タタールのくびき

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オルダのくびき(オルダの軛、ウクライナ語: Ординське ярмо)またはタタールのくびき(タタールの軛、英語: The Tatar Yoke)とは、13世紀前半に始まったモンゴル帝国によるキーウ・ルーシ(現在のウクライナを中心とし、ベラルーシやロシアの一部も含んでいた国家)への侵攻及びその後のその後のジョチ・ウルスによるルーシ諸公国への宗主権を指す歴史用語である。支配の形態と期間は地域ごとに異なっていた。

概要

バトゥの征西(1236年-1242年)
ダヌィーロ・ロマーノヴィチ

13世紀、ヨーロッパ大陸でも最も東に位置し、常にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシは、1223年、すでにモンゴル帝国の最初の襲撃を受けていた(カルカ河畔の戦い)。これは、初代皇帝チンギス・カンの治世において、ホラズム遠征の一環としておこなわれたもので、このとき、モンゴル軍は南ルーシ諸侯とポントス・カスピ海草原のテュルク系遊牧民キプチャク(ポロヴェツ族)の連合軍に大勝したが、征服はおこなわなかった[1][注釈 1]。このときの遠征は中央アジアを標的としたもので、キプチャク草原やロシア方面の占領を目的とした遠征ではなかったため、モンゴル軍はすぐに東方に帰還した。

モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイは、1235年、帝国の首都カラコルム(現在のモンゴル国・アルハンガイ県)に王侯・貴族を招集してクリルタイを開催し、西方への大遠征を決定した[注釈 2]。チンギス・カンの長男ジョチの采領(ウルス)は帝国の西に割り当てられていたので、征西軍の総指揮官にはジョチの次男バトゥが任じられた[1]。1236年、バトゥ率いる大遠征軍は川や沼沢の氷結する冬の到来を待って東ヨーロッパへの大侵攻を開始し、ヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガールを征服した(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)[1]。モンゴル軍は続いてルーシへ侵攻し、1237年から1238年にかけてリャザン(旧リャザン)、ウラジーミル(ウラジーミル・スーズダリ大公国)、トヴェリ、コロムナなどを次々と占領して北東ルーシを征服、さらに1239年から1240年にかけては南ルーシに転進し、キーウ・ルーシ(キーウ大公国、正式な国名は「ルーシ」Русь )のペレヤスラウ、チェルニーヒウ、さらに首都キーウを包囲して破壊。後にはヴォロディームィルやハールィチも征服し、南ルーシの多くの都市や農村を荒廃させた(バトゥの大西征)。

モンゴル軍の侵攻はルーシ諸公国の広い範囲に及んだが、その軍事的征服と、各公国がモンゴルの宗主権を承認した時期は必ずしも一致しなかった。キーウは1240年に陥落し、翌1241年にはハールィチ・ヴォルィーニ大公国も大きな被害を受けた。しかし、同公国の君主ダヌィーロ・ロマーノヴィチはその後も統治を継続し、1246年にバトゥの宮廷を訪れてモンゴルの宗主権を承認した。また、直接的な軍事征服を免れたノヴゴロド公国も、後にモンゴルへの貢納を受け入れた。このように、モンゴルによるルーシ支配の成立時期と形態には、地域ごとの差異が存在した[2][3]。

その後、バトゥはハンガリー平原(現在のハンガリー)や現在のポーランドを侵略したところでオゴデイ死去の報を聞き、カスピ海北岸まで引き返してヴォルガ川下流に滞留した。この西征により、バトゥを家長とするジョチ家の所領はカザフ草原から黒海沿岸低地にいたる広大なキプチャク草原にまで拡大した。ルーシの人びとは、キプチャク族などテュルク系遊牧民が自身よりも東方に本拠を置くモンゴル系遊牧民たちを「タタル」(古テュルク語で「他の人びと」)と呼びならわしていたのにならい、ルーシを征服したかれら東方遊牧民を「タタール」(漢字表記は「韃靼」)と呼んだ[4]。

ジョチ家の所領(ジョチ・ウルス)は、こののち次第に緩やかな連邦へと傾斜していくモンゴル帝国内で自らの自立性を強めていったため、ジョチ・ウルス(金帳汗国)とも呼ばれる。こうしてジョチ・ウルスはルーシ諸公国の広い範囲に宗主権を及ぼし、諸公や住民に貢納、軍事的協力などの義務を課した。しかし、その支配は一様ではなく、キーウを中心とするドニプロ川中流域では強い政治的統制が行われた一方、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では、モンゴルの宗主権を承認しながらも、現地の君主による統治と比較的広い政治的自律性が維持された。したがって、ルーシ諸地域に対するモンゴルの支配は、それぞれの政治的・地理的条件に応じて異なる形態をとっていた。[5]

キーウ・ルーシの中心となっていたウクライナは、後にモンゴルの支配から脱した。しかしウクライナ系国家ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はリトアニア大公国やポーランド王国によって支配され、それはヘーチマン国家として再独立するまで続いた。しかし後にロシア帝国に支配され、1917年のウクライナ独立戦争にてウクライナ人民共和国として独立を回復したが、後にソ連やポーランドなどによって分割された。後にウクライナ全土がソ連によって支配され、それは1991年にウクライナ再独立が行われるまで続いた。

モンゴルによるルーシ諸公国の征服と支配

モンゴル軍の侵攻と南ルーシ諸公国

13世紀初頭のルーシでは、かつての政治的中心であったキーウをめぐる諸公の争いが続き、各地に独自の政治的基盤を持つ公国が成立していた。現在のウクライナにあたる地域では、キーウ公国、チェルニーヒウ公国、ペレヤスラウ公国のほか、西部にハールィチ・ヴォルィーニ大公国が存在していた。各公国はリューリク朝の王統や正教会の信仰を共有しながらも、それぞれ独自の政治的発展を遂げていた。[6]

ルーシ諸公国とキプチャク(ポロヴェツ人)の諸集団は、長年にわたり対立と同盟を繰り返しており、諸公とキプチャクの支配者の間には婚姻関係も結ばれていた。1223年、スブタイとジェベが率いるモンゴル軍の西方遠征に際して、南ルーシ諸公とキプチャクの連合軍はこれに対抗した。しかし、カルカ河畔の戦いで連合軍は大敗した。この遠征ではルーシ諸公国の恒久的な征服には至らなかったものの、モンゴル軍の軍事力が南ルーシに及ぶこととなった。[2]

1237年、バトゥ率いるモンゴル軍はルーシに対する大規模な侵攻を開始した。1237年から1238年にかけて北東ルーシの諸都市が攻略され、諸公の軍勢は敗北した。続いてモンゴル軍は南ルーシへ進み、1239年にはペレヤスラウとチェルニーヒウを征服した。これらの都市の陥落によって、ドニプロ川中流域の政治的・軍事的秩序は大きな打撃を受け、モンゴル軍はキーウへの侵攻を進めた。[2]

キーウの陥落と南西ルーシへの侵攻

1240年のキーウ包囲戦を描いた16世紀の年代記の挿絵

モンゴル軍の南ルーシ侵攻が進むなか、1239年、ハールィチ・ヴォルィーニの公ダヌィーロ・ロマーノヴィチはキーウを掌握し、自らの配下であるドミトロ(ドミトリー)を同地の軍事指揮官として配置した。ダヌィーロはキーウを含むルーシ南西部への影響力を拡大しようとしていたが、モンゴル軍の接近によってその構想は大きな困難に直面した。[3]

1240年、バトゥ率いるモンゴル軍はキーウを包囲した。ドミトロの指揮下で守備側は抵抗を続けたが、同年12月、都市は陥落した。『ハールィチ・ヴォルィーニ年代記』には包囲戦と市街地での戦闘が記録されている。戦闘によって多数の住民が犠牲となり、都市の建造物も大きな被害を受けた。ドミトロは負傷して捕らえられたが、その勇敢な抵抗を評価したバトゥによって助命されたと伝えられる。[7]

キーウの陥落は、すでに諸公国へ分裂していたルーシにとって重大な転換点となった。キーウは侵攻以前から統一国家の実効的な首都ではなくなっていたものの、ルーシの歴史的・宗教的中心として重要な位置を占めていた。その破壊は、南ルーシの政治秩序と経済活動に深刻な影響を与えた。[8]

キーウの攻略後、モンゴル軍はさらに西進し、1240年末から1241年にかけてヴォルィーニ地方とハールィチ地方を侵攻した。ヴォルィーニの中心都市ヴォロディームィルやハールィチなどが破壊され、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国も大きな被害を受けた。モンゴル軍はさらにポーランドやハンガリー方面へ進出したが、その後は西方への進軍を終え、ヴォルガ川下流域へ戻った。[2]

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国とモンゴルの宗主権

モンゴルの侵攻は南西ルーシに甚大な被害を与えたものの、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の政治的存続を直ちに終わらせたわけではなかった。同国は1199年にロマン・ムスティスラーヴィチがハールィチとヴォルィーニを統合したことに始まり、13世紀にはその子ダヌィーロ・ロマーノヴィチと弟ヴァスィーリコ・ロマーノヴィチのもとで発展していた。[9]

ダヌィーロは1238年にハールィチの支配を確立し、1239年にはキーウを掌握した。モンゴル軍による侵攻後も公国の統治を継続し、1245年のヤロスラフの戦いでは、チェルニーヒウ系の諸公や、これを支援したハンガリー・ポーランドの軍勢を破った。この勝利によって、ダヌィーロはハールィチ地方に対する支配を確固たるものとした。[3]

しかし、軍事的な被害とモンゴル帝国の圧倒的な勢力を前に、ダヌィーロは1246年にバトゥの宮廷を訪れ、モンゴルのハンの宗主権を認めた。これにより、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国もモンゴルへの従属関係に置かれた。ただし、公国の君主は引き続き領内の統治を担い、周辺諸国との外交関係や軍事活動を継続した。[9]

ダヌィーロはモンゴル支配からの脱却を目指し、西ヨーロッパの諸君主やローマ教皇インノケンティウス4世との外交を進めた。1253年には教皇から王冠を授けられ、「ルーシ王」として戴冠した。この戴冠は、南西ルーシにおいてルーシの王権を掲げる君主が存在したことを示している。しかし、西方諸国から期待した軍事援助を得ることはできなかった。[3]

1250年代、ダヌィーロはモンゴルの従属勢力に対する軍事行動を行い、城塞の整備や軍事力の強化を進めた。一時的にはモンゴル軍の攻撃を退けたものの、1250年代末にはモンゴル軍司令官ブルンダイの遠征によって再び圧力を受け、築いた城塞の破却などを余儀なくされた。ダヌィーロの対モンゴル抵抗は、完全な政治的独立を実現するには至らなかった。[2][3]

1264年にダヌィーロが死去した後も、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は存続した。後継者のレーヴ・ダヌィーロヴィチもジョチ・ウルスの宗主権を受け入れつつ公国を統治し、1272年にはリヴィウを新たな政治的中心とした。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は14世紀まで存続し、ルーシの政治的・文化的伝統を継承する地域の一つとなった。[9]

キーウの破壊とその後の歴史

1240年のモンゴル軍による攻略はキーウに壊滅的な被害をもたらしたが、都市の歴史がこの時点で終わったわけではない。13世紀半ばにキーウを訪れた西欧の旅行者は、侵攻による破壊の痕跡と都市の著しい衰退を記録している。しかし、その後もキーウには住民が暮らし、ドニプロ川沿いの都市として存続した。

13世紀後半には、ジョチ・ウルスに従属する諸公の統治下で都市の再興が進んだ。キーウは以前の政治的規模を失ったものの、宗教的・文化的伝統を保持し続けた。キーウ公国もモンゴル侵攻後に完全に消滅したわけではなく、その後も政治的な単位として存続した。[8][10]

ただし、侵攻後のキーウの統治形態や諸公の実際の権限については、同時代の史料が限られており、不明確な点も残る。モンゴルの支配が及んだ時期のキーウを、1240年以前と同じ政治的中心として扱うことも、反対に完全に無人となった都市として扱うことも適切ではない。

14世紀後半には、キーウとその周辺地域はリトアニア大公国の支配下に入った。その後、キーウはリトアニアの統治下においても地域的な政治・宗教・文化の中心として存続した。したがって、モンゴル侵攻後のキーウの歴史を、北東ルーシの政治的発展に吸収されたものとして説明することはできない。[10]

ルーシ諸公国の服属と政治的地位

モンゴル軍の征服活動はルーシ諸公国の広い範囲に及んだが、軍事的征服と、その後の政治的従属関係は区別する必要がある。多くの都市が軍事攻撃を受けて陥落した一方、ノヴゴロド公国のように主要都市が直接攻略されなかった地域も存在した。しかし、直接的な軍事占領を免れた地域にも、後にモンゴルへの貢納や宗主権の承認が求められた。[11]

また、モンゴルへの服属は、必ずしもすべての公国が直接統治下に置かれたことを意味しない。モンゴルのハンは、諸公に支配権を認めるとともに貢納などの義務を課し、必要に応じて諸公間の政治的対立に介入した。ハンの発給する叙任文書であるヤルリイク(ヤルルィーク)は、こうした宗主権を示す制度の一つであった。[11]

1243年、バトゥは北東ルーシのヤロスラフ・フセヴォロドヴィチにウラジーミル大公の地位を認めた。その後、アレクサンドル・ネフスキーにもキーウ大公の称号が認められたが、称号の授与はキーウの都市とその周辺を実際に直接統治していたことを意味するものではなかった。ウラジーミル大公の地位と、キーウの政治的な帰属や統治の実態は区別して理解する必要がある。[11]

一方、南西ルーシのダヌィーロ・ロマーノヴィチは、モンゴルの宗主権を認めながらも、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を統治し、1253年には「ルーシ王」として戴冠した。このように、モンゴル支配下のルーシでは、大公位、地方の公位、王号など複数の政治的称号が併存していた。これらの称号を、すべてのルーシ諸地域に対する単一の実効的支配権と同一視することはできない。[3]

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は、モンゴルの宗主権を認めながらも、北東ルーシの諸公国とは異なる形態の従属関係に置かれていた。ウクライナ国立学士院の『ウクライナ史百科事典(ウクライナ語版、英語版)』によれば、北東ルーシの諸公国がジョチ・ウルスによる強い政治的統制を受けたのに対し、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は地理的な隔たりもあって、比較的広い政治的自律性を維持していた。その従属関係は、ハンへの臣従の表明、貢納、およびモンゴル軍の遠征への補助部隊の派遣などを中心としていた。ただし、モンゴル側は公国の勢力拡大を無制限に容認したわけではなく、その対外的な活動には制約が存在した。[12]

このように、モンゴルによる征服はルーシ諸公国に広く影響を与えたものの、その後の政治的発展は地域ごとに異なっていた。南西ルーシではハールィチ・ヴォルィーニ大公国が存続し、北東ルーシではウラジーミル大公位をめぐる諸公の競合が続いた。また、キーウとその周辺地域も独自の歴史的展開をたどった。モンゴル支配の歴史を理解するうえでは、これらの地域的な相違を踏まえる必要がある。

内実

間接統治とヤルリイク

ジョチ・ウルスの版図(西暦1300年頃)

ジョチ・ウルスによるルーシ支配は、征服地のすべてを同一の方法で統治するものではなかった。モンゴルのハンは、征服した諸地域の既存の支配者や政治的制度を一定程度存続させる一方、貢納、軍事的協力、道路および駅伝網の維持などの義務を課した。各公国の政治的自律性やハンによる介入の程度は地域ごとに異なり、特にキーウ周辺とハールィチ・ヴォルィーニでは異なる形態の従属関係が成立した。[5][13]

モンゴルの支配制度の一つに、ハンが発給するヤルリイクがあった。ヤルリイクはモンゴル帝国とその後継国家における君主の命令文書であり、臣下への統治上の指示、政治的権限の承認、租税上の特権の付与などに用いられた。ルーシ諸公国においても、ハンによる公位や統治権の承認は宗主権を示す重要な手段となった。[14]

モンゴルによる征服後、キーウはジョチ・ウルスの宗主権下に置かれた。前述した『ウクライナ史百科事典』によれば、ハンの発給したヤルリイクによって、北東ルーシのウラジーミル・スーズダリ系諸公がキーウに対する名目的な上位権力を認められた。しかし、これらの諸公はキーウに居住して直接統治したわけではなく、名目的な支配権と現地の統治の実態には隔たりがあった。この政治的関係は、北東ルーシの諸公国がキーウを実効的に支配したりキーウ・ルーシの政治的伝統を独占的に継承したことを意味するものではない。[5]

一方、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では、ダヌィーロ・ロマーノヴィチが1246年にモンゴルの宗主権を承認した後も、公国の統治を継続した。ダヌィーロとその後継者たちは、ハンへの従属関係を維持しながら、ポーランド、ハンガリー、リトアニアなどの周辺諸国との外交や軍事活動を行った。このことは、モンゴルへの服属が、必ずしも従来の君主権や対外的な政治活動の全面的な消滅を意味しなかったことを示している。[5][15]

ただし、モンゴル側は服属する諸公国の勢力拡大を無条件に認めたわけではなかった。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では、ダヌィーロがモンゴルへの抵抗を試みたものの、1259年にはモンゴル軍司令官ブルンダイによる軍事的圧力を受けた。したがって、同公国が一定の自治を維持していたことと、モンゴルの宗主権から独立していたことは区別する必要がある。[5]

キーウ・南西ルーシにおける支配形態の地域差

モンゴルによる征服後、現在のウクライナにあたる諸地域では、ジョチ・ウルスへの政治的・経済的な従属の程度に大きな違いが生じた。ドニプロ川中流域ではモンゴルの支配が強く及んだ一方、さらに西方に位置するハールィチ・ヴォルィーニ大公国では、従来の政治的制度や支配者の権限が比較的広く維持された。[5]

キーウ周辺では、ハンによる公位の承認や政治的干渉が行われ、モンゴルの宗主権が地域の政治秩序を規定した。ペレヤスラウ公国の領域では、モンゴルの侵攻によって都市や定住社会が大きな打撃を受け、草原地帯の遊牧的な政治・経済秩序の影響が拡大した。チェルニーヒウ公国の領域では、従来の公国がさらに小規模な領邦へ分裂していった。[5]

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では、モンゴルの宗主権に対する服属は、ハンへの忠誠の表明、貢納、モンゴル軍の遠征への補助部隊の派遣などを中心としていた。同国はジョチ・ウルスと、モンゴルの直接的な支配を受けていないポーランド、ハンガリー、リトアニアとの間に位置しており、この地理的条件も公国の政治的な活動範囲に影響した。[5]

しかし、こうした比較的広い自治にも限界があった。ダヌィーロによる対モンゴル抵抗に対してジョチ・ウルスは軍事的に介入し、ハールィチ・ヴォルィーニの東方への勢力拡大にも制約を加えた。モンゴルによるルーシ支配は、単一の行政制度が全地域に均等に適用されたものではなく、各地域の地理的条件や政治的関係に応じて異なる形態をとっていた。[5]

宗教政策

モンゴル帝国およびジョチ・ウルスの支配者たちは、征服地の宗教組織に対して一般に寛容な政策を採用した。ルーシの正教会もその信仰を維持することを認められ、聖職者や教会組織には租税上の特権が与えられた。1261年にはジョチ・ウルスの首都サライに正教会の主教座が設置された。こうした政策は、ルーシの正教会とジョチ・ウルスとの間に継続的な関係が存在したことを示している。[16]

しかし、宗教上の寛容は、征服戦争による宗教施設の破壊や、ルーシの教会組織が被った損失を意味のないものとするわけではなかった。1240年のキーウ攻略では、教会や都市の建造物が大きな被害を受けた。その一方で、キーウの聖ソフィア大聖堂やペチェールシク修道院などでは、その後も宗教活動が継続していた。1240年の侵攻によってキーウの宗教的伝統が完全に消滅したわけではなかった。[5]

モンゴル支配下では、キーウ府主教座を中心とするルーシの正教会組織にも変化が生じた。キーウ府主教キリロス2世は、ジョチ・ウルスの支配者から教会に対する特権を獲得するとともに、広大なルーシの諸地域における教会組織の活動を維持しようとした。しかし、モンゴル侵攻後、府主教の活動拠点は各地へ移り、1299年には府主教マクシモスが居所を北東ルーシのウラジーミルへ移転した。[17][18]

これに対し、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の支配者たちは、北東ルーシに置かれた府主教の居所から離れた地域における教会統治の必要性を訴えた。その結果、1303年にハールィチ府主教座が成立した。この府主教座はコンスタンティノープル総主教庁の承認のもとに設置され、ハールィチ・ヴォルィーニの正教会組織を統括する役割を担った。[19]

また、ダヌィーロ・ロマーノヴィチはモンゴルに対抗する軍事的支援を得るため、ローマ教皇インノケンティウス4世との外交交渉を行った。1253年には教皇の承認を受けて「ルーシ王」として戴冠したが、期待した軍事援助は実現しなかった。この外交関係は、南西ルーシにおいて宗教政策と国際政治が密接に結びついていたことを示している。[17]

ジョチ・ウルスでは14世紀のウズベク・ハンの治世にイスラーム教が国家の宗教として確立したが、ルーシの正教会組織はその後も存続した。モンゴル支配期の宗教史を理解するうえでは、ジョチ・ウルスの宗教的寛容と、キーウおよび南西ルーシにおける教会組織の独自の発展を区別して考える必要がある。[13][18]

ダルーガとバスカク

ジョチ・ウルスの支配を維持するうえで、征服地からの貢納と行政的な監督は重要な役割を果たした。ルーシ諸地域の住民には貢納や軍事的な義務が課され、その履行を確保するためにモンゴル側の官吏が活動した。課税や人口調査の実施状況は地域によって異なり、すべての公国に同一の行政制度が設置されたわけではなかった。[13]

バスカクは、モンゴル帝国およびジョチ・ウルスの行政制度における高位の官吏であり、貢納の徴収、軍事的動員、治安の維持、現地支配者の監督などに関与した。バスカクは特にジョチ・ウルスへの従属が強い地域に配置され、軍事力を伴って統治を監督する場合があった。[20]

一方、ダルーガ(ダルガチ)も、モンゴル支配下における行政・財政上の監督に関わる官職であった。これらの官職の具体的な権限や相互関係については、史料の不足から明らかでない点も多い。また、バスカクの設置や廃止はルーシの各地域で同時に進んだとは限らず、その制度的な変化を一律に説明することはできない。[20]

ウクライナでも、ジョチ・ウルスの支配の強さによって徴税制度のあり方は異なっていた。キーウ周辺などドニプロ川中流域では強い政治的な従属関係が成立した一方、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では、現地の君主が統治権を保持したまま、ハンへの貢納や軍事的な協力を行った。バスカクの存在や活動範囲は、こうした地域差を理解する際の重要な要素となる。[5]

また、モンゴルの支配は平時の貢納制度だけで維持されたわけではなかった。服属する諸公がハンの要求に従わない場合には、軍事的な介入が行われることもあった。ハールィチ・ヴォルィーニ大公国に対する1259年のブルンダイの遠征は、その一例である。したがって、ジョチ・ウルスの課税・監督制度は、軍事的優位を背景として機能していた。[16]

駅伝制度

モンゴル帝国では、広大な支配領域を結ぶ通信・交通制度として「ジャムチ」と呼ばれる駅伝制度が発達した。この制度では、交通路沿いに設けられた駅が、官吏や使者の移動、情報の伝達、必要な物資の輸送を支えた。ジョチ・ウルスでも同様の制度が整備され、支配下の住民には道路や駅伝網の維持に関する義務が課された。[13]

ジョチ・ウルスの政治的・経済的な活動は、ヴォルガ川流域、黒海北岸、クリミア半島を中心とする広大な交通網と結びついていた。南西ルーシの諸都市もこうした広域的な交通・交易関係の影響を受け、リヴィウ、サライ、ホラズムなどを結ぶ陸上交易路が東西の物資の流通に関わっていた。これらの商業交易路とモンゴルの行政上の駅伝網は、用途を区別して理解する必要がある。[13]

ただし、広域交通網の発展は、すべての都市や地域が同じように経済的利益を得たことを意味しない。モンゴルによる侵攻で破壊された都市も存在し、従来の交通路や商業活動にも変化が生じた。特に南西ルーシでは、従来の黒海方面への交易に加え、ポーランドやバルト海方面へ結びつく交易路の重要性が増していった。[21]

モンゴル支配からの脱却

モンゴルのルーシ侵攻によって成立したジョチ・ウルスへの従属関係は、ルーシの各地域で異なる形態をとっていた。そのため、モンゴル支配の後退と各地域の政治的な再編も、一律の時期や過程によって進んだわけではなかった。

現在のウクライナにあたる地域では、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国が13世紀後半から14世紀にかけて一定の政治的自律性を維持した一方、キーウやチェルニーヒウなどのドニプロ川中流域ではジョチ・ウルスの強い宗主権が継続した。14世紀には、ハールィチ・ヴォルィーニの継承をめぐる政治的対立、ジョチ・ウルス内部の混乱、リトアニア大公国の進出によって、これらの地域の支配関係が大きく変化した。

特に、1362年前後のキーウにおけるリトアニア支配の成立は、南ルーシの政治史における重要な転換点となった。しかし、こうした変化は現在のウクライナ全域におけるジョチ・ウルス系勢力の支配の終結を意味せず、黒海北岸やクリミア半島ではその後もモンゴル系の政治勢力が存続した[22][23]。

ハールィチ・ヴォルィーニの継承とジョチ・ウルスの影響力の変化

14世紀に入ると、ジョチ・ウルスの宗主権下に置かれたルーシ諸地域では、政治的な支配関係の変化が進んだ。現在のウクライナにあたる地域では、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の継承をめぐる争い、リトアニア大公国の勢力拡大、ジョチ・ウルス内部の政治的混乱が、地域の支配秩序を大きく変化させることとなった。こうした過程は北東ルーシの諸公国の政治的発展とは異なる経緯をたどった。[23]

1323年にハールィチ・ヴォルィーニのロマーノヴィチ家の男系君主が途絶えると、公位の継承をめぐって周辺諸国の介入が強まった。1325年頃には、マゾフシェのピャスト家出身でロマーノヴィチ家の血統を引くボレスワフ・トロイデノヴィチが公位に迎えられ、正教会の洗礼を受けてユーリー2世ボレスラフを名乗った。ユーリー2世は自らを「ルーシ王」と称し、ポーランド王国とジョチ・ウルスからの圧力の間で政治的自立を維持しようとした。[23]

ユーリー2世はリトアニア大公ゲディミナスの娘エウフェミアと結婚し、ドイツ騎士団とも外交関係を結んだ。また、都市自治の整備やハールィチ府主教座の再興などを進めた。しかし、1340年に貴族の反乱によって殺害されると、ハールィチ・ヴォルィーニの継承をめぐる争いが激化した。[23]

1340年、リトアニアのゲディミナス家に属するリュバルタス(リュバルト・ドミトロ)がハールィチ・ヴォルィーニの支配権を主張し、ヴォルィーニを中心に勢力を確立した。一方、ポーランド王カジミェシュ3世もガリツィアへの勢力拡大を開始した。現地のルーシ系貴族は独自の政治的立場を維持しようとし、ドミトロ・デトコは「ルーシの地の統治者」として活動した。[23]

この継承争いにはジョチ・ウルスも関与した。1340年代、ジョチ・ウルスは現地の貴族勢力を支援し、ポーランドとリトアニアの勢力均衡に影響を及ぼそうとした。しかし、1349年にはカジミェシュ3世がガリツィアの主要地域を占領し、ジョチ・ウルスの西方への影響力は次第に後退した。ヴォルィーニではリュバルタスが支配を維持し、ポーランドとリトアニアの間で領土をめぐる抗争が続いた。[23]

これらの抗争の結果、旧ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の領域は複数の政治勢力の支配下に分かれていった。1387年にはガリツィアがポーランド王冠領に組み込まれ、ヴォルィーニはリトアニア大公国の支配下にとどまった。ただし、政治的な宗主権の変化によって、地域のルーシ系住民の社会制度や文化的・宗教的伝統が直ちに消滅したわけではなかった。[23]

キーウ・チェルニーヒウにおけるジョチ・ウルスの支配とリトアニアの進出

キーウおよびチェルニーヒウを中心とするドニプロ川中流域では、14世紀半ばまでジョチ・ウルスの政治的支配が維持されていた。ハールィチ・ヴォルィーニとは異なり、この地域ではハンによる公位の承認やバスカクによる監督が地域の政治秩序に深く関与していた。諸公国や地域共同体は、それぞれの内部的な政治制度を保ちながらも、ジョチ・ウルスへの従属関係に置かれていた。[22]

リトアニア大公国は、14世紀前半からルーシ西部への勢力拡大を進めていた。リトアニアの諸公は、現地のルーシ系支配層との協定や婚姻関係などを通じて統治権を獲得した。こうした政治的な編入は、必ずしも軍事的征服だけによって実現したものではなく、地域の既存の支配層との妥協を伴う場合もあった。[22]

一方、1359年にハンのベルディ・ベクが殺害されると、ジョチ・ウルスでは長期にわたる内紛が始まった。この混乱は、しばしば「大いなる混乱」と呼ばれ、中央政府による各地域への統制を著しく弱めた。ヴォルガ川流域と黒海北岸の諸勢力が対立するなかで、ドニプロ川中流域におけるジョチ・ウルスの政治的支配にも変化が生じた。[22]

この時期、ジョチ・ウルス西部では軍事指導者ママイが勢力を拡大した。ママイの主要な関心がジョチ・ウルス内部の権力争いに向けられたことは、リトアニア大公国によるドニプロ川流域への進出を容易にした。ママイがリトアニア大公アルギルダス(オリヘルド)に対してキーウやポジーリャの支配を認めたとする見解がある一方、両者による共同支配が成立していたとする見解もあり、当時の政治的関係については研究上の議論がある。[22]

1362年前後、アルギルダスはキーウおよびチェルニーヒウ周辺へ勢力を拡大し、これらの地域はリトアニア大公国の統治下に入った。この政治的変化は、キーウがジョチ・ウルスの強い支配下にあった状態から、リトアニア・ルーシの政治秩序へ組み込まれる転換点となった。ただし、その編入の具体的な経緯やジョチ・ウルスとの関係については不明な点も残る。[22]

青水の戦いとキーウ・ポジーリャの政治的発展

1362年前後には、リトアニア大公アルギルダスの軍勢とジョチ・ウルス系の諸勢力が、青水の戦いで衝突したと伝えられる。伝承によれば、アルギルダスはポジーリャを支配していた3人のタタール系諸公の軍勢を破った。この戦いは、ポジーリャにおけるリトアニア大公国の勢力拡大と関連づけられてきた。しかし、戦闘の実在、年代、規模および具体的な影響については史料が限られており、歴史学上の議論が続いている。[24]

キーウでは、アルギルダスの子ヴォロディームィル・オーリヘルドヴィチが公として統治を行った。キーウ公国はリトアニア大公国の枠組みのなかで存続し、ヴォロディームィルは独自の貨幣を発行するなど、一定の政治的権限を行使した。こうした統治は、キーウが1240年のモンゴル侵攻後も地域的な政治的中心としての歴史を継続していたことを示している。[25]

また、ポジーリャでは、ゲディミナス家に属するコリヤトヴィチ家の諸公が勢力を拡大した。同地域では、ジョチ・ウルスの政治的影響が後退するなかで、リトアニア系諸公による地域的な統治機構が形成された。ポジーリャ公国は、ドニプロ川右岸の森林草原地帯における重要な政治的勢力となった。[22]

しかし、ジョチ・ウルスの支配からの離脱は一時的かつ全面的な断絶を意味したわけではなかった。キーウ公国の貨幣にはジョチ・ウルスの影響を示す意匠も見られ、その政治的関係をめぐっては、リトアニアとジョチ・ウルスによる共同支配の可能性も論じられている。リトアニアの支配が成立した後も、ジョチ・ウルスの宗主権や政治的影響がどの程度残っていたかについては慎重な検討が必要である。[22][25]

ジョチ・ウルスの勢力後退とその限界

14世紀後半、ジョチ・ウルスではママイとトクタミシュらによる権力争いが続いた。1380年にママイが敗北すると、トクタミシュはジョチ・ウルスの再統合を進めた。しかし、内紛による政治的・経済的な混乱を完全に克服することはできなかった。ジョチ・ウルスはその後も東ヨーロッパの広い地域に軍事的影響力を保持したが、ドニプロ川中流域に対する従来の統制を全面的に回復することは困難になっていた。[22]

1390年代には、中央アジアの支配者ティムールによる遠征がジョチ・ウルスに甚大な被害を与え、その政治的・経済的基盤はさらに弱体化した。ジョチ・ウルスの勢力後退は、リトアニア大公国によるウクライナ諸地域への影響力の拡大を促した。[22]

一方、ジョチ・ウルスは軍事的な影響力を完全に失ったわけではなかった。1399年のヴォルスクラ川の戦いでは、ティムール・クトルクとエディゲの率いるジョチ・ウルス軍が、リトアニア大公ヴィータウタスとトクタミシュの連合軍を破った。しかし、この勝利によっても、ジョチ・ウルスが南ルーシの諸都市に対する従来の支配を全面的に回復することはなかった。[22]

このように、14世紀のキーウ、チェルニーヒウ、ポジーリャでは、ジョチ・ウルスの直接的な統制が後退し、リトアニア大公国の統治へと移行する地域が現れた。一方、ガリツィアとヴォルィーニでは、ハールィチ・ヴォルィーニの継承をめぐる争いを通じて、ポーランドとリトアニアの支配が確立されていった。[23][22]

ただし、現在のウクライナにあたる地域のすべてが14世紀にジョチ・ウルスの政治的影響から離脱したわけではない。黒海北岸やクリミア半島などの南部地域では、ジョチ・ウルス系の諸勢力による政治的・軍事的な支配がその後も続いた。15世紀にはクリミア・ハン国などの後継勢力が成立し、ウクライナ諸地域と草原勢力との関係は新たな形態へと移行していった。[22]

モンゴル支配からの脱却は、ルーシの全地域が一つの政治的中心のもとで同時に独立する過程ではなかった。キーウとその周辺ではリトアニア・ルーシの政治秩序が成立し、ハールィチ・ヴォルィーニの旧領ではポーランドとリトアニアによる統治が進んだ。その一方、南部の草原地帯にはジョチ・ウルスの後継勢力が存続した。これらの地域的な違いは、モンゴル征服後のルーシの歴史を理解するうえで重要である。

ルーシ社会への影響と歴史的意義

モンゴルのルーシ侵攻と、その後のジョチ・ウルスによる支配は、ルーシ諸地域の政治体制、社会構造、都市経済、宗教および文化に長期的な影響を与えた。ただし、その影響は地域によって異なり、侵攻による直接的な被害と、その後のモンゴル支配下における社会の変化も区別する必要がある。特に、現在のウクライナにあたる地域では、キーウを中心とするドニプロ川中流域と、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を中心とする南西ルーシとで、政治的・社会的な発展に相違が見られた。[26]

都市社会と人口への影響

1239年から1241年にかけてのモンゴル軍の侵攻は、南ルーシの諸都市と住民に甚大な被害をもたらした。ペレヤスラウ、チェルニーヒウ、キーウ、ヴォロディームィル、ハールィチなどの都市が攻撃を受け、建造物の破壊、住民の殺害や移動、商工業活動の衰退が生じた。都市を支えていた職人、商人、軍事的・政治的な支配層も打撃を受け、従来の都市社会の構造に大きな変化がもたらされた。[26]

ウクライナ国立科学アカデミーの『ウクライナ歴史百科事典』によれば、考古学的に調査された12~13世紀のルーシの都市74か所のうち、49か所がモンゴル軍の侵攻によって破壊されたとされる。そのうち14か所は再建されず、15か所は村落として再生した。一方、すべての都市が完全に消滅したわけではなく、侵攻による被害の程度や復興の過程は地域ごとに異なっていた。[26]

1240年に陥落したキーウについても、都市が完全に無人となり、その歴史が途絶えたとする説明は適切ではない。1246年にキーウを通過したフランシスコ会修道士プラノ・カルピニは、都市の著しい荒廃を伝える一方、外国人商人の存在も記録している。さらに、考古学的調査によって、モンゴル軍の攻撃で大きな被害を受けた地区を含め、1240年以降もキーウの各地区で住民の生活が続いていたことが確認されている。ただし、都市活動の規模は侵攻以前と比較して明らかに縮小していた。[27]

モンゴル軍による侵攻後、ヴィーシュホロドやキーウ周辺の都市遺跡でも破壊の痕跡が確認されている。こうした被害は都市の交易、手工業、行政機能を弱体化させ、地域の人口分布にも影響を与えた。しかし、都市の破壊がそのまま周辺住民の全面的な消滅を意味するわけではなく、従来の住民が各地で生活を継続したことも考古学的な研究によって示されている。[27]

南西ルーシでは、侵攻後もダヌィーロ・ロマーノヴィチとその後継者たちが都市の再建と発展を進めた。特にホルムやリヴィウなどの都市は、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の政治的・経済的中心として発展した。ルーシの諸公は西方から職人や商人を招き、都市に特権を与えることによって経済活動を促進した。こうした動きは、モンゴル侵攻後の南西ルーシにおいて、従来の都市文化が変化しながらも存続していたことを示している。[28]

政治制度と社会構造の変化

モンゴル征服以前のルーシでは、リューリク朝の諸公が各地の公国を統治し、キーウの大公位は重要な政治的権威を持っていた。しかし、12世紀から諸公国の政治的分立はすでに進行しており、13世紀のモンゴル侵攻は、このような既存の政治的状況に新たな変化をもたらした。[26]

モンゴル支配下では、ハンが各地の諸公の地位を承認し、貢納や軍事的協力を要求する政治的秩序が成立した。従来のリューリク朝諸公による政治制度は各地で一定程度存続したものの、公位の承認や諸公間の対立に対してジョチ・ウルスが影響力を及ぼすようになった。また、モンゴル軍の侵攻によって公や貴族、軍事的従者の一部が失われ、政治的支配層の構成にも変化が生じた。[26]

南ルーシでは、キーウ、ペレヤスラウ、チェルニーヒウの各地域が、モンゴル支配のもとで異なる政治的発展を遂げた。キーウは従来の広域的な政治的優越性を失い、ペレヤスラウ周辺では定住社会が大きく衰退した。一方、チェルニーヒウの領域では諸公国の分立が進んだ。これに対し、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では、現地の君主が比較的広い政治的自律性を維持し、ジョチ・ウルスへの服属と周辺諸国との外交を並行して行った。[27]

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国はモンゴルの宗主権を認めながらも、その政治的制度を存続させた。同国では、ダヌィーロとその後継者たちが引き続きルーシの君主として統治を行い、13世紀後半から14世紀初頭にかけても王号や公位が使用された。このように、モンゴル征服後のルーシにおける政治的権威は、一つの公国や王統のみに集中していたわけではなかった。[27]

14世紀には、ジョチ・ウルスの政治的混乱、リトアニア大公国の勢力拡大、ハールィチ・ヴォルィーニの継承をめぐる争いによって、ルーシ諸地域の政治的支配関係はさらに変化した。現在のウクライナにあたる地域では、キーウやヴォルィーニなどがリトアニア大公国の支配下に入り、ガリツィアの多くはポーランド王国に組み込まれた。しかし、こうした宗主権の変化によって、ルーシ系住民の政治的・社会的制度や文化的伝統が直ちに消滅したわけではなかった。[26]

宗教・文化的伝統の継続

モンゴル軍による征服は、ルーシの宗教施設や文化活動にも大きな被害を与えた。しかし、正教会の組織と宗教的伝統は征服後も存続した。ジョチ・ウルスの支配者たちは、ルーシの正教会に対して一定の保護と租税上の特権を与えた。1240年代のキーウでは、聖ソフィア大聖堂やペチェールシク修道院などの宗教施設で活動が続いていたことが確認されている。[27]

ルーシの正教会は、キーウ府主教座を中心に発展した歴史を持っていた。1299年にはキーウ府主教マクシモスが居所を北東ルーシのウラジーミルへ移したが、これによってキーウおよび南西ルーシの正教会の歴史が終わったわけではなかった。1303年にはハールィチに独自の府主教座が設置され、コンスタンティノープル総主教庁の承認のもと、南西ルーシの教会組織を統括した。[29]

文学と歴史記録の分野でも、南西ルーシの文化的伝統は存続した。13世紀後半に成立した『ハールィチ・ヴォルィーニ年代記』は、その代表的な史料である。同年代記は、キーウ年代記などのルーシの年代記編纂の伝統を引き継ぎ、13世紀のハールィチ・ヴォルィーニ大公国の歴史を記録した。前半は主にダヌィーロ・ロマーノヴィチの治世を、後半はヴォルィーニの諸公と周辺諸国との関係を扱っている。[30]

『ハールィチ・ヴォルィーニ年代記』の編纂者たちは、ルーシの統一や強力な君主権を重視し、ハールィチ・ヴォルィーニの諸公によるキーウ大公位への要求を支持する立場を示していた。これは、モンゴル征服後も南西ルーシにおいて、ルーシの政治的・文化的伝統が重要な意味を持ち続けていたことを示す。ただし、年代記の政治的評価については、編纂者の立場を踏まえて理解する必要がある。[30]

建築や美術の分野でも、ルーシの伝統は変化しながら継続した。モンゴル侵攻後には大規模な建築活動が衰退したものの、ハールィチ・ヴォルィーニなどの西部地域では、城塞や教会の建設が続けられた。これらの建築には、ルーシ時代の伝統に加えて、周辺のヨーロッパ諸地域との交流による影響も見られた。[31]

経済活動と草原諸民族との交流

ジョチ・ウルスの成立は、ルーシ諸地域と黒海北岸、ヴォルガ川流域、中央アジアとの政治的・経済的関係にも影響を与えた。モンゴルの支配者たちは貢納や交通制度を整備するとともに、広域的な商業活動を保護した。黒海北岸の港湾都市と東方の交易路は、ジョチ・ウルスの経済活動において重要な役割を果たした。[32]

一方、モンゴル征服によって南ルーシの都市の手工業生産は大きく衰退した。技術や製品の品質に悪影響を受けた分野も存在し、職人と従来の市場を結ぶ経済的関係も弱まった。その後、ハールィチ・ヴォルィーニを中心とする西部地域では、都市の再建や手工業の復興が比較的早く進んだ。14世紀後半から15世紀前半には、西部の都市でマクデブルク法に基づく自治と職人組合の発展が見られた。[28]

モンゴル征服後のウクライナ諸地域における社会・文化の変化は、草原諸民族との関係からも理解する必要がある。現在のウクライナ南部や黒海北岸では、モンゴル帝国とジョチ・ウルスの支配のもとで、モンゴル系・テュルク系の諸集団が活動した。ジョチ・ウルスの支配下に置かれた遊牧民の諸集団では、時間の経過とともにテュルク語系の言語・文化を共有する傾向が強まった。[33]

言語の分野では、現在のウクライナ語へと発展する諸方言も、中央ヨーロッパや草原地帯の諸民族との交流から影響を受けた。ウクライナ語史の研究では、古期ウクライナ語に西方の諸言語やテュルク諸語からの借用語が存在することが指摘されている。ただし、こうした言語的交流はモンゴル征服以前にも存在しており、テュルク語系の語彙をすべてジョチ・ウルスによる支配の直接的な結果とみなすことはできない。[34]

ルーシの歴史的継承と地域社会の形成

モンゴル侵攻は、ルーシの政治的秩序を大きく変化させたが、侵攻以前の諸公国はすでに分立していた。そのため、ルーシの政治的一体性の崩壊や、後世の東スラヴ諸民族の形成を、モンゴル侵攻という単一の出来事だけによって説明することはできない。モンゴルによる征服の影響は、侵攻以前から存在していた地域間の政治的・社会的相違に加わる形で現れた。[26]

現在のウクライナにあたる地域では、キーウ・ルーシの政治的・文化的伝統が、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などにおいて継承された。さらに14世紀以降には、リトアニア大公国やポーランド王国の支配下でも、ルーシ系の住民、諸公、貴族、聖職者らによって、地域的な社会制度と宗教・文化活動が維持された。このような発展は、モンゴル征服後のルーシの歴史が、北東ルーシの諸公国の政治的発展のみで説明できないことを示している。[26][30]

言語史の面では、現在のウクライナ語の形成に関わる諸方言に、モンゴル侵攻以前から地域的な特徴が存在していたことが指摘されている。また、13~14世紀の政治的混乱や住民の移動は、それらの方言の発展にも影響を与えた。ただし、中世の言語的・文化的な共同性を、現代の国民国家や民族意識とそのまま同一視することはできない。[34]

モンゴル侵攻後のルーシの継承をめぐっては、後世の歴史学において異なる解釈が形成された。特に、キーウからウラジーミル、さらにモスクワへとルーシの政治的中心が移ったとする単線的な歴史叙述は、ロシア史学で長く用いられてきた。これに対し、ウクライナの歴史家ムィハーイロ・フルシェウシキー(ミハイロ・フルシェフスキー)は、1904年の論文「ロシア史の伝統的図式と東スラヴ史の合理的編成の問題」において、ルーシの歴史を後世のロシア国家の形成史へ一元的に組み込む従来の歴史叙述を批判し、ウクライナ、ロシア、ベラルーシそれぞれの歴史的発展を区別する必要性を論じた。[35]

今日の歴史研究においては、ルーシの政治的・文化的継承を、単一の国家による排他的な継承として説明することには慎重な検討が必要とされる。モンゴル侵攻後の各地域の政治的発展や、そこで存続した社会・宗教・文化の伝統を区別することは、後世のウクライナ、ロシア、ベラルーシの歴史を理解するうえでも重要である。[26]

「タタールのくびき」の歴史学的評価

「タタールのくびき」という概念は、モンゴルおよびジョチ・ウルスのルーシ支配を、外部勢力による圧迫と従属の時代として捉える歴史叙述と深く結びついている。しかし、モンゴル支配の実態は、軍事的征服と破壊だけでなく、既存の政治制度の存続、現地の支配者との協力、貢納、外交、交易などを伴う複合的なものであった。[26]

また、ジョチ・ウルスの支配下にあった諸地域では、モンゴルとの従属関係の程度が異なっていた。ドニプロ川中流域では強い政治的統制が見られた一方、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国では比較的広い自治が維持された。したがって、「タタールのくびき」という表現によって、ルーシのすべての地域で同一の支配制度が成立し、同じ時期に終焉を迎えたかのように理解することは適切ではない。[27]

さらに、モンゴル侵攻以前から進んでいたルーシの政治的分立と、侵攻後に成立した新たな支配関係を区別する必要がある。キーウ・ルーシの政治的・文化的伝統は、モンゴルの征服によって完全に消滅したわけではなく、各地域で異なる形態で継承された。特に南西ルーシでは、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国およびその後のリトアニア・ルーシの政治的・文化的発展を考慮することが重要である。[26]

以上のように、モンゴル支配の歴史的意義は、単にルーシの政治的独立が失われたことに限定されない。侵攻による社会的・経済的損失と、その後の政治制度、都市生活、宗教、文化、住民の分布の変化を地域ごとに検討することによって、モンゴル征服後のルーシの多様な歴史的発展を理解することができる。

脚注

注釈

  1. ↑ 「キプチャク草原」はペルシア語で、この地で遊牧生活を送るキプチャク族の名に由来する。キプチャク族(漢字表記では「欽察族」)は、東ローマ帝国やハンガリーの記録では「クマン人」の名で登場し、ルーシの史料では一般にポロヴェツ族と称される。ポロヴェツ族は、個々の部族連合を形成して遊牧生活を送り、ヴォルガ以東の東ポロヴェツは伝統的にホラズムやアラン族との関係が深く、ヴォルガ以西の西ポロヴェツはルーシや東ローマ帝国、ブルガリアなどと強いつながりをもってきた。ルーシとホラズムはポロヴェツ(キプチャク族)を介しての間接的な関わりしかなかったが、ルーシとポロヴェツの関係は密接なものであった[1]。
  2. ↑ モンゴル帝国の首都カラコルムはモンゴル高原のオルホン渓谷に立地し、カアンの本拠地としてオゴデイによって築かれた。中国本土に明が興り、元の中国支配が終わったのちは北元の首都となった。

出典

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参考文献

書籍・学術論文

  • Langer, Lawrence N. (2023). “The Rus' Principalities”. In Biran, Michal; Kim, Hodong (英語). The Cambridge History of the Mongol Empire. 1. Cambridge University Press. pp. 753–776. doi:10.1017/9781316337424.020 

電子百科事典

関連研究書

  • Magocsi, Paul Robert (2010) (英語). A History of Ukraine: The Land and Its Peoples (2 ed.). University of Toronto Press. ISBN 9781442610217 
  • Plokhy, Serhii (2006) (英語). The Origins of the Slavic Nations: Premodern Identities in Russia, Ukraine, and Belarus. Cambridge University Press. ISBN 9780521864039 

雑誌論文他

  • 中井和夫 著「世界史Q&A ベラルーシ人・ウクライナ人とロシア人の違いについて教えてください」、山川出版社編 編『歴史と地理No.599 世界史の研究209』山川出版社、2006年11月。 NAID 40015191103。 

関連項目