

漫画

ゲーム

脚注

  1. 1 2 3 https://www.britannica.com/biography/Charlotte-Corday
  2. 1 2 マクフィー2022、P.275
  3. ↑ 山崎2018、P.171
  4. ↑ 竹中2013、P.87
  5. ↑ 山崎2018、P.161
  6. ↑ 山崎2018、P.171
  7. ↑ ビアール2023、P.186
  8. ↑ 竹中2013、P.86-87
  9. ↑ Wilson, Colin、Pitman, Patricia 著、大庭忠男 訳『殺人百科』弥生書房、1963年、173-174頁。doi:10.11501/3033258。
  10. ↑ ビアール2023、P.188
  11. ↑ 竹中2013、P.86
  12. ↑ ビアール2023、P.192-193
  13. ↑ ビアール2023、P.27
  14. ↑ ビアール2023、P.186-187
  15. ↑ 栗原時雄『女性裁判史』創芸社〈近代文庫;第25〉、1952年、73-80頁。doi:10.11501/2993757。
  16. ↑ https://books.google.co.jp/books/about/Memoirs_of_the_Sansons.html?id=GbZlAAAAMAAJ&redir_esc=y
  17. ↑ ビアール2023、P.182
  18. ↑ 辰野隆『ボーマルシェーとフランス革命』筑摩書房、1962年、168頁。doi:10.11501/1697418。
  19. ↑ 山崎2018、P.171-172
  20. ↑ ビアール2023、P.176
  21. ↑ 竹中2013、P.141
  22. ↑ 山崎2018、P.300
  23. ↑ 竹中2013、P.147
  24. ↑ https://gallerix.org/album/Picasso-1931-1942/pic/glrx-382073974
  25. ↑ https://fristartmuseum.org/picasso-disfigured-figures/?utm_source=chatgpt.com
  26. ↑ https://www.nga.gov/artworks/128522-death-marat

参考文献

関連項目

外部リンク