はくか
各種表記
ハングル: 백가
漢字: 苩[* 1]加
発音: ペクカ
日本語読み: はくか
ローマ字: Baek Ga
マッキューン・ライシャワー式: Paek Ka
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苩[* 1]加(はくか、백가(ペクカ)、? - 502年)は、百済の東城王の時の大臣で、大姓八族[1]中の一つである苩[* 1]氏出身貴族である。

生涯

熊津の土着の豪族で、486年(東城王8年)2月、衛士佐平に任命されて、宿衛兵[* 2]を管掌した[2]。501年(東城王23年)8月、東城王に新築した加林城(朝鮮語版)[* 3]を守れと王命を受けたのだが[3]、赴任するのを望まず、病を口実に赴任しないだろうと言った。

しかし、東城王が承諾せず強制的に加林城に赴任させるや、これをきっかけに東城王に怨みを抱いて、同じ年の11月、狩りをしに出て、雪で道が塞がれ、馬浦村[* 4]に泊まる東城王を刺客に命じて刃で刺すように言い、東城王は結局12月に死亡した[4]。

その後、赴任地である加林城を根拠地にして、反乱を起こしたが、新たに即位した武寧王が軍隊を率い、牛頭城[* 5]に着いて扞率の解明に討伐することにするや、抵抗なく城を出てきて降伏したのだったが、殺され、彼の死体は白江[* 6]に投げこまれた[4]。

東城王の王権強化策によって新たに浮上した苩氏家門が王権と親密な関係にありながらも、東城王を殺害した原因は、東城王の支配構造に対する再編成計画が中央貴族の利害関係と合わなかった場合に起こることと推定される。

武寧王は東城王の2番目の息子あるいは東城王の異母兄だという。501年1月、衛士佐平の苩加が送った刺客に東城王が殺害されるや、彼の後を継いで即位した。502年正月、加林城に根拠を置き、抵抗した苩加を討伐し、同じ年の冬11月、高句麗の水谷城を攻撃した[5]。

関連作品

テレビドラマ

脚注

出典

  1. ↑ 『通典』ウィキソース出典  (中国語) 巻185「辺防」1・東夷(上)・百済, ウィキソースより閲覧。参照。
  2. ↑ 『三国史記』ウィキソース出典  (中国語) 巻26「百済本紀」4、東城王8年(486)2月, ウィキソースより閲覧。
  3. ↑ 『三国史記』ウィキソース出典  (中国語) 巻26「百済本紀」4、東城王23年(501)8月, ウィキソースより閲覧。
  4. 1 2 『三国史記』ウィキソース出典  (中国語) 巻26「百済本紀」4、東城王23年(501)11月, ウィキソースより閲覧。
  5. ↑ 『三国史節要』巻6、壬午年(502年)条。“三国史節要国訳本 - 本紀/壬午年(502年)” (朝鮮語). 東方メディア株式会社. 社団法人世宗大王記念事業会 (1996年10月). 2020年1月2日閲覧。 “春正月 苩加が加林城に立て籠もって叛乱を起こすと、王が軍兵を率い、牛頭城に着いて、扞率の解明に命じて討伐させた。苩加が出てきて降伏すると、王が首を斬って白江に投じた。〔中略〕○冬11月 百済から達率の優永を遣わして軍士5千名を率い、高句麗の水谷城を不意打ちした。”

注釈

  1. 1 2 3 草冠「艹」に「白」。
  2. ↑ 王の禁軍、近衛兵。
  3. ↑ 今の忠清南道扶余郡林川面聖興山城(朝鮮語版)。
  4. ↑ 忠南舒川郡韓山面の古名が、馬山または馬邑であることで推し量って見る時、今の舒川郡韓山面に推定される。
  5. ↑ 今の忠清南道青陽。
  6. ↑ 現在の錦江である。
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