バドメ ባድሜ | |
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エリトリア[1]。ただしエチオピアに管理されている。 | |
| 北緯14度43分0秒 東経37度48分0秒 / 北緯14.71667度 東経37.80000度座標: 北緯14度43分0秒 東経37度48分0秒 / 北緯14.71667度 東経37.80000度 | |
| 国 |
係争中 |
| 州 |
エチオピア: エリトリア:ガシュ・バルカ地方 |
| 人口 (2005) | |
| • 合計 | 1,563人 |
バドメ(ティグリニャ語:ባድሜ、英語:Badme)は、アフリカの角にあるエリトリアとエチオピアの領土問題の焦点となっている町。エリトリアはバドメについてガシュ・バルカ地方に属すると、エチオピアはティグレ州の一部だと主張している。この紛争は、1998年から始まったエチオピア・エリトリア国境紛争より続いている。現在、この町はエチオピアに管理されている。
エチオピアとエリトリアの国境は、1902年のエチオピア=イタリア条約によって定められた。そのとき、イタリアはエリトリアを植民地として統括した。しかし、バドメ付近の国境は条約では充分には定められていなかった。1993年にエリトリアが独立した際、そのあたりの国境が実際にはどこなのかということが問題視されるようになった。バドメの町は、1977年11月にティグレ人民解放戦線(TRLF)(エチオピアの与党連合エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を構成する政党)からエリトリア人民解放戦線(EPLF)(エリトリアを支配する民主正義人民戦線(PFDJ)の前身)へ譲られた[2]。
2000年にエチオピアとエリトリアは、ハーグの国境委員会に国境問題の調停を依頼し、アルジェで調印した。その条約では、国境委員会の結論がいかなる内容でも、両国は従うというものだった。2002年に国境委員会は正式に結論を下した。その内容は、バドメのほとんどの住民が自らがエチオピア国民であると考えているにもかかわらず、バドメはエリトリアの領域だというものだった[3]。
Sudan Tribune は2005年1月にバドメの住民たちが5月に行われるエチオピアの選挙に投票するために登録したと報道した。しかしエチオピアがハーグの審議の間に何百人もの住民をバドメに移したとも報道された[4]。
アルジェでどんな結論でも同意すると約束していたにもかかわらず、エチオピアは国境委員会が確立した国境に対して拒否した。その結果、何千もの住民が難民キャンプに取り残され、戦争が再開される可能性は残っている。
2005年にエチオピア中央統計局は、この町の全人口は1,563人(うち男性834人、女性729人)と発表した[5]。
1994年のエチオピアの国勢調査では、全人口は892人(うち男性444人、女性448人)だった。エリトリア人の人口は不明。
| 形状 | 領土 | 実効支配している国 | 領有権を主張している国 |
| 土地: | ハラーイブ・トライアングル・ワジハルファ突出 | エジプト | エジプト・スーダン |
| ビル・タウィール | 無主地 | なし(エジプトはスーダン領であると主張、スーダンはエジプト領であると主張) | |
| イレミ・トライアングル | ケニア | ケニア・南スーダン・エチオピア | |
| バドメ | エチオピア | エチオピア・エリトリア | |
| バカシ半島 | カメルーン | カメルーン・ナイジェリア・南カメルーン | |
| 北東州 | ケニア | ケニア・ソマリア | |
| ヘグリグ | スーダン | スーダン・南スーダン | |
| アビエイ(アビエイ地区) | 不明 | スーダン・南スーダン | |
| ブーホードレ | 住民による自治 | ソマリランド・プントランド | |
| ブーホードレ | チャド | チャド・リビア | |
| 西サハラ | サハラ | サハラ・モロッコ | |
| プラサス・デ・ソベラニア(セウタ・メリリャ・チャファリナス諸島・ペニョン・デ・アルセマス・ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ・ペレヒル島) | スペイン | スペイン・モロッコ | |
| 島・水域: | アブドゥルクーリー島 | イエメン | イエメン・ソマリア |
| ミギンゴ島 | ケニア | ケニア・ウガンダ | |
| チラン島 | エジプト | エジプト・サウジアラビア | |
| コリスコ島 | 赤道ギニア | 赤道ギニア・ガボン | |
| マヨット | フランス | フランス・コモロ | |
| ユローパ島・フアン・デ・ノヴァ島・グロリオソ諸島 | フランス(フランス領南方・南極地域) | フランス・マダガスカル | |
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PQS B71