フレシリの戦い
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両軍の配置を示した概略図 | |||||||
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| 衝突した勢力 | |||||||
| 指揮官 | |||||||
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| 戦力 | |||||||
合計: 1万6,000人[2] |
合計: 5万5,000人[2](ジョージア側の主張) | ||||||
フレシリの戦い(ジョージア語: ხრესილის ბრძოლა、トルコ語: Hresili Muharebesi)は、1757年12月14日にイメレティ王国軍とオスマン帝国軍の間で行われた戦いである[3]。戦場は、現在のジョージア西部にあるフレシリ付近であった[3]。
イメレティ王ソロモン1世は、王権を強化して西ジョージアの統一を目指した。1754年には奴隷取引を法律で禁止し、この禁止令に反対する貴族たちと対立した[4]。ソロモン1世の政策は、オスマン帝国との関係を悪化させた[3]。
オスマン帝国は、ソロモン1世に反対するジョージア人貴族たちと同盟した。その一人であるレヴァン・アバシゼは、オスマン帝国軍とともにイメレティ王国へ進軍した[4]。ソロモン1世は、要塞の奪回や敵軍の増援阻止を組み合わせた作戦を立て、フレシリ付近を決戦の場に選んだ[4]。
背景
17世紀、西ジョージアはオスマン帝国の従属下にあり、オスマン帝国軍の守備隊はツツクヴァティ、ポティ、ショラパニの各要塞に配置されていた[4]。
ソロモン1世が王位に就いたころ、西ジョージアでは内紛が続き、オスマン帝国軍の駐屯、貢納、王と諸侯の対立、奴隷取引などが政治的混乱の要因となっていた[4]。グリア公国、サメグレロ公国、アブハジア公国などの君主も、オスマン帝国との従属関係に置かれていたとされる[4]。
ソロモン1世は西ジョージアからオスマン帝国の勢力を排除するため、王に忠誠を誓う貴族を集め、支配下にある要塞の防備を強化した[4]。1754年、ソロモン1世は奴隷取引を法律で禁止し、これに従わない貴族たちに対抗した[4]。
オスマン帝国はソロモン1世とその支持者を屈服させるため、大軍を派遣した[3]。その指揮官は、セラスキルの称号を持つゴラ・パシャであった[4]。オスマン帝国軍は、アハルツィヘ方面に集結したとされる[4]。
ソロモン1世は敵軍の侵入に先立ち、各地の要塞を確保し、援軍の進路を遮断する作戦を立てた[4]。当時、ソロモン1世はヴァルツィヘに滞在していたとされる[4]。
計画では、カイホスロ・アギアシヴィリが200人の部隊を率いてバグダティ要塞を奪取することになっていた[4]。ギオルギ・アバシゼは、サヘイゼオおよびサロミナオの部隊とともに、ショラパニ要塞を攻略する任務を担った[4]。
ベソ・ロルトキパニゼとカツィア・コパリアニは、クタイシ要塞を攻撃することになっていた[4]。ズラブ・ミケラゼは、サミケラゼオおよびサリパルティアノの部隊を率いて、エカルムフリ付近の道路を封鎖し、ポティのパシャの軍勢を阻止する任務を担った[4]。
パプナ・ツェレテリ、ベリ・ツルキゼ、カツィア2世・ダディアニ、フトゥニア・シャルヴァシゼは、兵力を集めてソロモン1世のもとに合流する予定であった[4]。戦場は、現在のトキブリ地区にあるフレシリ平野に定められた[4]。
1757年12月初旬、オスマン帝国軍の主力はサイルメ方面の道を通り、ハニスツカリ川の渓谷を経由してイメレティへ侵入したとされる[4]。ソロモン1世を支持する貴族たちは、クタイシへ向かう道路でオスマン帝国軍に対する襲撃を繰り返した[4]。
12月12日、ゴラ・パシャはクタイシに入り、レヴァン・アバシゼとラチャ公ロストムがそれぞれの部隊を率いて合流した[4]。両者はソロモン1世の主力部隊の所在地を知ると、翌13日にフレシリ平野へ向かい、同地に陣を敷いた[4]。
一方、ソロモン1世の作戦も進展した[4]。ズラブ・ミケラゼはエカルムフリ付近でポティのパシャの軍勢を撃破し、カイホスロ・アギアシュヴィリはバグダティ要塞を奪取した[4]。アルチル王子とギオルギ・アバシゼはショラパニ要塞を確保し、ベリ・ツルキゼとカツィア・コパリアニはクタイシを奪回してフレシリへ向かった[4]。
戦闘
1757年12月14日、フレシリ平野で戦闘が始まった[3]。ジョージア軍の歩兵はベリ・ツルキゼの指揮下で中央に配置され、その後方に騎兵が置かれたとされる[4]。左翼はパプナ・ツェレテリが指揮し、右翼はソロモン1世が自ら指揮した[4]。
後方は、フトゥニア・シャルヴァシゼが率いる1600人のアブハジア勢によって支えられていたとされる[4]。ソロモン1世の左側には、サロミナオとサコパリアノの部隊が配置されていた[4]。
オスマン帝国軍は、前方に大部隊を配し、その後方にアクンジュと呼ばれる不正規騎兵を配置したとされる[4]。夜明けにベリ・ツルキゼの歩兵部隊が攻撃を開始し、オスマン帝国軍の左翼を突破した[4]。中央では騎兵部隊も攻撃に加わったが、オスマン帝国軍の数的優位によってジョージア軍の初期の成功は一時的に阻まれた[4]。
戦闘の重要な局面で、ソロモン1世は自ら攻撃に加わり、ゴラ・パシャを討ち取ったとされる[5]。これによってオスマン帝国軍の右翼が混乱し、ベリ・ツルキゼとパプナ・ツェレテリは敵軍の中央部を突破したと記されている[4]。アブハジア騎兵は、オスマン帝国軍の不正規騎兵であるアクンジュに攻撃を加えたとされる[4]。
フトゥニア・シャルヴァシゼは当時78歳でありながら戦闘に参加し、16人のトルコ兵を倒した後、戦場で戦死したとする記述がある[4]。レヴァン・アバシゼもイメレティの貴族によって殺害されたとされる[4]。
指揮官を失ったオスマン帝国軍は包囲され、部隊の機動を維持できなくなったとされる[4]。戦闘は翌日まで続き、オスマン帝国軍の大部分が殺害または捕虜となり、一部が逃走したと記されている[6]。戦闘では、ゴラ・パシャ、ケムハ・パシャ、レヴァン・アバシゼが死亡したとされる[6]。
戦略上の帰結
ジョージア語の記述では、1757年12月末までにイメレティ王国内のオスマン帝国軍守備隊とその影響力が大幅に後退したとされる[4]。フレシリの戦いの敗北によって、オスマン帝国がイメレティ王国を再び支配下に置く計画は挫折した[4]。また、この地域では奴隷取引の規模が徐々に縮小し、グリア、アブハジア、ミングレリアでもオスマン帝国に対する動きがみられるようになったとされる[4]。
その後もオスマン帝国はイメレティへの侵攻を試みた[7]。1758年から1766年にかけて、2万人と1万3,000人の兵を擁する軍勢が侵攻したが、いずれもソロモン1世の軍勢に敗れたとされる[7][8]。
最終的にオスマン帝国はイメレティ王国との条約締結を余儀なくされた[9]。この条約では、イメレティ王国はオスマン帝国の従属国ではなく、オスマン帝国の保護下にある王国と位置付けられた[9]。条約には、毎年女性60人を貢納する義務が残されていたとされる[9]。対象となる女性の民族的出自は問われず、必ずしもジョージア人である必要はなかったと記されている[9]。
脚注
出典
- ↑ Meskhia 1968, p. 32.
- 1 2 Javakhishvili 2012, p. 127.
- 1 2 3 4 5 Iobashvili 1987, p. 508.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 Rekhviashvili 1989, pp. 184–187.
- ↑ Tkeshelashvili 2016, p. 40.
- 1 2 Rekhviashvili 1982, p. 43.
- 1 2 Lomsadze 1975, pp. 216–217.
- ↑ Lortkipanidze & Metreveli 2007, p. 262.
- 1 2 3 4 Lortkipanidze et al. 2012, p. 398.
参考文献
- Iobashvili, G. (1987). ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია. Vol. 11.
- Javakhishvili, Ivane (2012). ქართველი ერის ისტორია. Vol. II. Tbilisi: Palitra L. ISBN 978-9941-19-810-6.
- Lomsadze, Shota (1975). სამცხე-ჯავახეთი XVIII საუკუნის შუა წლებიდან XIX საუკუნის შუა წლებამდე. Tbilisi: Metsniereba.
- Lortkipanidze, Mariam; Metreveli, Roin (2007). საქართველოს მეფეები. ISBN 99928-58-36-2.
- Lortkipanidze, Mariam; Japaridze, Otar; Muskhelishvili, Davit; Metreveli, Roin (2012). საქართველოს ისტორია. Vol. III. Tbilisi: Palitra L.
- Meskhia, Shota (1968). An Outline of Georgian History. Tbilisi: Tbilisi University Press.
- Rekhviashvili, Mikheil (1982). იმერეთი XVIII საუკუნეში.
- Rekhviashvili, Mikheil (1989). იმერეთის სამეფო (1462-1810 წ.წ.). Tbilisi: თბილისის უნივერსიტეტის გამომცემლობა.
- Tkeshelashvili, Levan (2016). იმერეთის მეფე სოლომონ I დიდი. Kutaisi: Gelati Theological Academy and Seminary. ISBN 978-9941-429-94-1.