マーシア伯

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マーシア伯

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マーシア王国とその構成地域の地図

マーシア伯(マーシアはく、英語: Earl of Mercia)は、後期アングロ・サクソン期からノルマン・コンクエスト直後にかけて、旧マーシア王国に由来するイングランド中部の諸地域を統轄した太守、のちの伯(earl)に対して用いられる呼称である。後期アングロ・サクソン期の太守は国王の地方統治を担う有力官人であり、10世紀には複数のシャイアにまたがる広い地域を管轄する者が現れていた[1]。そのため、10世紀の「マーシアの太守」の管轄は、後世の世襲的な伯爵領のように一定した領域を持つものとして捉えることはできず、時期によってマーシア内部の権限配置にも変化がみられた[2]。

概要

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9世紀のウェセックス王国では、原則として個々のシャイアごとに太守が置かれていたと考えられているが、イングランド王国の拡大にともなってその管轄は大型化し、後期アングロ・サクソン期には一人の太守が複数のシャイアを統轄するようになった[1]。マーシアでも単一の固定された「マーシア太守領」が当初から存在したわけではなく、国王から任じられた有力者が旧マーシア王国を構成していた諸地域に対して権限を行使した[1]。

太守・伯の職務のうち、とりわけ重要であったのが軍事指揮であった。初期の記録では太守がそれぞれのシャイアの兵を率いて戦う姿がみられ、後期に管轄区域が拡大した後も、軍事上の任務はその主要な職責であり続けた[3]。また太守・伯は軍事だけでなく地方司法にも関与し、シャイア裁判(英語版)では司教とともに重要な役割を担った。後期アングロ・サクソン期の法制ではシャイア集会は年2回開催され、司教と太守・伯がそこでそれぞれ教会法と世俗法を示すことが求められていた[4]。

こうした地方統治者は王権から独立した領主ではなく、国王による統治を地方で担う王権の代理人でもあった。マーシアを管轄した太守・伯も王宮に出席して勅許状の証人となり、国王を取り巻く有力貴族層の一員として中央政治に深く関与した[5]。

歴史

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10世紀のマーシアと太守

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エルフヘレ太守が埋葬されたグランストンベリー修道院の跡地

10世紀中葉のマーシアで有力な太守一族として台頭したのが、エアルヘルム(英語版)とその子エルフヘレ(英語版)の一族であった。エアルヘルムは940年から勅許状の証人として太守の列に現れ、エドマンド1世によって任命されたとみられる。彼の管轄地域はマーシア内のウスターシャーを中心としていたと考えられ、951年を最後に史料から姿を消す[6]。

エアルヘルムの子のうち、エルフヘレはエドウィ王の治世が始まった直後の956年に太守へ任じられた[7]。957年にエドウィと弟エドガー王の間で王国が分割されると、エルフヘレはエドガー側に加わった。エルフヘレはエドガーの宮廷に出仕し、959年にエドウィが死去して王国が再統一された後も太守たちの中で高い地位を保持した[8][7]。

975年にエドガーが死去すると、その子エドワード殉教王と異母弟エゼルレッド王子をめぐる政治的対立が生じた。この時期には修道院が保有する土地をめぐる争いも各地で発生し、エルフヘレはマーシアにおいて新設・改革された修道院に対する反動に関与したと考えられている[7]。978年3月にエドワード王が殺害されてエゼルレッド王子が王位を継ぐと、エルフヘレは979年にエドワードの遺骸をウェアラム(英語版)からシャフツベリー修道院(英語版)へ移葬する際に中心的な役割を果たした[7]。

エルフヘレ太守は983年10月22日に死去した[7]。『アングロサクソン年代記』983年条は、エルフヘレの死後にエルフリック・キルドが「同じ太守職」を継承したと記しており、エルフリックがマーシアの太守となったことが確認できる[9]。しかしエルフリックの在職期間は短く、985年には国外へ追放された[10][11]。

エゼルウィン太守が埋葬されたラムジー修道院の跡地

エルフリック追放後、従来彼が有していたマーシアの権限が直ちに一人の後継者へそのまま引き継がれたとは考えられていない。イーストアングリア太守であったエゼルウィンは、985年から990年ごろにかけてマーシアの相当部分をも管轄していた可能性が指摘されている[2]。その後、10世紀末から11世紀初頭にかけてマーシアにおける有力者の構成は再び変化し、やがてエアドリク・ストレオナとレオフウィン一族(英語版)が台頭することになる。

エゼルレッド2世治世とエアドリク・ストレオナ

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伯領の前身となったマーシア王国とその構成地域の地図。ウィッチェ(Hwicce)は王国領南西部に位置する。

11世紀初頭になると、マーシアの広域的な統治者としてエアドリク・ストレオナが台頭した。『アングロサクソン年代記』1007年条は、この年にエアドリクが「マーシア人の全王国」の太守に任じられたと記している[12]。これは、985年のエルフリック・キルド追放後に流動化していたマーシアの統治において、再び広い範囲を管轄する太守が史料上明確に現れた例である。

もっとも、エアドリクの任命によってマーシア内部の他の太守職が消滅したわけではなかった。のちにマーシア太守家を形成する一族の祖レオフウィン(英語版)は、994年からウィッチェ太守として確認され、エアドリクがマーシアで権勢を振るった時期にもその地位を維持していた[13]。したがって、この時期のマーシアではエアドリクの広域的な管轄と、レオフウィンのような地域的な太守の権限とが併存していたと考えられる[13]。

エアドリクの在任期は、エゼルレッド2世治世末期におけるデーン人の侵攻と重なった。1015年、オックスフォードで開かれた会議において、エアドリクはデーンロウの有力者シゲフェルス(英語版)・モーカー(英語版)兄弟を自らの宿所へ招き、両者はそこで殺害されたと『アングロサクソン年代記』は伝えている[14]。両者の所領はその後エゼルレッド王によって没収されたが、エドマンド王子はシゲフェルスの未亡人と結婚し、シゲフェルスとモーカーの所領を掌握して当地の人々の服属を受けた[14]。

アッサンダンの戦いの古戦場とされる丘

同年、エアドリク太守とエドマンド王子はそれぞれ軍を集めたものの協調に失敗し、エアドリクは王軍から40隻の船を率いて離脱してクヌートの陣営へ加わった[14]。翌1016年、クヌートはエアドリクを伴ってテムズ川を渡りマーシアへ侵入し、ウォリックシャーを攻撃した[15]。その後の内戦においてエアドリクは再びエドマンド側に姿を現すが、『年代記』は彼の行動を繰り返し敵対的に描写している。とくにアッサンダンの戦いでは、エアドリクがマゴンサエテの兵とともに最初に戦場から離脱し、それによってエドマンドを裏切ったと記している[16]。

アッサンダンでクヌートが勝利したのち、エアドリクは他の賢人とともに両王の和平交渉に関与した。エドマンドとクヌートはオルニー(英語版)で会見し、王国を分割することで合意し、エドマンドがウェセックスを、クヌートがマーシアを支配することとなった[16]。しかしエドマンドは同年11月30日に死去し、この分割統治は短期間で終了した[16]。

クヌートによる再編とレオフウィン家

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クヌート大王によるイングランド再編後の地図。
黄色:ノーサンブリア伯領
鼠色:マーシア伯領
紅色:ウェセックス伯領
桃色:イーストアングリア伯領

エドマンドの死後、クヌートはイングランド全土の王となった。『アングロサクソン年代記』1017年条によれば、クヌートは王国を四つに分け、ウェセックスを自らの統治下に置き、イーストアングリアをのっぽのトルケル、マーシアをエアドリク、ノーサンブリアをエイリーク・ハーコナルソンに委ねた[17]。 しかしエアドリクの地位は長く続かなかった。同じ1017年中にクヌートの命によってエアドリクは殺害され、同時にレオフウィンの長男ノースマンも殺害された[17]。

一方、ノースマンの父レオフウィン自身はこの粛清を生き残った。レオフウィンは994年以来ウィッチェ太守職を保持しており、クヌートによる1017年の王国再編の際にもその職を維持していた可能性が高い[13]。エアドリクの死後には、その職務の相当部分をレオフウィンが引き継いだ可能性が指摘されているが、レオフウィンが1017年にただちに「マーシア全体の太守」に正式任命されたことを示す同時代史料はなく、その継承関係を単純に断定することはできない[13]。

レオフウィンはクヌート治世下でも太守として活動を続け、現存する王の証書では1023年まで確認される[13]。その息子たちも西部ミッドランズの統治に関与するようになり、レオフリクは1020年代後半までにはマーシアにおける伯の地位を獲得したとみられている[13]。

レオフリクの時代

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レオフリクは、遅くとも1020年代末までにはマーシアの伯として史料に現れ、1057年に死去するまでその地位を保持した[18]。父レオフウィンのもとで西部ミッドランズに形成された政治的基盤を継承したレオフリクは、クヌート大王の治世末期にはイングランドを代表する伯の一人となり、その後もハロルド兎足王、ハーデクヌーズ、エドワード懺悔王と相次いだ王権の交替を通じて地位を維持した。

1035年にクヌートが死去すると、王位継承をめぐってクヌートとエルフギフ・オブ・ノーサンプトンの子ハロルドと、クヌートとエマ・オブ・ノーマンディーの子ハーデクヌーズを支持する勢力が対立した。『アングロサクソン年代記』によれば、オックスフォードで開かれた賢人会議ではレオフリクとテムズ川以北のほぼすべてのセイン、さらにロンドンの船員たちがハロルドを支持したのに対し、ゴドウィンとウェセックスの有力者たちはこれに反対した[19]。最終的にはハロルドがイングランドの統治を担い、エマとハーデクヌーズの勢力はウェセックスに残された。この対立は、クヌート死後の王位継承においてレオフリクがテムズ川以北の有力者を代表する政治的位置を占めていたことを示している[20]。

ハーデクヌーズの死後、1042年にエドワード懺悔王が即位すると、レオフリクはゴドウィン、シワードとともに王国の主要な伯として新政権でも地位を維持した。この三者はエドワード治世初期の政治において広大な地域を統轄したが、その勢力は固定的なものではなく、国王による伯領の再配分によって変化し得るものであった[21]。とりわけゴドウィン家はエドワード治世前半に南部および東部で勢力を拡大し、これに対してレオフリク家はマーシアを中心とするミッドランズに主要な政治基盤を保持した。

両家の政治的位置が明瞭に現れたのが1051年の政変である。同年、王の義兄ブローニュ伯ウスタシュ2世の従者とドーバー住民との間で衝突が起こると、エドワード王はゴドウィンにドーバーへの軍事行動を命じたが、ゴドウィンはこれを拒否した[22]。ゴドウィンとその息子たちが軍勢を集める一方、王はレオフリクとシワードに援軍を求めた。両伯は当初比較的小規模な部隊を率いて到着したが、その後それぞれの伯領からさらに兵を召集して国王のもとへ集結した[23]。両軍にはイングランドの主要な貴族が多数含まれていたため、実際に戦闘を行えば王国の支配層に甚大な損害が生じ、外国勢力に乗じられる危険があるとして武力衝突は回避された[24]。その後ロンドンで会議が開かれ、ゴドウィンとその家族は国外追放を宣告された[25]。ゴドウィン家の失脚にともない、それまでハロルド・ゴドウィンソンが保持していた伯領はレオフリクの子エルフガーに与えられ、レオフリク家の勢力は一時的に東部へも拡大した[26]。

しかし翌1052年、ゴドウィンとハロルドは軍船を率いてイングランドへ帰還し、ロンドンに迫った。国王側にも軍勢が集められたが、双方の軍の大部分がイングランド人であったことから内戦を避けるべきであるとの意見が強まり、スティガンド(英語版)らが仲介して和解が成立した[27]。ゴドウィンとその子らには従来の伯領・財産が返還され、エルフガーはこの再編によっていったん東部の伯領を失ったとみられる。ところが1053年にゴドウィンが死去してハロルドが父の伯領を継承すると、それまでハロルドが保持していた伯領は再びエルフガーに与えられた[28]。

1055年、エルフガーは賢人会議によって国外追放されると、ウェールズ王グリフィズ・アプ・リウェリン(英語版)のもとへ逃れ、その軍事的支援を得てイングランドへ侵入した。エルフガーとグリフィズの軍はヘレフォードでイングランド軍を破り、町と聖エゼルベルト教会を焼いた[29]。その後エルフガーは伯位への復帰を認められた。

翌1056年にもウェールズとの戦闘が続き、ヘレフォード司教レオフガー(英語版)がグリフィズ軍との戦闘で戦死した。これを受けてレオフリクはハロルドおよびウスター司教エアルドレッド(英語版)とともに交渉に加わり、グリフィズとエドワード王との和平成立に関与した[30]。

レオフリクとその妻ゴドギフは、マーシア各地の宗教施設とも密接な関係を持った。1052年から1057年の間に作成された文書では、夫妻がウスターの聖マリア教会(英語版)へウスターシャーのウォルヴァリー5ハイド、ウォリックシャーのブラックウェル2ハイドなどを与えたことが記録されている[31]。また1053年から1055年ごろには、レオフリクとゴドギフがドーチェスター司教ウルフウィグと、リンカンシャーのストウ・ミンスター(英語版)の所領をめぐる協定を結んでいたことも文書から確認される[32]。

レオフリクは1057年に死去した。『アングロサクソン年代記』は彼を神の前でも世俗においても「非常に賢明」で、国民に利益をもたらした人物として記し、その遺体がコヴェントリー修道院(英語版)に葬られたと伝える[33]。マーシアの伯位は息子エルフガーに継承され、『年代記』も1057年条でエルフガーが父の伯領を継承したことを明記している[34]。

エルフガーの時代

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エルフガーは、父レオフリクの存命中からイングランド東部の伯として活動していた。1051年にゴドウィンとその子らが国外追放されると、それまでハロルド・ゴドウィンソンが保持していた伯領がエルフガーに与えられた[35]。翌1052年のゴドウィン家復帰によってハロルドが従来の地位を回復したため、エルフガーはいったんこの伯領を失ったが、1053年にゴドウィンが死去してハロルドが父の伯領を継承すると、ハロルドがそれまで保持していた伯領は再びエルフガーに与えられた[36]。この伯領は一般にイースト・アングリア伯領とみなされており、エルフガーは1051年から1052年、および1053年から1057年まで同地方の伯であった[37]。

1055年、ロンドンで開かれた会議においてエルフガーは国外追放された。追放の理由について『アングロサクソン年代記』の諸写本は一致しておらず、ある写本はエルフガーが「何の罪もなく」追放されたとする一方、別の写本は「ほとんど罪なく」と記し、さらに別の伝承では国王と国民に対する反逆者であるとの嫌疑を受けたとしている[38]。したがって、この追放に至った具体的事情を確定することは難しい。

追放されたエルフガーはまずアイルランドへ渡り、そこで自らの船を除いて18隻からなる船団を雇い入れた。その後ウェールズへ赴き、グリフィズ・アプ・リウェリン(英語版)の庇護を受けた[39]。エルフガーが集めたアイルランド系・北欧系の兵とグリフィズのウェールズ軍は連合し、イングランド西部へ侵入した[40]。

これに対してラルフ臆病伯がヘレフォードで軍勢を集めたが、両軍が衝突するとイングランド軍は敗走した。『年代記』のC系統では、イングランド軍が騎乗して戦ったことに触れ、敗走後におよそ400ないし500人が殺害されたとしている[41]。エルフガーとグリフィズの軍勢はそのままヘレフォードへ入り、町を焼き、司教アゼルスタン司教(英語版)が建立した聖堂を略奪した。年代記は、聖遺物や祭服などが奪われ、住民の一部が殺害され、さらに捕虜として連行された者もいたと伝えている[41]。

この攻撃を受けて、イングランド各地から大規模な軍勢が集められ、ハロルドがその対応にあたった。ハロルド・ゴドウィンソンはヘレフォードの防備を再建する一方、エルフガー・グリフィズ側との交渉も進め、ビリングズリー(英語版)で和平が成立した[42]。その結果、エルフガーの追放は解除され、没収されていた伯領および財産も返還された。エルフガーが雇った船団はその後チェスターへ移動し、約束されていた報酬の支払いを待った[42]。

1057年9月、レオフリクが死去すると、エルフガーは父の伯領を継承してマーシア伯となった[43]。現代の研究では、エルフガーは1057年から1062年頃に死去するまでマーシア伯であったとみられている[44]。

しかしマーシア伯となった翌1058年、エルフガーは再び国外追放された。『アングロサクソン年代記』D写本は追放の理由を記していないものの、エルフガーがグリフィズの援助によって「武力をもって」ほどなく復帰したことを伝えている[45]。同じ記事は、この年にノルウェーから略奪船団が来航したことにも触れている[45]。

1058年の事件については、英語史料以外の記録を合わせることでその軍事的背景をさらに詳しく窺うことができる。アイルランドの年代記は、オークニー・ヘブリディーズ・ダブリンなどから構成された船団がアイルランド海へ進出したことを記録し、ウェールズ史料はこの船団をノルウェー王ハーラル・ハルドラーダの子マグヌスが率いたとしている[46]。またウスターのジョン(英語版)は、エルフガーがグリフィズとノルウェー船団の援助を受けて伯領を回復したと記している[46]。この船団の具体的な行動については不明な点も残るが、近年の研究では、エルフガーとグリフィズによる1058年の復帰運動と同じ軍事行動の一部として検討されている[47]。

エルフガーとグリフィズの政治的関係は姻戚関係によっても結びついた。エルフガーの娘エアルドギス(英語版)はグリフィズの妻となり[48]。エアルドギスはグリフィズの死後、のちにハロルド・ゴドウィンソンと再婚することになる。

エルフガーの治世末期について同時代の年代記は詳しい記録を残していない。一方、1061年頃に作成されたと考えられるエルフガー名義の文書には、息子バーグへアド(英語版)の魂のため、ランスのサン=レミ修道院へスタッフォードシャーのラプレーを寄進したことが記されている[49]。文書の現存形態には後世の編集が加えられている可能性があるものの、土地の寄進そのものについては『ドゥームズデイ・ブック』によっても裏付けられ、文書には真正な核があると評価されている[50]。

エルフガーの正確な没年は年代記には記されていない。1061年頃の文書ではなお活動が確認される一方、現代の研究では1062年頃、あるいは遅くとも1062年から1063年頃までに死去したと考えられている[51]。

エドウィンの時代

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エルフガーが1062年頃に死去すると、その子エドウィンがマーシア伯となった。エドウィンの正確な就任時期を直接記した同時代史料は残されていないものの、1065年までにはマーシア伯として確実に活動しており、弟モーカーとともにレオフウィン家の政治的地位を継承していた[52]。

1065年、トスティ・ゴドウィンソンの統治に反発したヨークシャーおよびノーサンブリアの有力者たちが蜂起し、トスティを追放すると、反乱者たちはエルフガーの子モーカーを新たな伯に選出した[53]。モーカーはヨークシャーの勢力に加えてノッティンガムシャー、ダービーシャー、リンカンシャーの兵を率いて南下し、ノーサンプトン方面へ進んだ。これに対してエドウィンも自らの伯領から兵を率いて弟と合流し、さらにウェールズ人の部隊もこれに加わった[54]。

ハロルド・ゴドウィンソンは反乱軍とエドワード懺悔王の間を仲介したが、ノーサンブリア側はトスティの復帰を拒否し、モーカーを伯として承認するよう要求した。最終的に国王はこの要求を受け入れ、モーカーのノーサンブリア伯就任を認めた[54]。これにより、エドウィンがマーシア、モーカーがノーサンブリアの伯位をそれぞれ保持することとなった。

エドウィンとモーカーは、妹エアルドギスを介してハロルドとも姻戚関係を結んでいた。エアルドギスはかつてウェールズ王グリフィズ・アプ・サウェリンの妻であったが、グリフィズの死後ハロルドと結婚しており、1066年にはエドウィンとモーカーは新王ハロルドの義兄弟でもあった[55]。

1066年の侵攻

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1066年、国外追放されていたトスティが艦隊を率いてイングランドへ戻ると、リンジー地方を襲撃した。これに対してエドウィンとモーカーは軍勢を率いて進軍し、トスティを当地から追い出した[56]。トスティはその後スコットランドへ逃れ、スコットランド王マルカム3世のもとで夏を過ごした[56]。

同年9月、トスティはノルウェー王ハーラル・ハルドラーダと連合し、大規模な艦隊を率いてイングランド北部へ侵攻した。ハロルド王がまだ南部にいる間に、エドウィンとモーカーはそれぞれの伯領から可能な限りの兵力を集め、ヨーク南方で侵攻軍を迎撃した[57]。

9月20日、両軍はフルフォードの戦いで衝突した。ウスターで編纂された年代記によれば、エドウィンとモーカーの軍は戦闘序盤には激しく攻撃し、多数のノルウェー兵を倒したが、長時間の戦闘の末に持ちこたえられなくなり、多数の兵が戦死あるいは川で溺死して敗走した[58]。ノルウェー軍は戦場を掌握し、ヨークから人質を取ったが、その5日後に北上してきたハロルド王の軍とスタンフォード・ブリッジの戦いで戦い、ハーラルとトスティはともに戦死した[59]。

ヘイスティングズ後の王位問題

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スタンフォード・ブリッジの勝利から間もなくノルマンディー公ウィリアムがイングランド南部へ上陸し、10月14日のヘイスティングズの戦いでハロルド王が戦死した。『アングロサクソン年代記』によれば、ハロルドの死後、ヨーク大司教エアルドレッド(英語版)とロンドン市民はエドガー・アシリング(エドマンド剛勇王の孫)を王に立てようとし、エドウィンとモーカーもエドガーのためにともに戦うことを約束した[60]。

ウスターの年代記も、エドウィン、モーカー、エアルドレッド、ロンドン市民らがエドガーを国王に立て、彼のもとで戦争を継続しようとしたと記している。しかし準備が進められる間にエドウィンとモーカーは支持を撤回し、自らの軍勢を率いて本拠地へ戻った[61]。

ウィリアムはその後、南東イングランドを荒廃させながらロンドンへ接近した。バーカムステッドでエドウィンとモーカーは、エドガー、エアルドレッド、ウスター司教ウルフスタンらとともにウィリアムへ服属し、人質を差し出して忠誠を誓った[61][60]。これによってエドウィンは征服直後にもマーシア伯の地位を維持した。

征服王は当初、旧イングランド貴族の一部を政権内部に残した。ポワティエのウィリアムによれば、エドウィンとモーカーはウィリアムへ服属した後、その所領を返還された[62]。しかしウィリアムは1067年2月にノルマンディーへ帰還する際、エドウィン、モーカー、エドガー、ウォルシオフらイングランドの有力者を同行させた[63]。オルデリック・ヴィタリス(英語版)は、この措置について、ウィリアム不在中に有力者が反乱を企てることを防ぎ、指導者を欠いたイングランド人が蜂起しにくくする意図があったと説明している[64]。

1068年の反乱

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1068年にはエドウィンとモーカーの関係は再びウィリアム王と対立するようになった。オルデリック・ヴィタリスは、両兄弟が「公然たる反乱」に入り、多くの者を武装蜂起へ導いたと記している[65]。同史料によれば、エドウィンはウィリアムとの間で和平を結ぶ際、弟の服属と王国の相当部分の平定を保証し、その代わりにウィリアムの娘との婚姻を約束されたという[65]。ただし、この婚姻約束について同時代の『アングロサクソン年代記』は言及しておらず、反乱の原因をこれだけに求めることはできない。

反乱にはウェールズ勢力も関係していた。オルデリックは、ウェールズ王ブレディン・アプ・カンヴェン(英語版)が軍勢を率いてエドウィンとモーカーを支援したと記し、イングランド人とウェールズ人の有力者が集まってノルマン人に対する抵抗を協議したとしている[66]。

これに対してウィリアムは中部・北部へ軍を進め、各地に城塞を築いた。ウォリックには城が築かれ、ヘンリー・ド・ボーモンにその管理が委ねられた[67]。その後、エドウィンとモーカーは再び王に服属し、オルデリック・ヴィタリスによればウィリアムは両者を赦した[67]。その後ウィリアムはノッティンガム、リンカン、ハンティンドン、ケンブリッジなどにも城塞を設置し、ミッドランズおよび北部への軍事的支配を強めていった[68]。

1068年の服属後もエドウィンはマーシア伯であり続けた。Baxterは、1066年から1071年にかけてエドウィンとモーカーが、征服王の宮廷における影響力、伯領内のシャイアや都市に対する支配力、所領、宗教施設との結びつき、家臣に対する領主権を段階的に失っていったと論じている[69]。

1071年の反乱とマーシア伯家の崩壊

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1071年、エドウィンとモーカーは再びウィリアムの宮廷から離脱した。『アングロサクソン年代記』は、二人が逃亡して「森や野」をさまよったと簡潔に記している[70]。ウスターの年代記はより具体的に、ウィリアムが両伯を拘束しようとしていることを知ったため密かに宮廷を脱出し、一時は王に対して武装していたと伝えている[71]。

抵抗が成功しないと判断したエドウィンは、スコットランド王マルカム3世のもとへ向かおうとした。しかしその途上で自らの従者の裏切りに遭い、待ち伏せされて殺害された[71][70]。オルデリック・ヴィタリスによれば、エドウィンはスコットランド人、ウェールズ人、イングランド人から援助を得ようとして約6か月にわたって活動したが、側近であった3人の兄弟に裏切られ、退路を遮られた末に殺害されたという[72]。

モーカーはエドウィンとは別行動を取り、ダラム司教エゼルウィン(英語版)、シワード・バーン(英語版)らとともに船でイーリー島へ向かい、ヘリワード・ザ・ウェイクらの抵抗勢力に加わった[71]。ウィリアムは水陸からイーリーを包囲し、モーカーを含む抵抗者の大部分は最終的に降伏した[70]。

オルデリック・ヴィタリスは、両伯が排除された後、ウィリアムが彼らの広大な所領をノルマン人の支持者たちへ分配したと記している[73]。Baxterは1071年をレオフウィン家の没落の終点として扱っており、その後、征服以前のように旧マーシア地域全体を統轄する同家の伯権が復活することはなかった[74]。

伯領と権限

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伯領の範囲

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後期アングロ・サクソン期の「伯領」(earldom)は、後世の世襲爵位に付随する固定的な領域とは性格を異にしていた。伯位そのものは原則として世襲職ではなく、国王は一つまたは複数のシャイアをある伯の管轄から外して別の伯へ与えることができた[75]。したがって「マーシア伯領」も、旧マーシア王国の領域をそのまま継承した固定的な政治単位ではなく、国王によってマーシアおよびミッドランズの複数のシャイアを組み合わせて委ねられた広域的な管轄として理解する必要がある[75]。

エドワード懺悔王の治世には、イングランドの大部分のシャイアがいずれかの伯の広域的な管轄下に置かれていたものの、各伯領の構成は一定ではなかった。とりわけ1050年代には、ゴドウィン家(英語版)の追放・復帰や伯の死去にともなってシャイアの配属がたびたび変更され、エルフガーも父レオフリクの存命中にはマーシアではなくイーストアングリアの伯領を与えられている[75]。Baxterは、こうした伯領の再配分を、伯位とその管轄が国王による任命に左右され得たことを示すものとして論じている[75]。

伯が管轄する「伯領」と、伯およびその一族が私的に保有する土地も同一ではなかった。伯家は相続や購入などによって独自の土地を所有した一方、伯職にともなって国王から一時的に委ねられたと考えられる所領も存在した[76]。Baxterは、エドワード懺悔王期に伯領の構成が短期間で頻繁に変更されたことは、各シャイアに伯職と結びついて比較的容易に移管できる「伯の荘園」(comital manors)が存在したと考えれば理解しやすいと論じている[76]。

軍事権

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太守および伯の最も重要な職務の一つは軍事指揮であった。太守に関する初期の記録では、彼らはそれぞれのシャイアから徴集された兵(英語版)を率いて戦っており、後に一人の伯が複数のシャイアを統轄するようになった後も、地域の軍勢を動員し指揮する役割は維持された[3]。

こうした軍事権は、伯が独自の主権者として私兵のみを率いたことを意味するものではない。伯は国王の地方官として、自らの管轄下にある地域から王国の軍役を履行する兵力を集め、その部隊を国王の軍事行動へ導く立場にあった[3]。軍役は土地保有とも密接に関連しており、土地に基づいて徴集される兵員や軍事費を把握することも地方統治者にとって重要であった[77]。

マーシア伯についてもこの軍事的役割は史料上繰り返し確認できる。1065年にはエドウィンが自らの伯領から軍勢を率いて弟モーカーに合流し、翌1066年には両伯がそれぞれの管轄地域から兵を集めてノルウェー軍をフルフォードの戦いで迎撃した[78][79]。

シャイア裁判と地方行政

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伯は軍事指揮だけでなく、管轄下のシャイアにおける司法・行政にも関与した。10世紀中葉の法令ではシャイア裁判集会を年2回開催することが定められ、教区の司教と太守が出席して、それぞれ教会法および世俗法を示すことが求められていた[4]。ただし、現存史料からすべてのシャイア裁判に伯自身が実際に出席していたことを確認できるわけではなく、この規定が常にそのまま実施されていたかについては不明な点が残る[4]。

土地紛争を記録した文書では、太守や伯が裁判集会に出席し、当事者の主張を聞いたり、和解の成立に関与したりする事例が確認される。こうした記録からは、伯が単に裁判の名目的な主宰者であっただけでなく、少なくとも一部の土地紛争では積極的な役割を果たしていたことが窺える[80]。

しかし伯はシャイア行政を単独で支配していたわけではなく、司教やシェリフなど他の王権代理人と並んで地方統治に参加した[81]。シェリフは伯の職務の多くを代行する能力を有していたため、伯が国外追放されたり伯領を失ったりした場合でも、国王の地方行政そのものが停止するわけではなかった[81]。

都市と収入

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伯は管轄下の都市や市場から生じる王権収入にも関係していた。その代表的な権利が「三分の一収入」(third penny)であり、伯は都市の地代、通行税・市場税などの収入、および司法収益の一部から三分の一を受け取る場合があった[82]。これは単なる私的な地代ではなく、国王による地方統治に伯が参加することと結びついた収入であった[82]。

1066年のスタッフォードについて『ドゥームズデイ・ブック』は、市の諸収入9ポンドについて三分の二が国王、三分の一が伯に属したと記録している[83]。Fairbairnはこの記録を、伯が都市の地代・通行税・司法収益から「third penny」を受け取った具体例として挙げている[83]。

伯家はさらに管轄下の都市に家屋やその他の権益を有する場合があり、都市行政への関与と土地保有とはしばしば結びついていた[84]。

権力の限界

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こうした広範な権限にもかかわらず、マーシア伯は国王から独立した地方君主ではなかった。伯領の構成そのものを国王が変更でき、伯は追放や解任によって管轄地域を失う可能性があった[75]。1051年のゴドウィン家追放時には伯領が他の人物へ再配分され、1055年および1058年にはエルフガーが追放によって伯位を失った。

また伯が有した大規模な土地資産についても、そのすべてが一族の自由な世襲財産だったわけではない。Baxterはレオフウィン家に帰属した所領の多くが、伯職にある期間だけ国王から委ねられ、罷免されれば回収され得る性格を有していたと論じている[85]。

土地所有と家臣団

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所領の規模と分布

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レオフウィンからエドウィン・モーカーに至る一族は、伯として管轄した地域とは別に、イングランド各地に大規模な土地を保有していた。ドゥームズデイ・ブックに記録された1066年以前の所領を復元したStephen Baxterの集計によれば、レオフウィン家に帰属した土地は21のシャイアに分布し、その規模はおよそ1,000ハイドと1,100カールケイト(英語版)、1066年時点の年価にして約2,850ポンドに達した[86]。同じ方法による推計では、エドワード懺悔王の所領は年価約8,000ポンド、ゴドウィン家(英語版)の所領は約5,600ポンドであり、レオフウィン家の土地資産は王家やゴドウィン家には及ばないものの、11世紀中葉のイングランド貴族としてきわめて大規模なものであった[86]。

ただし、これらの土地がマーシア内部だけに集中していたわけではなく、伯領の境界と一族の土地所有の分布も一致しなかった[87]。伯は国王から特定のシャイアを管轄する公的権限を与えられる一方、一族としてはその管轄外にも土地を保有することができた。このため、史料にある「エドウィンの土地」や「レオフリクの土地」を、そのまま「マーシア伯領」の領域とみなすことはできない[87]。

所領と伯職

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レオフウィン家の所領には、相続や譲渡などによって一族が保持した土地と、伯としての在職にともなって王権から与えられた土地の双方が含まれていた。Baxterは、後期アングロ・サクソン期の伯が保有した土地の相当部分は、伯職にある期間に王から貸与され、解任・追放・伯領の変更にともなって回収または別の伯へ移転し得る性質のものであったと論じている[88]。

このような土地は後世の意味で伯家に永久に帰属する世襲財産とは異なり、王権による政治的恩顧の一部として機能した。BaxterとJohn Blairは、後期アングロ・サクソン期の土地制度を論じるにあたり、国王が官人などへ一時的に土地を与えるレーンランド(lǣnland)の仕組みを、王による人事・恩賞政策を理解するうえで重要な要素と位置づけている[89][90]。田中正義はレーンランドを「一時的に授与せられる土地」として、永久的に授与されるブックランド(英語版)と区別している[89]。したがって、レオフウィン家が保有した土地のすべてを一族の自由な世襲財産とみなすことはできない[88]。

人的支配と投托

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マーシア伯家の地方権力は、伯自身が直接所有する土地だけによって成立していたわけではない。『ドゥームズデイ・ブック』には、1066年以前にレオフウィン家の人物と投托(commendation)関係を結んでいた多数の自由人やセイン(英語版)が記録されている[91][92]。

投托とは、自由人などが有力者を自らの主君として認め、その保護の下に入ることによって成立する人的な関係をいう[91][93]。ただし、ある人物が伯へ投托していたことは、その人物が保有する土地そのものを伯から与えられていたことを必ずしも意味せず、投托による人的関係と土地保有上の従属関係とは区別する必要がある[93]。したがって、レオフウィン家へ投托していた人物をすべて伯の土地を保有する直属の家臣とみなすことはできない[92]。

これとは別に、土地そのものを領主から保有する従属的土地保有や、ソーク(英語版)(soke)と呼ばれる裁判管轄権による結びつきも存在した。日本のイングランド史研究でも、ソークはデーンロウなどの土地保有制度を特徴づける「裁判管轄権」として用いられている[94]。ソークは領主の裁判権と密接に関連し、特定の裁判所への服属や、そこから生じる司法収益を受け取る権利などに関係していた[95]。

投托、土地保有、ソークは互いに同一の関係ではなかった。一人の人物がこれらのうち複数の関係によって同じ領主に結びつく場合がある一方、それぞれについて異なる領主との関係を持つ場合もあった[95]。Baxterは『ドゥームズデイ・ブック』に記録されたこれらの関係を区別したうえで、レオフウィン家へ投托していた人物を地域ごとに復元している[92]。

Baxterによれば、投托はかつて想定されていたような容易に変更できる弱い関係ではなく、11世紀イングランドの領主権(lordship)を構成する重要な関係の一つであった[96][97]。なお、田中正義も中世イングランドの法制史を論じる際に lordship を「領主権」と表記している[96]。

伯家に従った有力者

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レオフウィン家と結びついた人物の中には、相当規模の土地を自ら保有する地方有力者も存在した。その一例がワーゲン・オブ・ウートン(英語版)(Wagen、Vagn)である。ワーゲンはウォリックシャーのウートン・ワーウェン(英語版)をはじめ複数の所領を持った有力者であり、Baxterは彼をレオフリクの従者集団に属した人物としている[98]。ワーゲンはウスター司教による複数の文書にも証人として現れ、レオフリク家の政治的基盤とウスター地域の有力者層との接点を示す人物の一人となっている[99]。

また『ドゥームズデイ・ブック』からは、ワーゲンのほかにもレオフウィン家と投托、土地保有、ソークなどの異なる関係を有した多数の人物が確認される[92]。Baxterはこれらの関係を相互に区別しながら、レオフウィン家と地方有力者との人的な結びつきを復元している[92][95]。

教会・修道院との関係

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マーシア伯家は、11世紀のマーシア各地に所在する教会・修道院と広範な関係を有していた。Stephen Baxterは、レオフウィン家がコヴェントリー修道院(英語版)創設に関与したほか、イヴシャム修道院(英語版)、ウスター大聖堂(英語版)、レミンスター修道院(英語版)、ウェンロック修道院(英語版)、チェスター聖ヨハネ教会(英語版)および聖ワーバラ修道院(英語版)、バートン修道院(英語版)、クロウランド修道院(英語版)などと、寄進のみならず土地保有をめぐる対立・収奪を含むさまざまな関係を持っていたと指摘している[100]。

コヴェントリー

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レオフリクと妻ゴドギフの宗教活動の中で、とくに重要であったのがコヴェントリーの修道院である。ウスターのジョン(英語版)の年代記は、1057年のレオフリクの死を記す際、レオフリクとゴドギフが自らの財産を用いてコヴェントリーの修道院を建立し、土地を十分に与えたと伝えている[101]。同年代記によれば、夫妻はさらに金・銀・宝石その他の装飾品を修道院へ与え、当時のイングランドでも特に豊かな宗教施設の一つとなっていた[101]。

コヴェントリーに伝来した1043年付のレオフリク名義の創設文書(S 1226)は、レオフリクによる修道院創設と多数の所領の寄進を記しているが、現存する文書そのものは12世紀に作成された偽文書と評価されている[102]。したがって、同文書に列挙された個々の寄進地をそのまま1043年の真正な創設記録として用いることには注意が必要である。

一方、1043年から1053年の間に発給されたエドワード懺悔王の勅令(S 1099)は真正と評価されている。この勅令は、コヴェントリー修道院長レオフウィンが、その土地と人々に対して、レオフリク伯が従来有していたのと同様のsac、soc、toll、teamなどの司法・財政上の権利を有することを認めている[103]。この文書からは、修道院への寄進が土地そのものだけでなく、そこに付随した司法・収益上の権限の移転をともなう場合があったことが確認できる。

レオフリクは1057年に死去するとコヴェントリー修道院(英語版)に埋葬された。『アングロサクソン年代記』も同年条でレオフリクがコヴェントリーに葬られたことを記しており[104]、コヴェントリー修道院(英語版)は伯家の保護を受ける宗教施設であるとともに、レオフリク自身の埋葬地ともなった。

ウスター

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レオフリク家とウスターの聖マリア修道院(英語版)との関係は、現存する11世紀の文書によって具体的に確認できる。1052年から1057年の間に作成された文書S 1232では、レオフリクとゴドギフが「神への愛と自らの魂のため」に、ウスターシャーのウォルヴァリー5ハイド、ウォリックシャーのブラックウェル2ハイド、および町中の屋敷一か所をウスターの修道院食堂へ寄進したことが記されている[105]。文書は、この土地が修道士たちの食事のために永久に用いられ、彼らが夫妻の魂のために祈ることを条件としている[105]。

さらにこの文書では、レオフリクとゴドギフ自身が生涯にわたって寄進地の「保護者・守護者」となることが定められていた[105]。

Baxterは、ウスターを含むマーシア諸修道院とレオフウィン家との関係について、寄進だけでなく土地の収奪や紛争に関する史料も検討している[100]。後世にウスターで編纂された記録には、レオフウィン家やその周辺人物による教会領の保有を非難する記述も残されている[100]。

ストウ・セント・メアリー

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1053年から1055年頃には、レオフリクとゴドギフはドーチェスター司教ウルフウィグ(英語版)とともに、リンカンシャーのストウ・ミンスター(英語版)の再整備に関与した。この時の合意を記したS 1478は真正な文書と評価されており、夫妻が司教に対し、ストウの教会を再興し土地を加える許可を求めたことを伝えている[106]。

同文書によれば、ウルフウィグはこれを歓迎し、ストウには聖職者集団が置かれることとなった[106]。また、司教・レオフリク・ゴドギフその他の人々がストウへ与えた土地について、将来の司教が不当に収益を要求したり、寄進地を教会から切り離したりしないよう規定が設けられていた[106]。この合意はエドワード懺悔王、王妃エディス、二人の大司教、多数の司教・伯・修道院長、さらにリンカン市民らの立会いのもとで成立したと記されている[106]。

ウスターのジョンもレオフリクの死を記した箇所で、夫妻がドーチェスター司教エドノスによって建てられたストウの聖マリア教会を装飾・援助したことを伝えている[101]。したがって、ストウとの関係は後世の伝承だけではなく、11世紀の合意文書によっても確認される。

その他の宗教施設

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ウスターのジョンは、レオフリクとゴドギフがコヴェントリー以外にも複数の宗教施設を援助したと記している。同年代記によれば、夫妻はレミンスターとウェンロックの修道院、チェスター聖ヨハネ教会(英語版)および聖ワーバラ修道院(英語版)へ貴重な装飾品を与えた[101]。また、ウスターへ土地を寄進し、イヴシャム修道院については建物・装飾品・所領を増加させたとされる[101]。

ウェンロックには7世紀以来の宗教施設の伝統が存在していたが、11世紀にはレオフリクとゴドギフによって再び宗教共同体が整備されたとされる[107]。

Baxterはさらに、バートン修道院やクロウランド修道院とレオフウィン家との土地保有関係についても『ドゥームズデイ・ブック』などを用いて検討している[100]。バートンについては、1066年以前にレオフウィン家が保有していた修道院領が複数確認され、Baxterはこれらを一覧化している[108]。同様にクロウランドについても、エルフガーの所領とクロウランド修道院領とが同じリンカンシャーの村落に並存していた事例がまとめられている[109]。

修道院長レオフリク

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伯家とミッドランズの宗教施設との関係には、一族の人物が直接修道院長職に就く例もみられた。マーシア伯レオフリクの甥にあたる同名のレオフリク (修道院長)(英語版)は、11世紀中葉に複数の修道院を同時に統轄した[110]。彼はピーターバラのほか、バートン修道院(英語版)、コヴェントリー修道院(英語版)、クロウランド修道院(英語版)、ソーニー修道院(英語版)を兼任したとされる[111]。

Baxterは、レオフウィン家とマーシアの宗教施設との関係を、土地の寄進、修道院の創設・再整備、教会財産をめぐる保護と紛争、さらに伯家の人物による修道院長職の保持を含むものとして検討している[100]。

太守とマーシア伯の一覧

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10世紀のマーシアにおける太守の管轄範囲は一定しておらず、旧マーシア王国の全域を一人の人物が継続的に統轄していたわけではない。複数の太守がマーシア内部の異なる地域を管轄した時期もあり、国王による任命や追放にともなってその構成も変化した[112]。したがって、以下の一覧は後世の世襲爵位のような単純な継承順を示すものではない。

太守

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  • エアルヘルム(英語版)(940年 - 951年) - 940年から太守として勅許状に現れ、マーシアのうちウスターシャーを中心とする地域を管轄したと考えられている。のちの太守エルフヘレ(英語版)の父[113]。
  • エルフヘレ(英語版)(956年 - 983年) - エドウィ王の治世初頭に太守へ任じられ、957年の王国分割後にはエドガーの宮廷で有力な地位を占めた。983年10月22日に死去した[114]。
  • エルフリック・キルド(983年 - 985年) - 『アングロサクソン年代記』983年条によればエルフヘレの死後に「同じ太守職」を継承したが、985年に国外へ追放された[115]。
  • 985年 - 1007年頃 - エルフリックの追放後、マーシア全体について単一の後継太守が史料上明確に確認されるわけではない。イーストアングリア太守であったエゼルウィンは、985年から990年頃までマーシアの「相当部分」をも管轄していた可能性がある[2]。また994年にはレオフウィン(英語版)がウィッチェの太守となり、西部マーシアで地位を築いた[13]。
  • エアドリク・ストレオナ(1007年 - 1017年) - 『アングロサクソン年代記』1007年条は、エアドリクが「マーシア人の全王国」の太守に任命されたと記している[12]。クヌート大王が全イングランドの支配権を握った1017年にもマーシアを委ねられたが、同年中にクヌートの命によって殺害された[17]。
  • レオフウィン(英語版)(994年 - 1023年頃) - 史料上は「ウィッチェ太守」として確認されるため、エアドリクの正式な「マーシア太守」の後継者であったと断定することはできない。ただし1017年のエアドリク死後、その職務の多くを引き継いだ可能性が指摘されている。1023年を最後に勅許状から姿を消す[13]。

伯爵

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エドウィンの死後、征服以前のマーシア伯に相当する広域的な伯職が再び置かれたことは確認されていない[119]。

脚注

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  1. 1 2 3 Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 176. 2026年9月14日閲覧。
  2. 1 2 3 Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 84. 2026年9月14日閲覧。
  3. 1 2 3 Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 178. 2026年9月14日閲覧。
  4. 1 2 3 Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 181. 2026年9月14日閲覧。
  5. ↑ Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. pp. 89-91. 2026年9月14日閲覧。
  6. ↑ Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 89. 2026年9月14日閲覧。
  7. 1 2 3 4 5 Simon Keynes (2014年). “Ælfhere”. The Wiley Blackwell Encyclopedia of Anglo-Saxon England. Wiley-Blackwell. p. 8. 2026年9月14日閲覧。
  8. ↑ Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 91. 2026年9月14日閲覧。
  9. ↑ “A Literal Translation of the Saxon Chronicle”. Project Gutenberg. p. 149 (1819年). 2026年9月14日閲覧。
  10. ↑ “A Literal Translation of the Saxon Chronicle”. Project Gutenberg. p. 149 (1819年). 2026年9月14日閲覧。
  11. ↑ Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 113. 2026年9月14日閲覧。
  12. 1 2 “A Literal Translation of the Saxon Chronicle”. Project Gutenberg. p. 163 (1819年). 2026年9月14日閲覧。
  13. 1 2 3 4 5 6 7 8 Mary Elizabeth Blanchard (2016年). “The Late Anglo-Saxon Royal Agent: The Identity and Function of English Ealdormen and Bishops c. 950–1066”. Oxford University Research Archive. p. 95. 2026年9月14日閲覧。
  14. 1 2 3 “A Literal Translation of the Saxon Chronicle”. Project Gutenberg. pp. 175-176 (1819年). 2026年9月14日閲覧。
  15. ↑ “A Literal Translation of the Saxon Chronicle”. Project Gutenberg. pp. 176-177 (1819年). 2026年9月14日閲覧。
  16. 1 2 3 “A Literal Translation of the Saxon Chronicle”. Project Gutenberg. pp. 179-181 (1819年). 2026年9月14日閲覧。
  17. 1 2 3 “A Literal Translation of the Saxon Chronicle”. Project Gutenberg. pp. 181-182 (1819年). 2026年9月14日閲覧。
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  19. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 186-187
  20. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 186-187
  21. ↑ Stephen Baxter (2007年). “The Extent, Nature, and Limits of the Leofwinesons' Power”. The Earls of Mercia: Lordship and Power in Late Anglo-Saxon England. Oxford University Press. pp. 61-124. 2026年9月14日閲覧。
  22. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 196-197
  23. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 197-198
  24. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 198-199
  25. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 198-199
  26. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 199-200
  27. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). pp. 202-203
  28. ↑ A Literal Translation of the Saxon Chronicle. John and Arthur Arch. (1819). p. 204
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参考文献

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一次史料・史料集

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研究文献

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関連項目

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外部リンク

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