シラクサ
Siracusa
シラクサの風景
行政
国 イタリアの旗 イタリア
州 シチリアの旗 シチリア
県/大都市 シラクーザ
CAP(郵便番号) 96100
市外局番 0931
ISTATコード 089017
識別コード I754
分離集落 Belvedere, Cassibile
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
地震分類 zona 2 (sismicità media)
気候分類 zona B, 799 GG
公式サイト リンク
人口
人口 120,405 [1] 人 (2020-01-01)
人口密度 590 人/km2
文化
住民の呼称 siracusani aretusei
守護聖人 聖ルチア
(Santa Lucia)
祝祭日 12月13日
地理
座標 北緯37度04分09秒 東経15度17分15秒 / 北緯37.06917度 東経15.28750度 / 37.06917; 15.28750座標: 北緯37度04分09秒 東経15度17分15秒 / 北緯37.06917度 東経15.28750度 / 37.06917; 15.28750
標高 17 (0 - 482) [2] m
面積 204.08 [3] km2
シラクサの位置(イタリア内)
シラクサ
シラクサの位置
シラクーザ県におけるコムーネの領域
シラクーザ県におけるコムーネの領域
イタリアの旗 ポータル イタリア
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シラクサ(イタリア語: Siracusa ( 音声ファイル))は、イタリア共和国のシチリア島南東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。シラクサ県の県都である。標準イタリア語の発音に近い表記は「シラクーザ」。

古代ギリシャの植民都市シュラクサイに起源を持つ都市で、歴史的な遺跡など、多くの観光スポットがある。2005年には市内および周辺の歴史的建造物や遺跡が「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で世界遺産に登録もされている。

名称

Siracusa は [siraˈkuza] [4]と発音される。日本語文献では慣用的に[5]「シラクサ」[6]と表記されるが、発音に近いカナ転記の「シラクーザ」[6][7][8]も用いられる。このほか、「シラクザ」[5]、「シラクーサ」[9]などとも表記される。

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

地理

位置・広がり

シチリア島の南東部、シラクーザ県の東部に位置するコムーネで、東にイオニア海に面する。シラクサの市街は、カターニアから南南東へ約51km、ラグーザから東北東へ約53km、メッシーナから南南西約127km、州都パレルモから南東へ約206kmの距離にある。沖合の小島オルテュギアー島もシラクサ市の一部である。

シラクサの近くには、カターニア、ノート、モーディカ、ラグーザといった都市がある。

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史

古代

紀元前734年頃、ギリシアのコリントスの植民者たちがこの場所を発見し、低湿地帯を意味するシラコ (Sirako) と名づけたのが起源である。土地が肥沃であり、また原住民たちは彼らに好意的であった。都市は発展し、地中海においてギリシア植民市のうちで最も繁栄する都市国家となった。古典ギリシア語での名称はシュラクサイという。

紀元前5世紀後半、ペロポネソス戦争でシチリアでも勢力を拡大しようとするアテナイに対してスパルタと結んで戦った。シュラクサイはアテナイの敵であるスパルタに援軍を送り、アテナイの船を破壊したり、島を包囲して餓死させるなどして、スパルタの勝利に貢献した。

紀元前4世紀初頭、僭主ディオニュシオス1世はカルタゴに対して戦争を仕掛け、シチリア島全域を支配することに成功した。彼の死後支配権を継承した子のディオニュシオス2世は親戚(1世の義弟)のディオンによって廃位された。プラトンの弟子でもあり、哲人政治の理想を追い求めていたディオンは暗殺され、数名の僭主の後にディオニュシオス2世が復位した。その後、コリントスよりティモレオンが派遣されてきて、彼はディオニュシオス2世をはじめシチリアから僭主を一掃し、さらにヒケタスと結んで攻め込んできたカルタゴ軍をクリミソス川の戦いで破り、撃退した。しかし、紀元前317年にアガトクレスが僭主となり、僭主制が復活した(シケリア戦争中の四次にわたるシュラクサイ包囲戦は各項目参照)。

紀元前264年から始まった、シチリア島の帰属を争う第一次ポエニ戦争では共和政ローマ側に付いてカルタゴと戦ったことにより、ローマの同盟市としてローマの属州に組み込まれることはなかった。しかし、第二次ポエニ戦争でのシラクサはローマとの同盟を破棄しカルタゴと結んだ。

シラクサ出身の人物で最も有名な一人が、自然哲学者のアルキメデスである。彼の発明品の中には、第二次ポエニ戦争におけるローマによるシラクサ包囲戦に対抗するための軍事兵器もあった。アルキメデス考案の兵器はローマ軍を大いに苦しめ、三年間に渡りローマの攻撃を撃退し続けたという。シュラクサイは紀元前212年、ローマのプロコンスル、マルクス・クラウディウス・マルケッルスによって陥落した[10]。アルキメデスはそれと知らないローマ兵によって殺害され、都市は略奪されたという[11]。都市国家シラクサはローマに併合されシキリア属州に組み込まれた。

ローマ支配から中世にかけて

年月をかけゆっくりと衰退しながらも、シラクサはシチリアにおけるローマ政権の首都の地位にあり、プラエトルの配置がされていた。また、市は帝国の東西の間にある通商の重要港のままだった。市のキリスト教化は、タルススのパウルスと、シラクサ初代司教であった聖マルツィアーノによって広がった。マルツィアーノは、シラクサを西方における改宗の一代中心地としたのである。この迫害の時代に、どっしりとしたカタコンベが掘られた。

ヴァンダル族支配の後、シラクサとシチリア本島は東ローマ帝国のベリサリウスによってローマ人の元に取り戻された(535年12月31日)。663年から668年、シラクサはコンスタンス2世の宮廷が置かれ、全シチリア教会の首都大司教座がおかれた。

878年に起きたアグラブ朝による包囲戦で陥落した際にはシラクサ市街への情け容赦ない略奪が行われ、2世紀にも渡るイスラム支配が始まった。シラクサは島の首都の地位をパレルモに奪われた。大聖堂はモスクに変えられ、オルティジア島の建物は次第にイスラム様式に沿って再建された。どのようであれ、市は、重要な通商関係を保ち、文化と芸術が同時期に華開いた。12世紀のシチリア人詩人で最重要の人物であるイブン・ハムディス(英語版)は、シラクサに暮らしていた。

1028年、東ローマの将軍ゲオルギオス・マニアケス(英語版)がシラクサを再征服し、聖ルチアの聖遺物をコンスタンティノープルへ送った。オルティジア島の最南端にある城は、1239年にホーエンシュタウフェン家のフェデリーコ2世の命で建設されたが、マニアケスの名前が冠されている。

1085年、シチリア伯ルッジェーロ1世とシラクサ伯ジョルダーノ(英語版)が夏季の長い包囲戦の末に勝利し、ノルマン人がサラセン人最後の要塞の一つシラクサへ入った。市内には新たな地区が建設され、他の教会と同様に大聖堂が復興した。

1194年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシラクサを占領した。1205年から1220年までの短期のジェノヴァ支配の後、シラクサは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が奪回した。彼はマニアーチェ城(英語版)、司教宮殿、ベッロモ宮殿の建設を始めた。フリードリヒの死で社会的不安と封建制の無秩序の時代が始まった。アンジュー家とアラゴン王家の争いで、シラクサはアラゴン側に立ち、1298年にアンジュー家を敗退させた。この褒美として、宗主国アラゴンから多大な特権を授けられた。地元の有力貴族の優越ぶりが、アベラ、キアラモンテ、ナヴァ、モンタルトへの城の建設で見せつけられた。

近代と現代

シラクサは、1542年と1693年の二度、破滅的な地震に見舞われ、17世紀の破壊は、ヴァル・ディ・ノート全体と同様に、シラクサの外観を永久に変えた。地震被害にあった都市は、典型的なシチリア・バロック様式に沿って再建され、この様式は南イタリア芸術の典型的な例とされている。

1729年にはペストが大流行した。1837年のコレラ大流行は、ブルボン家支配に対する反乱を引き起こした。処罰としてシラクサからノートへ県都が移されたが、社会不安が全体的に阻止されることなく、シラクサ人は1848年シチリア独立革命(英語版)に立ち上がった。

1865年のイタリア統一運動後、シラクサは県都の地位を取り戻した。1870年、荒れるがままであった市壁と、オルティジア島と本土とをつないでいた橋が再建された。同じ年、鉄道網が建設された。

1943年、連合国側とナチス・ドイツの空爆で激しく市は破壊された。連合国側のシチリア侵攻の際のハスキー作戦は、島西部を攻撃するイギリス軍とともに1943年7月9日から10日の夜にかけ始められた。バーナード・モントゴメリー将軍率いるイギリス第8軍団は、ほとんど抵抗なしに侵入最初の日にシラクサを占領した。港はイギリス海軍の基地として使われた[12]。市の西部には、およそ1,000人が埋葬された戦没者墓地がある。第二次世界大戦後、シラクサの北部地区は急速な工業化により市域を拡大した。

みどころ

古代の建築物

世界遺産 シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡
(イタリア)
シラクサの古代ギリシャ時代の劇場跡
シラクサの古代ギリシャ時代の劇場跡
英名 Syracuse and the Rocky Necropolis of Pantalica
仏名 Syracuse et la nécropole rocheuse de Pantalica
面積 63858.5 ha
(緩衝地域 5519.4 ha)
登録区分 文化遺産
登録基準 (2), (3), (4), (6)
登録年 2005年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法・表示

教会

その他

世界遺産登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

姉妹都市

人物

著名な出身者

ギャラリー

脚注

[脚注の使い方]
  1. ↑ 国立統計研究所(ISTAT). “Total Resident Population on 1st January 2023 by sex and marital status” (英語). 2020年8月2日閲覧。
  2. ↑ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Siracusa (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年4月13日閲覧。
  3. ↑ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Siracusa (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年4月13日閲覧。
  4. ↑ “DiPI Online - Dizionario di Pronuncia Italiana”. 2013年4月13日閲覧。
  5. 1 2 “シラクザ”. 世界大百科事典 第2版. コトバンク. 2013年4月13日閲覧。
  6. 1 2 “シラクサ”. デジタル大辞泉. コトバンク. 2013年4月13日閲覧。
  7. ↑ 『なるほど知図帳 世界 2013』昭文社、2013年、58頁。
  8. ↑ “google map”. 2013年4月13日閲覧。
  9. ↑ 『現代地図帳 2006-2007』二宮書店、2006年、60頁。
  10. ↑ MRR1, p. 268.
  11. ↑ リウィウス『ローマ建国史』26.31
  12. ↑ “Operation Husky, Sicily 1943”. olive-drab.com (April 12 2008). 2008年11月15日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

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