パッサウ Passau | ||
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| 北緯48度34分0秒 東経13度28分0秒 / 北緯48.56667度 東経13.46667度 | ||
| 国 |
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| 州 | バイエルン州 | |
| 行政管区 | ニーダーバイエルン行政管区 | |
| 郡 | 郡独立市 | |
| 行政区域 | 8 Stadtteile | |
| 政府 | ||
| • 市長 | アルベルト・ツァンクル (CSU) | |
| 面積 | ||
| • 合計 | 69.58 km2 | |
| 最高標高 | 447 m | |
| 最低標高 | 294 m | |
| 人口 (2023年12月31日)[1] | ||
| • 合計 | 54,401人 | |
| • 密度 | 782人/km2 | |
| 郵便番号 |
94032 – 94036 | |
| 市外局番 | 0851 | |
| ナンバープレート | PA | |
| 自治体コード | 09 2 62 000 | |
| ウェブサイト | www.passau.de | |
パッサウ(Passau)は、ドイツ南東部、バイエルン州の都市である。ミュンヘンから電車で2時間強、オーストリア、チェコとの国境に接する。
ドナウ川(Donau)、イン川(Inn)、イルツ川(Ilz)の3つの河川がこの地で合流することから、「ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt:3河川の街)」の異名を取る。
総面積は69.72km2、人口は約50,000人。
教会オルガンとしては世界最大のパイプオルガンを有する聖シュテファン大聖堂(Stephansdom)の所在地として知られる。
また、アウクスブルクの和議へと至る流れを決定付けた、「パッサウ条約」の舞台でもある。
17世紀後半に、2度にわたる大火災に見舞われ街は灰燼に帰したが、領主司教の働きかけによりバロック様式の街並みが形成された。
パッサウは、プトレマイオスの『地理学』(130年頃)に、イン川とドナウ川の間のケルト人集落名“Boiodurum“として現れている。これは、「ボヘミアに居住していた人々の町」を意味し、1世紀から3世紀までイン川の南側の岸辺にあったローマ軍増援部隊の要塞を表すようになる。2世紀半ばには両河川の間の丘の上に別の要塞が築かれ、この要塞は、駐屯したローマ軍支援部隊のバターヴァー族(ゲルマン民族の一部族で、今日のオランダ・ヘルダーラント州のベートゥヴェ“Betuwe“地方を故郷とする)の名に因んでバターヴィス(“Batavis“)と名付けられる。パッサウという地名はここから来ている。二つの要塞の間に人々が居住するが、5世紀にローマ軍が撤退すると集落も消滅する[2]。
453年ノリクムのセヴェリヌス(Severinus de Noricum; -482)がイン川の向こうに修道院を創設する[3]。7世紀にバイエルン大公荘館(bayerischer Herzogshof)が置かれるが、その後カロリング家国王荘館(karolingischer Königsshof)も置かれる。739年、「ドイツ人の使徒」と言われる ボニファティウスはバイエルン大公オデローの支持を得て「バイエルンで、ザルツブルク、パッサウ、フライジング、レーゲンスブルクの四司教座を設置して教会組織を確立した」[4]。レーゲンスブルクは伝道地域がモラヴィアやハンガリーにまで拡大する司教座の地になる。中世のパッサウは司教、バイエルン公、王権という3権力の間の協力と対立の中にあった[5]。
999年 神聖ローマ皇帝 オットー3世が司教クリスチアン(Christian)に市場開設権、造幣権、関税権等の市に関わる権利を与えた。 1161年 司教コンラート(Konrad; 1148-64)は、神聖ローマ皇帝 ハインリヒ2世の寄進により豊かになったニーデルンブルク修道院(Kloster Niedernburg)を獲得し、1193年には、修道院の守護権(Vogtei)が司教ヴォルフゲル(Wolfger; 1191-1204)の手に移っている[6]。
13世紀以降、都市住民が徐々に共同体を発展させていき、1298年、1367年、1394年に、都市君主としの司教に反抗を繰り返し、1368年には市参事会の設置が認められたが、市民側の得た自治の権利は継続的なものとはならなかった。1300年頃の市の人口は約2500人、1500年頃は4000人であった[7]。
中世末期には刃物鍛冶、革なめし工等数多くのツンフトが結成され手工業が栄え、商業では、穀物とワイン、とりわけ塩の取引が重要であった。塩はボヘミア、レーゲンスブルクにまで送られ、遅くとも15世紀にはパッサウの商人がレーゲンスブルクまでのドナウ川での塩取引を独占していた。社会福祉の面では、452年には既に救貧院が存在したとの記録が存在する。12世紀以降、巡礼者と病者のための施設が多数設立された[8]。
1468年/1469年にウィーン、1783年にリンツ、1784年/1785年にザンクト・ペルテン(Sankt Pölten)の各司教区が分離独立したためにパッサウ司教区は縮小した。もっとも、これとともに同司教区は798年以来その管轄下にあったザルツブルク大司教区からの免属(Exemption)を果たした。1803年以降パッサウはバイエルンに帰属した。パッサウ司教区は1817年/1821年にミュンヘン・フライジング大司教区の管轄下に組み入れられた[9]。
第2次世界大戦中、医師にして小説家・詩人の ハンス・カロッサは「ヨーロッパ著作家連盟」の会長を引き受けたが、「古都パッサウを、生命を賭して空襲から守(り)」、戦後「パッサウ市の名誉市民に推され(た)」[10]。
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