トスティ・ゴドウィンソン
| トスティ・ゴドウィンソン Tostig Godwinson | |
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在位期間 1055年 – 1065年 | |
| 先代 | シワード |
| 次代 | モーカー |
| 出生 | おおよそ1029年 |
| 死亡 |
1066年9月25日(およそ37歳) イングランド スタンフォード・ブリッジ |
| 埋葬 | ヨーク |
| 王室 | ゴドウィン家 |
| 父親 | ウェセックス伯ゴドウィン |
| 母親 | ギーサ・トルケルスドッティル |
| 配偶者 | ジュディス |
子女
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トスティ・ゴドウィンソン(Tostig Godwinson、およそ1029年 - 1066年9月25日)[1]は、11世紀のアングロ・サクソン人貴族である。1055年から1065年にかけてノーサンブリア伯を務め、最後のアングロサクソン人イングランド王ハロルド・ゴドウィンソンの弟でもあった[2]。兄ハロルド王により国外追放された後、トスティはノルウェー王ハーラル苛烈王のイングランド侵攻を支援し、1066年のスタンフォード・ブリッジの戦いでハーラル王と共に戦死した。
若年期と最初の亡命
トスティは、アングロサクソン人大貴族ゴドウィンとその妻ギーサ・トルケルスドッティル(デンマークの首長トールギル・スプラーカレッグの娘)の三男として生まれた。
1051年までに、トスティはフランドル伯ボードゥアン4世の娘で、当時のフランドル伯ボードゥアン5世の異母妹であるジュディスと結婚した[3]。結婚の正確な時期については史料間に曖昧さがあるが、『ヴィータ・エドワルディ』は同年のドーヴァーでの衝突がトスティとジュディスの婚礼の祝宴中に発生したと記している。メアリー・ドックレイ=ミラーは、フランドル側の政治状況とこの記述をもとに、結婚はゴドウィン家が追放される以前の1051年春から夏に行われたと論じている[4]。この婚姻によってゴドウィン家はフランドル伯家と直接的な姻戚関係を結び、トスティにとってフランドルは後に二度にわたって亡命先となった。
同年、ブローニュ伯ウスタシュ2世の従者とドーヴァー住民との衝突を契機として、父ゴドウィンとエドワード懺悔王との関係が急速に悪化した。王はゴドウィンにドーヴァーを処罰するよう命じたが、ゴドウィンはこれを拒否し、両陣営は軍勢を集めて武力衝突寸前に至った。最終的にゴドウィン側の支持勢力が減少すると、王はゴドウィンとその息子たちを国外追放した[5]。
追放された一族は二手に分かれた。ゴドウィンは妻ギーサ・トルケルスドッティルと息子スヴェン・ゴドウィンソン、トスティ、ギルス・ゴドウィンソンおよびトスティの妻ジュディスらとともにフランドルへ渡り、ボードゥアン5世の庇護を受けた。一方、ハロルド・ゴドウィンソンとレオフウィン・ゴドウィンソンはアイルランドへ逃れた[5]。ボードゥアンはゴドウィン一行をブルッヘに受け入れ、翌年の帰国に向けた兵力と艦隊の整備を許した[6]。
1052年、ゴドウィンはフランドルから艦隊を率いてイングランドへ戻り、アイルランドから帰還したハロルドの軍勢と合流した。一行はイングランド南岸を進みながら艦船と支持者を集め、ロンドンへ到達した。王軍との武力衝突は回避され、国王とゴドウィン家との間で和解が成立した。『アングロサクソン年代記』によれば、エドワード王はゴドウィンとその子供たちに「完全な友好」を回復し、没収されていた伯領や財産を返還した[7]。トスティ自身も一族の復権にともないイングランドへ帰還した。
翌1053年の復活祭には、トスティは父ゴドウィン、兄ハロルドとともにウィンチェスターの王宮に滞在していた。このときゴドウィンは王との宴席で突然倒れ、数日後に死去した。ハロルドが父のウェセックス伯領を継承した[8]。
ノーサンブリア伯への就任
1055年初頭、長年にわたりノーサンブリアを支配していたシワードが死去した。『アングロサクソン年代記』によれば、その後開催された王国会議において、エドワード懺悔王は「シワード伯が以前保持していた伯領」をゴドウィン伯の息子トスティに与えた[9]。シワードには存命の息子ウォルシオフがいたものの、当時まだ若年であり、父のノーサンブリア伯領を継承しなかった。ウォルシオフは後にノーサンプトンシャーやハンティンドンシャーを中心とする東部ミッドランドの伯領を与えられ、さらにノルマン征服後の1070年代になって初めてノーサンブリア伯となった[10]。ウォルシオフが1055年に父の後継者とならなかった理由について、後世の研究ではその若さが重要な要因であったと考えられている[11]。
しかし、トスティの任命は単なるシワードの後継者選び以上の政治的意味を持っていた。11世紀前半のノーサンブリアでは、ヨークを中心とする南部と、バンバラを中心として旧来の伯家が勢力を保持する北部とで、異なる政治的伝統と有力者層が存在していた。シワード自身も北部の在地貴族ではなく、クヌート大王の時代に台頭したスカンディナヴィア系の伯であったが、バンバラ伯家のエアルドレッドの娘エルフレッド(Ælfflæd)と結婚することで、北部の旧支配家門との婚姻関係を築いていた。歴史家ジュディス・グリーンは、トスティもシワードと同様に北部にとって外来の伯であったものの、シワードとは異なり「そのような現地との結びつきを持たなかった」と指摘している[12]。
ウィリアム・E・カペルは、トスティ以前のノーサンブリア伯について、マーシア出身のエルフヘルムを例外として、アングロ=デーン系・スカンディナヴィア系の人物またはバンバラ伯家の一員が支配するのが通例であり、ウェセックス系の人物が直接北部を支配した前例はなかったと指摘し、この意味で、ウェセックスを基盤とするゴドウィン家からトスティが送り込まれたことは、それまでの北部統治とは異なる動きとして位置づけている[13]。
なぜエドワード王がトスティを選んだのかについて、カペルは、この任命を北部をイングランド王国へより密接に統合しようとする王権側の政策とみる従来の解釈には一定の妥当性があるとする一方、最初からそのような長期的政策が意図されていたとは限らず、ゴドウィン家による一族の勢力拡大という、より直接的な政治事情によって説明できる可能性も指摘している[13]。1053年に父ゴドウィンが死去して以降、兄ハロルドはウェセックス伯として一族を率いており、トスティのノーサンブリア獲得によってゴドウィン家はイングランド南部と北部の二大伯領を同時に支配することとなった。
カペルは、トスティのノーサンブリア伯就任を、同時期に進行していたゴドウィン家とレオフウィン家の政治的競争という文脈からも論じている。トスティが任命された1055年の賢人会議では、マーシア伯レオフリックの息子で、当時イースト・アングリア伯であったエルフガーも追放された。『アングロサクソン年代記』の写本間でもエルフガー追放の正当性について評価が分かれており、一部の写本は彼がほとんど罪なく追放されたと伝えている[9]。カペルは、こうした状況のもとでトスティが北部へ進出したことには、レオフリック家に対するゴドウィン家の政治的勝利という側面があった可能性を指摘している[13]。
一方、歴史家トム・ライセンスは、『ヴィータ・エドワルディ』の作者が兄ハロルドとトスティを並行して描きながら、トスティにはより多くの徳目と記述を割いており、同書がトスティを特に好意的に扱っていると指摘している。またライセンスによれば、同書は1055年の伯位任命に際してハロルドと姉のエディス王妃がトスティの任命を働きかけていたと伝えており、これは当時の三者の関係がなお良好であったことを示すという[14]。ただし『ヴィータ・エドワルディ』はエディスの依頼によって執筆され、ゴドウィン一族の功績を顕彰する性格を強く持つ史料であるため、その人物評価には注意が必要である[15]。
ノーサンブリア伯としての統治
歴史家ジュディス・グリーンは、前任者シワードがバンバラ伯家との婚姻関係を持っていたのに対し、トスティには「そのような現地との結びつきがなかった」と指摘している[12]。一方で、トスティは伯領における重要な宗教的権威である聖カスバートの教会との関係を築こうとした。グリーンは、トスティがダラムの共同体との「良好な関係を育てようとした」とし、夫妻が同共同体の後援者であったことを指摘している[12]。ウィリアム・モートン・エアド(William Morton Aird)も、トスティがダラム教会と密接な関係を結び、聖カスバートの共同体へ寄進を行い、ダラム司教エゼルウィンと協力していたと述べている[16]。
12世紀初頭にダラムで成立したダラムのシメオンの『ダラム教会史』は、トスティについて「常に聖カスバートの教会を崇敬し、少なからぬ贈り物によってこれを飾った」と伝えている[17]。妻ジュディスも聖カスバートへの信仰と寄進で知られ、シメオンは、ジュディスが女性の立入りを禁じられていた聖域への入場を試みるため女中を送り、その女中が死亡したのち、夫妻が償いとして教会へ寄進を行ったという物語を伝えている[17]。その寄進品には、金銀で覆われたキリスト磔刑像と、聖母マリアおよび福音記者ヨハネの像が含まれていた[18]。
トスティの伯領にとって、北方のスコットランド王国との関係は重要な対外的課題であった。『ヴィータ・エドワルディ』によれば、トスティの伯位就任後、スコットランド側はノーサンブリアへの襲撃を行ったが、トスティは軍事力だけでなく策略によってこれに対処した。同書は、トスティが敵を「策略によっても武勇によっても」消耗させ、最終的にスコットランド王から人質を受け取ったと伝えている[19]。
1059年、トスティはヨーク大司教キンシゲ、ダラム司教エゼルウィンとともに、マルカム3世をエドワード懺悔王のもとへ案内した。エアドは、ダラムの『Historia Regum』の1059年記事がこの三者をマルカムの同行者として明記していることを指摘している[20]。グリーンも、トスティが1059年にマルカムとエドワードとの和平成立を仲介したとしている[12]。ウィリアム・E・カペルによれば、この会談によって和平が成立し、トスティとマルカムは「誓約によって結ばれた兄弟」となり、マルカムが自らの行動を保証する人質を差し出した可能性もある[21]。カペルは、この1059年の会談をイングランド側の外交的成功と評価している[21]。
伯としてのトスティは北部の地方統治だけでなく、王国規模の外交・教会政治にも参加した。1061年、ヨーク大司教エアルドレッドが大司教の標章であるパリウムを求めてローマへ赴くと、トスティとジュディスも同行した。『アングロサクソン年代記』D写本は、「エアルドレッド司教はパリウムを求めてローマへ赴き、教皇ニコラウスからこれを受けた。トスティ伯とその妻もまたローマへ赴った」と記している[22]。
この1061年のローマ使節については、教皇ニコラウス2世がエアルドレッドに宛てた文書も伝存している。トム・ライセンスは、この文書と『ヴィータ・エドワルディ』の記述を比較し、『ヴィータ』のローマ使節記事が教皇文書を直接利用して再構成された可能性が高いことを示している[23]。ローマでは、エアルドレッドが教皇の許可を得ずにウスター司教座からヨーク大司教座へ移ったことなどが問題とされ、当初パリウムの授与を拒否された[23]。一行が帰国の途についた後、トスティとエアルドレッドらは盗賊の襲撃を受け、財産を奪われ、従者には負傷者や死者も出たため、ローマへ引き返した[23]。その後、エアルドレッドには最終的にパリウムが授与された[23]。
『ヴィータ・エドワルディ』は、この決定に際してトスティの嘆願が大きな役割を果たしたと強調している。しかしライセンスによれば、教皇文書では後の教皇グレゴリウス7世となるヒルデブランドを含むローマ聖職者の働きが強調されているのに対し、『ヴィータ』ではヒルデブランドの役割が省かれ、エアルドレッドとトスティが物語の中心人物として描かれている[23]。ライセンスは、『ヴィータ』が原文書の重点を変更し、エアルドレッドとトスティの行動と影響力によって事態が好転したかのように再構成したと論じている[23]。
トスティがローマへ赴いていた1061年、マルカム3世は再びノーサンブリアへ侵入した。『Historia Regum』は、マルカムが「誓約した兄弟」であるトスティの伯領を激しく荒廃させ、リンディスファーンにおける「聖カスバートの平和」を侵したと記している[19]。カペルも、トスティとエアルドレッドが不在となった機会を利用してマルカムが侵攻し、ノーサンバーランドを荒廃させて住民を奴隷として連れ去り、リンディスファーンにも被害を与えたと整理している[21]。
その後もトスティは国王の軍事政策に参加した。1063年、兄ハロルドとともに、ウェールズ王グリフィズ・アプ・サウェリンに対する大規模な遠征を行った。『アングロサクソン年代記』D写本によれば、ハロルドはブリストルから艦隊を率いてウェールズを攻撃し、トスティは陸上軍を率いてこれに呼応した。ウェールズ側は降伏して人質を差し出し、同年8月5日にはグリフィズが自らの配下によって殺害された[24]。ウスターのジョンも、ハロルドが海軍、トスティが王命による陸上部隊を率いて共同作戦を行ったと伝えている[25]。
統治の悪化と北部有力者との対立
遅くとも1064年から1065年までには、トスティとノーサンブリアの有力者との対立は深刻なものとなっていた。マシュー・ストリックランド(Matthew Strickland)は、トスティが北部で広く嫌悪された理由として「抑圧的な統治と懲罰的な課税」を挙げ、さらに有力従士の殺害が1065年の大規模な反乱とトスティの追放につながったと論じている[26]。『アングロサクソン年代記』C写本は、反乱者たちがトスティとその支持者を追放した理由について、彼が「まず神から奪い」、さらに自らが権力を及ぼしうる者から「生命と土地」を奪ったためであると記している[27]。
財政負担も反乱時に示された重大な不満の一つであった。12世紀初頭の年代記作者ウスターのジョンは、反乱者たちの不満として、トスティが「ノーサンブリア全体に不当に課した莫大な税」を明記している[28]。ストリックランドも、この課税をトスティが広く嫌悪された理由の一つとしている[26]。
伯位在任中、トスティは北部を離れて王国規模の任務に従事することもあった。1059年には対スコットランド外交に携わり、1061年にはローマへ赴き、1063年にはウェールズ遠征を指揮している[12][22][24]。1065年に反乱が発生した際にもトスティはノーサンブリアにはおらず、『アングロサクソン年代記』は彼が当時エドワード王とともにブリットフォード(Britford)にいたと記している[27]。ただし、トスティ自身またはその代理人コプシが北部で日常的にどの程度の権限を行使していたのかについて、グリーンは「不明確」であると指摘している[12]。
ストリックランドが1065年の反乱との関連で重視しているのが、トスティと北部有力者との暴力的な対立であった。1064年、トスティはオルムの子ガメル(Gamel son of Orm)とドルフィンの子ウルフ(Ulf son of Dolfin)をヨークの自らの居所で殺害させたとされる。ウスターのジョンによれば、二人とトスティとの間には和平が成立していたにもかかわらず、トスティは二人を自らの私室で「裏切って」殺害させた[28]。ストリックランドも、二人が「和平条約によって保護されていると考えられていた」にもかかわらず殺害された点を重視している[26]。
ストリックランドによれば、11世紀イングランドの法と王権は個人的な復讐を完全に禁止するというより、それを制限し一定の枠内へ導こうとしており、王の平和による保護や賠償を通じた紛争解決が暴力の拡大を抑える役割を果たしていた[26]。ストリックランドは、こうした状況のもとで和平による保護下にあると考えられていた有力者を殺害したトスティの行為が容認されず、1065年の反乱と追放につながったと論じている[26]。また、ストリックランドは、こうした行為が行われたハンバー川以北ではウェセックス王権の力が南部より弱く、1016年以来、有力家同士の報復殺人が繰り返されていたことにも注意を向けている[26]。
さらに1064年12月28日には、ゴスパトリック(Gospatric)という北部有力者がエドワード王の宮廷で殺害された。ウスターのジョンは、ゴスパトリックが王妃エディスの命令により、「弟トスティのために」殺害されたと伝えている[28]。エリザベス・タイラーも、この事件について、エディスがトスティのためにゴスパトリックを殺害させたと「告発された」ことを確認し、それがノーサンブリア人の伯に対する敵意を強め、エディス自身をその後の暴力に巻き込む結果となったと指摘している[29]。
これらの殺害は、単なる個人的な敵対にとどまらず、北部の有力家門の人的関係にも影響した。エアドは、ゴスパトリック、ガメル、ウルフの三人はいずれもバンバラ伯家と密接な関係を持っていたとする。ゴスパトリックはウートレッド伯の末子であり、ガメルの父オルムはゴスパトリックの姉妹と結婚しており、ウルフもゴスパトリックの従者であった可能性があるという[30]。
ローラ・ガッツォーリ(Laura Gazzoli)はさらに、この人的関係をドゥームズデイ・ブックなどから検討し、殺害された三人が直接または婚姻を介してバンバラ伯家と結びついていた可能性を指摘している。一方、1065年に彼らの復讐を掲げて蜂起したガメルバーン(Gamelbearn)、エゼルノスの子ダンスタン(Dunstan son of Æthelnoth)、ヘルドウルフの子グロニオルン(Glonieorn son of Heardwulf)は、ヨークシャー側の土地保有者として確認できるという[31]。ガッツォーリは、これをヨークシャーの従士たちがバンバラ家につながる人物の仇討ちに参加した事例とみなし、1065年の反乱に表れた「ノーサンブリア全体にわたる政治的利害」を示すものと評価している[31]。
したがって、1065年の蜂起を単一の原因だけから説明することは難しい。史料上、反乱者側の不満にはトスティの課税と有力者の殺害が明確に含まれており[28]、殺害された者たちはバンバラ伯家を中心とする北部の人的ネットワークと結びついていた[30]。また、反乱を主導した者のなかにはヨークシャーの土地保有者も含まれていた[31]。ストリックランドが指摘するように、こうした対立は、王権の直接的な支配力が比較的弱く、血讐と報復殺人の伝統がなお存在していた北部の政治社会のなかで発生した[26]。和平下にあると考えられていた有力者の殺害を含むトスティの行動は、最終的に彼に対する政治的支持を大きく損ない、1065年の反乱と伯領からの追放へつながった[26]。
ノーサンブリア反乱と追放
1065年10月3日、トスティがノーサンブリアを離れてエドワード懺悔王とともにブリットフォード(Britford)に滞在していた時期に、伯領で大規模な反乱が勃発した[32]。ウスターのジョンによれば、ガメルバーン(Gamelbearn)、エゼルノスの子ダンスタン(Dunstan son of Æthelnoth)、ヘルドウルフの子グロニオルン(Glonieorn son of Heardwulf)らノーサンブリアの従士が約200人の兵を率いてヨークへ入り、ゴスパトリック、オルムの子ガメル、ドルフィンの子ウルフらの殺害に対する復讐を掲げた[33]。同年代記はさらに、トスティが「ノーサンブリア全体に不当に課した莫大な税」を反乱者側の不満として挙げている[33]。
反乱者はヨークへ入った当日、逃亡しようとしていたトスティのデンマーク人ハスカール、アムンド(Amund)とレイヴンズワート(Ravenswart)を捕らえて城外で殺害し、翌日にはハンバー川北岸でトスティに仕える200人以上を殺した。さらにトスティの財庫を破り、その財産を持ち去ったとウスターのジョンは伝えている[33]。『アングロサクソン年代記』も、ヨークシャーおよびノーサンブリアの従士たちがトスティを追放者と宣言し、捕らえることのできたその家臣をイングランド人・デーン人の区別なく殺害したうえ、ヨークにあった武器、金銀その他の財宝を接収したと記している[34]。
反乱者はトスティの後任として、マーシア伯エドウィンの弟モーカーをノーサンブリア伯に選出した[34]。ローラ・ガッツォーリ(Laura Gazzoli)は、この選択を「実際的で、おそらく十分に考慮された」ものと評価している。モーカー自身はノーサンブリア在地の伯家の出身ではなかったものの、近隣地域に政治的利害を持つレオフウィン一族の一員であり、ゴドウィン家の有力な競争相手となりうる家門に属していた[35]。ガッツォーリは、モーカーがウェセックス伯ハロルドやイースト・アングリア伯ギルスらトスティの兄弟に対抗しうる政治的基盤を持っていたことを重視している[35]。また、モーカーがのちに北部の統治をバンバラ伯家のオスルフに委ねたことも、在地の政治構造への配慮を示すものとみている[35]。
モーカーを伯に選んだ反乱軍はそのまま南下した。『アングロサクソン年代記』によれば、ノーサンブリアとヨークシャーの軍勢にノッティンガムシャー、ダービーシャー、リンカンシャーの兵が加わり、ノーサンプトンではモーカーの兄エドウィン率いるマーシア軍と、多数のブリトン人も合流した[34]。この進軍は激しい暴力を伴い、国王との交渉が行われている間にも、反乱軍はノーサンプトン周辺で住民を殺害し、家屋や穀物を焼き、数千頭の家畜を奪い、数百人を捕虜として北方へ連行した。年代記は、そのためノーサンプトンと周辺の諸州がその後何年にもわたって損害を受けたと記している[34]。
エドワード王は反乱軍との交渉のため、トスティの兄ハロルドらを派遣した。『アングロサクソン年代記』によれば、反乱者たちはハロルドを介して国王へ要求を伝え、モーカーを正式なノーサンブリア伯として認めるよう求めた[34]。一方、『ヴィータ・エドワルディ』の叙述を検討したマシュー・ストリックランド(Matthew Strickland)によれば、エドワードは当初、反乱者たちに行動をやめるよう命じ、トスティから不法な被害を受けたことを証明できる者には、法に従って「正義と救済」を与えるという立場を取った[36]。しかし反乱者側は、個々の不法行為への救済だけではなくトスティ自身の罷免を要求し、国王による説得を拒んだ。度重なる交渉が失敗するとエドワードは全国から軍勢を召集して反乱を鎮圧するよう命じたが、イングランド人同士の内戦に対する強い忌避から十分な支持を得ることができず、最終的に反乱者側の要求を受け入れた[36]。
ウスターのジョンによれば、ハロルドらはまずノーサンプトンで、続いて10月28日のオックスフォードでトスティと反乱者との和解を試みたが、反乱者側は一貫してトスティの復職を拒絶した。彼らはトスティだけでなく、その「抑圧的な法」を助言した者たちをも追放者と宣言したという[33]。一方、『アングロサクソン年代記』の別の記事は、エドワード王がモーカーを伯として認めたのち、聖シモン・聖ユダ祭前日の10月27日にハロルドをノーサンプトンへ戻し、国王の決定を反乱者に伝えさせ、その保証を与えさせたと記している[34]。
ストリックランドは、ハロルドがそれ以前の1055年と1058年のエルフガーの反乱でも国王の代理として和平交渉に携わっていたことに注目し、その政治的判断力と外交能力が1065年の妥結にも重要な役割を果たした可能性を指摘している[36]。
『アングロサクソン年代記』によれば、ハロルドは国王によるモーカー承認を反乱者に伝えるとともに、ノーサンプトンで「クヌート大王の法」を更新した[34]。アン・ウィリアムズは、この出来事を北部とイングランド王権との関係という文脈から論じている。クヌートの法はヨーク大司教ウルフスタンによって編纂され、それ以前のエドガー王の法制を継承していた。エドガーの法は、旧ヨーク王国に暮らすデーン人に「彼ら自身の合法的な慣習」を認める一方、「イングランド人、デーン人、ブリトン人」を含む国王の支配領域全体を対象としていた[37]。ウィリアムズは、地域ごとに慣習、王権の実効性、地域的な自立の程度には差が存在したものの、「王国のすべての地域は一つの全体の一部」であり、一人の王の権威を認めていたと説明している[37]。
このため、ガッツォーリは、この1065年の反乱を「分離主義的」なものではなく、ノーサンブリアがイングランド王国に属することを認めながら、エドガー以来認められクヌートによって再確認された地域的な自律性を維持しようとしたものと論じている[35]。ストリックランドも、1065年の蜂起はエドワード王の権威そのものを拒絶したものではなく、国王に対してトスティを反乱者側が選んだ伯と交替させるよう要求したものであったと評価している[36]。
トスティはこの決定に強く反発した。『ヴィータ・エドワルディ』によれば、トスティはエドワード王の面前で兄ハロルドを反乱の扇動者であると公然と非難した。マイルズ・ウォーレン・キャンベル(Miles Warren Campbell)も、この告発がトスティの追放時にエドワード王の前で行われたことを確認している[38]。しかし、ストリックランドによれば、『ヴィータ』自身もこの告発を信じておらず、ハロルドは誓約によって自らの潔白を主張した。後世の研究でも、ハロルドが実際に反乱を事前に扇動したとする説は一般に支持されていない[36]。一方、トスティ自身はその後もハロルドに自らの追放の責任があると考えていた[38]。
諸史料によれば、11月初めまでにトスティの追放は確定した。ウスターのジョンは、11月1日の諸聖人祭の後、エドウィンの協力も得た反乱者たちがトスティをイングランドから追放したと記している[33]。トスティは妻ジュディスやなお彼に従った者たちとともに海を渡り、フランドル伯ボードゥアン5世のもとへ亡命した。『アングロサクソン年代記』はボードゥアンが一行を受け入れ、その冬をフランドルで過ごしたと記し[34]、ウスターのジョンはトスティ夫妻がサントメールで越冬したと伝えている[33]。1051年に続き、トスティは妻ジュディスと姻戚関係にあるフランドル伯家のもとへ亡命することとなった。しかし今回は、ハロルドを自らの追放の責任者とみなした状態での亡命であった[38]。
亡命と兄ハロルドへの反攻
トスティは1065年から1066年にかけての冬を、妻ジュディスやなお彼に従った者たちとともにフランドルで過ごした。ウスターのジョンによれば、夫妻はサントメールで越冬した[39]。1066年1月5日にエドワード懺悔王が死去し、その翌日に兄ハロルドがイングランド王として即位すると、トスティは軍事的支援を与える国外の同盟者を求めるようになった[38]。マイルズ・ウォーレン・キャンベルによれば、トスティはハロルドに自らの追放の責任があると考えており、国外から軍事力を得てイングランドへ帰還することを目指した[38]。
マシュー・ストリックランド(Matthew Strickland)は、11世紀半ばのイングランドでは、追放された有力貴族が国外で軍勢や同盟者を得て限定的な軍事行動を行い、その圧力によって国王から所領や官職の回復を勝ち取る行動が繰り返されていたことを指摘している[40]。1052年にはトスティの父ゴドウィンと兄ハロルドが武力を背景に追放処分を撤回させ、マーシア伯エルフガーも1055年と1058年に軍事力を伴って復権していた[40]。ストリックランドは、1066年春にトスティが開始した攻撃も、当初は兄ハロルドに自らの政治的復権を認めさせるための圧力であったと解釈している[40]。しかしハロルドが新たな伯領をトスティに与えることができなかった、あるいは与える意思を持たなかったためこの試みは失敗し、トスティは最終的にハーラル3世によるイングランド侵攻に加わった。ストリックランドは、この段階でハロルド王の廃位を目指すまでに至ったトスティの行動を、それまでの復権工作が失敗した末の「絶望的な行為」と評価している[40]。
1066年4月24日に彗星が出現してから間もなく、トスティはフランドルから艦隊を率いてワイト島に上陸した。ウスターのジョンによれば、トスティは島民から金銭と貢納を強制的に徴収し、その後イングランド南岸を略奪しながらサンドウィッチへ到達した[39]。ハロルド王は当時ロンドンにおり、トスティの来襲を知ると艦隊と騎兵を招集して、自らサンドウィッチへ向かう準備を始めた[39]。一方、ノルマンディー公ギヨーム2世もイングランド侵攻の軍備を進めていたため、ハロルドはその後夏から秋にかけて艦隊と陸軍を南岸に配置し、ノルマン軍の来襲にも備えた[39]。
ハロルドがサンドウィッチへ向かっていることを知ったトスティは、現地の船員を一部は自発的に、一部は強制的に自軍へ加え、北へ向かった。トスティはリンジー地方で村落を焼き、住民を殺害したが、マーシア伯エドウィンとノーサンブリア伯モーカーの軍勢に撃退された[39]。『アングロサクソン年代記』の一写本によれば、この時トスティは60隻を率いていたが、敗走後に船員の多くが離反し、12隻でスコットランドへ向かった[41]。トスティはマルカム3世のもとへ逃れ、ウスターのジョンによれば1066年の夏を同王のもとで過ごした[39]。『アングロサクソン年代記』も、スコットランド王がトスティを保護して食糧を与えたと伝えている[41]。
マイルズ・ウォーレン・キャンベルは、トスティとハーラル3世の提携について、イングランド侵攻以前に両者の間で何らかの合意が成立していたことは明らかであるとする一方、その合意がいつ成立したのか、両者が直接会談したのか、それとも使者を介して交渉したのかについては不確かであると指摘している[38]。『アングロサクソン年代記』とウスターのジョンは、ハーラルが秋にイングランド北東部へ到着した際、トスティが「以前に取り決めていたとおり」その軍勢に合流したと伝えている[41][39]。
後代の史料はさらに異なる経緯を伝えている。キャンベルによれば、12世紀初頭のオルデリック・ヴィタリスは、トスティがフランドルからノルマンディーへ渡り、ノルマンディー公ギヨームへハロルド攻撃を促したのち、航海中の逆風によって最終的にノルウェーへ至ったという経路を伝えている[38]。一方、13世紀のスノッリ・ストゥルルソンによる『ヘイムスクリングラ』では、トスティはまずデンマーク王スヴェン2世に軍事支援を求め、拒絶された後にノルウェーへ赴き、ヴィーケンにいたハーラル3世へイングランド遠征を提案したとされる[42]。
キャンベルは、オルデリックと英語年代記の記述を調和させる仮説として、トスティが1066年前半に二度イングランド南岸への攻撃を試み、その間にハーラルとの交渉が行われた可能性を提示している[38]。これは史料間の食い違いを説明するための再構成であり、キャンベルの再構成によれば、9月のノルウェー軍来航以前にはトスティとハーラルの間で共同侵攻についての合意が成立していたという[39][38]。
ハーラル3世とのイングランド侵攻
1066年9月、ノルウェー王ハーラル3世は大艦隊を率いてイングランド北東部へ来航した。『アングロサクソン年代記』の一写本はその艦隊を約300隻とする一方、ウスターのジョンは「500隻を超える大型船」と記している[41][39]。
トスティとハーラルがどこで合流したのかについても史料間には相違がある。『アングロサクソン年代記』の一系統は、スコットランドへ逃れていたトスティがハーラルに服属したと伝える[41]。別の記事では、ハーラルがタイン川河口へ到着した後にトスティが合流したとされる。ウスターのジョンも、ハーラルがタイン河口に大艦隊を率いて現れ、トスティが「以前に取り決めていたとおり」自らの艦隊を率いて合流したと伝えている[39]。
合流後、ハーラルとトスティの艦隊はハンバー川へ入り、ヨークへ向かった。ウスターのジョンによれば、両軍はリクコールに上陸した[39]。後代の『ヘイムスクリングラ』はより詳しい侵攻経路を伝え、両軍がクリーヴランドなどを攻撃し、スカーバラでは住民が降伏を拒否すると、高所で燃やした木材を町へ落として焼き払ったとする[42]。
ヨークでは、ノーサンブリア伯モーカーとその兄であるマーシア伯エドウィンが軍勢を集め、侵攻軍を迎撃した。9月20日水曜日、両軍はヨーク近郊のウーズ川付近で衝突した[41][39]。後に「フルフォードの戦い」と呼ばれるこの戦闘について、ウスターのジョンはエドウィンとモーカー軍の最初の攻撃が激しく、多数のノルウェー兵を倒したと伝えている[39]。しかし長時間の戦闘の末、イングランド軍はノルウェー軍の攻撃に耐えられなくなって敗走し、多数の兵が戦死したほか、それ以上の者がウーズ川で溺死したという[39]。『アングロサクソン年代記』も、エドウィンとモーカーが集められる限りの大軍を率いて戦ったものの敗北し、ノルウェー軍が戦場を支配したと伝えている[41]。
フルフォードで勝利したハーラルとトスティはヨーク側と和平を結んだ。『アングロサクソン年代記』によれば、ヨーク側は人質と食糧を提供し、さらにハーラルとともに南下してイングランド征服に加わることに同意した[41]。ウスターのジョンは、ヨーク側から150人の人質が差し出され、ハーラル側からも同数の人質がヨークへ預けられたと記している[39]。その後ハーラルとトスティは艦隊へ戻った。
ヨークシャー各地からさらに人質を受け取ることも決められ、その受け渡し場所としてスタンフォード・ブリッジが指定された。『アングロサクソン年代記』によれば、ハーラルとトスティは「州全体から」人質が届けられるものと考えて9月25日に同地へ向かった[41]。しかしその間、ハロルド王はノルウェー軍の侵攻を知ると南部から「昼夜を分かたず」北上し、すでにヨークへ迫っていた[41]。
スタンフォード・ブリッジの戦いと死
1066年9月24日、ハロルド王はタドカスターへ到着し、翌25日にヨークへ入った。ハーラル3世とトスティはハロルド軍の接近を察知しておらず、人質を受け取るためスタンフォード・ブリッジへ赴いていたところをイングランド軍に不意に襲われた[43]。『アングロサクソン年代記』は、両軍が「長い時間にわたって非常に激しく」戦ったと記している[43]。ウスターのジョンも、ハロルドが多数の武装兵を率いてヨークへ到着し、スタンフォード・ブリッジでハーラルとトスティの軍勢を破ったと伝えている[39]。
戦闘開始前の出来事について、後代の北欧王朝史には著名な伝承がある。『ヘイムスクリングラ』などでは、ハロルド側の使者がトスティに和平とノーサンブリアの返還を提案し、トスティがハーラル3世には何を与えるのかと尋ねると、「7フィートの土地」、すなわち墓に必要な土地だけを与えるとの回答があったとされる[42]。トスティはこの提案を拒み、ハーラルを裏切るよりもともに戦うことを選んだと物語られている[42]。同じ北欧伝承では、使者が去った後、トスティがその人物は実は兄ハロルド王本人だったと明かす[42]。
事件に近い『アングロサクソン年代記』は、ハーラルとトスティの軍勢はハロルド王の出現によって不意を突かれ、両軍は長時間にわたり激しく戦ったと伝える。最終的にハーラル3世とトスティはいずれも戦死し、ノルウェー人・イングランド人双方に多数の死者が出た[43]。ウスターのジョンも、ハロルド王がスタンフォード・ブリッジでハーラルとトスティを「軍勢の大部分」とともに殺害したと伝えている[39]。
これに対して『ヘイムスクリングラ』では、ハーラル3世が激しく戦うなかで喉に矢を受けて死亡し、その後トスティがハーラルの軍旗を引き継いで戦闘を続けたとされる[42]。同書はさらに、ハーラル戦死後にハロルド王がトスティと生き残ったノルウェー兵へ和平と助命を提案したものの、戦闘が再開されたという伝承を伝えている[42]。
ハーラルとトスティの戦死後、ノルウェー軍は敗走した。『アングロサクソン年代記』D写本によれば、ハロルド王は戦後、ハーラル3世の子オーラヴ、ノルウェー側の司教、オークニー伯ら生存者に安全を保障し、今後イングランドとの和平を守ることを誓わせたうえで帰国を認めた。同写本は、生存者が24隻の船で帰国したと記している[43]。
トスティの埋葬地について、『アングロサクソン年代記』は記していない。12世紀前半のウィリアム・オブ・マームズベリは、戦場で発見されたトスティの遺体が「両肩の間にあったいぼ」によって識別され、「ヨークで埋葬された」と伝えている[44]。
家族
トスティは1051年頃から1066年に戦死するまで、フランドル伯ボードゥアン4世の娘ジュディスと結婚していた[45]。ジュディスは夫のノーサンブリア伯在任中、聖カスバートの教会などへの宗教的後援に携わったほか、イングランドで豪華な福音書を制作させたことでも知られる。メアリー・ドックレイ=ミラーによれば、ジュディスがトスティとの婚姻中に制作させた福音書のうち、少なくとも4冊が現存している[46]。また、同時代および近い時代の史料は、ジュディスがイングランドの教会へ多数の宗教財を寄進したことを伝えている[46]。
トスティとジュディスの間に子供がいたこと自体は同時代史料から確認できる。『ヴィータ・エドワルディ』は、1065年の追放に際してトスティが「妻と乳飲み子たち」(cum conjuge et lactentibus liberis)とともにフランドルへ渡ったと記している[45]。この表現から夫妻に複数の幼い子供がいたことは分かるものの、その正確な人数、性別、名前は伝えられていない。The Henry Projectも、これらの子供について名前、人数、性別はいずれも不明であり、1065年当時まだ非常に幼かったと整理している[45]。
一方、後代の北欧王朝史には、スクーリ(Skúli konungsfóstri)をトスティの息子とする異なる伝承が存在する。『モルキンスキンナ』はスクーリをトスティの息子とし、彼が後にノルウェー王オーラヴ3世の側近となったと伝えている[45]。『ファグルスキンナ』にもスクーリをトスティの息子とする系譜伝承がみられるが、この父子関係は1066年から一世紀半ほど後に成立した北欧史料に依存している。
さらに、スクーリとともに後世の系図でトスティの子とされることのあるケティル(Ketill krókr)については、根拠はより不確実である。The Henry Projectによれば、『モルキンスキンナ』はケティルをスクーリと同じ箇所で言及するものの、トスティとの父子関係を示していない。一方、『ヘイムスクリングラ』の早い写本系統はスクーリとケティルを高貴なイングランド人の兄弟とするが、父親をトスティとはしていない[45]。
また、スクーリは1066年のスタンフォード・ブリッジの戦い当時すでに成人していたと考えられているため、1065年に「乳飲み子」とされたジュディスの子供たちと同一人物とすることは難しい。The Henry Projectは、仮にスクーリが実際にトスティの息子であったとしても、ジュディスとの結婚以前に別の女性との間に生まれた可能性の方が高いと指摘している[45]。
トスティの死後もジュディスはしばらくフランドルに留まったが、1070年頃に同地を離れ、後のバイエルン公ヴェルフ4世と再婚した[47]。12世紀後半に成立した『ヴェルフ家史』(Historia Welforum Weingartensis)は、ヴェルフが当時未亡人であったジュディスを妻としたと記す。同書は彼女を誤って「イングランド王妃」と呼んでいるが、二人の間にヴェルフとハインリヒという二人の息子が生まれ、いずれも後にバイエルン公となったと伝えている[48]。
大衆文化における描写
トスティの生涯と歴史的役割を扱った通俗的(学術的でない)ノンフィクション書籍には以下のようなものがある: Howarth, David (1977). 1066: The Year of the Conquest. Dorset Press. ISBN 0-88029-014-5 Lloyd, Alan (1966). The Making of the King 1066. Dorset Press. ISBN 0-88029-473-6
関連項目
注釈
脚注
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関連文献
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外部リンク