ビッグゲーム (競走馬)
| ビッグゲーム | |
|---|---|
| 欧字表記 | Big Game |
| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 鹿毛 |
| 生誕 | 1939年 |
| 死没 | 1963年7月1日(24歳没) |
| 父 | Bahram |
| 母 | Myrobella |
| 母の父 | Tetratema |
| 生国 |
|
| 生産者 | National Stud |
| 馬主 | King George VI |
| 調教師 |
Fred Darling( |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 9戦8勝 |
ビッグゲーム(英語: Big Game、1939年 - 1963年7月1日)は、イギリス調教の競走馬である。主な勝ち鞍は2000ギニーステークス(1942年)、チャンピオンステークス(1942年)。
来歴
ビッグゲームは、体高16ハンド1インチの逞しい馬格を持つ濃い鹿毛の馬であり[1]、当時はアイルランドのキルデア県タリーにあったナショナルスタッドで生産され、ジョージ6世の名義で競走馬となった。
その後はウィルトシャーのベックハンプトンにあるフレッド・ダーリング調教師の厩舎に預けられた[2]。
第二次世界大戦中の競走馬であったことから、その影響を強く受けた。エプソム競馬場、アスコット競馬場、ドンカスター競馬場といった主要な競馬場は安全の問題などで閉鎖されていたため、重要な競走も条件が変更されており、クラシック競走は全てニューマーケット競馬場で開催された[1]。
ビッグゲームは王室との関わりのある強い馬ということで、当時最も人気のある馬の一頭であった。
競走馬時代
2歳(1941年)
4月にソールズベリー競馬場で行われた5ハロン戦のハーストボーンステークスでデビューすると、最多勝騎手のゴードン・リチャーズを鞍上に20頭立てで1番人気に支持されて快勝。
リチャーズ騎手は5月に馬に蹴られて酷く骨折したため、以降同年の間は戦術眼と仕掛けるタイミングの良さから「給仕長」という愛称で知られたハリー・ラッグが鞍上を務め[3]、同競馬場の同距離のレースであるクランボーンステークスとソールズベリープレートでも快勝。
続いて、例年はロイヤルアスコット開催だが同年は約1万5000人の観衆が見守るニューマーケット競馬場で行われたコヴェントリーステークスに出走すると[4]、ワトリングストリートに5馬身程差を付けて勝利。
その後は初の6ハロン戦となるシャンペンステークスに出走。ここも例年のドンカスター競馬場ではなくニューベリー競馬場での開催となり、再びワトリングストリートを破ったが、着差が短アタマ差に縮まったため、一部では、翌年のクラシックでにおいてスタミナ不足で苦戦するかもしれないと考えられた[5]。
同年のイギリスのフリーハンデキャップでは、2歳馬全体では同厩舎の牝馬サンチャリオットよりは1ポンド低い2位となったものの、牡馬としては首位の132ポンドと評価された[6]。
3歳(1942年)
3歳初戦はソールズベリー競馬場の7ハロン戦に出走し、コースレコードで勝利。
その後、初の1マイル戦となる2000ギニーステークスにリチャーズ鞍上で出走。例年のローリーマイルコースではなくジュライコースで開催され、移動制限の中で数マイルの徒歩を余儀なくされたにも拘らず多くの観衆が詰めかけた。14頭立てで単勝約1.727倍の1番人気に支持されると、先頭集団を追走し、残り2ハロンの地点でウジジを交わして先頭に立つと、終盤には後続を突き放し、ワトリングストリートやゴールドニブに4馬身差付けて快勝[7]。1909年のミノル以来となる王室所有馬による同競走の勝利は、国王自身の不在にもかかわらず同競馬場史上最高の大歓声で迎えられたと伝えられている[8]。
1ヶ月後、「ニューダービー」と呼ばれたジュライコースでのダービーステークスに出走すると、1.5マイルという距離が不安視されたにも拘わらず、1918年にゲインズバラが単勝約1.615倍で勝利して以来となる単勝約1.667倍という人気を集めた。国王と王妃、エリザベス王女が開戦以来初めて競馬場を訪れ、王室所有馬の勝利への期待は高まっていたものの、パドックや本馬場入場の時点で興奮しており、レース序盤から折り合いを欠いて早々に失速し[9]、ワトリングストリートが勝利する中で13頭中6着に終わった。観衆は結果に呆然とし、勝ち馬への賞賛もあまり送られなかったとされる[10]。
秋となり、例年より1ヶ月早い9月11日に行われた10ハロン戦のチャンピオンステークスに出走すると、残り4ハロンで先頭に立ち、牝馬のアフタートートや、ダービーステークス3着のウジジ相手に快勝[11]。
トニー・モリスとジョン・ランドールは著書"A Century of Champions"において、ビッグゲームを20世紀の英国競走馬の中では40位、世界全体では100位と評価した[12]。
種牡馬時代
引退後は種付け料250ポンドでエイズラビースタッドにおいて供用が開始された[13]。ナショナルスタッドにおいても供用されていたとされる。歴史的とまでは言えないもの一定の成果を残し、1961年と1962年には英愛リーディングブルードメアサイアーとなった[14]。
1963年7月1日、腎不全のため安楽死となった[15]。
代表産駒としては、オークスステークス勝ち馬のアンビギュイティや1000ギニーステークス勝ち馬クイーンポット、無敗馬コンバットが挙げられる。また、産駒のコラサンは種牡馬としてニュージーランド産の名馬タラックを輩出した。
母父としてはセントレジャーステークス勝ち馬ヘザーセットやエクリプスステークス勝ち馬アークティックエクスプローラーを輩出している。
主な産駒
※主要競走の勝ち馬及び日本の中央重賞馬のみ
- 1944年産
- Combat - 1947年サセックスステークス、1947年ブルーリバンドトライアルステークス
- 1945年産
- Queenpot - 1948年1000ギニーステークス
- 1950年産
- Ambiguity - 1953年オークスステークス、1953年ホワイトローズステークス、1953年ジョッキークラブカップ
- 1957年産
- ビッグヨルカ - 1960年日本短波賞中山4歳ステークス
母の父としての産駒
※主要競走の勝ち馬及び日本の中央重賞馬のみ
- 1953年産
- Tudor Era - 1959年マンノウォーハンデキャップ、1959年ハイアリアターフカップ、1957年・1958年オリンピックハンデキャップ、1958年ロングフェローハンデキャップ、1958年ブランディワインターフハンデキャップ、1959年ロングアイランドハンデキャップ、1960年ニューオーリンズクラシックステークス
- 1954年産
- Arctic Explorer - 1957年エクリプスステークス、1957年キングエドワード7世ステークス、1958年コロネーションステークス
- Even Star - 1957年アイリッシュ1000ギニー、1957年1000ギニートライアルステークス
- 1956年産
- Princillon - 1958年サラマンドル賞
- 1957年産
- Samson - 1961年ドゥームベンカップ、1961年JJリストンステークス、1962年クレイヴァンエイステークス、1961年ヴィクトリアハンデキャップ、1961年タッツWJヒーリーステークス
- 1958年産
- Pardao - 1963年サンフアンカピストラーノハンデキャップ、1962年ジョッキークラブカップ、1961年ダービートライアルステークス、1961年ゴードンステークス
- 1959年産
- Hethersett - 1962年セントレジャーステークス、1962年グレートヴォルティジュールステークス
- 1960年産
- Barbwolf - 1963年テストステークス
- 1963年産
- Sodium(ソディアム) - 1966年アイリッシュダービー、1966年セントレジャーステークス
- 1964年産
- シバフジ - 1967年きさらぎ賞、1967年ハリウッドターフクラブ賞、1968年京都記念(秋)
- 1966年産
- The Elk - 1968年オブザーバーゴールドカップ、1969年ダービートライアルステークス
- 1974年産
血統表
| 父系 | バーラム系(ブランドフォード系) [§ 2] | |||
|---|---|---|---|---|
父 Bahram1932 鹿毛 |
父の父 Blandford1919 黒鹿毛 |
Swynford | John O'Gaunt | |
| Canterbury Pilgrim | ||||
| Blanche | White Eagle | |||
| Black Cherry | ||||
父の母 Friar's Daughter1921 黒鹿毛 |
Friar Marcus | Cicero | ||
| Prim Nun | ||||
| Garron Lass | Roseland | |||
| Concertina | ||||
母 Myrobella1930 芦毛 |
Tetratema 1917 芦毛 |
The Tetrarch | Roi Herode | |
| Vahren | ||||
| Scotch Gift | Symington | |||
| Maund | ||||
母の母 Dolabella1911 鹿毛 |
White Eagle | Gallinule | ||
| Merry Gal | ||||
| Gondolette | Loved One | |||
| Dongola | ||||
| 母系 (F-No.) | (FN: 6-e) [§ 3] | |||
| 5代内の近親交配 | White Eagle 4×3、Pilgrimage 5×5 [§ 4] | |||
| 出典 | ||||
脚注
- 1 2 Mortimer, Roger; Onslow, Richard; Willett, Peter (1978). Biographical Encyclopedia of British Flat Racing. Macdonald and Jane’s. ISBN 0-354-08536-0
- ↑ “Frederick Darling”. Horseracing History Online. 2004年3月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月11日閲覧。
- ↑ “Harry Wragg”. Horseracing History Online. 2011年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月11日閲覧。
- ↑ “Ascot Opens Minus Frills”. Leader-Post. 2 July 1941. 2012年3月11日閲覧.
- ↑ “KING'S HORSES. Outstanding Derby Chance”. Western Mail (Perth). 26 March 1942. 2012年2月26日閲覧.
- ↑ “ENGLISH SPORTING LETTER”. Townsville Daily Bulletin. 12 March 1942. 2012年2月26日閲覧.
- ↑ “Br. King wins 2,000 Guineas race”. Indian Express. 13 May 1942. 2012年3月11日閲覧.
- ↑ “The King's Horse First in Classic”. Montreal Gazette. 13 May 1942. 2012年3月11日閲覧.
- ↑ Amanda Murray (2006). “All the King's Horses”. Robson Books. p. 234. ISBN 978-1-86105-930-7. 2012年3月12日閲覧.
- ↑ “THE DERBY. WATLING STREET WINS”. The West Australian (Perth). 15 June 1942. 2012年2月26日閲覧.
- ↑ “Big Game Partially Redeems Derby Flop”. Calgary Herald. 11 September 1942. 2012年3月12日閲覧.
- ↑ Morris, Tony; Randall, John (1999). A Century of Champions. Portway Press. ISBN 1-90157015-0
- ↑ “King's Horses Have Finished Racing”. The Advertiser (Adelaide). 30 September 1942. 2012年2月26日閲覧.
- ↑ “Leading Broodmare Sires of Great Britain and Ireland”. Tbheritage.com. 2012年3月11日閲覧。
- ↑ “Big Game to be Put Down”. Glasgow Herald. 4 July 1963. 2012年3月12日閲覧.
- 1 2 3 4 “5代血統表 血統情報 Big Game(GB))”. JBISサーチ. 2026年9月10日閲覧。
- 1 2 “Fenella - Family 6-e”. Bloodlines.net. 2013年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月11日閲覧。
- ↑ Morris, Tony; Randall, John (1990). Horse Racing: Records, Facts, Champions (Third ed.). Guinness Publishing. ISBN 0-85112-902-1