ティッツァーノ・ヴァル・パルマ

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ティッツァーノ・ヴァル・パルマ
Tizzano Val Parma
ティッツァーノ・ヴァル・パルマの紋章 ティッツァーノ・ヴァル・パルマの旗
ローマ広場
ローマ広場(Piazza Roma)
位置
国 イタリア
州 エミリア=ロマーニャ州
県 パルマ県
行政
首長 Isabella Rossi(地域政党 Futuro in Comune)、2024年6月10日から
地理
座標 北緯44度31分14.4秒 東経10度11分55秒 / 北緯44.520667度 東経10.19861度 / 44.520667; 10.19861座標: 北緯44度31分14.4秒 東経10度11分55秒 / 北緯44.520667度 東経10.19861度 / 44.520667; 10.19861
標高 814 m
面積 78.39 km²
人口 2244人(2026年5月31日)[1]
人口密度 28.63人/km²
分離集落 Albazzano, Antognola, Anzolla, Boschetto, Capoponte, Capriglio, Carobbio, Carpaneto, Casagalvana, Casale di Vezzano, Casola, Costa, Fontanafredda, Groppizioso, Groppo, Isola, Lagrimone, Madurera, Moragnano, Musiara Inferiore, Musiara Superiore, Pianestolla, Pietta, Pratolungo, Reno, Rusino, Schia, Treviglio
隣接コムーネ コルニーリオ、ランギラーノ、ネヴィアーノ・デッリアルドゥイーニ、パランツァーノ
その他
郵便番号 43028
市外局番 0521
時間帯 UTC+1
ISTATコード 034039
識別コード L183
ナンバープレート PR
地震分類 3(低度)[2]
気候分類 F、3499度日[3]
守護聖人 聖ピエトロ(San Pietro)、祝日6月29日[4]
住民の呼称 tizzanesi[5]
地図
ティッツァーノ・ヴァル・パルマの位置(イタリア内)
ティッツァーノ・ヴァル・パルマ
ティッツァーノ・ヴァル・パルマ
イタリアにおける位置
パルマ県におけるコムーネの領域
パルマ県におけるコムーネの領域
公式ウェブサイト

ティッツァーノ・ヴァル・パルマ(伊: Tizzano Val Parma、パルマ方言では Tisàn[6][7])は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州パルマ県にある、人口約2200人の基礎自治体(コムーネ)。面積は78.39 km²で、コルニーリオ、ランギラーノ、ネヴィアーノ・デッリアルドゥイーニ、パランツァーノと接している。

地理

位置・広がり

ティッツァーノ・ヴァル・パルマの市域は、パルマ川の中流・上流域の谷の右岸に広がっている。市域にはパルマ川(ランギラーノとの境界をなす)、パルマ川の右岸支流であるパルモッサ川(Parmossa)、および南東部ではエンツァ川の左岸支流であるバルデーア川(Bardea)が流れる。山がちな市域の南部には、プンタ・ボッキアリーニ(Punta Bocchialini)で標高1584 mに達するカイオ山(Monte Caio)の広い山塊がそびえ、南西のコルニーリオ、南東のパランツァーノとの境界をなしている。東にはネヴィアーノ・デッリアルドゥイーニとの境界にフーゾ山(Monte Fuso)がそびえる。[8][9][10]

地すべりの多い市域は、山地では深い森林に覆われ、岩の張り出しや、主に耕作されたなだらかな斜面がそれに混じる。主要な河川の近くにはいくつかの河岸段丘がある。[8][9]

中心集落は、ロトンド山(Monte Rotondo)の北斜面、標高814 mにあり、中世の城の廃墟が残る丘を囲むように広がっている。旧市街は城の南側に、細長い広場と、家並みが続く2本の平行な通りを中心に広がっている。[11][12]

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

地名

Tizzanoという地名は、土地所有者の名に由来する地名(プレディアーレ)である。ラテン語のコグノーメン(家族名)である Titius(または Titus)に接尾辞 -anus が付いたものと考えられる。古代ローマ時代には土地はその所有者の名で呼ばれたため、Tizzanoは「ティティウスまたはティトゥスという人物の土地」を意味したことになる。[13][14] また、方言名(Tisàn)がローマ街道沿いの宿駅を意味するラテン語 statio に似ていることも指摘されている。[15]

伝説

地名をめぐっては、文書の裏付けのない民間伝承がいくつか生まれている。歴史家ボナヴェントゥーラ・アンジェリ(Bonaventura Angeli)によれば、城は「ユリウス・カエサルとポンペイウスの時代」にティトゥスという人物が建てた古い塔の廃墟の上に築かれたとされ、城の一室に大きな文字で書かれたラテン語の詩句がそれを証明していたという。[16] このティトゥスはローマの将軍ティトゥス・コルネリウス・バルブスで、紀元前71年にこの地域に3つの要塞化された村を築き、それぞれに自分の名の一部を与えた、すなわちTizzano、Corniglio、Balloneであったともいわれる。[17][18] 地元の言い伝えの別の形では、ティトゥスはローマの兵士で、兵役を終えたのち、リグリア人との戦争で軍団が通った道沿いに数ユゲルムの土地を与えられ、そこに農場を建てたとされている。[19]

同様に、城の建設中に燃えさしの薪(イタリア語で tizzone)が見つかったことに地名が由来するという説にも根拠はない。[20] この伝説はコムーネの紋章に描かれている。

分離集落の地名

市域のほかの多くの地名もラテン語に由来する。Isolaは insula(「孤立した家、孤立した農場」)、Carobbioは quadrubium(「四つ辻」)、Musiaraは mus(「ネズミ」)、Lagrimoneは ager montium(「山あいの畑」)、Caioは callis(「狭く険しい小道」)、Rusinoは rus(「田園、農場」)、Selvapianaは silva plana(「平らな森」)に由来する。中心集落近くの地区ヴェルターラ(Vertara)の名は、果実の成熟を司る神ウェルトゥムヌスと結びつけられている(Vertumni ara「ウェルトゥムヌスの祭壇」)。[21] パルマ川の渡し場にあるシオーラ(Siola、古くはCiolaまたはSciola)については、二つの語源が提案されている。一つは渡し場を越えるのに使われた担い椅子 sellula に由来するとする説(ここからAntesica、ante sellula「渡し場の手前」も生まれた)、もう一つは修道院の小房・所領を意味する cellula に由来するとする説である。[22]

歴史

先史時代・古代ローマ時代

この地域には青銅器時代にすでに人が住んでおり、中心集落、Femminatiche(Albazzano付近)、Monteremo、Ca' Bottazzo(Moragnano付近)での出土品がそれを示している。[23] Monteremoで見つかった鉄器時代のエトルリアの土器片2点は、この地がパルモッサ川の渡し場を経てLupazzanoへ向かう道沿いにあったことをうかがわせる。[24][25]

古代、パルマのアペニン山地はリグリア人の領域に属していたが、ローマは長い戦争(紀元前238年 - 紀元前155年)の末にこれを征服した。紀元前180年と紀元前179年には、約47,000人のリグリア人がサムニウムへ強制移住させられた。[26] 地元の歴史叙述によれば、アントニヌス旅程表に記された、いわゆる「百マイルの道」がこの地域を通っていた。この道はパルマからパルマ川の谷をさかのぼり、カイオ山を越えてエンツァ川の谷に下り、ラガストレッロ峠でアペニン山脈を越えた。ローマ時代の橋の跡が見つかっていないことから、パルマ川はAntesicaとSiolaの間の渡し場で渡られていたと考えられている。パルマから25ローママイル、現在のPiantalfumo付近には宿駅(statio または マンシオ)があったとされる。[27] 共和政期から帝政期にかけて、Albazzano付近に小さな集落が生まれた。[28] 他のローマ時代の出土品は知られていないが、これは本格的な調査が行われていないためでもある。[29]

中世前期

8世紀から9世紀にかけて、Ciola(現在のCapoponte付近のSiola)は荘園(curtis)として組織され、レッジョ・エミリアのサン・トンマーゾ修道院に属していた。ある財産目録には、播種量(穀物40モッジャ)、農具、家畜、36人の隷属民、そして穀物・羊・鶏・卵・賦役・ワイン11アンフォラを納める10の従属農場が記録されている。[30]

ティッツァーノの村は中世前期に成立した。地名が初めて記録に現れるのは991年3月で、[31] 辺境伯アダルベルト・アットの娘で辺境伯マジンフレードの妻であったプランガルダ(Prangarda)が、ティッツァーノの家屋と財産を銀40リブラでボルゴ・サン・ドンニーノ(現在のフィデンツァ)の教区教会の助祭ランバルド(Rambaldo)に売却した文書においてである。[32][33][34] 1004年8月22日には、故アダモの息子で「de loco qui dicitur Antisica」のランゴバルド人グイド(Guido)が、婚約者リキルダ(Richilda)に、Cattabiano、Cisiliano、ティッツァーノにあるブドウ畑・耕地12ユゲルムと森林6ユゲルムを含む3つの農場を贈与している。[35] 同じ数十年の間に、文書にはCarobbio(912年)、Isola(Insula Vallis Parmae、999年10月10日)、Casola(Casule、1000年)も現れるが、Albazzanoを記した880年の文書は偽作とみなされている。[36] 1016年には、パルマのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ修道院のベネディクト会士が所有していたCiolaのサンタ・カテリーナ礼拝堂が、アット家の一支流に属するアンテジカのエヴェラルド(Everardo)の遺言状に記されている。[37]

集落はサン・ピエトロのピエーヴェ(洗礼教会)の近くにあった。この教会はほぼ確実に10世紀ごろに建てられ、[38][39] 11世紀末から12世紀初めにかけて、三廊式で後陣を備えた教会として再建された。[40] 教会は1005年6月11日、パルマ司教シジフレード2世の Ordo Archipresbiterorum Plebium に初めて記されている。[32] 同じ日付の司教の寄進状には、証人として「Bonizo archipresbiter Sancti Petri de Ticiano」の名がある。[41] 1272年の銘をもつ大鐘は、司教区で最も古いものとされる。[42] 1230年の Rotulus decimarum(十分の一税台帳)では、Cerretoのサンタンドレア、Albazzanoのサン・ジェネージオ、Carobbioのサン・マウリツィオ、Fontanafreddaのサン・ジョルジョの各教会がこのピエーヴェに属していた。[43]

城とテルツィ家

10世紀または11世紀に、村の南にパルマ川の谷と塩の道を見張る城が築かれた。城は11世紀以降の記録に現れる。[44] 信頼性の疑わしい記録によれば、13世紀初めに封土はジベルト3世・ダ・コッレッジョ(Giberto III da Correggio)のものであったが、1247年に皇帝フリードリヒ2世がこれをテルツィ家の祖先であるダ・コルナッツァーノ家に与えたという。[44][32][45][46][47] 1309年には各村の住民がティッツァーノの法規(Statuti)を定めたが、これは領主から押し付けられたものではなかった。[48]

1364年、ニッコロ・テルツィ(父)とジベルトの兄弟は、ティッツァーノとベルヴェデーレ(現在のロッカ・ディ・ルジーノ)の城についてベルナボ・ヴィスコンティに忠誠を誓った。[49][50] 1386年、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティはニッコロとその相続人に封土を確認し、ティッツァーノにより広い自由を与えた。[51][52] 1387年8月19日、ローマ王ヴェンツェルはニュルンベルクで封印した証書によってティッツァーノを伯爵領に昇格させた。[51][53][54][55][45][56] このとき、それまでVaccarizzaと呼ばれていた地にRenoという名が初めて現れる。[57] ニッコロは1398年1月にベルガモで死去し、息子のオットブオーノ、ジャコモ、ジョヴァンニが残された。[58] ヴィスコンティ家に仕えた傭兵隊長オットブオーノは、1395年から1405年にかけてベルヴェデーレの城を建設または再建した。[59] 1372年には、Albazzanoのサン・ジェネージオの市についての最初の記録がある。この市は8月に開かれ、ワイン税を除くすべての税を免除されていた。[60]

1409年5月27日、オットブオーノがルビエーラ近くのヴァルヴェルデでムツィオ・アッテンドロ・スフォルツァの待ち伏せにより殺害されると、フィエスキ家が城を占拠した。[61][45][62] パルマは5月25日に市内に入っていたエステ家の手に渡った。[63] 1415年の塩の査定(estimo del sale)では、エステ家への支持に報いて、ティッツァーノの封土はAlbazzano、Anzolla、Isola、Piettaの村を除いて塩税を免除された。[64] 「戦士」と呼ばれたオットブオーノの息子ニッコロは、のちにティッツァーノ伯の称号を取り戻し、ヴィスコンティ家の支配が終わるまでこれを保った。[65] その後パルマはフランチェスコ・スフォルツァの手に移り、テルツィ家はマントヴァのゴンザーガ家のもとへ逃れた。

パッラヴィチーノ家からファルネーゼ家へ

スフォルツァは、フィアスコと呼ばれたピエトロ・ギラージオ(またはジラージオ)・ダ・コントラーノ(Pietro Ghirasio da Contrano)に封土を与えた。[53][39][45][66] 1478年、その息子アゴランテは、兄弟のアンフィトリオーネが公爵の告発に対して弁明するためミラノにいる間に、封土を侯爵ジャンフランチェスコ・パッラヴィチーノ(Gianfrancesco Pallavicino)に売却した。アンフィトリオーネはのちに封土を取り戻そうとしたが果たせなかった。[53][39][45][67] 1495年4月7日、ルドヴィーコ・イル・モーロはパッラヴィチーノへの授封を確認した。[68][69] 15世紀末、集落はさらに南の城の丘の上に再建され、マドンナ・デル・サント・ロザリオ礼拝堂が建てられた。[70] これに先立つ1476年8月1日には、城内に聖バルトロマイと聖ゲオルギオスの礼拝堂が設けられていた。[71]

1497年11月29日の遺言でジャンフランチェスコは財産を息子たちに分け、嫡出の男系に限って相続させることとし、長男ガスパレ(Gaspare)にティッツァーノとバッローネの封土を「村々、所領、水車、牧草地、放牧地、漁業権、宿屋、通行税、各種の税、地代および収入とともに」遺した。[72] 1518年にガスパレが跡継ぎなく死去すると、長い争いが始まった。一方はロランド・パッラヴィチーノ(1529年没)の娘バルバラとテオドーラ、およびバルバラの夫ルドヴィーコ・ランゴーニであり、他方は1530年に遺言の定めにもとづいて城の権利を主張したベルナルディーノ・パッラヴィチーノの息子たち、ならびにポリドーロの娘リヴィアとその夫グレゴリオ・カザーリであった。カザーリ側の権利はのちにノヴェッラーラのゴンザーガ家に移った。[73] 城はパルマの軍、次いでピエール・ルイージ・ファルネーゼの軍に占拠され、封土は没収された。没収の間は、公爵の財務院が任命した代官がポデスタ(podestà、行政長官)に代わって統治した。[74]

1551年のパルマ戦争の際、城にはフランス軍の守備隊が置かれていた。9月7日、フェランテ・ゴンザーガの皇帝軍が城を砲撃し、フランス軍は夜のうちに城を放棄し、村は略奪された。[53][39][75][45] 公爵オッターヴィオ・ファルネーゼは1569年4月22日に没収を解き、各相続人から封土の持分を買い取って争いを終わらせた。すなわち1571年5月4日にミケーレ・カザーリから、1571年11月12日にジュリオ・ランゴーニ伯から、1572年6月12日にカミッロとアルフォンソ・ゴンザーガから買い取った。[53][39][75][45][76] 1581年にオッターヴィオが始めた軍の再編で、ティッツァーノは公国の10個の歩兵連隊(terzi)の一つの本拠地となった。[77]

近世の経済と社会

1571年、封土の収入は3458リラであった。主な項目は、村々の納める税(576リラ。最も多いのはBallone、最も少ないのはIsola)、ワイン・肉・通行・秤量およびサン・ジェネージオの市にかかる税、7つの大農場の地代、そして小麦で納められたMasere、Groppo、Piettaの領主の水車小屋の賃料であった。城に住むポデスタは年に120リラを受け取っていた。[78] 領民は領主の水車小屋を使う義務があり、水路の維持も無償で行わなければならなかった。[79] 1573年には7つの農場の賃貸借が7年延長され、1582年5月30日には他の土地とともに売却された。[80]

1581年の調査では、封土の人口は549世帯2628人(7歳未満の子どもを除く)で、牛1845頭、羊と山羊4394頭がいた。[81] 経済は穀物、栗、ワイン、麻と牧畜に支えられていた。16世紀のある代官はこの地を「快く肥沃で、極上のワインを産するブドウ畑が多い」と記し、住民を「裕福で商売上手であり、とくに家畜と麻布を商う」と評している。[82] 季節的な出稼ぎも盛んで、16歳から60歳までの男たちは種まきの後にマレンマやコルシカ島へ出かけ、復活祭の後に戻ってきた。1545年には村々の人口の20 - 30%が出稼ぎに出ており、Carobbioでは半数に及んだ。[83]

ドーリア家、リベラーティ家、ヴェントゥーラ家

1650年、公爵ラヌッチョ2世・ファルネーゼは封土をジェノヴァの侯爵ドメニコ・ドーリア(Domenico Doria)に売却した。[53][39][45][84] 18世紀初め、ドーリア家は、パルマ川の洪水で損壊したMasereの水車小屋に代えて、CapoponteとCasolaのアルケット(Archetto)に水車小屋を建てさせた。[85] 侯爵アゴスティーノ・ドーリアは1756年11月1日の遺言で娘マリア・マッダレーナを相続人に指名し、封土は1763年3月2日に彼女の持参金として割り当てられ、その夫ルイージ・オノフリオ・リベラーティ伯が1764年にティッツァーノ侯爵領を授封された。[86] 1775年5月16日、かつて公爵フランチェスコ・ファルネーゼの侍医でスペイン宮廷の首席医師であったマルシリオ・ヴェントゥーラと、その息子トロイロは、彼らの封土ネヴィアーノ・アルドゥイーニをティッツァーノと交換することを認められた。[87] 占有の証書には、4階建ての塔、牢獄、共同体の鐘、礼拝堂、井戸、パン焼きかまど、厩舎、穀物倉、跳ね橋を備えた城が記されている。この城に住んだ領主は一人もおらず、ポデスタの居所であった。[88] 1787年から1788年まで公爵フェルディナンド・ディ・ボルボーネの首相を務めたトロイロ・ヴェントゥーラ(1741年 - 1814年)が最後の領主となった。1805年6月のナポレオンの法令により、封建制は1806年1月1日をもって廃止された。[53][39][45][89]

近現代

封土の廃止後、ティッツァーノはコムーネの中心地となり、廃止されたベルヴェデーレの封土の領域も、Lalatta、Magretto、Pignone、Sansolla、Vezzanoを除いてこのコムーネに編入された。[90] 1832年、コムーネは20の分離集落からなっていた。すなわちAlbazzano、Anzola、Capriglio、Carobbio、Carpaneto、Casola、Cozzo、Costa、Groppizioso、Gubinaria、Isola、Madurera、Moragnano、Musiara Inferiore、Musiara Superiore、Pietta、Reno、Rusino、Sternoldo、Treviglioである。[9] 1805年に領主による水車小屋の独占が終わると新しい水車小屋が生まれ、19世紀後半には十数か所が稼働していた。[91] ヴェントゥーラ家の財産は1816年にアンジェロ・ペットレッリ・ララッタの手に渡り、彼はこれを売却した。城はパランツァーノのカスティリオーニ家が購入した。[92] 1855年4月9日、カイオ山から発生した地すべりがCarobbioの建物47棟を破壊し、300人が家を失った。[93]

1901年、作家ヒレア・ベロックはローマへの徒歩旅行の途中、この村を「すっかり城壁に囲まれ、中央に教会と城がある」と記し、広場が市のための家畜であふれていたと描いている。[94] 1903年には、フォンターナ・ジェラータ(Fontana Gelata)の泉を水源とする水道が建設された。[95] 1913年、彫刻家エットーレ・ヒメネスが城を購入し、建築家クザーニの設計で夏の別荘に改築しようとしたが、工事は第一次世界大戦で中断し、所有者の死後に放棄された。[96] 1920年9月7日のルニジャーナ・ガルファニャーナ地震では、CapriglioとCerretoの教会が使用不能になった。[97] 1917年にはMoragnanoの農村金庫が、1919年には上院議員ジュゼッペ・ミケーリの主導でピッコロ・クレディト・アグリーコロ・ティッツァネーゼ(Piccolo Credito Agricolo Tizzanese)が設立された。その帳簿には、毎年秋にフランス、北アフリカ、コルシカへ出稼ぎに行く人々への貸付が記録されている。[98] 1928年、1791年に広場に再建されたロザリオ礼拝堂が教区教会となり、翌年、首席司祭は座所をピエーヴェからここへ移した。[99] 1930年代には役場が新しい建物に移り、1938年から1939年にかけてスキア(Schia)への道路が完成し、そこで最初のクロスカントリースキー競技が行われた。[100]

第二次世界大戦中、ティッツァーノは外国から来たユダヤ人難民の「自由抑留」の地の一つとなり、バルカン半島出身のユダヤ人18人が住んでいた。[101] 1943年12月初め、そのうち9人が逮捕され、Renoの集落に来ていたイタリア人のユダヤ人4人とともにアウシュヴィッツへ移送された。[102]

20世紀後半、ティッツァーノは別荘や宿泊施設をもつ山の避暑地となり、[103] カイオ山にはスキアのスキー場が生まれた。[104] 水車小屋の多くは戦後から1970年代にかけて操業を停止した。1990年代に使われなくなったGroppoの水車小屋は、元の設備とともに修復されている。[105]

紋章

紋章の記述:青地に、左側から出た自然色の右手が、赤く燃える銀色の燃えさしの薪を握る。外部装飾はコムーネのもの。[106] 燃えさしの薪(tizzone)はコムーネの名にかけたもので、城の建設中に基礎から燃えさしの薪が見つかったという地元の伝説にちなむ。[18] コムーネの旗(ゴンファローネ)は白い布である。

顕彰

1994年10月5日、ティッツァーノ・ヴァル・パルマのコムーネは、第二次世界大戦中の住民の犠牲とパルチザン闘争への参加に対して、武勇銅メダルを授与された。[107]

名所・史跡

宗教建築

サン・ピエトロ教会(ピエーヴェ)

サン・ピエトロ教会のファサード
サン・ピエトロ教会の身廊

ロトンド山の頂上にほぼ確実に10世紀ごろに建てられたこの教会は、1005年に初めて記録に現れる。11世紀から12世紀にかけて、おそらくマティルデ・ディ・カノッサの命によりロマネスク様式の三廊式バシリカとして再建され、1485年には内部がフレスコ画で飾られた。15世紀末には側廊の後陣が取り壊され、前廊が付け加えられた。18世紀後半には新古典主義様式に改装された。1957年から1964年にかけて全面的に改修され、18世紀の付加部分のほとんどが取り除かれ、15世紀のフレスコ画の残りはマドンナ・デル・サント・ロザリオ礼拝堂に移された。2010年から2012年にかけて修復と補強が行われた。石造の教会は三廊で、各側に3つの礼拝堂をもち、正面に鐘楼を前に突き出した珍しいファサード(clocher-porche)を備え、その前には切妻屋根の高い前廊がある。側面には、小さな半円アーチ窓、アーチ形フリーズの一部、側面入口の彫刻されたアーキヴォルトなど、創建当初の建物の痕跡が残っている。内部では、木造の小屋組みがむき出しの身廊と側廊が、粗く彫られたクッション柱頭をもつ太い円柱の上のアーケードで仕切られている。漆喰塗りの内陣には18世紀のヴォールト天井がある。祭壇画と18世紀の行列用天蓋が残されている。[108][109][110][111][112][113]

マドンナ・デル・サント・ロザリオ礼拝堂

マドンナ・デル・サント・ロザリオ礼拝堂

16世紀初めに新しいティッツァーノの集落に建てられた礼拝堂で、1791年にロザリオ信心会によって再建され、その後数年のうちに鐘楼が加えられた。2008年の地震で損傷したのち、2010年から2012年にかけて全面的に修復された。単廊式の建物で、簡素な長方形の石造ファサードの横に、4層の堂々とした鐘楼が立つ。3つのヴォールトの区画に分かれた堂内には、サン・ピエトロ教会から移された15世紀末のフレスコ画5点がある。内陣には新古典主義様式の記念碑的な祭壇があり、現代の『ロザリオの聖母子』の像が置かれている。[70][114][115]

サン・ジェネージオ教会(Albazzano)

Albazzanoのサン・ジェネージオ教会

1230年に初めて記録に現れる元の礼拝堂は、1500年にAlbazzanoの村とともに地すべりで破壊された。より高い場所に再建された教会は1564年に独立した教区となり、17世紀半ばごろに拡張され、18世紀末に鐘楼と新古典主義様式の新しいファサードが加えられた。19世紀後半に内部が改装・装飾され、1950年に全面的に修復された。単廊式で2つの側面礼拝堂をもつ建物で、4本の付け柱と三角形のペディメントをもつ切妻のファサードを備える。アンピール様式の化粧漆喰で飾られた堂内には、1970年にヴァルテル・マドイが描いたフレスコ画『ピエタ』があり、内陣と礼拝堂にもほかの貴重な作品がある。[116][117][118][119]

サンティ・ジョヴァンニ・バッティスタ・エ・マウリツィオ教会(Anzolla)

Anzollaのサンティ・ジョヴァンニ・バッティスタ・エ・マウリツィオ教会

1230年に初めて記録に現れるAnzollaの礼拝堂は、1367年にAntognolaの礼拝堂と統合された。1564年に独立した教区となり、17世紀から18世紀にかけてバロック様式で全面的に再建され、1829年に内部が改装された。単廊式で左右に1つずつ礼拝堂をもつ建物で、漆喰塗りのファサードには太い付け柱と小さなペディメントがある。ヴォールト天井の身廊には、彩色された木製のバロック様式の祭壇と、1664年の15点の小さな絵画がある。[120][121]

サン・ミケーレ教会(Capriglio)

Capriglioのサン・ミケーレ教会

1230年に初めて記録に現れるCapriglioの礼拝堂は1564年に独立した教区となったが、1612年に教区はCasagalvanaの古い礼拝堂に移された。1622年に再建されたCasagalvanaの教会は1920年の地震で倒壊し、1930年から1935年にかけてCapriglioに新しいネオ・ロマネスク様式の教会が建てられ、2002年に鐘楼が加えられた。単廊式で左右に1つずつ礼拝堂をもつ建物で、全面が石で覆われた切妻のファサードには、入口と3つの深い半円アーチ窓がある。ヴォールト天井の堂内には、ミケランジェロ・アンセルミの作とされる1520年の油彩画『栄光の聖母子と天使、聖ミカエル、聖ロクス、聖セバスティアヌス』がある。[122][123][124][125]

サン・マウリツィオ教会(Carobbio)

Carobbioのサン・マウリツィオ教会

1230年に初めて記録に現れるCarobbioの元の礼拝堂は、1564年にCasolaのサンタ・ジュスティーナ教会と一つの教区に統合され、1621年に完全に独立した。19世紀の最初の数十年に再建されたが、1855年に地すべりで破壊され、1861年から1866年にかけて新古典主義様式で全面的に再建された。1924年に鐘楼が加えられ、1964年に修復された。単廊式で左側に3つの礼拝堂をもつ建物で、4本のドーリア式付け柱で区切られたファサードにはペディメントがある。付け柱とアーチで区切られた堂内には、いくつかの貴重な作品がある。[126][127][128]

サンタンドレア・アポストロ教会(Carpaneto)

Carpanetoのサンタンドレア・アポストロ教会

1230年にCerretoの地に初めて記録に現れる元の礼拝堂は、1564年に独立した教区となった。18世紀初めに再建されたが、1920年の大地震で破壊され、1926年から1928年にかけてCarpanetoに再建された。1962年に鐘楼が加えられた。単廊式で左右に1つずつ礼拝堂をもつ教会で、三角形のペディメントを頂く左右対称の2層の石造ファサードを備える。付け柱で区切られた堂内は後陣のある内陣で終わり、旧教会から移されたいくつかの貴重な作品がある。[129][130]

サンタ・ジュスティーナ教会(Casola)

Casolaのサンタ・ジュスティーナ教会

1230年に初めて記録に現れるCasolaの元の礼拝堂は、1564年にCarobbioのサン・マウリツィオ教会と一つの教区に統合され、1621年に完全に独立した。17世紀半ば以降に放棄され、1660年から1661年にかけて建てられた新しいバロック様式の教会に置き換えられた。単廊式で左右に1つずつ礼拝堂をもつ建物で、ネオ・ゴシック様式の漆喰塗りの切妻ファサードを備える。交差ヴォールトに覆われた堂内はドーリア式の付け柱で飾られ、いくつかの貴重な作品がある。[131][132][133]

アッスンツィオーネ・ディ・マリア・ヴェルジネ教会(Isola)

Isolaのアッスンツィオーネ・ディ・マリア・ヴェルジネ教会

1015年に初めて記録に現れるIsolaの元の礼拝堂は15世紀に荒廃し、のちに修復されて1583年に独立した教区となった。1930年に再建され、2018年から2023年にかけて全面的に改修された。小さな単廊式の建物で、中央に鐘を吊るす小さな壁(鐘架)をもつ簡素な切妻のファサードを備える。[134][135][136]

サンタ・ジュリアーナ教会(Lagrimone)

Lagrimoneのサンタ・ジュリアーナ教会

もとは家畜小屋として使われていたLagrimoneの建物で、1964年にデメトリオ・スカッカーリアが寄進し、1970年から1972年にかけて教会に改築された。1984年から1986年の内部改装に続き、1996年から2001年に屋根、2016年に正面ファサードの工事が行われた。単廊式の建物で、石で覆われた切妻のファサードの中央に、2本の柱で支えられた庇がある。木造の小屋組みがむき出しの堂内は大きな側窓から光を取り入れる。わずかに高くなった内陣は後陣を模した半円形の壁で部分的に囲まれ、その中央に1986年に加えられたテラコッタの主祭壇がある。[137]

サンタ・ジュリアーナ教会(Moragnano)

Moragnanoのサンタ・ジュリアーナ教会

おそらく9世紀または10世紀に建てられたが、1230年に初めて記録に現れる、半円形の後陣をもつMoragnanoの小さな礼拝堂で、1340年にロマネスク様式で拡張された。1564年に独立した教区となり、16世紀に前廊が、17世紀にバロック様式の内装が加えられた。第二次世界大戦で損傷したのち改修され、1970年から1980年にかけて堂内が改装され、2007年から2009年に全面的に修復された。単廊式で右に2つ、左に1つの礼拝堂をもつ建物で、外壁は不規則な砂岩の切石で覆われている。2つの古い入口の上には浮き彫りのあるルネッタがある。12世紀の後陣は持ち送りの上のアーチ形フリーズで飾られ、両側には12世紀から17世紀にかけて刻まれた約2000の落書き(グラフィティ)が残る。漆喰塗りで化粧漆喰に飾られた堂内には、ピエトロ・メルキオッレ・フェッラーリの17世紀の油彩画をはじめ、いくつかの貴重な作品がある。[138][139][140][141][142]

サン・ジョルジョ教会(Musiara Inferiore)

Musiara Inferioreのサン・ジョルジョ教会

1230年に初めて記録に現れるFontanafreddaの元の礼拝堂は、1564年に教区となり、1613年にMusiara Superioreのサン・ロッコ礼拝堂から分離した。17世紀末に老朽化のため放棄され、のちにMusiara Inferioreにバロック様式で再建された。単廊式で左右に1つずつ礼拝堂をもつ建物で、全面が石で覆われた簡素な長方形のファサードを備える。漆喰塗りのヴォールト天井の堂内は、周囲を巡るコーニスの下の付け柱によって3つの区画に分けられている。[143][144]

サン・ロッコ教会(Musiara Superiore)

Musiara Superioreのサン・ロッコ教会

1491年に初めて記録に現れるMusiara Superioreの礼拝堂は、長くMusiara Inferioreのサン・ジョルジョ教会と統合されていたが、1613年に住民の願いにより独立した教区となった。単廊式で左側に1つの礼拝堂をもつ建物で、全面が石で覆われた切妻のファサードの中央に小さな庇がある。右側にはネオ・ゴシック様式の鐘楼がそびえる。漆喰塗りの堂内は、ジョヴァンニ・テバルディの19世紀の祭壇画がある内陣へと続く。[145][146][147]

サン・ロレンツォ教会(Pratolungo)

Pratolungoのサン・ロレンツォ教会

1230年に初めて記録に現れるMadureraの小さな元の礼拝堂は、1354年までMoragnanoのサンタ・ジュリアーナ礼拝堂と統合されていた。16世紀前半に再建され、1646年に独立した教区となった。ひどく荒廃したため1925年に放棄され、近くのPratolungoに建てられたネオ・ロマネスク様式の新しい教会に置き換えられた。内陣付近の地盤沈下の後、1950年ごろに改修され、大雪で屋根が崩落した後の1985年にも再び改修された。単廊式の建物で、漆喰塗りの段状のファサードには、入口の上のペディメントと、上部の大きな盲三連窓がある。[148][149]

サン・ニコロ教会(Reno)

Renoのサン・ニコロ教会

1230年に初めて記録に現れ、1564年に独立した教区となったRenoの元の礼拝堂は、1765年ごろに地すべりで破壊された。新古典主義様式の教会は1768年から1773年にかけてReno di Sopraに再建され、ファサードは1909年と1960年ごろに修復された。単廊式で左右に2つずつ礼拝堂をもつ建物で、漆喰塗りの段状のファサードには、三角形のペディメントの下に4本の付け柱がある。付け柱で区切られた堂内には、いくつかの貴重な絵画がある。[150][151]

ベアータ・ヴェルジネ・デッラ・ネーヴェ教会(Rusino)

Rusinoのベアータ・ヴェルジネ・デッラ・ネーヴェ教会

16世紀に礼拝堂として建てられたRusinoのバロック様式の教会で、1692年に教区教会となった。第二次世界大戦中に連合軍の爆撃で損傷し、戦後に元の姿で再建された。外壁は石で覆われ、内陣のヴォールト天井にはフレスコ画がある。[152][153]

サン・マウリツィオ礼拝堂(Antognola)

Antognolaのサン・マウリツィオ礼拝堂

1230年に初めて記録に現れるAntognolaの礼拝堂は、1367年にAnzollaの礼拝堂と統合され、1564年にその支聖堂となり、1680年にバロック様式で再建された。小さな単廊式の建物で、2本の付け柱の間の石で覆われたファサードに、曲線の割れたペディメントがある。平天井の身廊は、ヴォールト天井の内陣で終わる。[120][154]

サン・バルトロメオ礼拝堂(Groppizioso)

Groppiziosoのサン・バルトロメオ礼拝堂

1660年ごろ、Anzollaの主任司祭バルトロメオ・ダンニの主導で建てられたGroppiziosoのバロック様式の礼拝堂で、19世紀末に地すべりで破壊され、のちに再建された。1947年からCapriglioの教会の支聖堂となり、21世紀初めに全面的に修復された。小さな単廊式の建物で、中央に鐘架のある石造の切妻ファサードを備える。[155][156]

サン・ミケーレ礼拝堂(Pietta)

Piettaのサン・ミケーレ礼拝堂

1230年に初めて記録に現れるPiettaの元の礼拝堂は、1299年から1564年までVezzanoの礼拝堂と統合され、その後Vezzanoの教区教会の支聖堂となった。1898年の地震で完全に破壊されたのち、1904年にネオ・ロマネスク様式で再建され、1983年の地震で損傷した後に改修された。2014年に地すべりのため使用不能とされたが、修復されて2018年に再び礼拝に開かれた。小さな単廊式の建物で、簡素な石造の切妻ファサードを備え、堂内は漆喰塗りのヴォールト天井に覆われている。[157][158][159]

軍事建築

城

城の北西側
城の塔

おそらく10世紀または11世紀に建てられた城で、13世紀初めにはジベルト3世・ダ・コッレッジョのものであった可能性がある。1364年にロッカ・ディ・ベルヴェデーレとともにニッコロ・テルツィ(父)とジベルトの兄弟に与えられ、1409年のオットブオーノ・テルツィ殺害の後にフィエスキ家に占拠された。のちにフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが「戦士」ニッコロ・テルツィに与えたが、1449年にフランチェスコ・スフォルツァに没収され、ピエトロ・ギラージオ・ダ・コントラーノに封じられた。15世紀末にジャンフランチェスコ・パッラヴィチーノに売却され、16世紀には公爵オッターヴィオ・ファルネーゼが取得した。1551年のパルマ戦争でフェランテ・ゴンザーガの大砲により大きな損傷を受け、1650年にドメニコ・ドーリアに、最後の子孫マリア・マッダレーナの死後、18世紀末にトロイロ・ヴェントゥーラに与えられ、1806年の封建的権利の廃止に至った。のちにカスティリオーニ家が取得したが、1834年の地震で大部分が崩れた。1913年にエットーレ・ヒメネスが購入し、建築家ランベルト・クザーニの設計で修復しようとしたが、第一次世界大戦の勃発により実現しなかった。1930年には完全に放棄されて廃墟となり、1961年にティッツァーノ・ヴァル・パルマのコムーネが取得した。2002年に一部が修復され、2014年からは公演や文化行事の会場として使われている。全体が石造の城のうち、周壁、塔の基部、1階のヴォールト天井の部屋が残っている。屋根のない上層部へは通路橋で行くことができる。[160][161][54][162][163]

ロッカ・ディ・ベルヴェデーレ

15世紀初めにオットブオーノ・テルツィが築いたRusinoの城塞で、ロッカ・ディ・ベルヴェデーレとも呼ばれる。1409年にフェラーラ侯ニッコロ3世・デステが、1420年にミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが攻略した。1441年にテルツィ家に返還されたが、1551年にカミッロ・ロッシに攻め落とされた。戦略的な重要性を失ってからはわずかな廃墟となり、塔の基部だけが残っている。この基部は20世紀初めに補強され、瓦礫が取り除かれた。[164][165]

カドーニチの塔(Lagrimone)

Lagrimoneのカドーニチの塔(Torre dei Cadonici)

中世に建てられ、モレッロ・ダ・ベルヴェデーレが所有していたLagrimoneの塔で、1509年にヤコポ・ディ・マーゾに放火された。のちに再建されて何度か手が加えられ、バゼッティ家が取得した後、1903年ごろにファサードを含めて大幅に改築された。このときいくつかの開口部が設けられ、1階には商店のためのショーウィンドウが作られた(商店はのちに倉庫として使われた)。石で覆われた防御建築で、傾斜した高い基壇の上に立つ。正面中央、倉庫の幅広い開口部の上には小さなバルコニーのある大きな窓があり、Moragnanoのbastia(砦)から移された、彫刻された砂岩の古い半円アーチの門で縁取られている。上の階には、ヴァイロのバゼッティ宮殿の窓をまねた、3本の小柱で仕切られ、粗面仕上げのアーチの下にある窓が開いている。[166][167][168][169]

文化

Albazzanoのサン・ジェネージオの市

1309年にすでに記録のあるAlbazzanoの年市は、8月24日と25日に開かれ、聖ゲネシウスと家畜に捧げられていた。この市は[118] 15世紀末に[45][170] ティッツァーノ伯ジャンフランチェスコ・パッラヴィチーノによって規則が定められた。1564年に司教アレッサンドロ・スフォルツァ・ディ・サンタ・フィオーラが主宰した教会会議の決議で禁止されたにもかかわらず、市は開かれ続け、近隣の国々からも人々が訪れた。20世紀初めにマドーネ(Madone)からキアストレッラ(Chiastrella)へ移されたが、のちに元の場所に戻った。数年の中断を経て、1989年から音楽、遊び、地元産品の試食とともに復活した。[118][171][116]

カイオ山のサン・マッテオ祭

サン・マッテオ修道庵

使徒マタイに捧げられた夏の終わりの伝統的な祭りで、毎年9月21日に、カイオ山の森の中、標高1344 mにあり、スキアからいくつかの小道でたどり着けるサン・マッテオ修道庵で行われる。パランツァーノのコムーネの領域にあるこの建物は、中世には Monastero de Caliis として知られ、1015年の文書に初めて記され、1230年のパルマ司教区の Capitulum seu Rotulus Decimarum でも、ティッツァーノのピエーヴェの領域にありながらサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ修道院の所領の一つとして記されている。ミサと地元産品の昼食を伴う祭りには、近隣のコムーネからも人々が訪れる。[172][173][174][175]

経済

地域の経済は多様である。農業は主に牛・豚・家禽の飼育と、小麦・飼料作物の栽培からなる。第二次産業では食品加工業と建設業が中心である。第三次産業は主にサービス業と夏・冬の観光に支えられており、観光は20世紀後半に、とくに中心集落とカイオ山のスキアのスキー場で発展した。[176][103]

行政

分離集落

ティッツァーノ・ヴァル・パルマには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。

  • Albazzano, Antognola, Anzolla, Boschetto, Capoponte, Capriglio, Carobbio, Carpaneto, Casagalvana, Casale di Vezzano, Casola, Costa, Fontanafredda, Groppizioso, Groppo, Isola, Lagrimone, Madurera, Moragnano, Musiara Inferiore, Musiara Superiore, Pianestolla, Pietta, Pratolungo, Reno, Rusino, Schia, Treviglio

歴代首長

1985年以降の首長(シンダコ)[177]
氏名就任退任政党
Luigi Depietri1985年7月3日1990年6月7日PSDI
Ugo Danni1990年6月12日1995年4月24日PDS、PCI
Ugo Danni1995年4月24日1999年6月14日中道左派
Gualtiero Ghirardi1999年6月14日2004年6月14日地域政党(中道左派)
Gualtiero Ghirardi2004年6月14日2009年6月8日地域政党(中道左派)、PDが支持
Amilcare Bodria2009年6月8日2014年5月26日地域政党(中道右派)、PdLが支持
Amilcare Bodria2014年6月10日2019年5月27日地域政党 Per Tizzano noi ci siamo、フォルツァ・イタリアが支持
Amilcare Bodria2019年5月27日2024年6月10日地域政党 Per Tizzano noi ci siamo、フォルツァ・イタリアが支持
Isabella Rossi2024年6月10日在任中地域政党 Futuro in Comune

人口推移

年18611871188119011911192119311936195119611971198119912001
人口 34893749416649995252566550964730448837323070269722832126

出典:国立統計研究所(ISTAT)、国勢調査。

脚注

  1. ↑ 2026年5月31日現在の人口:国立統計研究所(ISTAT)、月次人口統計。
  2. ↑ “classificazione sismica aggiornata al aprile 2023” (xls). https://rischi.protezionecivile.gov.it/it/sismico/attivita/classificazione-sismica/. イタリア市民保護局. 2023年12月16日閲覧。
  3. ↑ “Tabella dei gradi/giorno dei Comuni italiani raggruppati per Regione e Provincia” (PDF). 新技術エネルギー環境局(ENEA) (2011年3月1日). 2017年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月20日閲覧。
  4. ↑ https://www.comuni-italiani.it/034/039/[名無しリンク]
  5. ↑ “Tizzano Val Parma” (イタリア語). Enciclopedia Treccani. 2026年8月11日閲覧。
  6. ↑ Capacchi 1993, pp. 895 ff.
  7. ↑ Gasca Queirazza et al. 1996, p. 654.
  8. 1 2 Relazione di inquadramento archeologico, p. 5.
  9. 1 2 3 Molossi 1832–1834, p. 546.
  10. ↑ “Schia e Monte Caio” (イタリア語). 2024年10月17日閲覧。
  11. ↑ Dall'Aglio 1966, vol. II, p. 1018.
  12. ↑ “Tizzano Val Parma (nucleo storico)” (イタリア語). 2024年10月17日閲覧。
  13. ↑ Relazione di inquadramento archeologico, p. 11.
  14. ↑ Bragazzi 2022, p. 7
  15. ↑ Bragazzi 2022, p. 7
  16. ↑ Bragazzi 2022, p. 8
  17. ↑ Angeli 1591, p. 756.
  18. 1 2 “Note di toponomastica” (イタリア語). 2024年10月15日閲覧。
  19. ↑ Bragazzi 2022, p. 7
  20. ↑ Passarelli 2001, p. 6.
  21. ↑ Bragazzi 2022, p. 7
  22. ↑ Bragazzi 2022, p. 10
  23. ↑ Relazione di inquadramento archeologico, p. 6.
  24. ↑ Relazione di inquadramento archeologico, pp. 6, 55.
  25. ↑ Vera 2009, p. 140.
  26. ↑ Bragazzi 2022, p. 7.
  27. ↑ Bragazzi 2022, p. 7.
  28. ↑ Relazione di inquadramento archeologico, p. 7.
  29. ↑ Bragazzi 2022, p. 7.
  30. ↑ Bragazzi 2022, p. 10, 64.
  31. ↑ 日付はAffò(Affò 1792, p. 369)では3月8日、Bragazzi 2022, p. 8では3月3日とされる。
  32. 1 2 3 Dall'Aglio 1966, vol. II, p. 1019.
  33. ↑ Affò 1792, p. 369.
  34. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  35. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  36. ↑ Bragazzi 2022, p. 31, 39, 46, 64.
  37. ↑ Bragazzi 2022, p. 117.
  38. ↑ “Tizzano, Chiesa di San Pietro” (イタリア語). 2024年10月18日閲覧。
  39. 1 2 3 4 5 6 7 Dall'Aglio 1966, vol. II, p. 1020.
  40. ↑ “Tizzano Val Parma, Pieve di S. Pietro” (PDF) (イタリア語). Chiese paleocristiane e romaniche in Italia. 2026年10月29日閲覧。
  41. ↑ Bragazzi 2022, p. 117.
  42. ↑ Bragazzi 2022, p. 117.
  43. ↑ Bragazzi 2022, p. 117.
  44. 1 2 Relazione di inquadramento archeologico, p. 12.
  45. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 Capacchi 1979, p. 39.
  46. ↑ Tiraboschi 1825, p. 142.
  47. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  48. ↑ “Tizzano Val Parma (nucleo storico)” (イタリア語). CAI Parma – Censimento dei beni storici. 2026年10月29日閲覧。(G. Cervi, Guida all'Appennino parmense, 1987およびM. Calidoni et al., Castelli e borghi, 2009を引用)。
  49. ↑ Chittolini 1972, p. 63.
  50. ↑ Cont 2019, p. 29.
  51. 1 2 Pezzana 1837, p. 171.
  52. ↑ Bragazzi 2022, p. 12.
  53. 1 2 3 4 5 6 7 Molossi 1832–1834, pp. 544-546.
  54. 1 2 Dall'Aglio 1966, vol. II, pp. 1019-1020.
  55. ↑ Cont 2019, p. 30.
  56. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  57. ↑ Bragazzi 2022, p. 77.
  58. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  59. ↑ Bragazzi 2022, p. 12.
  60. ↑ Bragazzi 2022, p. 116.
  61. ↑ Pezzana 1842, p. 132.
  62. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  63. ↑ 最初に市内に入ったのは、ニッコロ3世・デステの親族で秘書であり、Isolaに所領を持っていたUgo de Contrariであった。Bragazzi 2022, pp. 64-65.
  64. ↑ Bragazzi 2022, p. 21.
  65. ↑ Bragazzi 2022, p. 8では1448年、他の資料では1449年とされる。
  66. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  67. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  68. ↑ Pezzana 1859, p. 269.
  69. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  70. 1 2 Dall'Aglio 1966, vol. II, p. 1021.
  71. ↑ Bragazzi 2022, p. 117.
  72. ↑ Bragazzi 2022, p. 8.
  73. ↑ Bragazzi 2022, p. 8-9.
  74. ↑ Bragazzi 2022, p. 9, 14.
  75. 1 2 Relazione di inquadramento archeologico, p. 13.
  76. ↑ Bragazzi 2022, p. 9.
  77. ↑ “Collatereria” (イタリア語). 2024年10月18日閲覧。
  78. ↑ Bragazzi 2022, p. 14-16.
  79. ↑ この地域の水車小屋については、17か所の施設の解説を含むBragazzi 2022, pp. 89-105を参照。
  80. ↑ Bragazzi 2022, p. 16.
  81. ↑ Bragazzi 2022, p. 25-29.
  82. ↑ Bragazzi 2022, p. 23-29.
  83. ↑ Bragazzi 2022, p. 21, 30.
  84. ↑ Bragazzi 2022, p. 9.
  85. ↑ Bragazzi 2022, p. 95-97.
  86. ↑ Bragazzi 2022, p. 9.
  87. ↑ Bragazzi 2022, p. 9-10.
  88. ↑ Bragazzi 2022, p. 111-114.
  89. ↑ Bragazzi 2022, p. 9-10.
  90. ↑ Bragazzi 2022, p. 12.
  91. ↑ Bragazzi 2022, p. 89-105.
  92. ↑ Bragazzi 2022, p. 10, 111-114.
  93. ↑ Bragazzi 2022, p. 122.
  94. ↑ Belloc, Hilaire (1902) (英語). The Path to Rome
  95. ↑ Bragazzi 2022, p. 123-178.
  96. ↑ Bragazzi 2022, p. 111-114.
  97. ↑ Bragazzi 2022, p. 116-117.
  98. ↑ Bragazzi 2022, p. 179-207.
  99. ↑ Bragazzi 2022, p. 117.
  100. ↑ Bragazzi 2022, p. 114, 123-178.
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  102. ↑ “CDEC Digital Library” (イタリア語). 2024年10月18日閲覧。
  103. 1 2 Dall'Aglio 1966, vol. II, pp. 1018-1019.
  104. ↑ Dall'Aglio 1966, vol. II, pp. 693-694.
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  110. ↑ Cirillo/Godi 1986, pp. 235-236.
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外部リンク