ズィージュ

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ズィージュ(ペルシア語: زيج, ラテン文字転写: zīj)は、イスラム文化圏の科学史において重要な、天文書の一分野である[1][2]。プトレマイオスの『簡易表』を祖とする天体暦や関数の表が本の核心だが、長い前書きを伴い、そこで表を実践に用いるために必要な知識を伝授する豊富な解説が記され、天文学の手引書(天文便覧)というべき内容となっていることが特徴である[3][2][1][4]。

語源

「ズィージュ」という語の元は、イスラム天文学史研究の泰斗カルロ・アルフォンゾ・ナリーノ(英語版)が支持した、織物の経糸を意味するパフラヴィー語“zīg”が起源で、経糸が数表の縦線と似ているから、という説や、ビールーニーの『マスウード宝典』に記された、ペルシア語で弦を意味する“zīh”が起源で、弦には正弦が含まれ三角関数の計算は天文学で重要であるから、という説が有力視されていた[5]。

これに対し、諸説を俯瞰した東洋学者・数学者のレイモンド・メルシエは、パフラヴィー語で「引き伸ばされたひも」を意味する“zīg”が語源であると結論し、これはインド天文学の概念がペルシアに持ち込まれる際に、「タントラ(tantra)」を直訳したことに起因するとみられる[3][5]。タントラには「機織」や「経糸」といった意味もあり、転じて「体系」や「教科書」を意味する言葉としても用いられ、特にインドの博学者ヴァラーハミヒラは惑星の位置計算を行う天文分野のことをタントラと呼んだことから、天体暦を扱う天文書を指す名称にタントラを翻訳した語があてられたと考えられる[3][5]。

また、zīj によく似た意味のギリシア語として κανών があり、これがアラビア語に持ち込まれて qānūn となって、この2語には互換性があるとされる[1]。実際に、テオンの『簡易表』は“Al-Qānūn”とも呼ばれ、ビールーニーのズィージュ『マスウード宝典』は“al-Qānūn al-Masʿūdī”と称した[1]。また、ズィージュにはラテン語やギリシア語に翻訳されてヨーロッパに渡ったものも多く、それらは al-zīj が転訛した ezich や ezeig といった語が題に用いられたが、ラテン語ではさほど時をおかずに tabulae という訳語に置き換わっていった[3]。

内容

14世紀の天文学者サマルカンディーがチベット編纂した『サンジュフィーニー天文便覧』。

ズィージュはプトレマイオスの『簡易表』を原型とし、その手法をイスラム文化圏で受け継いだもので、天文学に関する表の集積を最終的な成果物として提示する天文書である[2][1]。天文表に関しては、プトレマイオス『簡易表』の再生産によるものが多く、宇宙論もほぼ『アルマゲスト』に依拠しているが、インド天文学の知識も取り入れているのがズィージュの特徴である[2][3]。もう一つ、ズィージュの形式上の大きな特徴として、天文表だけでなく、読者がその表を用いて天文学、占星術を実践するに当たって必要となる知識についての十分な解説が伴っていることが挙げられ、つまりズィージュは基本的に、天文表を核とする天文学の手引書といえる[1][3]。日本語では、ズィージュはしばしば「天文表」と訳されるが、実際には「天文便覧」と呼ぶ方がふさわしい分野の書となる[6][7]。

ズィージュは著者や著書によって、扱う要素や構成は様々であるが、多くのズィージュに共通する典型的な問題がいくつか存在する[2][1]。

あらゆるズィージュは、年代学に少なからず紙幅を割いている[1]。天体の位置を求めるには、時間を正確に把握することが重要だが、年代や暦は民族や文化によって異なり、ズィージュが編纂されたイスラム文化圏において主要な暦だけでもヒジュラ暦、セレウコス暦、ヤズデギルド暦の3種、その他にユダヤ暦、コプト暦、ジャラーリー暦、ソグド暦、ヒンドゥー暦、更には中国やモンゴルの暦も入ってきていたので、これらの間で暦を正しく変換できる必要があったからである[1]。

あらゆるズィージュは、純粋な天文学分野の表だけではなく、数学に関する表も記載している[1]。中でも最も広く扱われているのが三角関数表、特に正弦、正接の表である[1]。また、天体の位置は天球の上で考えるので、位置を座標として定量化するにあたり、球面天文学の計算も重要であった[1]。

ズィージュは基本的にプトレマイオスの宇宙論に則っており、太陽、月、惑星の運動は円として扱うので、太陽の場合であれば時間の関数として位置を計算した平均太陽と実際に観測される真太陽のずれ、すなわち均時差の補正が欠かせない[1]。また月と五星では、その運動を記述するのに周転円を導入しており、位置の計算には周転円の中心の運動(平均運動)と、周転円上の運動、それぞれに生じるずれを合わせて補正する必要がある[1]。

視差もズィージュでよく取り扱われる問題の一つである[3][2]。ここでいう視差は、地表から観測した天体の位置と、地球中心からみたとして計算した天体の位置のずれ、つまり地心視差のことである[1]。地心視差は、天頂方向では0で、地平線上で最大となり、近い天体ほど大きくなる[1]。視差が問題となるのは主に月で、特に日食を正しく予報するには視差を考慮することが必要となる[1]。食は重要な天文現象であり、多くのズィージュが標準的に日食と月食の表を掲載している[1]。

ズィージュの大部分は地理学も守備範囲としており、主要な都市の一覧とその地理座標の表を含んでいる[1]。

恒星の星表はほぼすべてのズィージュが掲載しており、赤道座標または黄道座標による恒星の位置、そして多くは恒星の見かけの等級を示している[1]。また、ズィージュは占星術師に、占星術の実践に当たって必要となる、知識や天体暦を提供するものでもあった[8]。サインやハウスについて、あるいはホロスコープの作成に必要な惑星の位置や合の求め方の解説や、必要な表を掲載していた[1]。

そのほか、ズィージュに特徴的な要素として、月や惑星のみえ方がある[1][2]。ズィージュの著者たちは、科学的精神に忠実であろうとする一方、信仰上社会にひろく受容されることも重視しており、特に、ムスリムの暦の上で重要なラマダンの開始を告げる三日月のみえ方は、多くのズィージュがとり上げた[1][9][10]。礼拝(サラート)の時間や、メッカの方角(キブラ)の記述もよくみられる[2][10]。

代表的なズィージュ

現代にその存在を知られているズィージュはおよそ250に上り、そのうち150程度は全部または一部が写本として現存している[11]。

ズィージュの中でも特に古いものの一つが、サーサーン朝末期に成立したとみられる“Zīj-i Shahriyārān”(王室天文表)で、6世紀にパフラヴィー語で編纂されたと考えられ、西アジアがイスラム化する以前からズィージュの伝統があったことを示す[1][3]。写本は現存しないが、後代のズィージュによく引用されていることで、存在が確認されている[12]。

バースのアデラードがラテン語訳したフワーリズミーのズィージュ。

アッバース朝の初期から、ズィージュの編纂が盛んとなり、ヤフヤー・ブン・アビー・マンスール(英語版)が著した『実証天文表』(al-Zīj al-mumtaḥan)、『シンドヒンド』と呼ばれるフワーリズミーのズィージュがよく知られる[1][13]。フワーリズミーのズィージュは、写本が現存するイスラム世界のズィージュで最古のものだが、現存するのはラテン語訳を経由した写本だけである[14][2]。また、ハバシュ・アル=ハーシブ(英語版)は『実証天文表』の改訂版、『ブラーフマスプタ・シッダーンタ』のアラビア語訳『シンドヒンド天文表』(al-Zīj al-Sindhind)の改訂版など複数のズィージュを残した[1]。その後、優秀な観測者であったバッターニーは、自らの観測に基づいて『サービア天文表』(al-Zīj al-Ṣābīʾ)を著し、これは翻訳されてヨーロッパにも普及し、イスラム天文学だけでなくヨーロッパの天文学の発展にも寄与した[15][1][13]。

アッバース朝が衰退し、独立した王朝が乱立した11世紀にも、その後のイスラム天文学に影響力を持つズィージュが成立している[1][2]。ブワイフ朝では、クーシュヤール(英語版)が著した『包括的天文表』(al-Zīj al-jāmiʿ)が知られる[1][16]。これは典型的なズィージュで、天文表が大部分を占め、先行する優れたズィージュから集めてきた表が別個に収録されている[16][1]。観測データはバッターニーの『サービア天文表』に依拠し、独自の観測は含まれていないとみられる[1]。エジプトのファーティマ朝では、イブン・ユーヌスが『ハーキム大天文表』(al-Zīj al-kabīr al-Ḥākimī)を著した[1]。イブン・ユーヌスはカイロの「智恵の館」に付属する天文台で観測も行い、研究成果をズィージュにまとめた[17]。イブン・ユーヌスはバッターニーほど優れた観測者ではなかったが、計算技術には長けていた[1]。同時代の大学者ビールーニーの著作には、『マスウード宝典』(al-Qānūn al-Masʿūdī)というズィージュがある[1]。これは11篇の論文からなる大著で、優れた天文便覧であり、イスラム世界における科学を研究する上で特に重要な文書の一つとされる[1][14]。

19世紀に作成された『サンジャル天文表』の写本。

12世紀、セルジューク朝では、メルヴにいたギリシア人ハーズィニーが『サンジャル天文表』(al-Zīj al-Sanjarī)を編纂した[1][18]。『サンジャル天文表』はセルジューク朝のスルターン・サンジャルに献呈された大著で、キオニアデス(英語版)がギリシア語に翻訳したことで東ローマ帝国の学者たちによく利用され、東ローマ帝国の天文学発展の基礎となった天文書の1冊とされる[1][18]。

モンゴル帝国の西征後、西アジアを支配したイルハン朝では、高名なナスィールッディーン・トゥースィーがフレグの下でマラーガ天文台(英語版)を築き、優れた学者を集めて『イルハン天文表』(Zīj-i Īlkhānī)を編纂した[1]。『イルハン天文表』は多数の写本、註釈、翻訳が作られ、アジア全体で広く用いられた[1]。

14世紀の半ばには、ダマスクスのウマイヤ・モスクで計時官も務めたイブン・シャーティルが、『新天文表』(al-Zīj al-jadīd)を編纂した[1]。この『新天文表』は要約版も作られ、多数の写本が現存していることでよく知られる[1]。

ジョン・グリーヴズ(英語版)が『ウルグ・ベグ天文表』の前書きから年代学部分をラテン語訳した、『ウルグ・ベグの伝承による、カタイ、シリア、ギリシア、アラビア、ペルシア、ホラーサーンなどの天文学者、歴史学者、年代学者が使用した、記念すべき紀元』に記載される二十四気とその開始日を示す表[19][20]。

15世紀にはティムール朝のウルグ・ベグの下で、ウルグ・ベグ天文台が設立され、当時世界最高の天文学が実践されていた[6]。ウルグ・ベグ天文台の初代台長を務めたジャムシード・カーシーは、天文台ができる前に“Zīj-i Khāqanī”(ハーカーニー天文表)を作成し、ウルグ・ベグに献呈した[6][1]。カーシーはトゥースィーに敬意を払っていたが、『イルハン天文表』の完成度には不満を持っており、それを補完した形である[1]。ウルグ・ベグ天文台での観測と計算が軌道に乗ると、10年ほどでその成果が『スルターン天文表』(Zīj-i sulṭānī)あるいは『ウルグ・ベグ天文表』(Zīj-i Ulugh Beg)としてまとめられた[1][6]。『スルターン天文表』は全てのズィージュの中でも最も広く使われたといって過言ではなく、写本も豊富に現存しており、ヨーロッパへも解説文や星表の翻訳が伝わっている[1]。

出典

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 Kennedy, E. S. (1956), “A Survey of Islamic Astronomical Tables”, Transactions of the American Philosophical Society 46 (2): 123-177, doi:10.2307/1005726
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 King, David A. (2016-03-17). “Astronomy in the Islamic World”. In Selin, Helaine. Encyclopaedia of the History of Science, Technology and Medicine in Non-Western Cultures (3 ed.). Dordrecht: Springer. pp. 767-779. ISBN 978-94-007-7746-0
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 Mercier, Raymond (2016-03-17). “Zīj”. In Selin, Helaine. Encyclopaedia of the History of Science, Technology and Medicine in Non-Western Cultures (3 ed.). Dordrecht: Springer. p. 4622. ISBN 978-94-007-7746-0
  4. ↑ 藪内 1993, p. 3.
  5. 1 2 3 Mercier, Raymond (2000), “From Tantra to Zīj”, in Folkerts, Menso; Lorch, Richard, Sic itur ad astra: Studien zur Geschichte der Mathematik und Naturwissenschaften, Wiesbaden: Harrassowitz, pp. 451-460, ISBN 9783447042901
  6. 1 2 3 4 廣瀬匠; 川口雅也「サマルカンド 砂に埋もれた天文台」『星ナビ』2011年6月、46-53頁、2011年5月2日。
  7. ↑ 須賀隆; 諫早庸一 著「『イル・ハン天文便覧』に見える中国暦・ヒジュラ暦換算表の再構 —モンゴル帝国期東西天文学交流の再考—」、相馬充; 谷川清隆 編『第5回「歴史的記録と現代科学」研究会』国立天文台、2019年1月、252-277頁。ISBN 978-4-9907389-5-2。
  8. ↑ Saliba 2007, p. 191.
  9. ↑ Saliba 2007, pp. 127–128.
  10. 1 2 Saliba 2007, pp. 134–135.
  11. ↑ van Dalen, Benno. “Research”. 2026年11月1日閲覧。
  12. ↑ Saliba 2007, p. 11.
  13. 1 2 竹田新「西暦9・10世紀のアラビア語地理文献について: 人文地理を中心に (1)」『大阪外国語大学論集』第24巻、191-212頁、2001年3月30日。 NCID AN10191864。
  14. 1 2 Samsó, Julio (2001), “Astronomical tables and theory”, in al-Hassan, A. Y.; Ahmed, Maqbul; Iskandar, A. Z., The Different aspects of Islamic culture, volume 4: Science and technology in Islam, part 1: The exact and natural sciences, Paris: UNESCO Publishing, pp. 209-234, ISBN 978-92-3-103830-3
  15. ↑ 藪内 1993, p. 130.
  16. 1 2 三村太郎「クーシュヤールの『アストロラーベ書』写本の校訂研究」『哲学・科学史論叢』第3巻、119-151頁、2001年1月31日。doi:10.15083/00035939。ISSN 1344-6185。 NCID AA11342453。
  17. ↑ 前嶋信次『サラセン文化』弘文堂、東京・神田駿河台〈アテネ文庫 世界歴史シリーズ〉、1955年10月25日、38-39頁。doi:10.11501/2992763。
  18. 1 2 Abattouy, Mohammed (2007), “Khāzinī: Abū al-Fatḥ 'Abd al‐Raḥmān al‐Khāzinī”, in Hockey, Thomas, The Biographical Encyclopedia of Astronomers, New York: Springer, pp. 629-630, doi:10.1007/978-0-387-30400-7_760, ISBN 978-0-387-31022-0
  19. ↑ 藪内 1993, pp. 4–6.
  20. ↑ “Epochae celebriores, astronomis, historicis, chronologis, Chataiorvm, Syro-Graecorvm, Arabvm, Persarvm, Chorasmiorvm, usitatae: ex traditione Ulug Beigi”. Wellcome Collection. 2026年11月1日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク