| 紋章 | 地図 (郡の位置) |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 連邦州: | バイエルン州 |
| 行政管区: | オーバーフランケン行政管区 |
| 郡: | ヴンジーデル・イム・フィヒテルゲビルゲ郡 |
| 緯度経度: | 北緯50度10分13秒 東経12度07分51秒 / 北緯50.17028度 東経12.13083度座標: 北緯50度10分13秒 東経12度07分51秒 / 北緯50.17028度 東経12.13083度 |
| 標高: | 海抜 562 m |
| 面積: | 86.07 km2 |
| 人口: |
14,727人(2023年12月31日現在) [1] |
| 人口密度: | 171 人/km2 |
| 郵便番号: | 95100 |
| 市外局番: | 09287 |
| ナンバープレート: | WUN, MAK, REH, SEL |
| 自治体コード: |
09 4 79 152 |
| 行政庁舎の住所: | Ludwigstraße 6 95100 Selb |
| ウェブサイト: | www.selb.de |
| 首長: | ウルリヒ・ペッチュ (Ulrich Pötzsch) |
| 郡内の位置 | |
| 地図 | |
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ゼルプ (ドイツ語: Selb, ドイツ語発音: [zɛlp][2]) は、ドイツ連邦共和国バイエルン州ヴンジーデル・イム・フィヒテルゲビルゲ郡(オーバーフランケン行政管区)に属する大規模郡所属市であり、チェコと直接国境を接する位置にある。この市は、国境を越えた小地域であるFreunde im Herzen Europasに加盟している。
本市は、公式には45の地区 (Ort) からなる[3]。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。
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ゼルプ周辺地域の植民化は12世紀頃にバイエルン側から始まった。"de Selewen"(「ゼレブの(領主)」)と名のる一族が1135年から存在していたことが明らかにされている。1281年に、ゼルプは、現在ではチェコ領となっている近隣のアシュとともに、プラウエンの代官ハインリヒに担保として与えられ、ハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世がこれを記録したとする資料に、初めて登場する。1357年、ゼルプは帝国レーエンとなり、林務官が封ぜられた。1412年にゼルプはニュルンベルク城伯に売却された。1437年には、6つの管区に分離されて管理されたことから、「ゼクスエムターラント」(6つの役所から成る地方)と呼ばれる地方を構成することとなった。その6つの管区庁の一つがゼルプに置かれた。1426年に、ブランデンブルク=バイロイト辺境伯は、この市に初めて都市権を与えた。ゼルプは、辺境伯所有林と、バイロイト侯の好む狩り場の中心地となった。市章に描かれた鹿の角はこの町の狩猟史上の意義を思い起こさせる。
続く何世紀もの間、度重なる所有者の交替や戦争による破壊を経た後、18世紀までにゼルプは、採掘から鉄の精錬までを併せ持った鉱業の町として重要な地位を占めるに至った。主要な鍛錬施設(ヴェンデン、カイザー、シュヴァルツェン、ハンデル鍛錬所)は、エーデル川の水力を利用している。採掘は、ホイゼルローエの採石場(現在のシャウシュタインブルーフ)で行われた。この地で生産される、わずかに鉄を含んだ肌理の細かい花崗岩は、19世紀後半には、陶業に用いられる轆轤(ろくろ)や石臼に加工された。
18世紀頃のゼルプは約1,500人の人口と、指物師、大工、革なめし工、粉挽き、靴屋、織物工のツンフトをもつ手工業の町であった。1709年に紙漉のヨハン・ゲオルク・イェーガーが紙漉工場を創立した。これが、この町で最初の工業企業となった。この会社は、1970年代まで印刷業者として重きをなした。
1809年のシェーンブルン講和条約後の1810年6月30日にバイエルン王国領となった。1836年6月17日にゼルプは都市権を得た。1856年3月18日にある女中の不注意により、旧薬局近くの建物から出火した。素早く広がった火の手は、中世に拡大した市の中核部をも含め、市の全域を破壊し尽くした。この火事は「ゼルプの大火」と呼ばれる。火事場風から無傷で残された建物はほんのわずかであった。その中に、1612年の聖三位一体墓地教会と、1583年に建てられたいわゆるペヒヒュッテ(小さな民間の木組み建築でコールタールからピッチ[要曖昧さ回避](ペヒ)を煮詰める作業を行っていた)がある。これら両者は旧市街中心部から外れた場所にあった。この火事で、計221件の家と408の付属建築物が瓦礫と灰になり、624家族(3,500人以上)が住む家を失った。
1857年頃ゼルプは、陶磁器の街となった。ローレンツ・フッチェンロイターがルートヴィヒスミューレで製磁会社を興し、ゼルプの大火で職を失った織物工の一部は、ここに職を得た。この会社は磁器の工業企画生産を可能にしたパイオニアであった。これにより「白い黄金」と呼ばれていた磁器を平均的な市民が持つことができるようになった。また、多くの失業者がこの会社によって、将来の見込みを再び取り戻すことができた。1864年にホーフとエーゲルを結ぶ鉄道が開通したことがゼルプの急速な工業化に拍車をかけた。この地で名を成した製磁会社としては、ヤーコプ・ツァイトラー & Co.、J.リーバー、ローゼンタール、クラウトハイム、ミュラー、ハインリヒ & Co.、イェーガー & ヴェルナー、グレーフ & クリップナー、クラウトハイム & アーデルベルク、ツァイトラー & プルカー、ホフマン兄弟社、オーバーフランケン製陶などが挙げられる。1900年のゼルプの人口は7,200人であったが、ゼルプには20の製磁会社で併せて100もの窯があった。
1919年7月1日、ゼルプはレーハウ郡から分離され、郡独立市を宣言した。1930年の市の人口は、14,200人にまで増加した。世界的な経済危機と1920年代のインフレで製磁会社の数は減少した。多くの会社が他の会社と合併した。残った会社は、世界的に知られた製品を持つ会社だけであった。現在でもゼルプに拠点を構える世界的に知られたブランドには、ローゼンタール (Rosenthal)、フッチェンロイター (Hutschenreuther)、ビレロイ&ボッホ (Villeroy & Boch)がある。(ただし、ビレロイ&ボッホの本社はメトラッハにある。)
第二次世界大戦が終わるとゼルプはアメリカ軍の占領地域となった。3,500人の東部からの避難民がゼルプに流れ込んだ。市場であり、原料の移入元であったチェコスロヴァキア、ザクセンとの間に国境がひかれ、製磁業は衰退していった。
1972年の自治体再編によりゼルプは大規模郡都市としてヴンジーデル郡に組み込まれた。1978年にはエルカースロイト、ハイデルハイム=シュタインゼルプ、レンゲナウ、ラウターバッハ=ヴィルデナウ、ミュールバッハ、オーバーヴァイセンバッハ、ゼルプ=プレスベルク、ジルバーバッハ、シュピールベルク、ウンターヴァイセンバッハおよびフィーリッツを編入した。この地域のテーブルウェア、高級食器といった製磁産業が1990年代に危機に陥ったことは否定できない。1965年には5,000人いた製磁業従事者数は、現在1,000人以下にまで落ち込んでいる。工業化され、合理化され、原価を安く抑えられた輸入製品が、構造改革の遅れたこの町や地域を直撃したのである。製磁業以外の周辺産業は、打撃を受けたこの地域を支えきれずにいる。


ゼルプは、フィヒテル山地の麓に位置し、多くのレジャーを提供している。たとえば、冬期はヴァルトベルクやコルンベルクでのスキー、夏期には森の湖「ランガー・タイヒ」などである。市内にはフッチェンロイター・アイススポーツ・ホールやローゼンタール劇場、屋内プールがある。ゼルプで最も有名なスポーツクラブは、アイスホッケーのVERゼルプである。
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