トニー谷

ウィキペディアから、無料の百科事典
とにー たに
トニー 谷
トニー 谷
1950年頃
本名 大谷 正太郎
生年月日 (1917-10-14) 1917年10月14日
没年月日 (1987-07-16) 1987年7月16日(69歳没)
死没地 日本の旗 日本・東京都港区 東京慈恵会医科大学附属病院
国籍 日本の旗 日本
職業 司会者
ヴォードヴィリアン
歌手
俳優
ジャンル 舞台
映画
ラジオ
テレビ
コミックソング
主な作品
テレビ
『アベック歌合戦』

楽曲
「さいざんす・マンボ」
「チャンバラ・マンボ」
「あんたのおなまえ何ァんてェの」
テンプレートを表示

トニー 谷(トニー たに、1917年〈大正6年〉10月14日 - 1987年〈昭和62年〉7月16日)は、日本の司会者、ヴォードヴィリアン、歌手、俳優。本名は大谷 正太郎(おおたに しょうたろう)[1][2]。

連合国軍占領下で、占領軍向けの劇場やアメリカ赤十字の進駐軍クラブなどに勤務し、ショーの運営や日本人芸能者の手配に携わったのち、ジャズ・コンサートなどの司会者として芸能活動を始めた[3][4]。

1950年代前半にはジャズ・コンサートの司会者として人気を集め、司会の枠を超えたヴォードヴィル公演にも取り組んだ[5][6]。

日本語と英語を混交させた独特の話術はトニー・イングリッシュ、トニーングリッシュなどと呼ばれ、「さいざんす」「おこんばんは」「家庭の事情」などの言い回しで知られた[7]。そろばんをリズム楽器のように用いる芸でも知られ、1950年代には舞台、ラジオ、映画などで活動した[8][9]。

1955年の長男誘拐事件を経て活動環境が変化したのち、1962年からテレビ版『アベック歌合戦』の司会を務めて再び広く知られた[10]。晩年の1986年には永六輔の企画によって舞台活動を再開し、翌1987年に死去した[11][2]。

日劇ミュージックホールで共演したメリー松原によれば、本人は「コメディアン」と呼ばれることを好まず、自らを「ヴォードヴィリアン」と位置づけていた[12]。村松友視や矢野誠一は、その芸を占領期から戦後にかけての社会状況との関係から論じている[13][8]。

生涯

生い立ちと戦時期

大谷正太郎の出生や戦前の経歴については、本人が芸能界で活動するようになってから語った内容と、1955年の長男誘拐事件を機に報じられた経歴との間に相違がある[14]。

村松友視が後に紹介した1955年当時の経歴調査では、1917年10月に東京・日本橋小伝馬町に生まれたとされる[15]。日外アソシエーツの人物事典も小伝馬町出生とする一方、『ブリタニカ国際大百科事典』は銀座生まれとしており、出生地については資料に異同がある[10]。

1931年(昭和6年)に東京府立第三中学校へ入学し、英語と図画を得意としたが、1933年に中退して電機学校に通ったとされる。翌1934年には実母が死去した[16]。1935年には小学校時代の恩師の世話で日本橋小舟町の薬店に勤務した[17]。

1938年に近衛歩兵第1連隊に入隊し、1940年に除隊すると、新橋の第一ホテル経理部に勤務した。当時の上司は、後年の聞き取りに対して大谷がそろばんを得意としていたと回想している[17]。1942年には中川栄子という女性と結婚したが、大谷は約1か月後に再び出征し、栄子は1945年3月10日の東京大空襲で行方不明になったとされる[18]。

戦時中の経歴について、大谷自身は後年、中国で客引きや舞台の仕事をしたなどと語ることがあった。一方、1955年に報じられた経歴では、終戦まで上海、南京、華南方面を一兵卒として転戦し、1945年12月に復員したとされている[18]。村松は、上海での芸能活動をめぐる逸話には本人による自己演出が含まれている可能性を指摘している[18]。

占領軍施設と芸能界入り

復員後、大谷は連合国軍占領下の東京で、占領軍関係の芸能事業に携わるようになった[3][4]。

山下武によれば、第8軍スペシャルサービスのレビュー団で通訳を務めたのち、ショーの演出助手などを経て、占領軍に接収され「アーニー・パイル劇場」となっていた東京宝塚劇場で働いたという[19]。劇場に勤め始めた時期については資料に異同があり、村松友視が紹介する経歴では1946年11月に同劇場の事務員となったとされる一方、小林信彦は1945年12月末と記している[18][20]。

その後、アメリカ赤十字社が運営していた赤十字クラブにも関わり、占領軍向けの慰問芸能者の手配に携わった[3]。山下によれば、日本人のジャズバンドや歌手などを各地の駐留軍キャンプへ派遣する仕事を担当するとともに、自らもMC(司会)を務め、この経験が後のトニー・イングリッシュの基礎になったという[21]。

後に妻となる大谷たか子は、村松の聞き取りに対し、自身が1947年に丸の内の「バンカース・クラブ」へ勤務した時には、すでに大谷が同クラブでショーや催事を担当していたと証言している。大谷は出演者の選定、毎週のスケジュール作成、舞台装置の準備などを行い、立川などの占領軍キャンプへ踊り子や歌手を送り出す仕事にも携わっていたという[22]。

大谷とたか子は1947年3月に知り合い、翌1948年3月にバンカース・クラブで結婚した。結婚後の正太郎は横浜の進駐軍クラブでも仕事をしていたと、たか子は回想している[22]。

「トニー」という呼称もこの時期に生まれたとされる。山下は、赤十字クラブのアメリカ人女性上司が「谷」を「トァニィ」と発音したことから「トニー」へ転じたとしている[23]。村松が紹介する本人の回想にも、外国人から「トニー」と呼ばれるようになったとの記述がある[24]。

赤十字クラブ勤務中には、クラブの仕事と並行して司会の仕事にも携わるようになった。村松と山下によれば、司会の仕事でクラブを離れていた際に照明器具から火災が発生し、その責任を問われて赤十字の仕事を離れたとされる[25][26]。その後は横浜の占領軍関係のショーなどでMCを務めるようになった[25][27]。

司会者としての台頭

榎本健一(右)と谷(1950年頃)

赤十字クラブを離れた後、大谷は横浜の占領軍関係のショーに携わり、催事やパーティーのMCを務める機会を増やしていった[25]。

その転機の一つとされるのが、1949年に来日したアメリカの野球チーム、サンフランシスコ・シールズの歓迎会である。東京・芝のスポーツセンターで開かれた歓迎会では、当初松井翠声が司会を務める予定だったが、北海道での仕事から戻れなくなったため、代役として谷が起用された[28][29]。

谷が英語で司会を始めると客席から内容が分からないとの野次が飛び、谷がこれに反射的に「何言ってやがんだい」と怒鳴り返すと、客席からはワッと笑い声が起こった。ここから流れるように吐き出された、英単語を一つ一つ日本語にして七五調に仕立て直した口上はこれまたドッと受け、のちにトニー・イングリッシュと呼ばれるものが誕生した瞬間であった[28]。

「レディース・アンド・ジェントルメン アンド・ミーチャン・ハーチャン」

「ウィ・ハブ・ア・ツナイト、今晩は、ミスター・オドール、フォロー・イン・ひきいるフロム・アメリカから、アメリカン・ナンバー・ワン・ベースボール・チーム・サンフランシスコ・シールズ、ケム・ヒヤ、来ました、ツナイト・歓迎会、オブ・ウェルカム・パーティ……」 — トニー谷、村松友視 著『トニー谷、ざんす』 p.68

村松はこの舞台を、日本人を対象とするMCとしての本格的な出発点と位置づけている[28]。山下も、この歓迎会を契機に東宝関係者から注目されるようになったと記している[29]。

当時のジャズ・コンサートやアトラクション・ショーでは、司会を専門の職業とする者はまだ少なく、漫才師などが兼務することが多かったと山下は述べている。こうしたなかで谷は、客席との即興的な応酬を取り込む司会者として活動を広げた[30][31]。

1951年には帝劇公演『モルガンお雪』に出演し、吉原の牛太郎役を演じた。この出演が谷の名が広く知られる契機の一つになったと、村松が紹介する経歴には記されている[24]。

同年には、アメリカから来日した曲撃ち芸人ケニー・ダンカンの公演で司会を担当した。小林信彦は、アーニー・パイル劇場などで行われたこの公演によって谷の知名度が高まったと述べ、当時の舞台写真に残る特徴的な衣装についても紹介している[32]。

1950年代前半の人気

『ますらを派出夫会』谷と白鳩真弓

1950年代初頭、ジャズ・コンサートやショーが盛況をみせるなか、谷はその司会者として活動を広げた。山下は当時をジャズ全盛時代とし、その中で谷が新しいスタイルのMCとして登場したと述べている[33]。小林信彦も、1951年から1954年ごろのジャズ・コンサートの盛況を谷の人気の背景として挙げ、自身が学生時代に観覧した早稲田大学大隈講堂の公演では、歌手だけでなく谷の司会を目当てに集まる観客がいたと回想している[34]。

そろばんを用いる芸も、この時期に形成された。村松および山下によれば、1951年の帝劇公演『お軽勘平』で、キャバレーの牛太郎役としてそろばんを打ち鳴らしながら台詞をリズムに乗せて演じたことが、その初期の例とされる[35][36]。

1952年9月26日には、日劇ミュージックホールの第7回公演から同劇場の舞台に出演した[37]。山下によれば、この公演では客席にいた駐留軍兵士を相手にトニー・イングリッシュを用い、日本語と英語を組み合わせた話術を披露した[38]。

共演したメリー松原は、谷について、基本となる演目を繰り返しながら、その場ごとにアドリブを加えて観客を沸かせていたと回想している[12]。

同時代の記事には、谷が舞台、ラジオ、テレビ、映画、レコードなどで活動していたことが記されている[9]。「さいざんす」「おこんばんは」「家庭の事情」「バッカじゃなかろか」などの言い回しも広く知られた[7]。

司会芸と並行して、歌や踊り、話芸を組み合わせた独立したヴォードヴィル公演にも取り組んだ。小林信彦は、1952年または1953年ごろに早稲田大学大隈講堂で観覧した公演を、その転換を示す出来事として記録している[6]。小林によれば、谷はジャズ・コンサートの終演後、独立したヴォードヴィリアンを目指して新しい演目を試したいと観客に呼びかけた。約40分間の出し物では、そろばんを打ち鳴らしながらの歌唱やタップダンス、毒舌を交えた話芸、奇術などを披露し、マリア・ローザを相手役に据えた。小林は、出し物には技術的な弱点もあったとしながら、その熱演と観客の大きな反応を伝えている[6]。

その後も谷は大物歌手のコンサートで司会を続ける一方、自身の演目を取り入れた。小林は、新宿劇場や日劇などでは公演会場ごとに出し物の内容や比重を変えていたと述べ、とくに学生層を意識した舞台づくりに注目している[39]。

1954年3月から7月にかけて、谷を主演とする東宝配給の喜劇映画「家庭の事情」シリーズ4作が公開された。第1作は小田基義が監督、三木鮎郎が原作、多忠修が音楽を担当し、各作品の副題には谷の流行語が用いられた[40][41][42]。

日劇ミュージックホール三周年記念公演のパンフレットでは、三島由紀夫、東郷青児らとともに谷も演出担当者の一人として記載されていた[43]。

長男誘拐事件と活動の変化

谷と家族(『婦人生活』1953年12月号掲載)

1955年7月15日、当時6歳で小学校1年生だった長男・正美が下校途中に誘拐され、200万円の身代金を要求される事件が発生した[44][45]。

事件は新聞や放送で大きく報道された。谷の自宅周辺には多数の記者やカメラマンが集まり、舞台上の派手な人物像とは異なる、長男の安否を案じて憔悴した父親としての姿が伝えられた[46][47]。小林信彦は、事件当時、榎本健一を会長とする喜劇人協会の関係者が事件の解決に向けて協力し、柳家金語楼がラジオで犯人に呼びかけるのを耳にしたと回想している[40]。

正美は事件発生から約1週間後、長野県で無事保護され、犯人は身代金を受け取りに現れたところを逮捕された[48]。村松が引用する当時の新聞記事によれば、犯人は雑誌を発行する資金を得る目的で誘拐を計画し、アメリカのリンドバーグ愛児誘拐事件の記事から着想を得たと供述した[49]。

一方、逮捕後には犯人が谷の放送での人を小馬鹿にするような態度に反感を持っていた旨を語ったとも報じられ、事件後には谷の従来の芸風や言動に対する批判も行われた[50][51]。

事件を契機として谷の身元や家族関係も詳しく調べられ、それまで本人が公に語っていた経歴との相違が報じられるようになった[14]。

事件後の活動について小林は、従来の毒舌を控える方向に芸風が変化したと評している[52]。村松が引用する当時のコラムは、レギュラー番組の減少や子供向け番組への出演などを伝えている[53]。ただし村松は、このコラムには谷の経歴について誤記が含まれることを指摘したうえで、谷の活動環境の変化について、スポンサーと放送局の結び付きが強まっていた当時のメディア状況も考慮している[54]。1960年には複数のラジオ番組でレギュラーを務め、のちに『アベック歌合戦』でテレビへ再び登場しており、誘拐事件後も芸能活動そのものは継続していた[55]。

1950年代後半の映画・舞台

1956年には東宝映画『ますらを派出夫会』や、斎藤寅次郎監督の『恋すれど恋すれど物語』に出演した[56][57]。

1957年には松竹映画『集金旅行』に産婦人科医役で出演した[58]。小林信彦は、劇中で安来節を踊る場面に、谷の従来の芸風がよく現れていたと評している[59]。

同年7月には、江戸川乱歩の小説『パノラマ島奇談』を原作とし、菊田一夫が演出した東宝ミュージカル『パノラマ島奇譚』に出演した。小林によれば、谷は新聞記者を演じ、劇中で繰り返した「しあわせ」という言葉が流行語になったと回想している。また、当時は東京・大阪のミュージックホールなどでも活動し、泉和助と共演する機会があったという[59]。

『アベック歌合戦』とテレビ

1950年代後半から1960年代にかけても放送活動を続けた。1960年には文化放送『トニー浪曲』、ニッポン放送『新・女大学』の2本をレギュラーとして担当していたことが当時の記事に記録されている[60]。

ラジオ番組として放送されていた『アベック歌合戦』は、1962年にテレビ番組として放送され、谷が再び広い層から知られる契機となった[10][61]。

番組では、一般参加者とのやり取りを中心に、谷がリズムに乗せて「あなたのお名前なんてェの」と問いかける形式が知られた。拍子木などでリズムを刻みながら出演者に応じる司会が特徴となった[62][63]。

村松は、この時期の谷について、初期の司会芸以来の「客との勝負」を芸の芯として捉えている[64]。同書では、愛児誘拐事件から7年後に谷がテレビ画面へ再び姿を現したとも記している[64]。

番組はのちに『スターと飛び出せ歌合戦』へ改題され、谷は引き続き司会を担当した。前身番組から通算して約8年間続き、最終回は398回目だったと当時の記事は伝えている[63]。

山下武は、1967年5月15日に収録されたテレビ番組『大正テレビ寄席』に谷を出演させたと記している。山下によれば、放送後にはスポンサー側から今後の起用を控えるよう意向が伝えられたという[65]。

ハワイ滞在と活動後期

1971年10月7日、日本テレビ系列『トニーの外人歌合戦』の司会者としてテレビに復帰した。番組では眼鏡や髪形を改め、海外のショー・ビジネスを研究するなど従来のイメージを変える試みも行ったが、翌1972年1月から司会者が交代した[66]。

その後、谷は日本とハワイを往復しながら生活するようになった。当時の新聞には、妻の親族が経営する住宅の管理を手伝っていたとの記事もみられるが、妻たか子は後年、村松の聞き取りに対してこの説を否定し、ハワイにいた親戚を頼って渡航し、現地ではホテルで暮らしていたと証言している[67]。

たか子によれば、ハワイへ行く理由には温暖な気候に加え、日本では外出時にも人目を気にしなければならなかったことから距離を置く意味もあったという。現地では海岸などで過ごす一方、老人福祉施設を訪れて芸を披露することもあった[67]。

1977年には約10年ぶりに日劇ミュージックホールの舞台へ出演した[68]。村松が紹介する同年2月7日付『読売新聞』の記事では、その日の政治・社会ニュースをすぐにコントへ取り込む時事風刺が紹介されている[69]。

谷自身もこの公演について、ヴォードヴィルをアドリブと歌による世相風刺と説明し、演目を毎回変えていると語っている[70]。

晩年と死去

1980年代半ば、谷は永六輔と再会した。永の回想によれば、新橋駅付近で偶然再会した谷は再び舞台に立つ意欲を示し、永の企画する舞台へ出演するようになった[71]。

1986年6月25日付『朝日新聞』夕刊では、同年7月2日に渋谷ジァン・ジァンで開催される永六輔の公演への谷の出演が「復活」として紹介された[72]。その後も永の協力によって各地で舞台に立った[2]。

永はこの時期の谷について、歌舞伎、長唄、端唄、踊り、ジャズなどを一つの舞台で扱う姿をヴォードヴィリアンとして評価している[73]。

一方、この頃には体調が悪化していた。金沢公演で制作に携わった村井幸子らの回想によれば、舞台上では精力的に演じながら、楽屋へ戻ると横になる状態だったという[74]。

1986年12月26日には渋谷ジァン・ジァンで「トニー谷ショー」に出演した。翌年の『朝日新聞』の死亡記事はこれを谷の最後の出演としている[73]。一方、同書の別の写真説明では同年12月4日の金沢公演を「最後のステージ」としており、資料内部に異同がある[75]。永は谷と最後に谷と会った際の言葉を「芸人は職業じゃない。生き方です。生き方なんだから、引退なんてとんでもない。私は死ぬまで芸人です」であったと伝えている[76]。

1987年7月16日午前0時14分、東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院で肝臓癌のため死去した。69歳だった[1][2]。

遺品のそろばんは永が引き取ることになった[76]。永の死去ののちには、トモエ算盤の「そろばん博物館」に寄贈された[77]。眼鏡は大村崑のコレクションとなり、のちに福井県鯖江市の「めがねミュージアム」に収蔵された[78]。

芸風

谷は自身を「コメディアン」よりも「ヴォードヴィリアン」と位置づけていた。日劇ミュージックホールで共演したメリー松原によれば、「コメディアン」と呼ばれることを好まず、自ら「ボードビリアン」と称していたという[12]。

その舞台では、日本語と英語を混交させた話法、そろばんによるリズム、時事風刺、客席との即興的な応酬などが組み合わされた。矢野誠一は、派手なタキシード、太い黒縁の眼鏡、描き髭、そろばんといった視覚的な造型も舞台上の人物像を形づくる要素だったと回想している[8]。

トニー・イングリッシュ

谷を代表する話法は、「トニー・イングリッシュ」「トニーングリッシュ」などと呼ばれた。矢野誠一はこれを、英語と東京のことばを入り交ぜた話法と説明している[7]。

その原型は、占領軍関係のショーやジャズ・コンサートで司会を務めた経験から形成された。谷自身の回想では、1949年のサンフランシスコ・シールズ歓迎会で英語による司会に客席から野次が飛び、それに日本語を交えて応酬したことが一つの契機になったとされる[31]。

村松は、英語を一語ずつ日本語に置き換え、七五調のようなリズムへ組み替えることを、トニー・イングリッシュの基本的な方法としている[79]。

「さいざんす」「おこんばんは」「家庭の事情」「バッカじゃなかろか」「ネチョリンコン」などの言葉も谷の芸とともに広く知られた[7]。小林信彦は、なかでも「家庭の事情」という言い回しを、日常的な決まり文句を笑いの対象に変える表現として取り上げている[80]。

村松はトニー・イングリッシュについて、日本人観客をからかうだけでなく、占領国アメリカの言葉そのものも遊戯化し、結果として戦後という時代全体を揶揄する構造を持っていたと論じている[13]。

そろばんとリズム

そろばんは、トニー・イングリッシュと並ぶ谷の代表的な小道具となった[47]。村松によれば、谷がそろばんを舞台芸に用いた初期の例は、1951年の帝劇公演『お軽勘平』である。キャバレーの牛太郎役として、そろばんを打ち鳴らしながら台詞をリズムに乗せて演じたという[35]。

以後、そろばんは台詞のテンポを刻む小道具として用いられた。矢野誠一は、全盛期の谷がそろばんを「楽器がわり」にリズミカルに鳴らしていたと記している[47]。

即興・時事風刺と司会芸

谷はアドリブを自身の芸の重要な要素と考えていた。村松が紹介する谷自身の説明では、その場の雰囲気や観客の反応を捉え、音楽的なタイミングと時代への風刺を備えた即興的な反応をアドリブと捉えていた[81]。

もっとも、その芸は無準備な即興ではなかった。同時代の記事によれば、谷は大学ノートにギャグやアイデアを書きため、朝刊・夕刊を各紙購入し、複数のラジオを利用して時事的な素材を集めていた[9]。

メリー松原も、基本となる演目自体は毎回大きく変わるわけではなく、その場ごとに加えるアドリブによって観客を笑わせていたと回想している[12]。

小林信彦は1950年代前半の舞台について、谷が観客の野次を強い口調で制したり、歌手の歌唱中に突然姿を現して滑稽な踊りを始めたりすることで、客席と舞台の間に緊張を生み、その緊張自体を笑いに転じていたと記録している[82]。

村松は、初期の司会芸以来の「客との勝負」を谷の芸の芯と捉え、それが『アベック歌合戦』にも現れたものとして論じている[64]。

批評・評価

戦後社会とアメリカニズム

トニー谷の芸は、占領期の社会状況や戦後日本との関係から論じられてきた。村松は谷の芸が「戦後の日本という特殊な時代の空気」と結び付いて成立したと論じ、矢野も占領下の空気を強くまとった芸であったと回顧している[13][8]。

1955年の長男誘拐事件後、『週刊朝日』の特集で評論家の大宅壮一は、谷を「植民地ニッポンの象徴」と題して論じ、誘拐事件と谷という存在の組み合わせに「現代日本の縮図」を見いだした[83][50]。

ただし、大宅の論評は誘拐事件直後という状況下で発表された社会批評である。村松は大宅や花森安治による当時の論評に違和感を示しつつ、それらが有力なマスメディアから谷へ向けられた強い批判として作用したことに注目している[84]。

一方、小林信彦は、占領期のアメリカ文化の影響だけで谷の芸を説明することには慎重で、明治期の寄席以来の異端的な芸人の系譜にも位置づけるべきだと論じた[85]。

1987年の死去時にも、村松が引用する『毎日新聞』のコラムは、石原裕次郎が「戦後の青春」の一時期を象徴したのに対し、谷については「戦後そのもの」であった時代があったと評した[86]。

ヴォードヴィリアンとしての評価

谷は自らを「コメディアン」ではなく「ヴォードヴィリアン」と称していた。メリー松原も、歌、踊り、話術などをこなす器用さを挙げ、谷をヴォードヴィリアンとして評価している[12]。

小林信彦は、1950年代前半の大隈講堂での公演を、谷が司会の一部としてではなく、独立した演目を披露する芸能者になろうとした試みとして評価している[6]。

晩年に共演した永六輔も、歌舞伎、長唄、端唄、踊り、ジャズなど多様な芸能を横断する谷の演目を、ヴォードヴィルとして評価している[73]。

司会者としての評価

谷の芸能活動の基礎には、占領軍関係のショーやジャズ・コンサートで培ったMCの経験があった[87]。山下武は、谷が活動を始めた頃にはジャズ・コンサートやアトラクション・ショーの司会を専門職とする者が少なかったとして、谷の登場を新しいスタイルの司会者の登場として記している[30]。

谷の司会では、出演者の紹介や進行だけでなく、話術、客席との応酬、リズム、アドリブが芸の一部となっていた[30][88]。

村松も谷を司会芸の先駆的存在とみる一方、出演者の交通整理を担う後年のテレビ司会者とは異なり、進行時間そのものを自身の芸で満たす司会者であったと論じている[89]。

これに対し山下武は、舞台や番組制作で谷に接した経験をもとに、彼の芸を積極的には評価せず、共演者との接し方や過度な毒舌を厳しく批判した[90][91]。

後世の評価

永六輔は晩年の谷との共演を振り返り、タモリやビートたけしを引き合いに出して谷の芸を評価している[73]。

村松もまた、1990年代の司会者・お笑いタレントの隆盛を踏まえ、大物MCの原点に戦後の谷が存在していたのではないかと論じている[92]。

音楽活動

1950年代には舞台・放送・映画と並んでレコードにも活動を広げていたことが、同時代の記事から確認できる[9]。

「さいざんす・マンボ」は、1953年7月にビクターから発売された。谷と宮川哲夫が作詞、多忠修が作曲・編曲を担当し、谷と宮城まり子が歌唱した[93]。

死後の1987年11月には、代表的な録音12曲を収録した『ジス・イズ・ミスター・トニー谷』が発売された。2005年7月にはビクターエンタテインメントから再発売された[94]。

主な録音作品

  • 「レディス&ヂェントルマン&おとっさん・おっかさん」[94]
  • 「さいざんす・マンボ」 - 宮城まり子との共演[94]
  • 「チャンバラ・マンボ」[94]
  • 「ブクブク・マンボ」[94]
  • 「馬鹿じゃなかろか」[94]
  • 「ああ家庭の事情!」[94]
  • 「こんなに変るものかしら」[94]
  • 「サンタクロース・アイ・アム・橇」[94]
  • 「オッパポロポン節」[94]
  • 「そろばんチャチャチャ」[94]
  • 「ガッポリ節」[94]
  • 「あんたのおなまえ何ァんてェの」[94]

主な出演

『都会の横顔』の谷(右)と広瀬嘉子(1953年)
『恋すれど恋すれど物語』ロケ。手前右から監督斎藤寅次郎、谷、有島一郎、宮城まり子。(1956年)

舞台

ラジオ・テレビ

映画

  • 『プーサン』(1953年)[95]
  • 『都会の横顔』(1953年)[96]
  • 『アジャパー天国』(1953年)[97]
  • 『家庭の事情 馬ッ鹿じゃなかろうかの巻』(1954年3月17日公開)[98]
  • 『続家庭の事情 さいざんすの巻』(1954年4月14日公開)[99]
  • 『家庭の事情 おこんばんわの巻』(1954年6月30日公開)[100]
  • 『家庭の事情 ネチョリンコンの巻』(1954年7月28日公開)[101]
  • 『ますらを派出夫会』(1956年) - 品川役[102]
  • 『続 ますらを派出夫会 お供は辛いネの巻』(1956年) - 品川役[103]
  • 『恋すれど恋すれど物語』(1956年) - 沙羅利万助役[104]
  • 『集金旅行』(1957年)[59]
  • 『坊っちゃん』(1958年)[105]

脚注

出典

  1. 1 2 村松 1997, pp. 14–16.
  2. 1 2 3 4 矢野 2005, p. 155.
  3. 1 2 3 村松 1997, pp. 55–56.
  4. 1 2 山下 2001, pp. 302–304.
  5. ↑ 小林 2021, pp. 86–87.
  6. 1 2 3 4 5 小林 2021, pp. 93–94.
  7. 1 2 3 4 矢野 2005, p. 153.
  8. 1 2 3 4 矢野 2005, pp. 153–154.
  9. 1 2 3 4 村松 1997, pp. 76–77.
  10. 1 2 3 4 “トニー谷”. コトバンク. 2026年10月8日閲覧。
  11. ↑ 村松 1997, pp. 16, 214–215.
  12. 1 2 3 4 5 村松 1997, p. 96.
  13. 1 2 3 村松 1997, pp. 72–73.
  14. 1 2 村松 1997, pp. 52–57.
  15. ↑ 村松 1997, p. 52.
  16. ↑ 村松 1997, pp. 52–53.
  17. 1 2 村松 1997, p. 54.
  18. 1 2 3 4 村松 1997, p. 55.
  19. ↑ 山下 2001, pp. 302–303.
  20. ↑ 小林 2021, p. 88.
  21. ↑ 山下 2001, pp. 303–304.
  22. 1 2 村松 1997, pp. 209–210.
  23. ↑ 山下 2001, p. 303.
  24. 1 2 3 村松 1997, p. 56.
  25. 1 2 3 村松 1997, p. 66.
  26. ↑ 山下 2001, p. 304.
  27. ↑ 山下 2001, pp. 304–305.
  28. 1 2 3 村松 1997, pp. 66–68.
  29. 1 2 山下 2001, p. 305.
  30. 1 2 3 山下 2001, p. 308.
  31. 1 2 村松 1997, pp. 68–69.
  32. 1 2 小林 2021, pp. 89–90.
  33. ↑ 山下 2001, pp. 307–309.
  34. ↑ 小林 2021, pp. 86–88.
  35. 1 2 3 村松 1997, pp. 69–70.
  36. ↑ 山下 2001, p. 311.
  37. 1 2 山下 2001, p. 307.
  38. ↑ 山下 2001, pp. 307–308.
  39. ↑ 小林 2021, pp. 94–95.
  40. 1 2 小林 2021, p. 96.
  41. ↑ “家庭の事情 馬ッ鹿じゃなかろうかの巻”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  42. ↑ “家庭の事情 ネチョリンコンの巻”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  43. ↑ 村松 1997, p. 103.
  44. ↑ 村松 1997, pp. 106–112.
  45. ↑ 山下 2001, pp. 313–314.
  46. ↑ 村松 1997, pp. 107–110.
  47. 1 2 3 矢野 2005, p. 154.
  48. ↑ 村松 1997, pp. 111–112.
  49. ↑ 村松 1997, p. 111.
  50. 1 2 山下 2001, p. 316.
  51. ↑ 矢野 2005, pp. 154–155.
  52. ↑ 小林 2021, pp. 96–97.
  53. ↑ 村松 1997, pp. 170–172.
  54. ↑ 村松 1997, pp. 173–174.
  55. ↑ 村松 1997, pp. 175–180.
  56. ↑ “ますらを派出夫会”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  57. ↑ “恋すれど恋すれど物語”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  58. ↑ “集金旅行”. KINENOTE. 2026年10月18日閲覧。
  59. 1 2 3 4 小林 2021, p. 97.
  60. 1 2 3 村松 1997, p. 175.
  61. 1 2 “「ばっかじゃなかろか」”. 道浦TIME. 讀賣テレビ放送 (2009年12月29日). 2026年10月8日閲覧。
  62. ↑ 講談社 編『TVグラフィティ : 1953年〜1970年 ブラウン管のスター・ヒーロー・名場面1700』講談社、1978年4月3日、194頁。NDLJP:12275878/101。
  63. 1 2 3 村松 1997, p. 185.
  64. 1 2 3 村松 1997, p. 180.
  65. 1 2 山下 2001, pp. 317–318.
  66. 1 2 村松 1997, pp. 195–196.
  67. 1 2 村松 1997, pp. 212–214.
  68. 1 2 村松 1997, pp. 196–200.
  69. ↑ 村松 1997, pp. 196–198.
  70. ↑ 村松 1997, p. 198.
  71. ↑ 村松 1997, pp. 26–28.
  72. 1 2 村松 1997, p. 215.
  73. 1 2 3 4 5 村松 1997, p. 16.
  74. ↑ 村松 1997, pp. 219–220.
  75. ↑ 村松 1997, p. 220.
  76. 1 2 永 1999, p. 304.
  77. ↑ “永 六輔とそろばん”. トモエそろばん. トモエ算盤株式会社 (2016年7月13日). 2026年10月10日閲覧。
  78. ↑ “「世界にひとつだけ」の眼鏡をつくる~福井県鯖江市”. 日本経済新聞. 日本経済新聞社 (2016年12月7日). 2026年10月10日閲覧。
  79. ↑ 村松 1997, p. 68.
  80. ↑ 小林 2021, p. 92.
  81. ↑ 村松 1997, p. 69.
  82. ↑ 小林 2021, pp. 90–92.
  83. ↑ 村松 1997, pp. 148–153.
  84. ↑ 村松 1997, pp. 153–160.
  85. ↑ 小林 2021, pp. 92–95.
  86. ↑ 村松 1997, p. 18.
  87. ↑ 山下 2001, pp. 303–305.
  88. ↑ 村松 1997, pp. 179–180.
  89. ↑ 村松 1997, pp. 206–207.
  90. ↑ 山下 2001, pp. 295–297.
  91. ↑ 山下 2001, pp. 309–311.
  92. ↑ 村松 1997, pp. 242–243.
  93. ↑ “さいざんす・マンボ”. NDLサーチ. 国立国会図書館. 2026年10月8日閲覧。
  94. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 “THIS IS MR.TONY TANI”. ビクターエンタテインメント. 2026年10月8日閲覧。
  95. ↑ “プーサン”. 所蔵映画フィルム検索システム. 国立映画アーカイブ. 2026年10月8日閲覧。
  96. ↑ “都会の横顔”. キネマ旬報WEB. 2026年10月8日閲覧。
  97. ↑ “アジャパー天国”. 所蔵映画フィルム検索システム. 国立映画アーカイブ. 2026年10月8日閲覧。
  98. ↑ “家庭の事情 馬ッ鹿じゃなかろうかの巻”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  99. ↑ “続家庭の事情 さいざんすの巻”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  100. ↑ “家庭の事情 おこんばんわの巻”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  101. ↑ “家庭の事情 ネチョリンコンの巻”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  102. ↑ “ますらを派出夫会”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  103. ↑ “続 ますらを派出夫会 お供は辛いネの巻”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  104. ↑ “恋すれど恋すれど物語”. 映画.com. 2026年10月17日閲覧。
  105. ↑ “坊っちゃん('58)”. 松竹. 2026年10月8日閲覧。

参考文献

  • 村松, 友視『トニー谷、ざんす』毎日新聞社、1997年3月25日。ISBN 4620311626。 
  • 永, 六輔『昭和 : 僕の芸能私史 1926-1989』朝日新聞社、1999年5月22日。ISBN 4022573635。 
  • 山下, 武『大正テレビ寄席の芸人たち』東京堂出版、2001年6月1日。ISBN 4490204302。 
  • 矢野, 誠一『笑わせる側の人生』青蛙房、2005年12月20日。ISBN 4790502767。 
  • 小林, 信彦『決定版 日本の喜劇人』新潮社、2021年5月20日。ISBN 9784103318286。 

関連項目

外部リンク