テムゲ・オッチギン

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テムゲ・オッチギン(Temüge Odčigin、生没年:1168年? - 1246年)は、チンギス・カンの末弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとホエルン夫人との四男で、他の同母兄にはジョチ・カサルとカチウンがいる。チンギス・カンよりフルンボイル地方に領地を与えられ、オッチギン・ウルスの始祖となった。

名前

『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では、帖木格斡惕赤斤(『元朝秘史』巻1・60段)・鉄木哥斡赤斤・帖木格斡赤斤・忒木哥窩真・斡陳那顔など。『集史』などのペルシア語表記では تموكه اوتچكين Tamūka Ūtchikīn と書かれる。『集史』によると、オッチ(ギン)・ノヤン اوتچی نويان Ūtchī Nūyān という名前で知られていたといい、『世界征服者史』でも اوتكين نويان Ūtkīn Nūyān と書かれている。オッチギンとは「炉の番人」の意であり[注釈 1]とは、テムゲが母のホエルンの家産を相続する末子であったことからこう呼ばれた。

生涯

生年は不詳だが、『元朝秘史』によると、チンギス・カンより6歳年下とされる。

ナイマン討伐で戦功を立て、1211年からの第一次金朝侵攻では左翼軍を率いて遼西・山東方面に侵攻した。この時獲得した永平路・益都路はオッチギン家の投下領とされ、元代末期までオッチギン家に継承されている。1219年からのモンゴル帝国の征西では、母のホエルンとともにモンゴル本土の留守を任される[1]。この間、東夏国の蒲鮮万奴などと交渉を持っていたが、蒲鮮万奴が高麗に対して「モンゴルのチンギス・カンは絶域に赴いて所在が知れず、オッチギンは貪暴不仁であり、[東夏国はモンゴル帝国との]旧好を既に絶った」と伝えたとの記録がある[2]。1227年の第五次西夏遠征では、チンギス・カンが率いる本隊とは別行動をとって信都府を攻略した[3]。

1227年にチンギス・カンが没したとき、甥のチャガタイと共にオゴデイを新たなモンゴルの指導者に推戴した。1230年からの第二次対金戦争では、オッチギンは左翼軍を率いて中都から黄河に向かって南下した。オッチギンの軍隊は黄河を渡って戦闘には参加しなかったものの[4]、恐怖に駆られた金の領民は開封とその周辺に逃れ、人口の流入によって金に食糧危機と社会不安をもたらした[5][6]。

1241年末にオゴデイが没すると、オッチギンはカアンの位を求め、軍隊を率いてオゴデイの皇后たちのオルドに向かった。しかし、皇后のドレゲネに阻まれ、征西から帰国したオゴデイの皇子のグユクがエミルに到着した報告を聞くと帝位を断念し、ドレゲネに弔問に訪れた旨を伝えて軍を引き返す[7]。その後オッチギンは王侯を引率して新たなカアンを選挙するクリルタイ、グユクの即位式に出席した。オゴデイ、それに続くチャガタイの急死に、オッチギンの関与を疑う意見も存在する[8]。

グユクの即位後、オッチギンは先に行った帝位の簒奪について、トルイ家のモンケとジョチ家のオルダから審問を受けた。オッチギンの配下の将校たちを処刑することで裁判は決着したが、この審問と前後してオッチギンも没したものとみられる[9][注釈 2]。

人物

チンギス・カンから特に愛され、国王の称号を与えられた[11]。チンギス・カンが即位した後に5の千人隊を与えられ、さらに母のホエルンが与えられた3の千人隊を継承し、8の千人隊を有するに至った[12]。モンゴル東方の左翼部の満洲に接する地域に遊牧地を与えられ[13]、ジョチ・カサル、カチウンの子孫ら東方の王侯を統率し、モンゴル貴族や漢人勢力に影響力を持つモンゴル帝国左翼の中心人物となった[14]。チンギス・カンの死後は甥のオゴデイの擁立に協力し[1]、モンゴル帝国の東方を代表する人物としてオゴデイ・カアン、西方地域を統括する甥チャガタイとともにモンゴル帝国の新体制を構築した[15]。

テムゲ・オッチギンは勇気のある性格で、オルドを治めることを好んだという[11]。また、派手好みな性格で、領地に宮殿や園囿を多く造ったと言われている[1]。中国内モンゴル自治区フルンボイル市エヴェンキ族自治旗に位置するバヤンウラ城址は、『長春真人西遊記』で描かれる「オッチギンの夏営地(斡辰大王帳下)と位置が一致すること、カラコルムの万安宮とも共通する設計プランが見られることなどから、テムゲ・オッチギンの居城(夏営地)ではないかと推定されている[16]。

家族

正室はコンギラト部オルクヌウト氏の出身である。長男のジブゲンの息子のタガチャルは、クビライの有力重臣になり、元朝設立にも貢献した。子孫は東方三王家(チンギス・カンの弟のジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンの家系)の一角をなした。しかし、タガチャルの孫のナヤンがカイドゥの反乱に連座し、クビライの親征で処刑された。北元時代初期にはテムゲ・オッチギンの末裔の遼王アジャシュリが明朝に投降したことで、オッチギン・ウルスは泰寧衛の名を与えられて明朝の羈縻衛所の一つとなった。また、15世紀半ばにはオッチギン家当主と見られる遼王ウネ・テムルという人物が活動しているが、このウネ・テムルの後にオッチギン家は断絶してしまった。

初期オッチギン・ウルスの5千人隊長

関連作品

脚注

注釈

  1. ↑ 『集史』イェスゲイ・バハードゥル紀諸子表のテムゲ・オッチギンの条の説明によると、「テムゲが名前である。オッチギンとは『火とユルト(家屋、または牧草地)の主』という意味であり、年少の息子はオッチギンと呼ばれる( تموكه نام است و اوتچكين يعنى خداوند آتش و يورت و پسر كوچكين را اوتچكين گويند Tamūka nām ast wa Ūtchikīn ya`nī khudāvand-i ātash wa yūrt wa pisar-i kūchakīn rā Ūtchikīn gūyand )」とある。
  2. ↑ 『元史』サルギス伝には「オッチギンの没後、後継者のジブゲンも死去したため後継者争いが起こった。サルギスらは皇后の裁許を得てジブゲンの嫡子のタガチャルが後継者となることを認められた」旨の記載がある。ここでの「皇后」はドレゲネであると考えられており、時期的にはグユクの即位直後、ドレゲネがまだ国政に影響を及ぼせるタイミングでオッチギンは死去したものと考えられている[10]。

出典

  1. 1 2 3 村上 1970, pp. 82–83.
  2. ↑ 『高麗史』巻22高宗世家1,「[高宗十一年春正月]戊申、東真国遣使、齎牒二道来、其一曰『蒙古成吉思師老絶域、不知所存、訛赤忻、貪暴不仁、己絶旧好』。其一曰『本国於青州、貴国於定州、各置榷場、依前買売』」
  3. ↑ 佐口 & 1968-12, pp. 18, 20.
  4. ↑ 杉山 & 1996-5, pp. 62–63.
  5. ↑ 小松 2000, p. 183.
  6. ↑ 杉山 & 1996-5, p. 60.
  7. ↑ 佐口 & 1968-12, p. 218.
  8. ↑ 杉山 2016, p. 178.
  9. ↑ 杉山 & 1996-5, p. 95.
  10. ↑ 鄒 & 魏 2005, pp. 64–65.
  11. 1 2 平凡社 1960, pp. 441–442.
  12. ↑ 小松 2000, p. 177.
  13. ↑ 佐口 & 1968-12, p. 60.
  14. ↑ 杉山 & 1996-5, p. 65.
  15. ↑ 杉山 2016, p. 143.
  16. ↑ 白石 2025, p. 276.

参考資料

書籍

  • 平凡社『アジア歴史事典(ターテ)』 6巻、平凡社、1960年。 
  • 白石, 典之『遊牧王朝興亡史 モンゴル高原の5000年』講談社〈講談社選書メチエ〉、2025年1月15日。ISBN 9784065383209。 
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡<上>』講談社〈講談社現代新書 1306〉、1996年5月20日。ISBN 978-4061493063。 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』講談社〈講談社学術文庫 2352 興亡の世界史〉、2016年4月12日。ISBN 978-4062923521。 
  • 小松久男編『中央ユーラシア史』山川出版社〈世界各国史4〉、2000年10月30日。ISBN 978-4634413405。 
  • 村上正二(訳注)『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』 1巻、平凡社〈東洋文庫163〉、1970年5月。ISBN 978-4582801637。 
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285。 
  • 鄒越華・魏建華「關於帖木格斡赤斤之死」『内蒙古大学学報(人文社会科学版)』第37巻第1号、2005年、14-18頁。 

史料

関連項目