イメレティ王国
イメレティ王国
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| 1463年–1810年 | |||||||||
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ヴァフシティ・バグラティオニによる紋章
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1490年のジョージア王国解体後におけるジョージア諸王国・諸公国 | |||||||||
| 地位 | 王国 | ||||||||
| 首都 | クタイシ | ||||||||
| 共通語 | ジョージア語 | ||||||||
| 宗教 | キリスト教(正教会) | ||||||||
| 統治体制 | 君主制 | ||||||||
| メペ(王) | |||||||||
• 1463年–1478年 | バグラト2世 | ||||||||
• 1789年–1810年 | ソロモン2世 | ||||||||
| 歴史 | |||||||||
• 建国 | 1463年 | ||||||||
• チホリの戦い | 1463年 | ||||||||
• アラデティの戦い | 1483年 | ||||||||
| 1535年 | |||||||||
• カラガクの戦い | 1543年 | ||||||||
• ゴパントの戦い | 1588年 | ||||||||
• フレシリの戦い | 1757年 | ||||||||
• 滅亡 | 1810年 | ||||||||
| 人口 | |||||||||
• 18世紀末–19世紀初頭年の推計 | 120,000人 | ||||||||
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イメレティ王国(イメレティおうこく、ジョージア語: იმერეთის სამეფო、ジョージア語ラテン翻字: Imeretis Samepo)は、15世紀から19世紀初頭にかけて、現在のジョージア西部に存在した封建国家である。イメレティ王国は、ジョージアの封建君主制が政治的に分裂した結果、成立した。この分裂過程は、1230年代にジョージアでモンゴルの支配が確立した頃から始まり、15世紀後半に完了した。1490年には、ジョージアの分裂が法的に確定した。13世紀後半には、すでにダヴィト・ナリンが実質的にイメレティ王であった。イメレティ王国に属していたサメグレロ公国とグリア公国は、16世紀半ばにそれぞれ独立した政治単位として成立した。16世紀初頭にはアブハジア公国がイメレティ王国から分離し、後にスヴァネティ公国も分離した。その後、イメレティ王国の領域はイメレティ地方とラチャ地方に限られるようになった。レチフミ地方は、時期によってイメレティ王が支配したり、サメグレロ公が支配したりした。
イメレティ王国は、東はリヒ山脈を挟んでカルトリ王国に、西はツヘニスツカリ川を挟んでサメグレロ公国に接していた。南はペルサティ山地(メスヘティ山脈)を挟んで、グリア公国およびアハルツィヘ・パシャリクに接していた。北は大コーカサス山脈によって境界を画されていた。イメレティ王国の西部および南部の境界は頻繁に変動した。西では、イメレティ王とサメグレロ公がサチラオ=サミケラオ地方の支配をめぐって争い、南ではグリア公がサジャヴァホ地方を併合した。イメレティ王国の首都はクタイシであった。クタイシには王の主要な居所も置かれていた。17世紀、イメレティ王国は4万人の兵力を動員することができた。
18世紀末から19世紀初頭にかけて、この王国の人口は約12万人であった。イメレティ王国には、ジョージアの他地域と同様に、封建的な主従関係および農奴制が存在した。多数のサタヴァド(諸侯領)が存在した。サタヴァドは、徴税・行政・一部の司法に関して免除特権を有し、領域的・政治的に分離した封建的単位であった。18世紀半ば、イメレティ王国には約100人のタヴァディ(貴族)が存在した。タヴァディは、王または王族の従臣であった。
1651年から1661年にかけて、イメレティ王国はラチャ、アルグヴェティ、ヴァケ、オクリバ=レチフミの4つの軍事・行政単位、すなわちサドロショないし軍司令区に分割された。
イメレティ王国における最高位の教会権力者は、西ジョージアのカトリコス総主教であった。西ジョージアのカトリコス総主教は、しばしば「北方およびアブハジアのカトリコス」、「アブハジア人・イメレティ人のカトリコス」、または「ポントス北方のアブハジア人・イメレティ人および全下イベリアのカトリコス」と称された。その居所は16世紀後半にはビチヴィンタに置かれ、その後はゲラティに移された。
1555年、サファヴィー朝とオスマン帝国との間で締結されたアマスィヤの講和により、イメレティ王国はオスマン帝国の勢力圏とされた。さらに外戦と内戦が激化し、王国は衰退した。イメレティ王国の内政と対外情勢は、ソロモン1世の治世(在位: 1752年–1784年)に比較的改善した。ソロモン1世はオスマン帝国の侵攻に積極的に対抗するとともに、国内では封建諸侯の反抗にも対処した。
ソロモン1世の死後、中央権力の強さは再び揺らいだ。イメレティ王位をめぐって候補者間の争いが始まった。封建諸侯による内戦も再び起こった。1784年に即位したダヴィト2世(ギオルギ9世の子)は、まもなく従弟のダヴィト(アルチルの子)によって王位を追われた。アルチルの子ダヴィトは1789年に「ソロモン2世」の名で即位した。1801年にカルトリ=カヘティ王国が廃止されると、ロシアの軍事当局者はイメレティ王国を廃止するための準備を始めた。この状況下で、自らの統治権を維持するため、ソロモン2世は1804年4月25日にロシアへの臣従を認めた。エラズナウリ協定により、イメレティ王はあらゆる面でロシアに服従することとされた。しかしソロモン2世は、内政上の独立性を維持し、ロシア皇帝の封臣となることを求めた。イメレティ王とロシア帝国の現地官僚との関係は、次第に緊張を強めた。ソロモン2世はイメレティ王国の独立を失うことを受け入れず、その維持のために戦い続けたが、1810年、ロシア帝国当局はイメレティ王国を廃止し、イメレティにロシアの統治を確立した。
イメレティ王国の成立
15世紀後半、ジョージアの封建国家は最終的に分裂し、いくつかの王国・公国に分かれた。イヴァネ・ジャヴァヒシヴィリの結論によれば、
ジョージアが王国・公国に分裂したことに関する記録は、18世紀前半に成立した史書、すなわちベリ・エグナタシヴィリの『新カルトリス・ツホヴレバ』[2]や、ヴァフシティ・バグラティオニの『ジョージア王国誌』[3]にみられる。
16世紀のカヘティには、アレクサンドレ1世(在位: 1412年–1442年)がジョージアを自らの子供たちに分け与えたという伝承が残されていた。伝承によると、1人にはカヘティを、もう1人にはカルトリを、3人目にはイメレティを与え、これを基に異なる王国が成立したという。ヴァフシティ・バグラティオニは、カヘティに広まっていたジョージア分裂に関する伝承を否定した。ヴァフシティ・バグラティオニによれば、ジョージアの王国・公国への分裂はアレクサンドレ1世の時代ではなく、ギオルギ8世の時代に起こった。ギオルギ8世の時代には、中央政府の弱体化が明確に表れた。その結果、諸公は王に従わなくなり、諸公の間で争いが始まった[4]。
サムツヘ=サアタバゴのアタベグであったクヴァルクヴァレ2世は、個人的な理由からギオルギ8世に不満を抱いていた。ギオルギ8世は当初、アタベグ位をめぐってクヴァルクヴァレ2世と争っていたアグブガ2世を支持していたためである。そこでクヴァルクヴァレ2世は、イメレティのエリスタヴィ(公)であったバグラト2世に接触し、バグラト2世がギオルギ8世に反乱を起こせば、クヴァルクヴァレ2世がグリエリ家、ダディアニ家、そしてスヴァネティのエリスタヴィをバグラト2世のために動員し、勝利した場合には諸公を王への義務から解放するという計画を提案した。バグラト2世はこの条件に同意した。
1463年、イメレティのチホリで、ギオルギ8世とイメレティのエリスタヴィ・バグラト2世との間で決定的なチホリの戦いが起こった。この戦いでギオルギ8世は敗北し、バグラト2世は勝者としてクタイシに戻った。
チホリの戦いの後、ダディアニ家、グリエリ家、シャルヴァシゼ家、ゲロヴァニ家は王権からの自立を強め、さらなる独立を求めて争い続けた。諸侯とイメレティ王権との対立は、その後も長く続いた。
バグラト2世は、クタイシで王として戴冠する以前から、すでに王の称号を用いていたことが確認されている[5]。これを裏付ける記録がラテン語で残されている。1460年にジョージアから西ヨーロッパへ派遣された使節は、反オスマン連合への参加者の中に、「現在ジョージア人と呼ばれているイベリア人のバグラト」も挙げていた[1][6]。ヨーロッパから帰還した使節が、連合の結成が実現しなかったと報告したことは、ジョージアの王と諸公の間で再び戦争を引き起こした。最初に戦争を開始したのはアタベグであり、1465年、パラヴァニでジョージア王ギオルギ8世を捕らえた。この状況を利用したバグラト2世はカルトリへ進軍し、「バグラト6世」の名で自らをジョージア王と宣言した。
アタベグは、弱い王の代わりに強いバグラトに王位を渡してしまったことが自らの誤りであったと気付いた。アタベグは急いでギオルギ8世を捕虜から解放したが、すでに手遅れであった。ギオルギ8世は王位をめぐる争いで力を発揮できず、王位を取り戻すことができなかった。ギオルギ8世は、一定の封建諸侯の支持を得ていたカヘティへ移ることを余儀なくされたが、カヘティの総督であるディドエティのダヴィトとの戦いにも直面した。この戦いでギオルギ8世は勝利し、1466年以降はカヘティ王国の王位に甘んじた。こうして、カヘティ王国の基礎が築かれた[7]。バグラト6世の支配下には、統一ジョージア王国のうちカヘティとサムツヘ=サアタバゴを除く地域が残されていた。バグラト6世の王国からはカヘティとサムツヘ=サアタバゴが離れ、サベディアノ(アブハジアおよびサメグレロ)も分離の途上にあった。
1477年、ウズン・ハサンによる侵攻の後、ジョージアの政治状況はさらに厳しくなった。その後の研究では、この侵攻がジョージアの最終的な分裂の一因とされている。

1478年、バグラト6世が死去した。バグラト6世の子アレクサンドレ2世はジョージア王位に就くことができず、カルトリ=イメレティではコンスタンティネ2世が即位した。アレクサンドレ2世はイメレティへ移り、そこで王位を確立しようとしたが、グリエリ家と、ダディアニ家のヴァメク2世は、もはやアレクサンドレ2世を支援しなかった。コンスタンティネ2世はこの状況を利用し、1479年に急いで西部へ進んだ。コンスタンティネ2世は戦闘を行わずにイメレティ王国を掌握した。コンスタンティネ2世の即位は成功したものの、その後まもなく情勢は再び悪化し、ジョージアは分裂へ向かった。その分裂にも、サムツヘのアタベグであったクヴァルクヴァレ2世が大きく関与した。1483年、アラデティの戦いでクヴァルクヴァレ2世がコンスタンティネ2世を破った。アレクサンドレ2世はこれを利用し、1484年に自らをイメレティ王と宣言したが、アレクサンドレ2世の治世は長く続かなかった。ヴァメク2世・ダディアニはコンスタンティネ2世を支持し、1487年にコンスタンティネ2世をイメレティへ招いた。アレクサンドレ2世はコンスタンティネ2世とヴァメク2世・ダディアニに対処できず、「要塞へ去った」。コンスタンティネ2世は再びイメレティとカルトリを統一したが、その状態は短期間しか続かなかった。白羊朝の軍隊がジョージアに侵攻したためである。コンスタンティネ2世は急いでカルトリへ戻ることを余儀なくされた。アレクサンドレ2世はこの状況を利用し、ダディアニ家およびグリエリ家と講和して、王位を取り戻した。
1489年以降、イメレティはカルトリ王国から最終的に分離した。コンスタンティネ2世はジョージアの統一のために努力を惜しまなかった。コンスタンティネ王は1490年にダルバジの会議も招集し、ジョージアを再び統一するために何を行うべきかという問題を提起した。ダルバジは王に対して戦争を行うことを拒否し、待つことを選んだ。事実上、それまでに起こっていたことを、ダルバジは法的に確認し、正式なものとした。その後、1491年にコンスタンティネ2世はアレクサンドレ2世と講和した[4]。
イメレティ王国が独立した政治単位として形成されたことは、カルトリ王の称号にも反映された。以前にはジョージア王は自らをリフト=イメリ[注釈 1]およびリフト=アメリ[注釈 2]の王と称していたが、1491年–1492年の勅許状では、コンスタンティネ2世はもはや自らをイメレティの支配者とは称していない[8]。
16世紀のイメレティ
オスマン帝国の侵攻の開始

16世紀初頭には、オスマン帝国は強大な国家となっていた。この頃から、オスマン帝国は南コーカサスの諸国に対しても侵攻を始めた。西ジョージアにとって最も危険な敵はオスマン帝国であった。1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を最終的に滅ぼし、さらに1461年にはトレビゾンド帝国も征服すると、オスマン帝国とジョージアは直接国境を接するようになった。ジョージア周辺の主要なキリスト教国家が滅亡したことで、ジョージア南西部および西部は大きな脅威にさらされるようになった。
オスマン帝国はまずサムツヘ=サアタバゴに勢力を広げ、次いでイメレティ王国を三方向から攻撃した。その三方向とは、ジケティ=アブハジア方面、ゴニオ方面、そしてサムツヘ=サアタバゴ方面である。オスマン帝国による西ジョージアへの最初の侵入は、サムツヘ=サアタバゴからゼカリ街道を経由して行われた。この侵攻を案内したのは、サムツヘのアタベグ・ムゼチャブクである。
1510年、皇太子セリムが率いるオスマン帝国軍が、突然クタイシを急襲した。住民はかろうじて避難する時間を確保した。オスマン帝国軍はクタイシと周辺の村々を占領して略奪し、聖堂を焼き払った。イメレティは戦争の準備を進めたが、オスマン帝国軍は突然侵入したのと同じように突然撤退した。冬が近づいており、ゼカリ峠が閉ざされる可能性があったためである[4]。

1510年、アレクサンドレ2世の子であるバグラト3世がイメレティ王位に就き、積極的な対外政策に転じた。1514年、オスマン・ペルシア戦争では、ジョージアもオスマン帝国に対抗する側として参戦した。オスマン帝国は戦争の開始直後から大きな勝利を収め、ペルシア軍を撃破してサファヴィー朝の首都タブリーズを占領した。セリム1世(在位: 1512年–1520年)はタブリーズに長くとどまらず、軍をアマスィヤ方面へ進軍させた。この時、ジョージアの軍勢は幾度も交戦してオスマン帝国軍に大きな損害を与えた[9]。イタリア人外交官の記録に登場するこのジョージアの軍勢は、この時期にカルトリとカヘティが互いに争っていた一方、サムツヘ=サアタバゴはオスマン帝国と同盟していたことから、イメレティ軍を指していると考えられる。

西ジョージアへのオスマン帝国軍の最初の侵攻後、オスマン帝国のスルタン・セリム1世(在位: 1512年–1520年)と、その後継者スレイマン1世(在位: 1520年–1566年)は、ヨーロッパでの戦争に追われていた。バグラト3世はオスマン帝国が他方面の戦争に追われていたことを利用して積極的な対外政策に転じ、まずジケティ、次いでサムツヘへの遠征を行った。バグラト3世は、オスマン帝国がイメレティを三方向から攻撃していることをよく理解していた。オスマン帝国の侵攻からイメレティを守るためには、三つの侵攻路をすべて封鎖する必要があった。1533年、ジケティの住民から攻撃を受けていたマミア3世・ダディアニとマミア1世・グリエリが、ジケティへ遠征するため出陣した。ガグラで行われた最初の戦闘ではジケティ側が敗北したが、翌日、裏切りによってマミア3世・ダディアニとマミア1世・グリエリの軍は大敗した。マミア3世・ダディアニ自身もこの戦いで戦死し、マミア1世・グリエリは捕虜となった[3]。
この後、バグラト3世は南方に目を向けた。オスマン帝国軍による侵攻で特に大きな脅威となったのが、サムツヘ=サアタバゴ方面であったためである。バグラト3世は再びレヴァン1世・ダディアニおよびロストム・グリエリの軍とともにサムツヘ=サアタバゴを攻撃した。1535年、ムルジャヘティでムルジャヘティの戦いが行われた。ムルジャヘティの戦いでバグラト3世側が勝利し、クヴァルクヴァレ3世は捕虜となった。サムツヘ=サアタバゴは独立を失い、1545年までの10年間、イメレティの支配下に置かれた。
サムツヘ=サアタバゴの封建諸侯の一部は、自らの所領がイメレティ王の統治下に置かれたことに不満を抱き、この結果を受け入れなかった。サムツヘ=サアタバゴの諸侯はオタル・シャリカシヴィリの指導の下でオスマン帝国へ逃れ、クヴァルクヴァレ3世の子カイホスロ2世をスルタン・スレイマン1世に引き合わせ、イメレティ王バグラト3世に対する支援を求めた。オスマン帝国は直ちに対応した。オスマン帝国は、バグラト3世がサムツヘ=サアタバゴ南西部の国境地帯にある要塞を強化していることを把握していた。
このため、スルタン・スレイマンは怒り、ムーサ・パシャを大軍と大砲とともに送り出した。[3]
1543年、2万2,000人のオスマン帝国軍がタオに侵入し、オルティシ要塞に迫って激しく略奪した。バグラト3世は敵の侵入を知ると直ちにダディアニ家とロストム・グリエリに援軍を要請した。グリエリ家は駆け付けたが、ダディアニ家は援軍を送ることを拒否した。バグラト3世とグリエリ家の連合軍はカラガクの戦いでオスマン帝国軍を大敗させ、ムーサ・パシャも戦死した[10]。
スルタン・スレイマン1世はサムツヘ=サアタバゴでの地位を放棄するつもりはなかった。2年後、スレイマン1世は大軍を集め、エルズルムとディヤルバクルのパシャに総指揮を委ね、ジョージアへの攻撃に送り出した。バグラト3世は再びダディアニ家とグリエリ家に援軍を求めた。ダディアニ家は再び共同の行動に加わらず、バグラト3世への支援を拒否した。バグラト3世は娘婿であるカルトリ王ルアルサブ1世にも援軍を求めた。ルアルサブ1世はカルトリ軍を招集し、イメレティ軍に合流させた。バグラト3世、ルアルサブ1世、ロストム・グリエリの軍にはメスヘティのアズナウリたちも加わり、敵軍をバシアニで迎え撃った。1545年、ソホイスタの戦いがソホイスタ平原で行われた。戦闘の帰趨は、メスヘティのアズナウリの裏切りによって決した。ソホイスタの戦いの結果、イメレティとサムツヘ=サアタバゴの統合状態は消滅した[11]。
その1年後、バグラト3世は再び軍を率いてサムツヘへ進軍したが、成果を上げることはできなかった。オスマン帝国軍がサムツヘの城塞を完全に占領し、そこに守備兵を配置していたためである。
1555年5月29日、アマスィヤでサファヴィー朝とオスマン帝国の間に講和が成立し、両国の間で約40年にわたって続いていた戦争が終結した。講和の結果、ジョージアはオスマン帝国とサファヴィー朝の勢力圏に分けられ、西ジョージアおよび南西ジョージアはオスマン帝国、カルトリ=カヘティおよび東部サムツヘはサファヴィー朝の勢力圏に入った。この講和によって、ジョージアの政治状況は悪化した。1555年のアマスィヤの講和の条件は、ジョージア統一のあらゆる試みに大きな障害となった。事実上、アマスィヤの講和はジョージアの王国・公国への分裂を固定化する結果となった[13]。
バグラト3世の国内政策
バグラト3世は、オスマン帝国との戦いに勝利するには、国内の勢力を結集し、離反しようとする諸公を服従させる必要があると認識していた。そのため、バグラト3世は諸公同士の対立を利用した。前述のとおり、サメグレロの公レヴァン1世・ダディアニは、ムルジャヘティの戦いでの功績によりバグラト3世がグリエリ家にアチャラとチャネティを与えた一方、自分には何も与えなかったことに不満を抱き、バグラト3世から離反した[4]。
バグラト3世は不満を抱いていたレヴァン1世・ダディアニを、狩猟を口実に自らのもとへ呼び寄せ、逮捕した。バグラト3世はロストム・グリエリも捕らえようとし、オディシへの遠征を口実にロストムを招いたが、ロストムはバグラト3世を信用せず、応じなかった。サムツヘ=サアタバゴのアタベグ・カイホスロ2世にとって好機が訪れた。カイホスロ2世はグリエリ家とダディアニ家を味方につけることを企てた。さらに、バグラト3世に忠実な支持者の陣営にも工作を始めた。カイホスロ2世は、ゲラティの鐘楼に監禁されていたレヴァン1世・ダディアニの監視を任されていたホピラドレ・チヘイゼを買収し、レヴァン1世・ダディアニを脱出させてアハルツィヘへ移送した。まもなくロストム・グリエリも加わり、その支援を受けてレヴァン1世・ダディアニはサメグレロの支配権を取り戻した[14]。
サタヴァド制の存在は、バグラト3世が強力な王権を確立することを妨げていた。それにもかかわらず、バグラト3世は一連の施策を実施し、少なくとも一時的には成果を上げた。バグラト3世はイメレティで既存の主教座を復活させるとともに、新たな主教座も設置した。1529年にはゲラティとホニの主教座を設置し、その後ニコルツミンダの主教座も復活させた[15]。バグラト3世は、新たに設置した主教座の統治を忠実な封建諸侯に委ねた。また、西ジョージアのカトリコス座をビチヴィンタからゲラティへ移したことも、バグラト3世の政策の一つである。この移転は、1535年から1569年の間に行われたと推定されている[16]。このようにして、バグラト3世は教会を自らの影響下に置き、反抗的な諸侯に対抗した。
バグラト3世はイメレティ王国で一定の行政改革を実施した。ヴァフシティ・バグラティオニによれば、16世紀前半からイメレティは四つのサドロショに分けられていた。第一のサドロショはヴァケ=イメレティ、第二はアルグヴェティ、第三はラチャ、第四はオクリバ=レチフミであった[3]。
バグラト3世は教会会議を招集し、社会の重要な問題を審議した。教会会議には、アブハジアのカトリコス・エウデモン、カルトリのカトリコス・マラキア、および西ジョージアの10人の主教、すなわちクタイシ、ゲラティ、チコンディディ、ベディア、モクヴィ、ドランダ、ツァゲリ、ホニ、ニコルツミンダ、ツァイシの各主教が出席した。教会会議は、国内で広く行われていた「捕虜売買」、窃盗・盗賊行為、殺人、教会の略奪、その他の悪事に対する取締りを強化することを決定した。教会会議は特に「捕虜売買」の問題を重視し、この行為に関与した者に厳罰を科すことを定めた。捕虜を売った者は死刑に処すこととされた。しかし、諸侯の権力が強かった状況では、この決定を実施することは非常に困難であった。バグラト3世の治世にはこの決定に一定の効力があったものの、バグラト3世の死後には状況が再び悪化した。捕虜を売る者たちがオスマン帝国の支援を受けるようになり、オスマン帝国も西ジョージアへの影響力をますます強めていたためである[17]。
アマスィヤの講和後
バグラト3世は王国を強化するためにあらゆる措置を講じたが、イメレティ王国の衰退を食い止めることはできなかった。緩やかに進行した衰退の過程は、王国の政治生活にも独自の形で表れた。
1565年、バグラト3世が死去した。王位は後継者のギオルギ2世(在位: 1565年–1583年)が継承した。ギオルギ2世は治世の初めに、グリエリ家とダディアニ家との間に平和的な関係を築くことに成功した。しかし、ギオルギ2世は次第に王としての権威を失い、西ジョージアでは内戦が相次ぐようになった。バグラト3世の時代以後、18世紀に至るまでのイメレティ史は、基本的に王と諸公が相互に争った歴史である。相次ぐ戦争は、すでに衰退していた王国をさらに荒廃させた[4]。イメレティ王ギオルギ2世、ギオルギ2世・グリエリ、レヴァン1世・ダディアニ、アブハジアの諸公、およびその他の諸侯は互いに争い、王国を荒廃させた。
1568年、ギオルギ2世に対する陰謀が企てられたが、ギオルギ2世は反対勢力を打ち破り、グリエリ家と同盟してダディアニ家を追放しようとした。ダディアニ家はオスマン帝国の援助を得てサメグレロの支配権を取り戻し、さらにグリエリ家を打ち破って味方につけた。ギオルギ2世はダディアニ家とグリエリ家を分断するため、グリエリ家と姻戚関係を結んだ。まもなく、ギオルギ2世とグリエリ家はサメグレロ公国を占領した。レヴァン1世・ダディアニはイスタンブールへ逃れ、オスマン帝国のスルタンに援助を求めた。スルタンはこれに応じ、エルズルムおよびトレビゾンドのパシャリクの軍勢を援軍として派遣した。レヴァン1世・ダディアニはグリエリ家を味方につけ、容易にサメグレロを奪回した。
1572年、レヴァン1世・ダディアニが死去し、同年、息子のギオルギ3世・ダディアニがサメグレロ公の地位を継承した。ダディアニ家とグリエリ家を分断するため、イメレティ王ギオルギ2世はダディアニと姻戚関係を結び、自らの王位継承者バグラトをギオルギ3世・ダディアニの姉妹と結婚させた。これに対してギオルギ2世・グリエリは、自らの姉妹をギオルギ3世・ダディアニの弟マミア4世・ダディアニと結婚させた。マミア4世・ダディアニは1573年から1578年まで、および1582年から1590年までサメグレロ公を務めた。1573年、ギオルギ2世・グリエリとマミア4世・ダディアニはギオルギ3世・ダディアニを攻撃し、敗れたギオルギ3世・ダディアニはアブハジアへ逃れた。1578年、イメレティ王ギオルギ2世の仲介によってギオルギ3世・ダディアニとギオルギ2世・グリエリは和解し、ギオルギ3世・ダディアニは公位に復帰した。
王権が弱体化していたため、ギオルギ2世は諸公との関係で一貫した政策を取ることができなかった。ギオルギ2世は諸公の間に不和を生じさせ、相互に分断しようとした。一方、諸公も単独では目的を達成できないことを理解していたため、結束して王に対抗した[4]。
1578年、オスマン帝国軍の総司令官にララ・ムスタファ・パシャが任命された。ララ・ムスタファ・パシャには南コーカサス諸国の征服が命じられていた。ララ・ムスタファ・パシャはチルディルの戦いでサファヴィー朝のキジルバシュ軍を破った後、トビリシを占領し、イメレティの征服に向かった。
オスマン帝国のスルタンは、西ジョージアを黒海側から攻撃して征服することを企てた。1579年、オスマン帝国の海軍提督クルチ・アリ・パシャは60隻の艦船からなる艦隊を率いてリオニ川の河口に入り、ポティで要塞の建設に着手した。ポティを征服した後、オスマン帝国軍はリオニ川を遡ってクタイシへ進み、その占領を試みたが、失敗に終わった[11]。オスマン帝国のスルタン・ムラト3世は1579年の遠征に不満を抱き、そのため総司令官ララ・ムスタファ・パシャを解任した。
西ジョージアでは、封建諸侯間の内戦が再び激化した。1582年、ギオルギ3世・ダディアニが死去した。弟のマミア4世・ダディアニがサメグレロ公となった。マミア4世・ダディアニはサメグレロの軍を率いてギオルギ2世・グリエリを攻撃した。ギオルギ2世・グリエリは戦いに敗れ、コンスタンティノープルへ逃れた。勝利したマミア4世・ダディアニは、グリエリ家からヴァフタング1世・グリエリを選び、1583年にグリア公とした。同年、イメレティ王ギオルギ2世は、自らの弟コンスタンティネを捕らえ、コンスタンティネの子ロストムとともに要塞に監禁した。これは、王位継承者である幼少のレヴァンに対抗して王位を争うことを防ぐためであった。
イメレティ王ギオルギ2世は1583年に死去した。王位は12歳の息子レヴァンが継承した。ギオルギ2世の弟コンスタンティネは要塞から脱出することに成功し、レヴァンに反乱を起こした。コンスタンティネはアルグヴェティを占領し、スカンダ要塞とカツヒ要塞を奪取した。レヴァン王はマミア4世・ダディアニの娘マレヘと結婚し、義父マミア4世・ダディアニの支援を受けて1587年に反乱を起こした叔父コンスタンティネを破った。
レヴァンの治世(1583年–1590年)には、イメレティで王権が弱まり、諸侯間の対立が続いた。諸侯は互いに敵対していたが、その一方でイメレティはオスマン帝国による破壊の脅威にさらされていた。オスマン帝国に対しては、カルトリ王シモン1世が戦い、その戦いをイメレティの貴族の一部が支援していた。シモン1世はイメレティを服属させるために進軍し、レヴァンもイメレティ軍を招集してダディアニ家とグリエリ家に援軍を求めた。諸公は互いへの嫉妬からレヴァンのもとへ来なかった。1588年、ゴパントの戦いが行われ、レヴァンは敗北してレチフミへ逃れた。シモン1世はクタイシを占領し、自らの官吏を配置した後、カルトリへ戻った。
シモン1世がカルトリへ戻った後、レヴァンはレチフミから戻り、支持する諸侯の助けを得て再び王位を確保した。レヴァンは、ゴパントの戦いにマミア4世・ダディアニが出陣しなかったことに不満を抱き、マミア4世・ダディアニを処罰する好機を待っていた。マミア4世・ダディアニは、イメレティへの出兵を決めた。1590年、マミア4世・ダディアニはイメレティを攻撃し、レヴァン王を捕らえてシュヘピ要塞に監禁した。レヴァン王はそこでまもなく死去した。
マミア4世・ダディアニとイメレティの諸侯の一部の支援によって、レヴァンの従弟ロストム(在位: 1590年–1605年)がイメレティ王に即位した。これはダディアニ家の勢力が強まったことを意味した。1590年、マミア4世・ダディアニが死去し、弟のマヌチャル1世・ダディアニ(在位: 1590年–1611年)がサメグレロ公を継承した。マヌチャル1世もロストムを支持し、その後ロストムの後ろ盾となった。
グリアの公はダディアニの勢力拡大を好ましく思わず、ロストムを攻撃して追放し、自らが望む候補者のバグラト4世を王位に就けた。イメレティの情勢にはカルトリ王シモン1世も介入した。シモン1世はクタイシを占領してバグラト4世を捕らえ、バグラト4世を伴ってカルトリへ移った。シモン1世が退いたことを利用してマヌチャル1世・ダディアニはイメレティで再びロストムを王位に就けた。シモン1世は再びイメレティ情勢に介入せざるを得なくなり、同じ1590年、イメレティ王国へ再び遠征した。ロストムはマヌチャル1世・ダディアニのもとへ逃れた。シモン1世はロストムを捕らえ、イメレティを完全に併合するためオディシへ向かった。オプシクヴィティに陣を構えていたシモン1世に対し、マヌチャル1世・ダディアニは講和を求めたが、拒否された。
夜明けに、マヌチャル1世・ダディアニとロストムの軍がシモン1世の軍を攻撃した。イメレティの諸侯の裏切りによって、シモン1世はオプシクヴィティの戦いで敗北した。シモン1世はカルトリへ戻った。
そして、ダディアニは多大な戦利品を手にし、大砲をオディシへ運んだ。ロストムを連れて来て、クタイシで王として戴冠させた。[3]
イメレティをカルトリ王国に併合する試みは失敗に終わった。その後、カルトリ王シモン1世とイメレティ王ロストムは講和し、シモン1世は連れ去った人質を返還し、ロストムは捕虜となっていたカルトリ人を返還した。ダディアニ家とグリエリ家の対立は、ダディアニ家の勝利に終わった。サメグレロ公国は大いに勢力を強め、17世紀には西ジョージアで最大かつ最も強力な政治勢力となった。
17世紀のイメレティ
17世紀前半

17世紀のイメレティ王国では、君主や諸公の交代が相次いだ。1600年、ギオルギ2世・グリエリが死去し、その子マミア2世・グリエリがグリア公となった(在位: 1600年–1625年)。1605年、イメレティ王ロストムが死去した。ロストムに後継者は残されていなかった[18]。有力な封建諸侯はクタイシに集まり、ロストムの異母弟であるギオルギ3世を王として戴冠した(在位: 1605年–1639年)。1611年、サメグレロ公マヌチャル1世・ダディアニが死去し、その幼少の子レヴァン2世・ダディアニが公となった(在位: 1611年–1657年)。当初、西ジョージアの王と諸公の間の関係は良好であった。
東ジョージアの統治者との関係も良好であった。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世がジョージアへ侵攻した際、カヘティ王テイムラズ1世とカルトリ王ルアルサブ2世はイメレティへ避難した。アッバース1世は、王たちを引き渡さなければイメレティを略奪すると脅したにもかかわらず、ギオルギ3世はアッバース1世に対して使節としてアブハジアのカトリコス・マラキア2世とパアタ・アバシゼを派遣した。使節たちはアッバース1世に対し、ギオルギ3世はテイムラズ1世とルアルサブ2世を引き渡すつもりはないとの伝言を伝えた。アッバース1世はこの事実を受け入れ、イメレティにも進入できなかった。イメレティはサファヴィー朝とオスマン帝国の講和によってオスマン帝国の勢力圏に置かれており、イメレティへの侵入は、サファヴィー朝とオスマン帝国との新たな戦争を開始する口実となったためである。アッバース1世を思いとどまらせたもう一つの理由は、西ジョージアの王と諸公の間で、敵を共同の軍事力によって撃退することについて締結された協定であった[19]。
17世紀初頭、西ジョージアの王と諸公はロシアと関係を結んだ。カヘティ王テイムラズ1世の提案により、1618年、イメレティの指導者たちはロシア・ツァーリ国への臣従を求めた。ジョージアから派遣された使節は、テイムラズ1世、ギオルギ3世およびマミア2世・グリエリの書簡を携え、サファヴィー朝に対抗するため、ロシアに軍事支援を求めた。この使節派遣は成果をもたらさなかった。ロシアが国内問題および対外問題に追われていたためである[20]。
その後、イメレティ王国では中央権力が弱まり、封建諸侯間の抗争が慢性化した。この混乱の中心にいたのが、サメグレロ公レヴァン2世・ダディアニであった。ヴァフシティ・バグラティオニはレヴァン2世・ダディアニを次のように評している。
このレヴァンは邪悪で、機敏で、傲慢で、狡猾で、恨みを忘れず、時機を利用していた。[21]
優れた才能と機知を持つレヴァン2世・ダディアニは、サメグレロ公国の独立を強化することを目指していた。同時に、レヴァン2世・ダディアニはイメレティ王を追放し、自ら西ジョージアの王となることを目的としていた[22]。この目的を達成するため、レヴァン2世・ダディアニはあらゆる手段を用いた。そのため、現代のジョージア史学では、
レヴァン・ダディアニの行動は、反動的な封建領主の活動であったと評価されている。[23]
1616年、レヴァン2世・ダディアニは、自身の叔父で摂政であったギオルギ2世・リパルティアニから権力を奪取し、この時から西ジョージアでは封建的な無政府状態が始まり、これは2世紀にわたって続いた[24]。
1618年、ギオルギ3世は息子アレクサンドレ3世の妻として、マミア2世・グリエリの娘タマルを迎え入れた。アレクサンドレ3世とタマルの間にはバグラト5世が生まれた。しかし、タマルは姦通の罪を告発され、バグラト5世とともに父マミアのグリア公邸へ送り返された。この事件によって侮辱されたと感じたマミア2世・グリエリは、レヴァン2世・ダディアニと姻戚関係を結ぶことを決めた。1621年、ギオルギ3世とマミア2世・グリエリの対立を利用したレヴァン2世・ダディアニは、自身の妹マリアムを、マミア2世・グリエリの子シモン2世・グリエリに嫁がせた。レヴァン2世・ダディアニ自身は、アブハジア公セテマン・シャルヴァシゼの娘タヌリと結婚していた[25]。これにより、西ジョージアでは互いに対立する二つの陣営が形成された。一方はイメレティ王ギオルギ3世の陣営であり、もう一方はサメグレロ公(レヴァン2世・ダディアニ)、グリア公(マミア2世・グリエリ)、アブハジア公(セテマン・シャルヴァシゼ)の同盟陣営であった。勢力の均衡はレヴァン2世・ダディアニ側に有利であった。さらに、イメレティの有力貴族パアタ・ツルキゼが、ギオルギ3世と対立する同盟陣営に加わった。パアタ・ツルキゼは、王と諸公の関係に一定の否定的な役割を果たした。レヴァン2世・ダディアニがイメレティ王国の王位を要求するようになったのは、パアタ・ツルキゼの教唆によるものであった[24]。
ギオルギ3世は、サメグレロ公、グリア公、アブハジア公の同盟を好ましく思わず、戦争の準備を始めた。これに気づいたレヴァン2世・ダディアニも軍勢を招集した。1623年、ゴチョウリで戦闘が行われた。ギオルギ3世は敗北し、戦場から逃れて難を逃れた。
しかし1623年以後、レヴァン2世・ダディアニとセテマン・シャルヴァシゼの関係は緊張した。これは、宰相パプナがレヴァン2世・ダディアニのアブハジア人の妻タヌリに接近したためと考えられている。これを知ったレヴァン2世・ダディアニは妻タヌリを追放し、タヌリとの間にもうけた息子2人を毒殺し、パプナをマミア2世・グリエリのもとに投獄させた。その一方で、レヴァン2世・ダディアニ自身は叔父ギオルギ2世・リパリティアニから、チラゼ家出身の若い妻ネスタン=ダレジャンを奪い、自らの妻とした[26]。
レヴァン2世・ダディアニのこの行動によって、サメグレロ公国は二つの敵対する陣営に分かれた。叔父と甥の争いは戦闘へ発展するはずであったが、突然ギオルギ2世・リパルティアニが死去した。それでも、レヴァン2世・ダディアニに対立する陣営は拡大を続け、ギオルギ3世とセテマン・シャルヴァシゼが加わった。さらに、ダディアニ家の勢力拡大に不安を抱いていたグリエリ家も加わった。これを利用したのが、グリエリのもとで投獄されていた宰相パプナであった。パプナはレヴァン2世・ダディアニを殺害し、その代わりにレヴァン2世・ダディアニの兄イエセ・ダディアニを公にすることを企てたが、陰謀は露見した。首謀者パプナは大砲の砲身に入れられ、粉々にされた[26]。イエセ・ダディアニは目をえぐられた[24]。
この時期、グリア公国でも政変が起こった。1625年、マミア2世・グリエリはその子シモン2世・グリエリによって殺害された。シモン2世・グリエリは公となるとすぐに、義兄レヴァン2世・ダディアニに反対する方針を取り、陰謀にも加わった。このため、レヴァン2世・ダディアニは父親殺しを処罰することを口実としてグリア公国へ侵入し、ランチフティ付近の戦闘でシモン2世・グリエリを捕らえた。アルカンジェロ・ランベルティによれば、レヴァン2世・ダディアニはシモン2世・グリエリに対して、
目をえぐり、妻子と公国を奪った。[26]
レヴァン2世・ダディアニは、グリア公としてマミア2世・グリエリの兄で、西ジョージアのカトリコス総主教であったマラキア(在位: 1625年–1639年)を据えた。
17世紀初頭までに、オスマン帝国の支配は西ジョージアの平地の一部にのみ及んでおり、山地には及んでいなかった[27]。この時期にオスマン帝国が消極的であった主な理由は、王位をめぐる争いのためにスルタンの権力が大幅に弱体化していたことにあった。1622年から1623年にかけてのオスマン帝国では、3人が相次いでスルタンの位に就いた。このことは、征服された諸国に、とりわけイメレティ王国にとって有利に働いた[24]。
1620年代、カルトリ王国のモウラヴィであるギオルギ・サアカゼは、イメレティ王ギオルギ3世との姻戚関係を結ぼうとし、ギオルギ3世の娘フヴァラムゼをギオルギ・サアカゼの子アヴタンディル・サアカゼに嫁がせた。ギオルギ・サアカゼは、イメレティ王位継承者アレクサンドレ3世を王位に就けることを求めていた。ギオルギ3世とギオルギ・サアカゼの同盟は、バザレティの戦いの後にギオルギ・サアカゼがオスマン帝国へ亡命したことで破綻した。今度はカヘティ王テイムラズ1世が姻戚関係を結ぶことを企てた。テイムラズ1世の娘でアラグヴィ公ズラブ・アラグヴィ・エリスタヴィの未亡人であるダレジャンを夫の家から連れ出し、ムフラニへ連れて行き、1629年にイメレティ王位継承者アレクサンドレ3世と結婚させた[24]。
1632年、サファヴィー朝のシャー・サフィー1世の承認を受けてカルトリでロストムが即位し、テイムラズ1世はイメレティへ逃れた。カルトリ王ロストムはレヴァン2世・ダディアニと姻戚関係を結び、レヴァンの妹で、かつてシモン2世・グリエリの妻であったマリアム・ダディアニと結婚した。ロストムとレヴァン2世・ダディアニは、レヴァン2世・ダディアニが大軍を率いてイメレティへ赴き、ロストムもそこへ移動した上で、ロストムとその妃マリアムがサチヘイゼオ(チヘイゼ家領)で会うという計画について合意した。合意に従い、ロストムは軍を率いて出発し、イメレティとの国境にあるスラミに陣を置いた。ギオルギ3世はロストムの通行を許可せず、ロストムと会うために進んでいたレヴァン2世・ダディアニの進路も遮断した。ロストムとレヴァン2世・ダディアニは脇道を進むことを選び、ロストムはアハルツィヘからゼカリ峠を経由してバグダティへ入り、カカスヒディに到着した。一方、レヴァン2世・ダディアニはサミケラゼオ(ミケラゼ家領)を経由して予定の場所に到着した。レヴァン2世・ダディアニを偵察しに出向いたギオルギ3世は、レヴァン2世・ダディアニの兵に捕らえられた。1634年、ギオルギ3世が捕らえられた後、イメレティ王国とサメグレロ公国の間で戦闘が行われ、イメレティ軍は敗北した[28]。
ギオルギ3世を捕らえると、レヴァン2世・ダディアニとその共謀者たちはすぐに会議を招集し、イメレティでカイホスロ1世・グリエリを王にしようと決定した。しかし、その企ては失敗した。なぜなら、イメレティではすでにアレクサンドレ3世が王として戴冠していたからである[29]。ギオルギ3世は2年間、レヴァン2世・ダディアニの捕虜となっており、多額の「身代金」を支払うことによって捕虜から解放された。

1639年、ギオルギ3世が死去し、イメレティ王位にはその子アレクサンドレ3世が就いた(在位: 1639年–1660年)。この時までに、イメレティ王国は著しく弱体化していた。アレクサンドレ3世は王国をこの悲惨な状態から立て直すことができなかった。これは、レヴァン2世・ダディアニから絶えず攻撃を受けていたためである。アレクサンドレ3世はレヴァン2世・ダディアニとの戦いでオスマン帝国に援助を求めざるを得なかった。オスマン帝国側も対応し、マフマド・パシャの軍がサメグレロを荒らし、ドランダ修道院を略奪した[30]。レヴァン2世・ダディアニはしばらくの間、イメレティへの攻撃を中止せざるを得なかった。
それにもかかわらず、時がたつにつれて、レヴァン2世・ダディアニとアレクサンドレ3世の対立はますます激化した。レヴァン2世・ダディアニは1645年、1646年、1647年の3度にわたってイメレティへ遠征し、いずれも勝利してサメグレロへ戻った。ゲラティ主教に対する遠征も勝利に終わった。レヴァン2世・ダディアニとアレクサンドレ3世が和解できないことが明らかになると、アレクサンドレ3世は捕虜を取り戻すことができず、カヘティ王テイムラズ1世もイメレティから援助を得られなくなったため、婿と舅に当たるアレクサンドレ3世とテイムラズ1世は援助を求めてロシアに頼った。1649年、使節がロシア・ツァーリ国の宮廷へ派遣された。テイムラズ1世側からはイヴァネ公と掌院パホミが、アレクサンドレ3世側からは修道司祭ヴァシリとダヴィトが派遣された。テイムラズ1世はロシアの大公アレクセイにサファヴィー朝との仲介を願い、アレクサンドレ3世はレヴァン2世・ダディアニを訴え、レヴァン2世・ダディアニに対する援助をロシアに求めた。この使節派遣の後、ロシアは返礼使節、すなわちトロチャノフとイェヴレフのイメレティ使節団をイメレティへ派遣した(1650年–1652年)。ロシアの使節は1651年にイメレティへ到着した。アレクサンドレ3世は、盛大な儀式の中でモスクワの使節を前に、アレクセイへの「臣従」について誓約した。
大公アレクセイ・ミハイロヴィチ、全ロシアの主に対して、私は我が子バグラト、我が弟マムカ、そして我がイメレティの全土とともに、永遠に臣従する。[31]
1652年、イメレティ王アレクサンドレ3世はロシアの使節に自らの使節を同行させ、財務長官ロムカツ・ジャパリゼと掌院アルティモンを派遣した。しかし、前の使節派遣と同様、今回もイメレティ王国にとって実質的な成果はもたらされなかった。
1657年、レヴァン2世・ダディアニが突然死去した。レヴァン2世・ダディアニには直接の後継者が残されていなかったため、レヴァン2世・ダディアニの死後すぐに、サメグレロ公国では、レヴァン2世・ダディアニの兄イエセの子であるリパリト3世・ダディアニが満場一致でサメグレロ公に推戴された[23]。アレクサンドレ3世はこの状況を利用し、大軍を率いてサメグレロへ向かい、リパリト3世・ダディアニを公位から追放し、自らに忠実なヴァメク3世・ダディアニを公とした。ヴァメク3世・ダディアニが公となったことを、追放されたリパリト3世・ダディアニの支持者たちは受け入れなかった。1658年、両陣営はバンザ付近で衝突した(バンザの戦い)。戦闘ではアレクサンドレ3世が勝利した。敗れたカイホスロ1世・グリエリとリパリト3世・ダディアニはイスタンブールへ逃れた。バンザの戦いの後、リパリト3世・ダディアニはまもなく死去した。一方、混乱はグリアにも及び、グリア公位をめぐってカイホスロ1世・グリエリとデメトレ・グリエリが争った。この争いはデメトレ・グリエリ(在位: 1658年–1664年)の勝利に終わった。カイホスロ1世・グリエリは、雇われた刺客によって殺害された。カイホスロ1世・グリエリの息子ギオルギとマラキアは、アハルツィヘのパシャのもとに身を寄せた[24]。
イメレティ王アレクサンドレ3世は、実子バグラト5世の継承権を認めていなかった。アレクサンドレ3世は妻の兄弟の子ルアルサブを養子とし、王位継承者として育てていたが、ルアルサブは死去し、アレクサンドレ3世は後継者のない状態となった。そのため、イメレティ王は1659年、ロシアへ使節を派遣し、ロシアの君主に、王子ニコロズ(エレクレ1世)を送り出してイメレティ王位に就けるよう求めたが、ロシアから拒否された。アレクサンドレ3世は、再び自分の子バグラト5世をグリアから呼び戻し、王位継承者と認めざるを得なかった。アレクサンドレ3世はグリア公国およびサメグレロ公国を服属させることで、30年間にわたってイメレティ王国が失っていた威信を再び回復したが、西ジョージアに対するイメレティの覇権はごく短期間しか続かなかった[24]。
アレクサンドレ3世は1660年3月に死去し、後継者であるバグラト5世(在位: 1660年–1661年、1663年–1668年、1669年–1678年、1679年–1681年)に、弱体化した王国を残した。この時期の西ジョージアを特徴づけていた混乱、騒乱、無秩序は、その後も続いた。
17世紀後半

1660年代以後の時期について、ニコ・ベルゼニシヴィリは次のように述べている。
この封建的な無政府状態によって、イメレティ王国は著しく衰退し、弱体化した[32]。裕福な住民の大部分は逃亡し、当時比較的平穏であった東ジョージアに移り住んだ[32]。
イメレティで新たに即位したバグラト5世に、継母のダレジャンは、ダレジャンの兄テイムラズ1世の子ダヴィトの娘ケテヴァンを妻として迎えさせた。ダレジャンはもはやバグラトに相談することなく、イメレティの事実上の統治者となった[29]。ダレジャンはまず、継子のバグラト5世にケテヴァンを妻として迎えるよう提案した。しかし、これに憤慨したバグラト5世から拒絶されると、ダレジャンはバグラト5世を捕らえ、両目を潰した。ダレジャンは、スカンダ要塞にいた父テイムラズ1世にイメレティ王位を提示したが、テイムラズ1世はこれを拒否した。その後、ダレジャンはヴァフタング・チュチュニアシヴィリと結婚し、ヴァフタングをイメレティ王として戴冠させた。これにより、西ジョージアの諸公の間で不満が生じた。諸公の中にはヴァメク3世・ダディアニを王位に就けることを支持する者がいた一方、カルトリ王ヴァフタング5世をイメレティに招こうとする者もいた。イメレティ王位にはヴァメク3世・ダディアニが就いた。ヴァフタング5世はイメレティに入り、ヴァメク3世・ダディアニと合意してイメレティを二分し、ブジスツカリ川を境界とした。ヴァメク3世・ダディアニはヴァフタング5世に、自分の娘をヴァフタング5世の息子アルチル2世と結婚させると約束した[29]。その結果、イメレティ王国はアルチルの手に渡ることになるはずであった。しかし、ヴァメク3世・ダディアニは自分のためにイメレティを得ようとしていた。ヴァメク3世・ダディアニは約束を破り、自分の娘を別の人物と結婚させた。これに続いて、ヴァフタング5世による2度目の遠征が行われた。ヴァメク3世・ダディアニには、イメレティとサメグレロの大部分の大貴族が離反した。ヴァメク3世・ダディアニはまずサメグレロへ向かったが、サメグレロの要塞もヴァフタング5世の軍が占領すると、スヴァネティへ逃れた。ヴァフタング5世は、サメグレロ公レヴァン2世・ダディアニの甥であるレヴァン3世・ダディアニを公に据えた。ヴァメク3世・ダディアニは1661年、スヴァネティでヴァフタング5世の命を受けたホシア・ラシヒシヴィリによって殺害された。ヴァフタング5世はイメレティに戻り、ここで息子のアルチル2世を王位に就けた。そして、要塞から盲目となったバグラト5世を連れ出し、バグラト5世とともにカルトリへ戻った[24]。
カルトリ王ヴァフタング5世が、自分の息子アルチル2世をイメレティ王位に就けたことを、オスマン帝国はサファヴィー朝による内政干渉と受け止めた。スルタン・メフメト4世(在位: 1648年–1687年)は、イメレティへの遠征のため、アハルツィヘ、カルス、エルズルムのパシャたちを派遣した。パシャたちは西ジョージアにおけるスルタンの権利を回復することを任務としていた。同時に、メフメト4世はサファヴィー朝にも使節を派遣し、サファヴィー朝によるオスマン帝国の内政への干渉に抗議させた。イメレティにおけるアルチル2世の治世は短期間に終わり、1663年、サファヴィー朝のシャー・アッバース2世の命令によって、アルチル2世は西ジョージアを去ることを余儀なくされた[24]。
デメトレ・グリエリの追放とバグラト5世の即位の後、ギオルギ3世・グリエリがグリア公となり、レヴァン3世・ダディアニは再びサメグレロ公の地位を取り戻した。ヴァフタング5世と姻戚関係にあったレヴァン3世・ダディアニは、バグラト5世がイメレティ王位に就くことを認めず、バグラト5世に戦争を仕掛けた。この戦争でレヴァン3世・ダディアニは敗北して捕虜となった。内戦を終わらせるため、イメレティの有力貴族たちは、カトリコス・スヴィモンを指導者として、両者の婚姻関係を利用する策を講じた。イメレティの有力貴族たちはレヴァン3世・ダディアニとその妻タマルを離縁させ、タマルをバグラト5世の妻とし、一方でレヴァン3世・ダディアニをバグラト5世の妹ティナティン、すなわちゴシャゼの元妻と結婚させた[33]。バグラト5世はレヴァン3世・ダディアニの結婚式の費用を負担し、再びサメグレロの統治をレヴァン3世・ダディアニに委ねた。
バグラト5世には、ギオルギ3世・グリエリという新たな対抗者が現れた。ギオルギ3世・グリエリは、バグラト5世の妻と王位を奪おうとした。しかし、ギオルギ3世・グリエリはそのどちらも成し遂げることができなかった。バグラト5世は娘ダレジャンをギオルギ3世・グリエリに妻として与えた。この婚姻によって、バグラト5世と諸公の間には一時的に平和がもたらされた。しかし、平和は長く続かなかった。今度は宮内長官セフニア・チヘイゼがバグラト5世から離反し、1666年、セフニア・チヘイゼの主導によってオスマン帝国軍がクタイシ要塞を占領した。1667年、モウラヴィのベジャン・ロルトキパニゼがクタイシ要塞を再び占領し、バグラト5世に引き渡した[34]。
1668年、ダレジャン王妃は再びイメレティの政治に関与した。ダレジャン王妃は、反乱した諸公たちによって要塞に監禁されていた。以前はロシアへの接近を図っていたダレジャン王妃は、今度は捕囚から解放されるため、オスマン帝国に援助を求めた。ジョージア人の家系出身であるアスラン1世・ジャケリ(サムツヘ公ロストム・パシャの子)は、オスマン帝国軍を率いてイメレティへ入り、ダレジャン王妃を捕囚から解放した。ダレジャン王妃は、オスマン帝国の支援を得て王位を取り戻そうとした[33]。ダレジャンは、盲目の夫ヴァフタング・チュチュニアシヴィリの即位を援助してくれるなら、アスラン1世・ジャケリに2万マルチリを支払うことを約束した。1668年、アスラン1世・ジャケリは実際にオスマン帝国軍を率いてイメレティへ入った。アスラン1世・ジャケリを迎えたのはレヴァン3世・ダディアニとギオルギ3世・グリエリ、およびセフニア・チヘイゼであり、バグラト5世はレチフミへ逃れた。イメレティ王位には再びヴァフタング・チュチュニアシヴィリが据えられ、オスマン帝国軍はイメレティを略奪し、多数の捕虜を連れて帰った。
ダレジャン王妃とヴァフタング・チュチュニアシヴィリの治世は長く続かなかった。バグラト5世の支持者たちは、その側近の中にホシア・ラシヒシヴィリを送り込んだ。ダレジャン王妃は、慣習に従い、乳房に歯を当てて誓いを立てる儀礼によってホシア・ラシヒシヴィリを養子とした。その後、ダレジャン王妃はホシアを深く信頼するようになった。しかし、ホシア・ラシヒシヴィリは1668年、ダレジャン王妃を槍で刺し殺し、その場でダレジャン王妃の夫で盲目のヴァフタング・チュチュニアシヴィリも殺害された[29]。
ダレジャン王妃の死後、イメレティの貴族たちはもはやバグラト5世を王として望まず、短期間、デメトレ・グリエリを王位に就けた。しかし、デメトレ・グリエリの即位を助けたのと同じ諸侯たちは、デメトレ・グリエリの両目を潰し、王位から追放した。1669年、バグラト5世は再び王位を取り戻し、グリエリ家ではギオルギ3世・グリエリが公となった。
新たに即位したバグラト5世に対して、セフニア・チヘイゼ、レヴァン3世・ダディアニ、ギオルギ3世・グリエリが再び反抗した。三者の対立は戦闘に発展した。1669年、チハリ付近で戦闘が行われた。この戦闘でセフニア・チヘイゼは殺害され、レヴァン3世・ダディアニはサメグレロへ逃れた。バグラト5世はイメレティの領域の大部分を服属させた。それでもレヴァン3世・ダディアニは抵抗を続け、2年後に再びバグラト5世に対して遠征を行った。イメレティの貴族の大部分はレヴァン3世・ダディアニに味方し、バグラト5世はラチャへ移ることを余儀なくされた。バグラト5世はラチャ=レチフミの軍を集め、1671年にゲグティでレヴァン3世・ダディアニと戦った。この戦闘でもレヴァン3世・ダディアニは敗北して捕虜となった。捕虜となったレヴァン3世・ダディアニに対し、バグラト5世は誓約を立てさせて服属させ、サメグレロへ送り返した[24]。
続いてギオルギ3世・グリエリがバグラト5世に対抗した。ギオルギ3世・グリエリは、レヴァン3世・ダディアニの元妻で、当時はバグラト5世の妻であった美しいタマルを奪うため、アスラン1世・ジャケリと結び、バグラト5世の妻を奪うための援助を求めた。1672年、ギオルギ3世・グリエリはイメレティへ侵入した。ギオルギ3世・グリエリとアスラン1世・ジャケリは、盲目のバグラト5世を破って捕らえた。タマルについては、ギオルギ3世・グリエリは目的を果たすことができなかった。バグラト5世がタマルをクヴァリ要塞へ避難させ、オスマン帝国軍がクヴァリ要塞を攻略できなかったためである[35]。バグラト5世は賄賂を渡して解放され、庶子アレクサンドレをアスラン1世・ジャケリの人質として差し出した。
イメレティへの遠征の後、アスラン1世・ジャケリはオスマン帝国軍を率い、ギオルギ3世・グリエリとともにサメグレロ公国へ侵入し、すでに荒廃していた地域を完全に略奪した。オスマン帝国軍が撤退すると、バグラト5世は同年、報復のためギオルギ3世・グリエリに対して遠征を行った。バグラト5世はギオルギ3世・グリエリを破り、グリアを荒廃させ、戦利品を携えてクタイシへ戻った。
この時期、ロシアも活動を活発化させた。ロシア・ツァーリ国の宮廷では、エレクレ1世をイメレティ王にするための準備が進められていた。そのため、1669年にイメレティを離れた26人からなる使節団は、エレクレ1世の決定により、ロシアの遠隔地にある修道院へ送られ、収監された。この措置は、ロシアの宮廷がバグラト5世をイメレティ王として承認せず、エレクレ1世の即位を後押ししていたことの表れと解された。このような状況下で、バグラト5世は何とかギオルギ3世・グリエリを自らに服属させ、同盟者にしようと決め、1674年、バグラト5世は、タマルとの間に生まれた娘ダレジャンをギオルギ3世・グリエリに嫁がせた。しかし、これによっても王位を失う危険を回避することはできなかった。
1678年、アハルツィヘのパシャであるアスラン1世・ジャケリ、サメグレロ公レヴァン3世・ダディアニ、およびイメレティの貴族たちの支援を受けて、アルチル2世は再びイメレティ王位に就いた。バグラト5世は娘婿のギオルギ3世・グリエリのもとへ向かい、妻タマルはスカンダ要塞に残した。アルチル2世はスカンダ要塞からタマル王妃を連れ出し、最初の夫であるレヴァン3世・ダディアニのもとへ戻した。バグラト5世とギオルギ3世・グリエリは援助を求めてオスマン帝国のスルタンに訴えた。オスマン帝国は再びバグラト5世をイメレティ王にする必要があると判断し、エルズルムのパシャにイメレティの秩序回復を命じた。アスラン1世・ジャケリはイメレティへ侵入し、バグラト5世とギオルギ3世・グリエリもこれに同行した。イメレティの貴族たちは今度はアルチル2世を裏切り、バグラト5世側へ移った。1679年8月、バグラト5世は再びイメレティ王位に就き、アルチル2世はラチャへ逃れた。オスマン帝国軍もラチャへ進軍し、同地を荒廃させた[29]。
1681年、盲目の王バグラト5世が死去した。バグラト5世には嫡出の後継者が残されておらず、庶子アレクサンドレはカルトリでギオルギ11世の捕虜となっていた。この状況を利用したギオルギ3世・グリエリは、義父バグラト5世の王位を奪い、1681年から1683年までギオルギ4世としてイメレティ王となった。ギオルギ4世は、治世の初めに、バグラト5世とタマルの娘である正妻ダレジャンを離縁し、義母である王妃タマルと結婚した。
グリエリは神に背き、自らの信仰を冒瀆し、結婚した妻を追い出して、その義母を妻とした。[29]
イメレティ王ギオルギ4世に対する不満は次第に高まった。イメレティの貴族の一派は、アハルツィヘのパシャであるイウスプ2世・ジャケリのもとを訪れ、イメレティ王位にバグラト5世の庶子アレクサンドレを即位させるよう、スルタン・メフメト4世への仲介を求めた。メフメト4世の命令により、1683年、アレクサンドレはカルトリから移され、イメレティ王位に就いてアレクサンドレ4世を称した(在位: 1683年–1690年、1691年–1695年)。ベリ・エグナタシヴィリはアレクサンドレ4世について、次のように評している。
この男は、不相応で、君主の地位に値しない者であった。[36]
アレクサンドレ4世には、イメレティの大貴族たちの支持が必要であった。この目的から、アレクサンドレ4世は、自分の姉で、ギオルギ4世の元妻であったダレジャンをパアタ・アバシゼと結婚させた。パアタ・アバシゼは、強力な貴族の一人であるギオルギ・ミケラゼの甥でもあった。この姻戚関係によって、アレクサンドレ4世はイメレティでの支配を固めた。しかし、ラチャの別の有力なエリスタヴィであるラチャ公ショシタ2世・チヘイゼとベジャン・ロルトキパニゼは、アレクサンドレ4世に対する連合を結成した。両者は、サメグレロを事実上統治していたギオルギ4世・ダディアニを味方につけた。ギオルギ4世・ダディアニは、王権を弱体化させることを計画していた。さらに、イメレティ王位を獲得することを計画していたギオルギ4世とも同盟した。また、チジャヴァゼ家もこの連合に加わった。1684年、ギオルギ4世の軍はイメレティへ侵入した。両軍はロキティで戦った。アレクサンドレ4世が勝利した。この戦闘でパアタ・アバシゼは致命傷を負い、ギオルギ4世とショシタ2世・チヘイゼは戦場で死亡した。ギオルギ4世・ダディアニは逃走して難を逃れた[24]。
ロキティの戦いの後、アレクサンドレ4世は同盟者を探すため、カルトリ王ギオルギ11世に使者を送り、娘との結婚を求めたが、娘はすでに別の男性と婚約していた。そこでアレクサンドレ4世は、ギオルギ11世の弟ルアルサブの娘エレネとの結婚を求めた。しかし、この縁談は、ギオルギ11世と親しかったラチャ公パプナ2世(在位: 1684年–1696年)によって妨害された。このため、アレクサンドレ4世の軍はラチャへ侵入し、多くの村を焼き払った。ギオルギ11世はパプナ2世に自軍を援軍として与えたため、アレクサンドレ4世は撤退を選んだ。
1688年、サファヴィー朝のシャー・スライマーン1世(在位: 1666年–1694年)はギオルギ11世を王位から追放し、その代わりにエレクレ1世を王位に就けた。ギオルギ11世はラチャ公パプナ2世のもとへ逃れた。アレクサンドレ4世はパプナ2世に対し、ギオルギ11世を庇護しないよう命じた。しかし、パプナ2世はこの命令に従わなかったため、アレクサンドレ4世は自軍を率いてラチャへ侵入した。ラチャ=レチフミの住民はアレクサンドレ4世の側についた。パプナ2世とギオルギ11世はグロラへ逃れた。アレクサンドレ4世はウツェラを荒廃させて引き返した。パプナ2世は再びラチャを掌握した。ギオルギ11世は、ロシアへ移住していた弟アルチル2世と連絡を取り、帰国してイメレティ王となるよう勧めた[37]。1688年、アルチル2世はジョージアへ向けて出発した。アルチル2世はラチャに到着し、グヴェリスタヴィに滞在した。パプナ2世はアルチル2世を迎え入れ、援助を約束した。アルチル2世を再び王位に就けるため、ギオルギ4世・ダディアニ、チラゼ家、ミケラゼ家、そしてベジャン・ロルトキパニゼが兵を集めた。一方、アレクサンドレ4世側にはギオルギ・アバシゼ(パアタ・アバシゼの子)とクタイシのスヴィモンが残った。アレクサンドレ4世はグヴェリスタヴィへ向かった。アルチル2世の支持者たちは戦闘を避け、退却した。アレクサンドレ4世にはオスマン帝国軍からも援助が与えられた。この状況下で同盟者たちは撤退を選び、アルチル2世とギオルギ11世はまずサメグレロへ、次いでアブハジアへ移った。
同時に、アルチル2世はクリミア・ハン国のハンに使者を送り、アルチル2世をイメレティ王に即位させるようスルタンに仲介することを求めた。アルチル2世は、使者が無事にクリミア・ハンのもとへ到着したとの知らせを受け、サメグレロへ戻った。しかし、ギオルギ4世・ダディアニはすでにアレクサンドレ4世と講和していた。アルチル2世はサチラオ=サミケラオ地方へ赴き、アレクサンドレ4世に通行を求めた。アレクサンドレ4世は、アルチル2世が王位を争わないことを誓約させた。アルチル2世はラチャを経由してディゴリへ入り、そこに居を定めた。ギオルギ11世はカイホスロ2世・グリエリのもとを訪れたが、カイホスロ2世・グリエリの宮廷で繰り広げられていた陰謀のため、まもなくアハルツィヘのパシャであるサリム・ジャケリのもとへ移り、そこからアルチル2世をイメレティ王にするため活動した[24]。
1690年、オスマン帝国軍がイメレティへ入り、ペルサティの平野に陣を置いた。ディゴリにいたアルチル2世にこのことが伝えられ、イメレティ王位に就くよう招かれた。アルチル2世はラチャのエリスタヴィの軍を伴ってイメレティへ入り、3度目の王位に就いた(在位: 1690年–1691年)。アレクサンドレ4世は戦闘を避け、カルトリ王エレクレ1世のもとへ逃れた。
オスマン帝国軍が去った後、ギオルギ・アバシゼとギオルギ4世・ダディアニはアルチル2世に対する戦いを始めた。カルトリにいたアレクサンドレ4世も呼び戻された。アレクサンドレ4世は直ちに応じ、イメレティへ移った。アルチル2世とアレクサンドレ4世の間でゴドガニにおいて戦闘が行われた。
激しい戦闘が起こり、アレクサンドレは敗れてカルトリへと逃亡した。[38]
アルチル2世は即位すると直ちに秩序の回復を試み、封建領主たちから所領を没収して元の所有者に返還した。このため、多くの有力貴族がアルチル2世に反感を抱き、アレクサンドレ4世側に移った。さらに、カルトリ王国にいたアレクサンドレ4世はエレクレ1世に対し、サファヴィー朝のシャー・スライマーン1世への仲介を求め、再びイメレティ王位に就けるよう願った。スライマーン1世はオスマン帝国のスルタン・スレイマン2世に使者を送り、アレクサンドレ4世をイメレティ王にするよう求めた[29]。スレイマン2世の使者がイスタンブールに到着する前に、スレイマン2世が死去し、アフメト2世(在位: 1691年–1695年)が即位した。使者はアフメト2世に贈り物を献上した。アフメト2世はサファヴィー朝の使者の要請を喜んで受け入れ、アレクサンドレ4世を再びイメレティ王にする命令を出した。アハルツィヘにいたギオルギ11世は投獄された。アルチル2世はクタイシ要塞にいたオスマン帝国軍の守備隊を包囲した。ギオルギ4世・ダディアニはアルチル2世を裏切り、オスマン帝国軍を援助した。オスマン帝国軍は要塞から出撃し、1691年にバグラティ大聖堂を破壊した。
悲しむべき事態が起こった。なぜなら、オスマン人たちが要塞から出てきて、極めて壮麗に建てられていた至聖なる者のクタイシの聖堂を粉々に破壊したからである。[39]
1691年、アレクサンドレ4世はオスマン帝国軍を伴ってアハルツィヘから西ジョージアへ入り、イメレティ王位を掌握した。一方、アルチル2世は戦うことなくイメレティを去った。
その間、アハルツィヘのパシャであるサリム・ジャケリの捕虜となっていたギオルギ11世は、現地のジョージア人たちの助けによって監禁から解放された。ギオルギ11世はエレクレ1世との王位争いを始めた。エレクレ1世はトビリシ要塞に閉じこもり、ギオルギ11世を恐れて外へ出られなくなった。アレクサンドレ4世はエレクレ1世と合意し、イメレティ軍を率いて東ジョージアへ移動し、アリ村を略奪して戦利品を持ち帰った。これをタシスカリにいたアルチル2世が知ると、略奪軍を追撃して戦利品を奪い返した。アレクサンドレ4世はスカンダ要塞へ逃れた。

アルチル2世とギオルギ11世は、アレクサンドレ4世によるアリ村の略奪について、イメレティの有力貴族たちを非難した。イメレティの貴族たち自身もアレクサンドレ4世に満足していなかった。アレクサンドレ4世は多くの性格上の欠点があるとされ、自らの妻であるタマルからも疎まれ、タマルは離婚の機会を待っていた。タマルは父ギオルギ・アバシゼに対し、アレクサンドレをギオルギ・アバシゼのもとへ引き渡すよう求めた。娘タマルの願いをかなえるため、ギオルギ・アバシゼは王に対する陰謀を企てた。スカンダ要塞にいたアレクサンドレ4世は捕らえられ、ギオルギ11世に引き渡された。アレクサンドレ4世はルイシへ連行され、そこで殺害され、同地に埋葬された[40]。
1695年、アルチル2世は再びイメレティ王となった(在位: 1695年–1696年)。イメレティの元王妃タマルは、ギオルギ11世に自分を妻として迎えるよう申し出、その代わりにイメレティ王となるよう約束した。しかし、ギオルギ11世はこの申し出を受け入れなかった。続いてギオルギ・アバシゼは、今度はアルチル2世に自分の娘を妻として差し出したが、これも拒絶された。ギオルギ11世とアルチル2世の両王から拒絶されて侮辱されたギオルギ・アバシゼは、ギオルギ4世・ダディアニと結託し、バグラティオニ家の子孫で、当時は名の知られていなかったギオルギを探し出した。ギオルギは、嘲笑を込めて「ゴチア」と呼ばれていた。1696年、両者はギオルギを「ギオルギ5世」の名でイメレティ王に即位させた(在位: 1696年–1698年)。ギオルギ5世にはギオルギ・アバシゼの娘タマルが妻として与えられた。1年後、タマル王妃は再び王を嫌うようになり、ギオルギ5世を追放することを決めた。イメレティ人たちは、ギオルギ・アバシゼとラチャ公ショシタ3世・チヘイゼ(在位: 1696年–1731年)を指導者として陰謀を企て、1698年にギオルギ5世をイメレティ王位から追放した[15]。
この時、アルチル2世はディゴリにおり、ロシアへ向かう準備をしていた。貴族たちはアルチル2世をイメレティ王位に招いた。アルチル2世はイメレティ王位に就くことを強く拒んだが、なおも説得され、1698年に5度目にして最後に王位に就いた。この治世は最も短いものであり、アルチル2世は6か月間王位にとどまった。アハルツィヘのパシャであるサリム・ジャケリの介入を受けたオスマン帝国のスルタン・スレイマン2世は、アルチル2世を王位から追放し、その代わりにアレクサンドレ4世の庶子シモンを王位に就けるよう命令を出した。シモンはカルトリのエレクレ1世の宮廷にいた。サリム・ジャケリはまずシモンをアハルツィヘへ連れて行き、次いでイメレティへ移し、1699年にクタイシで王位に就けた。アルチル2世は最終的にイメレティ王位を失い、ロシアへ移住し、1713年にそこで死去した[24]。
シモンがイメレティ王となったことを利用して、ギオルギ・アバシゼは、別の男性と婚約していた娘アニカをシモンと結婚させた。タマルは妹が王妃となったことを嫉妬し、ギオルギ4世・ダディアニを7人の子を持つ妻と離婚させ、タマル自身がギオルギ4世・ダディアニと結婚した。以後、タマルの称号は「イメレティおよびオディシの王妃」[注釈 3]と称された。タマルが父とともにイメレティの政務も取り仕切っていたためである。シモンはこの状況を受け入れることができず、カルトリへ逃れてエレクレ1世のもとへ向かった。マミア3世・グリエリが介入し、サリム・ジャケリと合意して、カルトリからシモンを連れて来させ、アニカと離婚させた上で、自分の妹と結婚させた。この出来事に侮辱されたギオルギ・アバシゼは、娘婿のギオルギ4世・ダディアニに援助を求めた。両者はマミア3世・グリエリと協議し、マミア3世・グリエリがシモンを殺害すれば、マミア3世・グリエリをイメレティ王にすることで合意した。マミア3世・グリエリはこの提案を受け入れ、陰謀者たちは裏切りによって1701年にイメレティ王シモンを殺害した[24]。
18世紀のイメレティ
17世紀後半は、西ジョージアにおいて諸侯間の激しい内戦が続いた時期であった。40年間(1660年–1701年)、イメレティでは王が17回にわたって廃位され、このうち4人が殺害され、13人が追放された。詩人王アルチル2世は5回王位に就けられ、その5回すべてで王位から追放された[42]。
封建的な無政府状態は18世紀前半にも続いた。王権は諸侯の勢力拡大によって極度に弱体化した[42]。要塞は諸侯によって占拠された[42]。イメレティにおけるオスマン帝国の影響力は強まり、極めて危険な状況となった[42]。要塞は捕虜売買を行う者たちの避難所や巣窟となった[42]。要塞周辺の村々では、次第にイスラム教への改宗が進んだ[42]。イメレティ王国は主として諸侯や諸公によって統治され、ダディアニ家、アバシゼ家、グリエリ家、チヘイゼ家(ラチャのエリスタヴィ)、ミケラゼ家、ツェレテリ家、ツルキゼ家、チジャヴァゼ家などがその中心であった。[42]。
これらの諸侯・諸公の間では対立が続いた。諸侯・諸公の間には平和が存在せず、同じ氏族の者同士が互いに略奪することも珍しくなかった[43]。
対立する者たちはまったく容赦がなかった。彼らは要塞や宮殿を破壊し、聖堂や宝物庫を略奪し、互いの村々を焼き払い、住民を捕らえてオスマン帝国へ売っていた。一世紀にわたる無政府状態に包まれた社会には、道徳的退廃の危険な兆候が伴っていた……[43]
捕虜売買はさらに盛んになった。捕虜を売ったのは、王、主教、公、諸侯、アズナウリなど、あらゆる階層の者であった[43]。
この状況では、オスマン帝国の大きな役割が明瞭であった。オスマン帝国のアハルツィヘ・パシャリクを統治するパシャは、西ジョージアに強固な権力が成立しないよう常に努めていた[42]。その結果、1690年から1720年までの間に、ダディアニ家、グリエリ家、アバシゼ家、チヘイゼ家は、イメレティ王を11回交代させ、そのうち3人を殺害し、残りを追放した[42]。
国内の封建戦争
イメレティ王シモンが殺害された後の1701年、イメレティの大貴族たちの合意に基づき、グリア公マミア3世・グリエリが初めてイメレティ王位に就いた(在位: 1701年–1702年)。しかし、マミア3世・グリエリの治世は短かった。ギオルギ・アバシゼが王室歳入をマミア3世・グリエリに分配しなかったため、マミア3世・グリエリはグリアから捕虜を売り、その収入で支出を賄わざるを得なかった。1702年、こうした状況に疲弊したマミア3世・グリエリは、自ら王位を放棄した。イメレティの統治は、第2の簒奪者であるギオルギ・アバシゼの手に移った(在位: 1702年–1707年)。1703年、ギオルギ・アバシゼはオスマン帝国への服属を拒否し、アハルツィヘのパシャに対して貢納の支払いを拒んだ[42]。サメグレロのダディアニ家とグリアのグリエリ家もギオルギ・アバシゼの例に倣った[42]。
ジョージアの王侯たちによるこのような行動に憤慨したスルタン・ムスタファ2世(在位: 1695年–1703年)は、1703年1月、西ジョージアに懲罰遠征を行う命令を出した。総司令官にはエルズルムのベイレルベイであるハリル・パシャが任命された。オスマン帝国軍は、殺害されたシモンの弟ギオルギ7世を伴っていた。ギオルギ7世は、まずカルトリで、次いでアハルツィヘで育てられていた[44]。
オスマン帝国軍は1703年8月、イメレティに三方向から迫った。総司令官ハリル・パシャはグリアへ侵入し、副官であるアハルツィヘのパシャ・イサク1世・ジャケリはゼカリ峠を越えてイメレティへ向かい、オスマン帝国海軍はサメグレロに軍を上陸させた。ギオルギ4世・ダディアニとギオルギ・アバシゼに不満を抱いていたアブハジアのシャルヴァシゼ家はオスマン帝国側につき、ジョージアに対する遠征に加わった。この危機的な状況で、ギオルギ・アバシゼはグリエリ家とダディアニ家の支援を得て、侵攻軍の進路を封鎖した。当初、この措置は効果を上げたが、マミア3世・グリエリがハリル・パシャのもとを訪れ、服属を表明した。続いて、ギオルギ4世・ダディアニに不満を抱いていたミケラゼ家もオスマン帝国側につき、オスマン帝国軍をイメレティへ案内した。ゼカリ峠を越えて侵入したオスマン帝国軍はハニスツカリ川の渓谷を進み、カカスヒディ付近にあった要塞を戦闘の末に占領してバグダティへ入った。オスマン帝国軍はバグダティにトフメリ要塞を築き、そこにオスマン帝国軍の守備隊を置いた[42]。
オスマン帝国軍はサメグレロでも大きな成果を上げた。オスマン帝国軍はルヒ要塞を占領し、アナクリア要塞を築いて、そこにも守備兵を置いた。これによって、黒海沿岸に新たな拠点が形成された[42]。
1703年、オスマン帝国政府は西ジョージアの完全な服属を図るため、追加の兵力を派遣しようとしたが、ジョージアへ派遣される予定だった軍の中で反乱が起こった。反乱軍はイスタンブールを制圧し、スルタン・ムスタファ2世を追放して、その弟アフメト3世(在位: 1703年–1730年)をスルタンに即位させた。新たなスルタン・アフメト3世は反乱を鎮圧し、すでに乏しかった国庫から反乱軍に給与を支払った。その後、オスマン帝国政府は遠征を継続する力を失い、イメレティへの遠征は中止された。オスマン帝国軍は本国へ戻った。それに先立ち、オスマン帝国側は、ショラパニ要塞の破壊、人質の引き渡し、シモンの弟ギオルギ7世の即位という条件を提示しており、ギオルギ・アバシゼを王の後見人に任命することも定めていた。ギオルギ・アバシゼはこれらの条件に同意した。ギオルギ・アバシゼはショラパニ要塞を破壊し、人質を引き渡した。そして、ギオルギ7世が初めてイメレティ王位に就いた(在位: 1703年–1711年)が、実際のイメレティ王国の統治者はギオルギ・アバシゼであった。西ジョージアはオスマン帝国による征服を免れた[42]。
ギオルギ7世の即位とオスマン帝国軍の撤退によっても、イメレティに平和はもたらされなかった。ギオルギ7世はクタイシ要塞に閉じ込められ、国政について意見を求められることもなかった。国はギオルギ・アバシゼによって統治され、ギオルギ・アバシゼ自身が王とも称された。アバシゼに不満を抱いていた西ジョージアの有力者たちは、皆ギオルギ7世の側についた。この動きには、カルトリのジャニシン(摂政)であったヴァフタング6世が大きな役割を果たした。ヴァフタング6世の姪は、ギオルギ7世の妻であった。1707年、諸侯に支えられたギオルギ7世は、ギオルギ・アバシゼを王の後見から外し、自ら統治するようになった。ギオルギ・アバシゼは権力を失うことを受け入れず、一方、サメグレロを実効支配していたギオルギ4世・ダディアニも王権の強化を望まなかったため、両者はラチャ公のショシタ3世・チヘイゼを説得し、共同して王に対抗することにした。1709年、ギオルギ4世・ダディアニとショシタ3世・チヘイゼの連合軍はパルツハナカネヴィに集結し、ギオルギ・アバシゼの到着を待って王を攻撃しようとした。ギオルギ7世は先手を取り、同盟軍を奇襲して大敗させた。捕虜となった者たちは王によって売られた。これを知ったギオルギ・アバシゼはスヴェリ要塞に立てこもった[3]。
勝利したギオルギ7世はカツヒ要塞へ向かい、ギオルギ・アバシゼの子パアタは戦わずに要塞を明け渡した。続いてギオルギ7世はスヴェリ要塞を包囲したが、攻略することはできなかった。ギオルギ7世はそこから急いでラチャへ向かい、ホテヴィ要塞の攻略を試みたが、失敗した。帰途についたギオルギ7世はナヴァルゼティ要塞を包囲し、これを攻略した。このとき、ギオルギ4世・ダディアニの子カツィア1世とベジャン1世がギオルギ7世のもとを訪れ、ギオルギ4世・ダディアニを追放してカツィア1世をサメグレロ公にするよう求めた。ギオルギ7世はこれに同意し、イメレティ軍を率いてサメグレロを攻略した。ギオルギ4世・ダディアニはアブハジアへ逃れ、カツィア1世・ダディアニがサメグレロ公となった。ギオルギ7世はイメレティへ戻り、再びナヴァルゼティ要塞を包囲して、これを攻略した[3]。
ギオルギ7世がサメグレロへ遠征している間、ショシタ3世・チヘイゼはイメレティへ侵攻した。ショシタ3世・チヘイゼはチャラトケといくつかの村を荒廃させ、その後撤退した。ギオルギ7世はグリアへ進軍し、グリアも荒廃させた[3]。
カツヒ要塞とナヴァルゼティ要塞を失い、イメレティ王ギオルギ7世の王位が固まった後、ギオルギ・アバシゼは1711年、カルトリのジャニシン・ヴァフタング6世のもとへ身を寄せた。カツィア1世・ダディアニは1710年に死去し、ギオルギ4世・ダディアニが再びサメグレロを掌握した。ギオルギ7世とギオルギ4世・ダディアニは和解した。1711年、両者は共同でラチャへ遠征し、ほぼ上スヴァヴァまで同地を征服した。しかし、再びギオルギ4世・ダディアニの裏切りによって、ギオルギ7世は撤退を余儀なくされた[3]。
イメレティの混乱は収まらなかった。再び陰謀が起こり、ギオルギ4世・ダディアニ、マミア3世・グリエリ、ショシタ3世・チヘイゼ、ベジャン1世・ダディアニ、ズラブ・アバシゼが結託した。1711年、陰謀者たちはギオルギ7世をイメレティから追放し、マミア3世・グリエリをイメレティ王位に就けた。追放されたギオルギ7世はカルトリへ移り、ヴァフタング6世の推薦状を携えてアハルツィヘのパシャ・イサク1世・ジャケリのもとを訪れた。ギオルギ・アバシゼは再びイメレティへ戻った。ズラブ・アバシゼはマミア3世・グリエリの即位に不満を抱いた。ズラブ・アバシゼはアハルツィヘでギオルギ7世と連絡を取り、ベジャン1世・ダディアニとともにマミア3世・グリエリに対して進軍した。1712年、チハリで戦闘が行われ、マミア3世・グリエリが敗北した。ギオルギ7世は2度目に王位に就いた(在位: 1712年–1713年)[42]。
その後まもなく、再び王に対する陰謀が起こった。陰謀の組織者はマミア3世・グリエリ、ギオルギ4世・ダディアニ、ショシタ3世・チヘイゼ、ズラブ・アバシゼ、ベジャン1世・ダディアニであった。1713年、オクリバでギオルギ7世と同盟軍の戦闘が行われた。この戦闘でギオルギ7世は敗れ、再びマミア3世・グリエリが王位に就けられた。1714年、マミア3世・グリエリは2か月間王位にあった後に死去し、ギオルギ7世はオスマン帝国の支援を得て再びイメレティ王となった(3度目の在位: 1714年–1716年)。その後、ギオルギ7世は対立者への報復を行った[42]。
ギオルギ7世はショシタ3世・チヘイゼを伴ってズラブ・アバシゼを攻撃し、その所領を荒廃させた。ベジャン1世・ダディアニとズラブ・アバシゼは、ギオルギ7世を追放するため軍事的支援を行うようアハルツィヘのパシャ・イサク1世・ジャケリに懇願した。オスマン帝国は再びイサク1世・ジャケリを軍とともにイメレティへ派遣した。1716年、シモネティの戦いで両陣営が衝突した。この戦闘でギオルギ7世は敗北し、3度目にイメレティ王位を去ってカルトリへ逃れた。同盟者たちはマミア3世・グリエリの子ギオルギ4世・グリエリを王位に就けた。ベジャン1世・ダディアニとズラブ・アバシゼはまもなくショシタ3世・チヘイゼを自分たちの側に引き入れ、ショシタ3世・チヘイゼの娘をベジャン1世・ダディアニの子オティアと結婚させた。その後、短期間、平和が成立した[3]。
ギオルギ4世・グリエリの治世はわずか3か月であった。ギオルギ4世・グリエリはグリアから財産を運び出そうとしたが、ラチャ人がサロミナオの村でギオルギ4世・グリエリを攻撃した。これを知ったギオルギ4世・グリエリはグリアへ逃れ、イメレティ王国はズラブ・アバシゼ、ベジャン1世・ダディアニ、ショシタ3世・チヘイゼの3人の諸侯の手に残った。3人はイメレティを三分し、それぞれの支配領域に編入した[3]。
イメレティから追放されたギオルギ7世は、カルトリからアハルツィヘへ移り、そこからスルタンへの仲介を求めてイスタンブールへ向かった。イサク1世・ジャケリには、ギオルギ7世を再びイメレティ王にするようスルタンの命令が届いた[42]。
1719年、ギオルギ7世はイサク1世・ジャケリの軍を伴ってイメレティへ戻った。ギオルギ7世をクタイシで迎えたのは、庶民を除けば誰もおらず、ズラブ・アバシゼ、ショシタ3世・チヘイゼ、ベジャン1世・ダディアニはオクリバに陣を置いていた。ギオルギ7世は諸侯に対し、自分を王として認めるよう伝えたが、諸侯は拒否した。その後、ギオルギ7世はオスマン帝国軍とともに諸侯を攻撃してこれを破り、オクリバを荒廃させてサメグレロへ向かった。ベジャン1世・ダディアニは抵抗できず、3人の諸侯は全員ギオルギ7世に服属した。ギオルギ7世は4度目にイメレティ王となった(在位: 1719年–1720年)[3]。
1720年、ズラブ・アバシゼ、ショシタ3世・チヘイゼ、ベジャン1世・ダディアニの扇動を受けたシモン・アバシゼは、ギオルギ7世をトフメリ要塞に招き、宴席の最中に家臣たちに殺害させた[3]。ギオルギ7世の側近たちもすべて捕らえられ、捕虜として売られた[3]。イメレティは再びベジャン1世・ダディアニ、ズラブ・アバシゼ、ショシタ3世・チヘイゼの手に渡った。まもなく諸侯の同盟にも亀裂が生じ、ショシタ3世・チヘイゼとズラブ・アバシゼは互いに敵対するようになった。このとき、イサク1世・ジャケリには、ギオルギ7世の子アレクサンドレをイメレティ王にするようスルタンの命令が届いた。イサク1世・ジャケリはカルトリからイメレティ王子アレクサンドレを呼び寄せ、1720年、アレクサンドレを「アレクサンドレ5世」の名でイメレティ王に即位させた(在位: 1720年–1741年)[42]。
ヴァフタング6世の宮廷で育ったアレクサンドレ5世は、ヴァフタング6世の政策に賛同し、国力の強化に努めた。しかし、アレクサンドレ5世は二重の政策を取らざるを得なかった。アレクサンドレ5世は王位を失わないためにオスマン帝国の意向に沿う必要がある一方、カルトリ王ヴァフタング6世の計画にも応える必要があり、それはロシアとの同盟を意味していた。1722年、アレクサンドレ5世はカルトリとともにロシアとの外交関係を樹立した[45]。
1723年、オスマン帝国は黒海東岸の要塞を占領し、ジョージアを黒海から切り離した。オスマン帝国はペトラ要塞、コブレティ要塞、セフィ要塞、グリゴレティ要塞、アナクリア要塞に守備隊を置き、バトゥミ要塞、チャクヴィ要塞、ポティ要塞、ビチヴィンタ要塞、アナコピア要塞を強化した[44]。オスマン帝国は1725年に特に活動を活発化させた。オスマン帝国はポティに二本のトゥグ[注釈 4]を持つパシャを置き、そのパシャに黒海東岸の統治を委ねた。オスマン帝国はルヒ要塞を破壊し、その石材を使ってアナクリア要塞を築いた。1728年、ズラブ・アバシゼはアレクサンドレ5世にショラパニ要塞を奪われることを恐れ、要塞内にオスマン帝国軍の守備隊を置いた。同じ時期に、オスマン帝国はバグダティ要塞も占領した。こうしたオスマン帝国の成功には、ジョージアの封建諸侯間の対立も寄与した。グリア公国では、ナカシゼ家の諸侯がオスマン帝国を支持した[44]。
諸侯間の対立を背景として、ズラブ・アバシゼはベジャン1世・ダディアニに対抗するため、アハルツィヘのパシャであるイサク1世・ジャケリをイメレティに招いた。イサク1世・ジャケリは自分の子イウスプ3世を派遣した。イウスプ3世はアレクサンドレ5世と協議し、アレクサンドレ5世の同意を得て、1728年、ゲグティ宮殿へベジャン1世・ダディアニを招き、近侍に短剣で殺害させた。ベジャン1世・ダディアニの子オティア・ダディアニは逃走して難を逃れた[3]。
それにもかかわらず、オスマン帝国はイメレティの征服に積極的ではなかった。イメレティの指導者たちも、オスマン帝国によるイメレティの征服を差し迫った脅威とは考えていなかった。オスマン帝国は黒海沿岸の征服に精力的に取り組み、その計画にはバトゥミからアゾフ海までの沿岸全体の征服が含まれていた。さらに、オスマン帝国はジク人を服属させることも計画していた。この目的から、オスマン帝国は1730年[42][注釈 5]に、ポティのパシャを指揮官とする大規模な遠征を開始した。アレクサンドレ5世もパシャの要請を受けてこの遠征に参加した。これはオスマン帝国への忠誠を示すとともに、サメグレロに損害を与えるためであった。オティア・ダディアニは遠征への参加を拒否した。オスマン帝国軍はイロリ聖堂を略奪して焼き払った。アブハジアのシャルヴァシゼ家は抵抗したが敗れ、ポティのパシャによって強制的にイスラム教へ改宗させられた[42]。
この遠征によって、アレクサンドレ5世は、オスマン帝国が勝利すればイメレティの状況が大きく悪化すると確信した。そのため、ポティのパシャからジケティおよびアゾフ海までの遠征を求められたとき、アレクサンドレ5世はオスマン帝国軍の陣営から脱走した。アブハジアはポティのパシャに対して反乱し、遊撃戦による攻撃によってオスマン帝国軍に大きな損害を与えた。ポティのパシャ自身も逃走した[42]。
1728年にベジャン1世・ダディアニが殺害されて以降、すべての権力がアレクサンドレ5世の手に移ったにもかかわらず、アレクサンドレ5世と諸公の対立は続いた。オティア・ダディアニ、ショシタ3世・チヘイゼ、ズラブ・アバシゼは、従来どおりアレクサンドレ5世への抵抗を続けた。この状況において、アレクサンドレ5世はオスマン帝国に依存せざるを得なかった[42]。
オティア・ダディアニ(在位: 1728年–1758年)は、アレクサンドレ5世をイメレティ王位から追放することを企てた。オティア・ダディアニはアレクサンドレ5世の弟マムカを自分の妹ダレジャンと結婚させ、マムカを王位に就けようとした。オティア・ダディアニはサメグレロとアブハジアの軍をゲグティへ呼び寄せ、ショシタ3世・チヘイゼとズラブ・アバシゼも合流した[42][3]。アレクサンドレ5世はクタイシ要塞に閉じこもった。同盟軍はオスマン帝国を恐れて要塞を攻略できず、包囲を解いた。1732年、アレクサンドレ5世はレヴァン・アバシゼの娘と結婚し、自身の先妻との間に生まれた娘をマミア4世・グリエリに嫁がせた。この一連の婚姻によって、アレクサンドレ5世は王位を固めた[3]。
オティア・ダディアニは、サメグレロへの遠征にアレクサンドレ5世が参加したことを許さず、再びアレクサンドレ5世に対する陰謀とマムカの即位を企てた。オティア・ダディアニはラチャ公グリゴル・チヘイゼと、ズラブ・アバシゼを味方につけた。一方、アレクサンドレ5世側にはマミア4世・グリエリ、レヴァン・アバシゼ、オティア・ダディアニの兄カツィア1世、バリ地方のエリスタヴィ・ゲデヴァン、メラブ・ツルキゼらがついた。1732年、チホリの戦いがチホリ付近で行われた。オティア・ダディアニは捕虜となり、カツィア1世・ダディアニは殺害された。オスマン帝国は王権の強化を望まず、アレクサンドレ5世に対してオティア・ダディアニの釈放を強く要求した。アレクサンドレ5世はやむを得ずこれに同意した[42]。
相互の報復と裏切りはなおも続いた[3]。アレクサンドレ5世は、姉妹の夫であったダヴィト・アバシゼとパプナ・ツェレテリを、ヴァルツィヘ宮殿に誘い、首をはねた[46]。その後、アレクサンドレ5世はモディナヘ要塞の攻略に向かったが、パプナ・ツェレテリの未亡人とその子が要塞を固めたため、アレクサンドレ5世の遠征は失敗した[3]。
ズラブ・アバシゼ、グリゴル・チヘイゼ、オティア・ダディアニは、再びアレクサンドレ5世に対する陰謀を企てた。アレクサンドレ5世は援助を求めてクサニ公シャンシェに働きかけ、500人のレキ人も伴ってサメグレロを荒廃させた。イメレティとサメグレロへの略奪の後、アレクサンドレ5世は異母弟ギオルギとレヴァン・アバシゼをカルトリへ送り、ズラブ・アバシゼの兄弟であるヴァフシティ・アバシゼを捕らえさせた。2人はテゼリにいたヴァフシティ・アバシゼを攻撃して捕らえ、アレクサンドレ5世のもとへ連行した。アレクサンドレ5世はヴァフシティ・アバシゼをナヴァルゼティ要塞に監禁し、銀貨500袋とヴァハニ要塞の引き渡しを要求した。ヴァフシティ・アバシゼはこれを拒否した。カルトリのカトリコス・ドメンティ4世はアレクサンドレ5世のもとを訪れ、捕虜の釈放を求めたが、拒否された。アレクサンドレ5世はユスフ・パシャからのヴァフシティ・アバシゼ釈放要求も拒否した。ユスフ・パシャからの要求を拒否したことを知ると、オティア・ダディアニ、ズラブ・アバシゼ、グリゴル・チヘイゼは再びアレクサンドレ5世に対して結託した。彼らの略奪部隊はヴァルツィヘ宮殿を襲撃した。アレクサンドレ5世と王妃はかろうじて逃れ、反乱軍は宮殿を焼き、要塞を破壊した[3]。これは1740年のことであった[47]。
不満を抱いたユスフ・パシャは1741年、アレクサンドレ5世に対してオスマン帝国軍を派遣した。オティア・ダディアニ、レヴァン・アバシゼ、グリゴル・チヘイゼもオスマン帝国軍に加わった。アレクサンドレ5世は他に選択肢がなく、戦わずに王位を譲ってカルトリへ逃れた。勝者たちは同年、アレクサンドレ5世の年少の異母弟ギオルギ9世をイメレティ王位に就けた[15]。
追放されたアレクサンドレ5世には、義父レヴァン・アバシゼ、アレクサンドレ5世の弟マムカ、バリ地方のエリスタヴィ、その他の大貴族が同行した。捕虜のヴァフシティ・アバシゼも連れていった。カルトリのハンはアレクサンドレ5世を王にふさわしい待遇で迎えたが、その後、アレクサンドレ5世を捕らえた。バリ地方のエリスタヴィはデルベントへ赴いてアフシャール朝の統治者ナーディル・シャーに会い、アレクサンドレ5世の願いを伝えた。ナーディル・シャーはアハルツィヘのパシャであるイウスプ3世・ジャケリに対し、アレクサンドレ5世をイメレティ王位へ復帰させるよう求めた。ユスフ・パシャはナーディル・シャーの要請を受け入れ、オスマン帝国中央政府の了承を得ることなくアレクサンドレ5世を王位に復帰させた(2度目の在位: 1741年–1746年)。ユスフ・パシャは西ジョージアの大貴族たちをアレクサンドレ5世と和解させて引き返したが、まもなくオティア・ダディアニ、レヴァン・アバシゼ、グリゴル・チヘイゼは再びアレクサンドレ5世に反抗した。アレクサンドレ5世はこの出来事を継母タマルの責任とし、タマルを斬首した。その後、アレクサンドレ5世はギオルギ9世の支持者たちを襲撃し、オスマン帝国領へ売り渡した。ズラブ・アバシゼに対する不満がアバシゼ家の中で生じた。アレクサンドレ5世はアバシゼ家の内紛を利用し、ズラブ・アバシゼにレヴァン・アバシゼを対抗させた。ズラブ・アバシゼはカルトリへ逃れ、レヴァン・アバシゼがアバシゼ家の当主となった[15]。
レヴァン・アバシゼは、かつてイメレティ王であったギオルギ・アバシゼの子であった。レヴァン・アバシゼは、自分の娘がアレクサンドレ5世と結婚すると、父ギオルギ・アバシゼと同じ主張を持つようになった[15]。
1743年、オティア・ダディアニとグリゴル・チヘイゼは再び小規模な反乱を起こし、その際、ゲグティで行われた戦闘でグリゴル・チヘイゼが戦死した。同盟軍は1746年、再びアレクサンドレ5世を王位から追放することに成功した。このとき、アレクサンドレ5世の弟マムカがイメレティ王位に就いた(在位: 1746年–1749年)。しかし1749年、アレクサンドレ5世はアハルツィヘのパシャであるアフメド=パシャの軍を伴って再び王位を取り戻した。1752年、アレクサンドレ5世が死去し、イメレティの王位はその子ソロモン1世に継承された[42]。
ソロモン1世の即位

ソロモン1世(在位: 1752年–1766年、1768年–1784年)は、国内の封建戦争によって弱体化した王国を継承した。イメレティの主要な要塞であるクタイシ要塞、バグダティ要塞、ショラパニ要塞、ツツフヴァティ要塞は、オスマン帝国軍が占領していた。黒海沿岸もオスマン帝国軍の支配下にあった。グリア公国、サメグレロ公国およびアブハジア公国は王から独立した諸公国となっており、オスマン帝国はこれらをイメレティ王国に対して利用していた[48][49]。
ソロモン1世が即位すると、直ちに封建戦争が勃発した。ソロモン1世の祖父レヴァン・アバシゼ、ラチャ公ロストム、ソロモン1世の叔父マムカとギオルギ、そしてソロモン1世の母タマルは、若いソロモン1世に対して反乱を起こし、ソロモン1世を王位から追放した。ソロモン1世はアハルツィヘへ逃れた。反乱側にはマミア4世・グリエリと西ジョージアのカトリコス総主教ベサリオニも加わっていた[42]。
イメレティから追放されたソロモン1世は、アハルツィヘのパシャであるアフメド=パシャ(在任: 1745年–1758年)に援助を求めた。アフメド=パシャはイメレティの問題への対処を引き受け、ソロモン1世を王位に復帰させた。ソロモン1世は、自らに対して起こされた反乱の首謀者たちを処罰した。ソロモン1世は実母タマルと叔父マムカをイメレティから追放した。ソロモン1世は祖父レヴァン・アバシゼから、要塞と修道院を含むカツヒの世襲領を取り上げ、カツヒ要塞およびカツヒ聖堂とともにイメレティ王の所有と宣言した[48]。
ソロモン1世は、反乱に参加したマミア4世・グリエリも処罰し、オスマン帝国軍の支援を得てグリアへ侵攻し、マミア4世・グリエリをグリアから追放して、その代わりに弟のギオルギ5世・グリエリをグリア公に就けた[15]。反乱者のうち、ラチャ公ロストムとその兄弟であるカトリコスのベサリオニは処罰を免れたが、これは当時の王権の弱さによるものであった[44][48]。
反乱者への処罰を終えた後、ソロモン1世は慎重に政策を進めた。ソロモン1世は、まず強力な同盟者を得るため、妻であるアブハジア公シャルヴァシゼ家の娘ティナティンと離縁し、オティア・ダディアニの娘マリアムと結婚した。同時に、ソロモン1世はグリエリ家とも和解した。さらに、小規模な封建領主たちを味方につけるか、中立化する政策も進めた[42]。
王はその活動を、イスラム教の拡大および捕虜売買に対する戦いから始めた……王はこれにより、自らの活動に確固たる理念的支柱を得た。彼はジョージア人のために戦う指導者として現れた。[50]
イスラム教の普及と捕虜売買に対抗するには、キリスト教の強化が必要であり、その役割は教会が担うべきであったが、当時、教会も絶望的な状態にあった[51]。そのため、ソロモン1世は教会の問題に大きな注意を払った。まず、ソロモン1世は、前代の王たちが俗人に与えていた教会の農奴と土地を、教会に返還した。同時に、ソロモン1世は教会に属する農奴層を、出征と狩猟に関するものを除き、あらゆる税から免除した。このような措置によって、ソロモン1世は教会の権威を強化し、有力なタヴァディたちを弱体化させ、自らの支持者を増やした[51]。
しかし、国家にとって最も重要で緊急の問題として、なおもイスラム教の普及と捕虜売買が残った。ソロモン1世は、この二つの問題の解決に取り組んだ。ソロモン1世は即位すると直ちに、捕虜売買を禁じ、違反者には死刑を課すことを定めたが、これによってイメレティのタヴァディたちに大きな不満を引き起こした。タヴァディたちにとって、捕虜売買は収入源であったためである[51]。ソロモン1世の封建諸侯との戦いには、社会の下層階級が加勢した。ソロモン1世は、農奴層を立て直すため、一連の措置を実施することが不可欠であると考えていた。税の額を減らすことが必要であった。とりわけ、「サジャラド」と呼ばれる負担[注釈 6]を廃止することが必要であった[51]。この負担を一挙に廃止することは困難であったが、農奴層は、自分たちの福祉のためにソロモン1世が献身的に戦っていることを理解していた[48]。ソロモン1世は、タヴァディたちから圧迫されていたアズナウリにも特典を設けたため、アズナウリたちもソロモン1世の側に立った[42]。ソロモン1世は、小規模なタヴァディたちを徐々に味方につけていった。同時に、ソロモン1世は大規模なサタヴァドの内部の対立を利用し、その中で自らの支持者を集めた[42]。
ソロモン1世は、要塞を掌握するために積極的に行動した。要塞の所有が封建領主の勢力を左右し、要塞の所有者が地域住民を支配していたためである。この時期、イメレティの要塞は大貴族またはオスマン帝国軍の手中にあった。そのため、ソロモン1世はまず戦略的な要塞を掌握することに着手した。ソロモン1世は、アバシゼ家の間で生じた敵対関係を利用し、1754年、ギオルギ・アバシゼ=マムキシヴィリからハラガウリ要塞を購入した[15]。スヴェリ要塞は、すでにソロモン1世の父アレクサンドレ5世が自領としていた[15]。カツヒ要塞も、1753年以降には王の手中にあったとみられる[15]。さらに後の1762年、ソロモン1世はニコ・フィネジシヴィリ=アバシゼからチヘリ要塞を購入した。一方、ソロモン1世はアバシゼ家の隣人であるツェレテリ家を味方につけた。ソロモン1世の一連の措置は、主としてレヴァン・アバシゼに対して向けられていた。レヴァン・アバシゼには、ラチャ公ロストムらの強力な同盟者がいた。ソロモン1世は、ロストムの対抗者であったジャパリゼ家とツルキゼ家を味方につけた。ソロモン1世はさらに、イメレティの有力なタヴァディとアズナウリを自らの側に引き寄せた。すなわち、アギアシヴィリ家、イアシヴィリ家、ロルツキパニゼ家、マチャヴァリアニ家などであった[42]。
ソロモン1世はまた、王権を強化する全く新しい制度、いわゆる「ピツィス・カツェビ」を創設した。ピツィス・カツェビの構成員は、毎年5月15日に定められた場所に集まり、王への忠誠を誓った。ピツィス・カツェビの構成員は、政治的特権も認められた。ピツィス・カツェビには、ロルツキパニゼ家、メスヘ家、アヴァリアニ家、イオセリアニ家、ゴゴベリゼ家、ミカベリゼ家、キピアニ家、コクラシヴィリ家、ウグレヘリゼ家、グリガラシヴィリ家、チャブキアニ家などが含まれていた[53]。
このようにして、ソロモン1世は2人の対立者、すなわちレヴァン・アバシゼとラチャ公ロストムを孤立させた。この時以降、レヴァン・アバシゼとロストムはアフメド=パシャに頼るほかなかった。レヴァン・アバシゼとロストムは、表面的には平静を保っていたが、決定的な戦いを予期していた[42]。
フレシリの戦い

アハルツィヘのパシャであるアフメド=パシャは、イメレティ王ソロモン1世の動向を注視していた。アフメド=パシャは、ソロモン1世がオスマン帝国に対して不忠であると確信し、ソロモン1世を支援したことを大きな過ちと考えた[48]。アフメド=パシャが特に受け入れられなかったのは、捕虜売買に対するソロモン1世の戦いであった。アフメド=パシャは、イメレティで捕虜売買を以前と同じように認めるよう、ソロモン1世に何度も要求した。しかし、ソロモン1世はこの要求に応じず、逆に捕虜売買を行う者に厳しい処罰を科した。その結果、捕虜売買はイメレティからほぼ完全に姿を消した[48]。
アフメド=パシャは、イメレティで自分に忠実な諸侯を探し始めた。反乱を理由にイメレティから追放されていたソロモン1世の叔父マムカを再びイメレティへ戻し、同じく追放されていたグリア公マミア4世・グリエリもグリア公の地位に復帰させた[42]。
ソロモン1世に対抗する理由としては、王と諸公の間の協定、王権の強化、教会の再建強化の試み、イスラム教の普及と捕虜売買に対する戦いなどがあった。そこで、アフメド=パシャは、従わない臣下を処罰するよう命じた。予想されたとおり、レヴァン・アバシゼとラチャ公ロストムはアフメド=パシャと連絡を取った[54]。
イメレティを荒廃させるために進軍したオスマン帝国軍に、レヴァン・アバシゼはアハルツィヘで合流し、イメレティへの道を案内した。オスマン帝国軍はオクリバ(現在のトキブリ地区)のフレシリ平原に陣を敷いた。この時、オスマン帝国軍はイメレティのツツフヴァティ要塞、バグダティ要塞、ショラパニ要塞およびクタイシ要塞を占領していた。ソロモン1世の立場は厳しかった。レヴァン・アバシゼは上イメレティ全域を味方につけており、ラチャのタヴァディであるツルキゼも敵側についた。ソロモン1世は義父のオティア・ダディアニに援助を求めた。オティア・ダディアニは高齢で、自ら出陣できなかったため、息子のカツィア2世・ダディアニをオディシ、レチフミ、アブハジアの軍とともに派遣した。マミア4世・グリエリも、ソロモン1世を助けるために出陣した[42]。
ソロモン1世は、敵軍の侵入を予想していた。ソロモン1世は1757年末の数か月間に、イメレティからオスマン帝国軍を追い出すため、密かに大規模な準備を始めていた。若いソロモン1世は、優れた指揮官であるとともに、勇敢な戦士でもあったとされる[42]。
ソロモン1世は、武器を扱える貴族を全員召集し、農奴層からは各戸につき1人を召集した。ソロモン1世の軍には強い結束があった[42]。
1757年12月14日、ソロモン1世は敵軍を攻撃した。敵軍はこの攻撃を予想していたため、混乱しなかった。オスマン帝国軍は当初、優勢に立ち、王旗を奪取した。しかし、ジョージア軍の士気が戦況を逆転させた。ロストムとレヴァン・アバシゼの軍からも、一部の部隊がソロモン1世側へ寝返り始めた。敵軍の大部分は殺害され、一部は捕虜となり、少数は逃走した。しかし、逃走した兵士もイメレティから脱出できず、途中で殺害されるか、捕らえられた。フレシリの戦いでは、オスマン帝国軍の指揮官であるゴラ=パシャ、ケムハ=パシャおよびバシャ=アガも殺害された[42]。
戦闘では反逆者レヴァン・アバシゼが殺害され、ラチャ公ロストムは逃亡した[55]。一方、ソロモン1世側の損害も大きかった。サムルザカノの支配者フトゥニア・シャルヴァシゼが戦死した[55]。
フレシリの戦いは、ソロモン1世がオスマン帝国軍に対して軍事的抵抗を続けるうえで重要な戦闘となった。この戦い以降も、ソロモン1世はイメレティの独立を維持するため、オスマン帝国軍との戦闘を続けた[48]。
ソロモン1世は、反逆者を処罰するための決定的な措置を取った。ソロモン1世はアバシゼ家からレヴァン・アバシゼの所領を没収して王領とし、残りのアバシゼ家の者たちには忠誠を誓わせ、アバシゼ家領の一部を恩賞として与えた。これ以降、アバシゼ家は王に対抗する力を失った。次いで、ラチャ公ロストムを抑え、敵との戦いに集中できるよう背後を固める必要があった[42]。
教会会議
フレシリの戦いで勝利した後、ソロモン1世とオスマン帝国軍の間では、1758年に2度の戦闘が行われた。1度目はオスマン帝国軍が勝利したが、2度目はソロモン1世が大勝を収めた。これによってソロモン1世の権威はさらに高まった[48]。ソロモン1世はこの勝利を利用し、王権を強化するための新たな措置として、1759年12月、西ジョージアの教会勢力および世俗の封建領主による特別会議を招集した。会議には、ソロモン1世、カトリコス、および西ジョージアの高位聖職者、イメレティのバトニシヴィリと貴族、さらにダディアニ家とグリエリ家のバトニシヴィリおよび貴族が参加した。会議は1か月にわたって続き、重要な決定をもって終了した。会議では、西ジョージア全体に共通する教会の諸問題の整備と、捕虜売買の禁止が審議された[56]。
18世紀半ばまでに、教会は深刻な状況に置かれていた。農奴と土地の大部分は世俗の封建領主によって奪われ、多くの修道院と主教座が廃止されていた。オスマン帝国はイスラム教を広め、聖堂を破壊した上で、その跡地にモスクを建設していた[57]。
王権の強化をめぐる戦いにおいて、教会は大きな役割を果たしていた。教会は、信仰、言語および文化の維持を支える重要な役割を担っていた。教会は国内政治上の争いにおいて基本的に王権側に立ち、諸侯の勢力拡大に反対し、イスラム教の定着と戦っていた。教会は捕虜売買を禁止していた[56]。
1759年12月9日、教会会議において、ソロモン1世は、クタイシ主教座を復活させ、クタイシ主教を任命する決定を会議で採択させた。同時に、クタイシ主教が従来保有していたすべての土地を、クタイシ主教の所有として認めた。ソロモン1世は教会の強化を固く決意していたため、教会政策として、次の措置を講じた。
- 世俗人によって奪われた教会の農奴と土地を、教会の所有として承認した。
- 教会の農奴を過重な税から免除し、教会税を法制化した。
- 世俗の封建領主が教会の経済活動に介入することを禁止した。
- 教会の職位から不適格な人物を罷免し、その代わりに適格な人物を招聘した。
- 教会と修道院を建設・復興した[42][48]。
1759年の会議の決定は、西ジョージアの政治生活および経済生活に新たな時期をもたらし、オスマン帝国の侵攻からの解放と封建関係の整備の起点となった。会議ではホニの主教座も復活した[42]。
教会改革の後、教会は本来の地位を回復した。教会の権威と影響力も回復した。教会の復興によって、ソロモン1世は教会を重要な政治的基盤とした[42]。
教会会議において、ソロモン1世は西ジョージアにおける共通の諸問題を指導する立場にあった。諸公と諸侯はソロモン1世に従った。イメレティの諸侯は、ソロモン1世がこのように勢力を強めることを警戒した。特に積極的だったのが、ラチャ公ロストムであった。ロストムが王権の強化を警戒したのには理由があった。アバシゼ家が勢力を失った後、次に王の統制を受けるのはロストムだと考えられたからである。その最初の兆候は、ソロモン1世がロストムの対抗者であるツルキゼ家に接近したことであった[42]。
オスマン帝国との戦い(1758年–1768年)

フレシリの戦いにおけるオスマン帝国軍の敗北と、イメレティ王ソロモン1世による独立のための戦いを、オスマン帝国政府は受け入れなかった。アハルツィヘのパシャであるアフメド=パシャには、イスタンブールからイメレティ王国を服属させるよう命令が届いた。アフメド=パシャは出陣の前に、ソロモン1世に貢納の支払いと捕虜売買の復活を要求した。ソロモン1世は国土の荒廃を避けるため、前者には同意したが、後者は拒否した。1758年、オスマン帝国軍はフンザクの領主およびレキ人とともに、イメレティへの侵攻を開始した。ソロモン1世はこの侵攻に対する準備ができていなかった。オスマン帝国軍はイメレティを荒廃させ、略奪した。その中にはゲラティ修道院も含まれていた。ソロモン1世は、オスマン帝国側が提示したすべての条件に同意せざるを得なかった。オスマン帝国軍は撤退したが、貢納の徴収はイメレティの要塞に駐屯するオスマン帝国軍の守備隊に委ねられた。守備隊による貢納の徴収は略奪に近いものであったため、住民はアフメド=パシャに苦情を申し立てた。ソロモン1世自身もアフメド=パシャのもとを訪れ、独断で行動していたオスマン帝国軍の守備隊を処罰するため、ソロモン1世にはオスマン帝国兵3,000人が付されることになった。しかし、この軍はイメレティに到達することができず、ソロモン1世は途中でピツィス・カツェビの軍を率いてオスマン帝国兵を撃破した。この敗北を受け、オスマン帝国中央政府はアフメド=パシャを罷免し、処刑した[48]。
1758年、カルトリ=カヘティ王国とイメレティの王たちは、ゴリで防衛同盟の条約(ゴリ協定)を締結した。この条約は、敵が侵入した際の相互援助を定めたものであった。この協定は数年間履行され、カルトリ=カヘティ王たちは、オスマン帝国軍との戦いでソロモン1世に何度も援軍を送った。また、ソロモン1世もエレクレ2世のレキ人との戦いを支援した。ソロモン1世は2度、それぞれ9,000人の兵を援軍として送った。3度目には弟のアルチルを派遣し、1760年には1万5,000人の軍を率いてエレクレ2世によるギャンジャ攻略を支援した。しかし、1555年のアマスィヤの講和がなお効力を有していたため、カルトリ=カヘティとイメレティの両王国は、しばしば互いに十分な援助を行うことができなかった[58]。
オスマン帝国のスルタン・ムスタファ3世(在位: 1757年–1774年)は、新たに任命されたハサン=パシャ(在任: 1758年–1759年、1761年–1767年)にイメレティの服属を命じた。1758年、ハサン=パシャは2度イメレティへ侵攻し、いずれも敗北した[59]。
1759年、ハサン=パシャに代わってイブラヒム=パシャ(在任: 1759年–1761年)がアハルツィヘのパシャに就任した。ソロモン1世は王妃マリアムをイブラヒム=パシャのもとへ送り、和平を提案した。これに対し、イブラヒム=パシャは捕虜売買の復活を要求した。ソロモン1世がこれを拒否したため、交渉は決裂した[48]。1760年、オスマン帝国軍は貢納を課し、捕虜売買を復活させるため、再びイメレティを攻撃した。ソロモン1世はこの侵攻を迎え撃つ準備を整えており、オスマン帝国軍を大敗させた。同じく1761年の侵攻でも、ソロモン1世はオスマン帝国軍を破った。
1763年、ハサン=パシャは1万3,000人の軍を率い、2波に分かれてイメレティへ侵入し、戦果を挙げた。しかし、ジョージア側はイェニチェリとクルド人兵士の間に生じた対立を利用し、オスマン帝国軍を大敗させた。同年、オスマン帝国軍は再びイメレティを攻撃したが、またしても大敗した。その後、オスマン帝国軍は東方から上イメレティへの侵入を試みたが、エレクレ2世がこれを阻止した[60]。
オスマン帝国中央政府は、ソロモン1世の対立者を利用する従来の方策に戻った。武力によって成果を上げられなかったため、再びソロモン1世の対立者と連携した。王位を求めるソロモン1世の従弟テイムラズは、オスマン帝国のスルタン・ムスタファ3世に対し、自らをイメレティ王に即位させるよう求め、その代わりに「捕虜売買」の復活を約束した。この提案はオスマン帝国にとって受け入れられるものであった。1764年、オスマン帝国政府は大軍を集結させるよう命じた。1765年、ハサン=パシャは大軍を率いて西ジョージアを荒廃させるために進軍し、王位請求者テイムラズを伴っていた。ダディアニ家とグリエリ家はソロモン1世側についたが、ラチャ公ロストムは再びオスマン帝国側についた。ハサン=パシャはまずグリアへ侵攻し、マミア4世・グリエリは激しく抵抗したが敗北した。ハサン=パシャはマミア4世・グリエリを追放し、その弟ギオルギ5世・グリエリをグリア公に就けた。その後、ハサン=パシャはオディシに入った。カツィア2世・ダディアニはサメグレロの荒廃を避けるため、オスマン帝国軍の前に屈し、オスマン帝国軍への食糧供給を引き受けた。この年、侵攻軍はオディシで越冬した。ソロモン1世は孤立した[48]。
1766年、ハサン=パシャはイメレティへ侵攻した。孤立したソロモン1世を破ることは難しくなかった。1か月にわたる戦闘の後、ハサン=パシャはスヴェリ要塞を占領し、そこからソロモン1世を追い出した。戦闘を続ける意味はなかった。勝利したハサン=パシャはクタイシに入り、テイムラズ(在位: 1766年–1768年)をイメレティ王として宣言した。ソロモン1世はモディナヘ要塞に身を寄せた[48]。
勝利したにもかかわらず、オスマン帝国軍は要塞から出ることをためらっていた。独立のために戦う者たちの勢力が拡大し、強くなっていたためである。テイムラズ王自身も、オスマン帝国軍とともにクタイシ要塞へ移り、外へ出ることをためらっていた。住民の下層階級はテイムラズを王として認めなかった[48]。
1766年、オスマン帝国政府は再びイメレティへの遠征を命じたが、遠征が無益であると判断し、ソロモン1世に和平を求めた。ソロモン1世はオスマン帝国との交渉について、エレクレ2世に仲介を求めた。和平交渉は、エレクレ2世の使節とともにソロモン1世の兄であるゲラティ主教ヨセブが主導した。使節団は1766年にイスタンブールへ到着した。エレクレ2世の使節はオスマン帝国のスルタン・ムスタファ3世に対し、ソロモン1世が毎年60人の女性を貢納として引き渡す用意があること、またムスタファ3世がイメレティの内政に干渉しないことを伝えた。和平の成立は遅れた。王位にはテイムラズが就いており、テイムラズがオスマン帝国の要求に従って貢納を支払っていたためである。使節団の目的は達成されず、1767年に和平が成立したが、その条件によって旧来の貢納関係が復活した。オスマン帝国は、ソロモン1世に王位を返還することを急がなかった[42]。
1768年、ソロモン1世は対立者に対して決定的な戦いを挑んだ。チハリ付近のツフラツカロで、ソロモン1世は忠実なイメレティ人と雇い入れたレキ人の軍を率い、テイムラズとその同盟者であるダディアニ家、グリエリ家、ラチャ公ロストムを破った[61]。この勝利によって、ソロモン1世は再びイメレティ王位に就いた[61]。テイムラズは捕らえられてムフリ要塞に監禁され、そこで死亡した[48]。テイムラズの兄ギオルギも逮捕され、要塞に監禁された[44]。
ソロモン1世は王位を取り戻した後、オスマン帝国との和平条件をもはや受け入れられないものと考え、貢納を拒否した。オスマン帝国はアハルツィヘのパシャを通じてソロモン1世の拒否を知ったが、これに対する措置は取られなかった。
イメレティの要塞にはなおオスマン帝国軍が駐屯していたが、オスマン帝国は、イメレティ王国がロシアとの関係を構築しようとしていることを懸念していた。オスマン帝国がイメレティを失えば、黒海とコーカサスにおける支配を支える拠点の一つを失うことになるためである。そのため、ムスタファ3世はソロモン1世に譲歩せざるを得なかった。さらに、露土戦争(1768年–1774年)が近づいており、オスマン帝国政府もこの戦争におけるイメレティの重要性を十分に理解していた[42]。
スルタン・ムスタファ3世は1768年8月、ソロモン1世に対する恩赦のフェルマーン(勅令)を発し、「キリスト教徒の王たちの間で名高いソロモン」をイメレティ王位に復帰させた。この遅れた承認は、ソロモン1世にとって大きな勝利であった。このフェルマーンの発給によって、クタイシ主教マクシメ2世のロシアへの使節派遣が促進された[51]。
1758年から1768年までの10年間、イメレティの人々はソロモン1世の指揮の下、オスマン帝国の侵略者と、その側についたタヴァディたちに戦い続けた。
ソロモン1世とラチャ公ロストム


歴史史料ではラチャ公国は11世紀に言及されているが、その成立時期についてはジョージア史学では10世紀とするのが通説である。ラチャ公はカハベリスゼ家の出身であり、バグヴァシ家の一族とみなされている。13世紀後半、ジョージア王ダヴィト6世(在位: 1247年–1293年)はラチャ公国を廃止したが、14世紀にイメレティ王によって再び設置された。1530年代以降、ラチャ公はチヘイゼ家となった。18世紀半ばまでに、ラチャ公の所領は56村に及び、農奴は1250戸であった。ラチャ公国の中心はツェシ村、宮廷聖堂はバラコニ、一族の要塞はミンダ要塞であった[15]。
イメレティ王宮ではラチャ公は厚遇を受け、イメレティ王の同盟者でもあった。しかしイメレティ王アレクサンドレ3世の死後、イメレティの領主たちは分立を強め、王権に対抗するようになった。チヘイゼ家のショシタ2世(在位: 1661年–1684年)、パプナ2世(在位: 1684年–1696年)、ショシタ3世(在位: 1696年–1731年)、グリゴル(在位: 1732年–1743年)、ヴァフタング(在位: 1743年–1749年)、ロストム(在位: 1749年–1769年)はアバシゼ家、ダディアニ家、グリエリ家、その他のタヴァディや諸公とともに王権に対抗した[15]。
封建的な内戦の結果、イメレティ王の権力は大きく衰退した。とりわけ17世紀末から18世紀初頭にかけて、その傾向が顕著になった。この時期、ラチャ公は他の諸公とともに、イメレティ王位に就く者を自らの意思で決定していた。イメレティ王はラチャ公らに対して何度も出兵したが、いずれも成果を上げられなかった。ラチャ公パプナ2世・チヘイゼとの戦いでは、アレクサンドレ4世が2度王位を失った。最終的にパプナ2世・チヘイゼとその支持者は王を捕らえ、ルイシで殺害させた。ラチャ公とその支持者はギオルギ6世(在位: 1707年–1720年)を3度王位から退けた。1716年、ズラブ・アバシゼ、サメグレロ公のベジャン1世・ダディアニ、そしてラチャ公のショシタ3世・チヘイゼはイメレティ王国を3分割し、1720年にはイメレティ王ギオルギ7世も殺害した。ギオルギ7世の後継者であるアレクサンドレ5世もラチャ公の圧力を受け、何度もイメレティから追放された[4]。
ラチャ公ロストムも、イメレティ王ソロモン1世の王権には屈しなかった。勢力を強めたロストムは、ソロモン1世に対して公然と戦いを挑んだ。その一方で、ロストムは東ジョージアの王たちとは良好な関係にあった。さらに、ロシア帝国の宮廷では、ラチャ公ロストムはイメレティ王から独立した政治主体として認められていた。
ラチャ公の権勢は、18世紀に現れた称号にも表れている。ラチャ公は「リフト=イメリとリフト=アメリのムタヴァリにして最高審判者、ラチャの支配者」あるいは「リフト=イメリのサルダリ……、ラチャの支配者」と称した[62]。
18世紀前半、ラチャ公はツェレテリ家が所領としていたジュルチュラ川の渓谷を占領した。これにイメレティ王ソロモン1世が介入し、ラチャ公から渓谷を取り上げてジュルチ修道院に寄進した。ソロモン1世はツェレテリ家の側に立ったため、ラチャ公との対立を深めた。ラチャ公は間もなくラチャ全域を掌握し、ジャパリゼ家、イアシヴィリ家、キピアニ家、リパリシヴィリ家、ガムレケリゼ家、ツルキゼ家の所領を奪った。
ラチャ公ロストムは建設や修復にも力を入れた。1753年にはバラコニの新しい聖堂を建設し、1754年にはヴェルトケヴィ修道院を建設した[63]。1755年には自費でエルサレムに女子修道院を建設し、さらに多くの破壊された要塞や聖堂を強化して修復した。このような迅速かつ大規模な建設は、ジョージアの王たちにとってさえ困難であった[4]。また、ラチャ公の宮廷は文化の中心地の一つであった。
ミヘイル・タマラシヴィリの記録によれば、ラチャ公ロストムとロストムの弟ベサリオニ、そしてロストムの息子ギオルギは、1751年にカトリックに改宗し、生涯にわたって信仰を続けた[64]。
上述したように、ソロモン1世は1752年に即位したが、イメレティの封建領主たちはソロモン1世を直ちに王位から追放し、イメレティから追放した。この反乱において、ラチャ公は王の母、祖父、叔父たちとともに重要な役割を果たした。翌年、オスマン帝国軍の援助によってソロモン1世は王位を取り戻し、反乱の参加者を厳しく処罰したが、主要な参加者であったラチャ公ロストムは処罰を免れた。これは、この時期における王の弱さを示すものであった。
ソロモン1世の治世初期には、オスマン帝国の支援なしには権力を維持できなかったが、次第に勢力を強めていった。ラチャ公によって圧迫されていたタヴァディたちはソロモン1世のもとに集まり、ラチャ公からの救済を期待した。この時期、ダディアニ家のカツィア2世・ダディアニはソロモン1世を支持し、ロストムはソロモン1世の祖父であるレヴァン・アバシゼの支援を受けていた。ロストムとレヴァン・アバシゼの同盟には、親族関係も関係していた可能性がある。両者は同母兄弟であり、ラチャ公ショシタ3世・チヘイゼの死後、その妻はアルグヴェティの領主と再婚したためである[4]。
捕虜売買の禁止をオスマン帝国は受け入れず、イメレティ王国を荒廃させるために軍を派遣した。1757年、フレシリの戦いでオスマン帝国とその支持者は大敗した。レヴァン・アバシゼは戦場で戦死し、ラチャ公ロストムは逃走した。戦闘に勝利したものの、イメレティから侵略者を追放するにはなお時間を要したため、ソロモン1世はロストムとの和解を選んだ。ロストムもソロモン1世の勢力拡大を認識してこれを受け入れ、しばらくの間、両者の間に平和が成立した[15]。
この和解は、ソロモン1世の政治的な弱さだけによるものではなかった。ロストムの弟ベサリオニがこの時期にイメレティのカトリコスを務めていたことも、その背景にあった。ソロモン1世はカトリコスの権威に配慮し、ラチャ公に対する軍事行動を控えていた[4]。
1757年から1761年まで、ソロモン1世とラチャ公の間に対立は見られなかった。1759年の教会会議ではロストムは敬意をもって言及され、1760年のギャンジャ攻略では、ロストムもソロモン1世とともにカルトリ=カヘティ王国の王エレクレ2世を支援した。しかし、平和は一時的なものであった。1761年のオスマン帝国軍による再度の侵攻の際、ロストムはソロモン1世に反対する立場を取った。この時以降、ロストムは一貫してソロモン1世に対抗した。ロストムは、オスマン帝国軍が侵攻すると案内役を務めるか、直ちにオスマン帝国軍側につき、ソロモン1世と戦った。ロストムとともにカツィア2世・ダディアニも戦った[15]。
1765年まで、ソロモン1世は敵を破り続けたが、ラチャ公ロストムへの処罰は見送られていた。これは、内外の情勢からロストムを処罰する余裕がなかったためである。アバシゼ家の勢力を弱めた後、ソロモン1世は次にロストムを抑えることを目指した。その最初の動きとして、ソロモン1世はラチャ公ロストムに対抗するラチャのタヴァディたちを味方に引き入れ、勢力を弱めたアバシゼ家に代えてツェレテリ家とツルキゼ家を台頭させた。
ラチャ公ロストムはソロモン1世に対抗するため、従来と同じく王位継承をめぐる対立者を利用した。ロストムは娘婿で、ソロモン1世の従兄弟であるテイムラズを味方に引き入れ、ソロモン1世に対して蜂起させた。今回はロストムの策が成功した。1766年、テイムラズはソロモン1世を王位から追放し、2年間にわたってイメレティ王位に就いた。ソロモン1世を王位から追放した後も、テイムラズとその支持者であるタヴァディたちはソロモン1世を警戒していた。1767年、ソロモン1世はレキ人を雇い、ラチャへ侵攻させた。レキ人は、それまで敵の侵入を受けなかったラチャを荒廃させた。
フレシリの戦い以降、ソロモン1世は次第に勢力を強めていたため、ラチャ公ロストムはソロモン1世との和解を選んだ。ロストムは前日にソロモン1世への贈答品を送り、ソロモン1世は翌日、ロストムの一族を謁見に招いた。ロストムは、ソロモン1世がフレシリの戦いにおける裏切りを許さないと感じ、自身の身を守ろうとした。ロストムは、バラコニ、オニ、アンブロラウリにある要塞と宮殿を王に引き渡した。その代わりにソロモン1世はロストムにヴェジリの職を与え、ロストムの息子ギオルギにはサルダリの職を、メトデにはムディヴァンベギの職を与えた。ロストムはソロモン1世に感謝を表し、要塞を引き渡すための守備兵をラチャへ派遣してほしいと求めた。ソロモン1世はこれに同意し、バシラとクヴィリケのヤマニゼ兄弟を同行させた。ロストムはラチャへ向かった。しかし、ラチャに到着したロストムは、要塞の引き渡しを拒否した。怒ったソロモン1世は、この問題を議論するためにダルバジ会議を招集した。大貴族の大半は、時機を見てロストムに対して出兵することを決定した[4]。
ツフラツカロで勝利した後、オスマン帝国と戦うソロモン1世は、サタヴァド制に対して戦う必要があることをよく理解していた。何よりもまずロストムを服従させる必要があったが、それは容易ではないように思われた。ラチャの征服に反対したのはカツィア2世・ダディアニであり、カツィア2世・ダディアニは王の勢力拡大に自らの身の危険を感じ、ラチャの次にはオディシが標的になると理解していた。この戦いではアブハジア公もカツィア2世・ダディアニの側に立ち、一方、グリアではオスマン帝国を支持する公がグリエリ家の長に就いていた。
1768年、ソロモン1世は2度目の即位を果たした直後、雇ったレキ人を伴ってラチャへ侵攻したが、ロストムを捕らえることはできなかった。ロストムはカツィア2世・ダディアニのもとへ逃れた。ソロモン1世はレキ人の部隊によるラチャへの略奪を繰り返したが、ロストムを捕らえることはできなかった。最終的にソロモン1世は、ロストムを捕らえることはできないと確信し、和解を選んだ[15]。
ソロモン1世とラチャ公ロストムが和解するまでの間、ロストムは至る所で同盟者を探すため、あらゆる手段を試みた。カツィア2世・ダディアニとロストムは、カトリコスのベサリオニとカイホスロ・アバシゼを秘密裏にアハルツィヘのパシャのもとへ派遣し、軍を求めてソロモン1世を王位から追放しようとした。その間に、ソロモン1世はダゲスタンからレキ人を招き、ラチャへ侵攻した。カトリコスのベサリオニはパシャを急かした。この時、ソロモン1世の弟イオセブが秘密裏にアハルツィヘへ赴き、ソロモン1世はイオセブを和解のために派遣した。ただし、その条件はベサリオニを捕らえてイメレティへ連行することであった。この時期には露土戦争が行われており、アハルツィヘのパシャは、ソロモン1世がロシア側につくことを恐れ、ソロモン1世を害することを避けた。アハルツィヘのパシャはカトリコスのベサリオニを逮捕し、要塞に監禁した[4]。
カトリコスのベサリオニは暖炉の壁を壊して監禁から逃れたが、イメレティへ行く伝手がなく、姉妹の息子であるカツィア2世・ダディアニのもと、オディシへ身を寄せた。1769年5月10日、ソロモン1世はベサリオニを罷免し、その代わりに自身の弟イオセブを任命した。
ロストムは援助を求め、まずカバルドの公に、続いてカルトリ=カヘティ王国の王エレクレ2世に訴えた。しかし、両者とも拒否した。エレクレ2世が拒否したのは、1758年の同盟条約によるものであった。ロストムは窮地に陥ったが、それでも生き延びた。この時期には露土戦争が行われており、ソロモン1世はロシア側について参戦することを計画していた。これと時を同じくして、ロシア帝国の代表がジョージアに到着し、ソロモン1世をエレクレ2世との軍事同盟の締結に招いた。この同盟によって、ジョージアの王たちはオスマン帝国に対して戦争を開始することになっていた。この状況では内戦を開始してロストムを処罰することは不可能であったため、ソロモン1世は再びロストムと和平を結び、服従を誓わせた。これは1769年5月のことであった[42]。
1769年の和平から数か月後、廷臣たちの助言を受けて、ソロモン1世はカトリコスのイオセブを呼び、ラチャ公ロストムとの最終的な和解のために仲介するよう命じた。イオセブは仲介を引き受け、バラコニへ赴いた。バラコニで王と同等の礼遇を受けたロストムに対し、イオセブは和解を約束し、聖爵にかけて誓った。ソロモン1世が裏切らないと確信したロストムは、7人の息子を伴ってヴァルツィヘへ向かった。用心のため、ロストムは十分な兵力を率いていた。ソロモン1世は大軍を率いて出迎えた。ロストム一行は祝宴をもってヴァルツィヘへ迎えられ、宴は20日間続いた。ロストムはノウサギ狩りを好んでいたため、ソロモン1世はゲグティにあるイアシヴィリ家の所領での狩猟を提案した。狩猟のためにはリオニ川を渡る必要があり、まずソロモン1世が渡り、次いでロストムが7人の息子と8人のアズナウリを伴って渡った。あらかじめ派遣されていたパプナ・ツェレテリは、ロストムの軍を対岸へ渡すのを遅らせた。イアシヴィリ家の所領では、数人の者が敬意を表するためとしてロストム一行を出迎えたが、出迎えた者たちはロストム一行の背後に回り、不意を突いて手足を縛り、中庭に投げ出した。ソロモン1世の命令により、ロストムとその息子たちは目をえぐられた。ソロモン1世はロストムを厳しく処罰した。ソロモン1世はラチャ公国を廃止し、土地の大部分を王領とし、要塞には自らの部下を配置し、村落の一部を弟イオセブに与えた。ソロモン1世はラチャから追放されていたツルキゼ家の兄弟に、祖先から伝わる所領を返還した。また、ロストムとの戦いでソロモン1世を大いに支援したツェレテリ家にも所領を与えた[4]。
ソロモン1世は、アバシゼ家とチヘイゼ家が支配していた2つの大きなサタヴァドを廃止し、その代わりにツルキゼ家とツェレテリ家が支配する2つのサタヴァドを設置した。ソロモン1世とロストムの間で、17年間にわたって時には秘密裏に、時には公然と続いた戦いは、ソロモン1世の勝利によって終わった。
ラチャ公国の廃止は、サメグレロ公国についても同じ運命になると考えていたカツィア2世・ダディアニを動揺させた。そのため、カツィア2世・ダディアニはソロモン1世と激しく対立した。カツィア2世・ダディアニは再び従来の道を取り、サメグレロ公国の独立のために戦った。両者はこの封建的な内戦において、オスマン帝国とロシア帝国という外部勢力を自分たちに有利に利用しようとした。
王と公の対立が深まると、カツィア2世・ダディアニはサメグレロを教会の面でも分離した。1769年にソロモン1世によってイメレティのカトリコス職を罷免されたベサリオニはサメグレロへ逃れた。カツィア2世・ダディアニはベサリオニをサメグレロのカトリコスに任命した。西ジョージアでは、イメレティのイオセブとサメグレロのベサリオニという2人のカトリコスが並立した。しかし、二重の教会統治は長く続かなかった。1773年、ベサリオニは死去した。その後、サメグレロではカトリコスが選出されなかった。露土戦争中、カツィア2世・ダディアニは一時オスマン帝国にも背を向け、ロシアとの外交関係の樹立を試みた。1773年、ダディアニはソロモン1世とエレクレ2世の友好条約に加わらなかったが、最終的にイメレティ王はカツィア2世・ダディアニの抵抗を打ち破り、1776年、和解を基にカツィア2世・ダディアニをソロモン1世に服従させた[4]。
厳しい処罰の後、ラチャ公ロストムの7人の息子のうち4人が生き残り、イスタンブールへ移住した。ロストムは1770年に獄から釈放され、1790年まで生きた[4]。
視力を取り戻したラチャ公の息子メトデは、1772年と1774年の2度、オスマン帝国軍とレキ人を率いてイメレティへ侵攻し、ソロモン1世を王位から追放しようとした。メトデは両度ともチヘリで敗北してソロモン1世の捕虜となり、再び目をえぐられた後、イメレティから追放された。その後、メトデはエレクレ2世に保護され、エレクレ2世の死後にイメレティへ戻った後、ソロモン2世はメトデにバラコニを返還した。ロストムの次男ギオルギは、1769年に片目を失った後、脱獄して「キョル=ベイ」[注釈 7]の名を称し、イスタンブールへ逃れてオスマン帝国のスルタンに仕えた。1784年、ソロモン1世の死後、スルタン・アブデュルハミト1世(在位: 1774年–1789年)はギオルギをイメレティへ王として派遣したが、ギオルギは、妻エレネの兄弟であるダヴィト2世が王位に就いたことを知ると、引き返した[4]。
ダヴィト2世が王位に就くとすぐに、ソロモン1世によって廃止されたラチャ公国を再設置し、ロストムの孫であり、ダヴィト2世の姉妹の息子でもあるアントンとレヴァンに与えた。ラチャ公位はアントンが継承したが、アントンは弱い統治者であったため、ダヴィト2世はオスマン帝国にいた娘婿を呼び戻し、ラチャ公位をその人物に委ねた。ギオルギは長く生きることはなく、1787年、グロラでオセット人との衝突の際に戦死した。ギオルギの死後、再びアントンがラチャ公となった。ソロモン2世はダヴィト2世の親族であることを理由にアントンのラチャ公在任を認めず、アントンに別の所領を与えた[42]。
露土戦争(1768年–1774年)とイメレティ王国
ソロモン1世は、オスマン帝国で生じた複雑な情勢を利用し、オスマン帝国の侵略から身を守るために強力な同盟者を見つけようと絶えず努めた。ソロモン1世は、幾度となく失望を経験したにもかかわらず、なおロシア帝国との連携を模索していた。ロシア帝国は緩やかではあったが着実にコーカサスへ進出しており、いずれオスマン帝国の利害と衝突すると考えられていた。
18世紀に著しく弱体化したオスマン帝国は、ロシア帝国のコーカサス政策を注視していた。ロシア帝国とジョージアの関係発展は、オスマン帝国政府を大いに動揺させた。そのため、オスマン帝国政府はソロモン1世に対して譲歩した。
強力な同盟者を求め、1768年、再び特別な権限を与えられたクタイシ主教マクシメ2世がロシアへ派遣された。ソロモン1世はこの使節派遣に大きな期待を寄せていた。しかし、10月4日までにキズリャルへ到着したマクシメ2世は、モスクワへ向かうことをキズリャルの司令官から認められなかった。キズリャルの司令官は、ロシア政府がオスマン帝国を刺激することを恐れ、ジョージアとの公式な関係を避けていることを知っていたためである。
これまでジョージア領内の王国や諸公国に関心を示さなかったロシア帝国は、1768年になるとジョージアに関心を持つようになった。この年、軍事外交会議でオスマン帝国との開戦が決定され、ジョージアの政治的諸単位をこの戦争に参加させることがどの程度有益であるかについて、特別報告書が作成された。
オスマン帝国との戦争準備において、イメレティの使節がロシアに到着することは、ロシア帝国の指導者たちにとって非常に望ましいことであった。そのため、キズリャルの司令官には、使節を直ちに首都へ送るよう命じられた[51]。
1769年、サンクトペテルブルクに到着したイメレティの使節マクシメ2世は、ロシアの指導者たちにジョージアへの軍隊派遣の有益性を説き、イメレティへの軍隊派遣に同意させた。3月27日、エカチェリーナ2世は、3個中隊からなる軍隊と3門の砲をイメレティへ派遣する命令に署名した。軍団長にはゴットロープ・ハインリヒ・フォン・トートレーベン将軍が任命され、全権委員にはアントン・ムラヴョフが任命された。ムラヴョフは、ヴァフタング6世の時代にロシアへ亡命したタルハン=モウラヴィ家の子孫であった。ムラヴョフには、ジョージアの王や諸公を結集し、統一された軍事力によってオスマン帝国へ侵攻することが任務であった。
ロシア宮廷は、カルトリ=カヘティ王エレクレ2世の支援がなければ、イメレティ王ソロモン1世は自らの軍事力だけでコーカサス戦線において成功を収めることはできないと理解していた。エカチェリーナ2世はコーカサス戦線の開設に関心を持っており、トートレーベンの要請を受けて、さらに3700人の兵士を派遣した[67]。一方、トートレーベンには秘密の指示が与えられており、ジョージアの王たちがロシア軍を自らの目的のために利用することは認められていなかった。
エレクレ2世との交渉を終えたトートレーベンはイメレティへ戻り、ソロモン1世に対して、イメレティの要塞からオスマン人を追い出し、王に臣下を服従させることが自分の任務であると伝えた。そして、それを成し遂げられなければ、ソロモン1世を家族とともにロシアへ連れて行くと告げた[67]。
ロシア軍がジョージアへ進入したことで、コーカサスのイスラム勢力は動揺した。アハルツィヘのパシャであるネマンはエレクレ2世のもとへ使節を送り、ロシアとの関係を断つよう要求した。
1769年10月3日、ロシア・イメレティ連合軍はショラパニ要塞に到達した。ショラパニ要塞には25人のオスマン守備兵が籠城していた。トートレーベンは、ショラパニ要塞を無血で引き渡すよう要求したが、拒否された。同時に、アハルツィヘのパシャはサメグレロ公カツィア2世・ダディアニとアブハジア公ズラブ・シャルヴァシゼを扇動し、イメレティへ侵攻させた。ソロモン1世はイメレティ軍をショラパニ要塞の包囲から撤退させ、敵を迎え撃った。ソロモン1世はカツィア2世・ダディアニとズラブ・シャルヴァシゼを破り、イメレティから追い出した。トートレーベンはショラパニ要塞を4日間包囲したが、攻略できなかった。包囲を解いたトートレーベンは、カルトリへ移動してツヒンヴァリに陣を敷いた。
ロシア軍を率いていたトートレーベンがイメレティを離れたことで、ソロモン1世は不安を抱いた。ソロモン1世は、この件についてエレクレ2世にも責任があると考えていた。エレクレ2世は、ロシア軍をアハルツィヘへの遠征に招いていたためである。ソロモン1世は、メスヘティをエレクレ2世が征服することも快く思っていなかった。ソロモン1世はメスヘティを自らの領土とみなしていたためである。エレクレ2世の目的は、まずアハルツィヘを服従させ、次いでイメレティからオスマン帝国軍の駐屯部隊を一掃することであった。エレクレ2世の計画はトートレーベンにも受け入れられたが、ロシアからの援軍は現れなかった。そのため、トートレーベン将軍は軍隊をロシアから移送するため、自らロシアへ向かった。その結果、1769年にはアハルツィヘへの遠征は実施されなかった。
1770年初頭、援軍を得たトートレーベンとエレクレ2世は、アハルツィヘへの遠征の準備を始めた。この遠征には二つの目的があった。第一は、オスマン帝国軍によるカルトリ攻撃の拠点を破壊すること、第二はジョージアの領土を併合することであった[67]。この遠征が成功すれば、イメレティにとっても有益であった。イメレティへの攻撃拠点をなくせるほか、エレクレ2世がアハルツィヘを占領すれば、イメレティのタヴァディたちは外部からの援助を期待できなくなるためである。しかし、ソロモン1世は判断を誤り、アハルツィヘへの遠征を拒否した。エレクレ2世は、スラミに到着したソロモン1世の顧問カイホスロ・アブラゼからこのことを知らされた。
ソロモン1世がアハルツィヘ遠征への参加を拒否したにもかかわらず、エレクレ2世とトートレーベンは遠征を実施した。1770年4月17日、アツクリ要塞付近でトートレーベンがエレクレ2世を裏切ったが、エレクレ2世は4月20日のアスピンザの戦いで大勝を収めた。しかし、トートレーベンの裏切りのため、アハルツィヘへの遠征は断念した[67]。
露土戦争の中央戦線でオスマン帝国が敗勢に陥っていたため、オスマン帝国は諸州から最後の予備兵力を召集した。その結果、イメレティでも要塞の駐屯部隊が減少した。イメレティの要塞からオスマン帝国軍を追い出す好機が到来した。1770年5月15日、ソロモン1世はツツフヴァティ要塞を解放した[68]。その後、ソロモン1世はクタイシへ侵入し、モスクを破壊し、ムッラーを殺害し、イスラム教徒をキリスト教に改宗させ、クタイシ要塞を包囲した。同時に、ソロモン1世はショラパニ要塞を占領した。ソロモン1世によるこれらの成功の後、トートレーベンはイメレティへ移動し、ロシア・イメレティ連合軍はバグダティ要塞を包囲した。7月2日、オスマン帝国軍は要塞を引き渡した。ここからロシア・イメレティ連合軍はクタイシへ向かった。1か月に及ぶ包囲の後、クタイシ要塞も降伏した。ソロモン1世はトートレーベンにクタイシ要塞も破壊させた。オスマン帝国軍はイメレティから完全に追い出され、ソロモン1世の命令によって、占領したすべての要塞が破壊された。これは、将来、敵が足場を築くことがないようにするためであった[67]。
要塞を奪還した後、ソロモン1世は西ジョージアの統一を決定した。オスマン帝国が再び国内の封建的混乱を利用する可能性があったためである。何よりもまず、ダディアニ家とグリエリ家を服従させる必要があった。ソロモン1世は準備に取り掛かったが、ここでロシアの反対に遭遇した。ソロモン1世に対し、ロシアのニキータ・パーニン外務大臣は、ロシアの目的はオスマン帝国に勝利するためにジョージア全土を戦争に参加させることであり、そのためイメレティ王による諸公国の併合を目的とした戦いをロシアは認めないと伝えた。そこでイメレティ王ソロモン1世はトートレーベンに黒海沿岸への遠征を提案したが、拒否された。ソロモン1世に反感を抱いたトートレーベンは、ソロモン1世の敵であるカツィア2世・ダディアニに接近し、その同盟者として黒海沿岸へ向けて遠征した。トートレーベンとカツィア2世・ダディアニの軍がアナクリア要塞とルヒ要塞に接近したことで、両要塞のオスマン守備兵は逃走した。1770年10月3日、トートレーベンはポティへ向けて進軍し、包囲した。トートレーベン将軍はポティ要塞を攻略できなかった。バトゥミからオスマン帝国軍を支援するために進軍してきた部隊に対して、ソロモン1世はグリアで進路を遮断し、これを破って後退させた。ソロモン1世は、準備不足だったロシア軍の部隊を壊滅から救うとともに、オスマン帝国寄りのギオルギ5世・グリエリを退任させ、その弟であるマミア4世・グリエリを再びグリア公に就任させた[42]。
イメレティからオスマン帝国側の勢力が排除されたことによって、サメグレロ公カツィア2世・ダディアニは危機感を抱いた。カツィア2世・ダディアニはソロモン1世とトートーレーベンの対立を利用し、ロシアがイメレティ王からの独立を守ることを期待してロシア側に立った。カツィア2世・ダディアニは、ロシアに黒海沿岸への遠征で協力することを約束した。ソロモン1世は使節ダヴィト・クヴィニヒゼに対して、カツィア2世・ダディアニがロシアと直接連絡を取ることを阻止し、オディシとレチフミに対するソロモン1世の権利主張をロシア側に求めるよう命じた。ロシア政府はソロモン1世の要求に不満を示し、カツィア2世・ダディアニと関係を結んだ。トートレーベンはカツィア2世・ダディアニに、ロシア皇帝への忠誠を誓わせた。この分断政策の結果、オスマン帝国に対して統一した軍事作戦を行うことはできなかった。そのため、ロシア政府はエレクレ2世の助力を得て、ソロモン1世とカツィア2世・ダディアニを和解させようとした。ソロモン1世は断固として拒否し、カツィア2世・ダディアニは従来どおりイメレティ王に臣従すべきであるとロシア側に説いた。一方、カツィア2世・ダディアニも、自らの立場が正当であることをロシア皇帝に認めさせようとした[69]。この時期、イメレティ王ソロモン1世はレチフミへ遠征した。ソロモン1世はデフヴィリ要塞とチクヴィシ要塞の占領を試みたが、失敗した。
トートレーベン将軍が召還された後、1771年に後任のアレクセイ・スホーチン将軍がジョージアへ到着し、5月13日にはすでにクタイシにいた。スホーチンはまず、西ジョージアの王や諸公を一時的に和解させた。同年6月15日、スホーチンはジョージアの王や諸公をヘルトゥバニに集め、その年の対オスマン戦争の作戦計画を協議した。この計画では、スホーチンがポティ要塞を包囲し、ジョージアの王や諸公はロシア軍の後方を防衛することとされた。エレクレ2世はレキ人の侵入に備え、主力軍を率いてアハルツィヘへ遠征することとされた。このような条件であれば、オスマン帝国軍はポティ要塞の守備兵を支援できないとされた。ソロモン1世には6,000人の兵士を配して、アハルツィヘからイメレティへ通じる道路を防備することが委ねられた。マミア4世・グリエリには、トレビゾンドから続く海岸沿いの道路を防衛することが委ねられた。カツィア2世・ダディアニには、アブハジア側からロシア軍を防衛するとともに、クタイシへ通じる道路の安全を確保することが求められた[70]。
計画の説明を受けた後も、ジョージアの指導者たちの間では意見が一致しなかった。スホーチンがジョージアの指導者たちにとって有益な計画を立てていないことは明らかであった。エレクレ2世はポティへの遠征に反対し、その根拠としてこの地域の気候が及ぼす悪影響を挙げ、ポティの代わりにアハルツィヘへの遠征を要求した。ソロモン1世はスホーチンの案に賛成した。これは、ロシア軍がアハルツィヘへの遠征に利用されることを防ぎ、遠征が成功した場合にも、この地域がカルトリ=カヘティ王国に併合されないようにするためであった。これによってソロモン1世はアハルツィヘへの遠征を回避した。しかし、スホーチンがイメレティへ移動し、ポティへの遠征の準備を始めると、ソロモン1世は考えを変え、遠征に反対する側に回った。
1771年夏半ば、スホーチンはポティ要塞を包囲したが、攻略には至らなかった。スホーチンには、ポティ要塞を攻略するための攻城砲がなかったためである。スホーチンもトートーレーベンと同様に誤りを犯し、ジョージアの君主たちの助言を考慮しなかった。スホーチンはポティ要塞の攻略に失敗し、その責任を全面的にカツィア2世・ダディアニに負わせた。1771年10月、スホーチンは包囲を解いてクタイシへ戻った。スホーチン自身も熱病にかかり、エカチェリーナ2世に2年間の休暇を願い出た[71]。
1771年12月、スホーチンの報告書に基づいて、ロシア政府はジョージア方面に派遣していたロシア軍を撤退させた。1772年5月5日、ロシア軍はクタイシからも撤退した[67]。ソロモン1世はロシア軍の支援に期待していたが、期待した成果は得られなかった。ロシア軍は西ジョージアの諸公を服従させることができず、西ジョージアを統一することもできなかった。1772年にロシア軍団が撤退した後、イメレティでは政治的な緊張が再び高まり、ソロモン1世とその弟たちの間に対立が生じた。
ソロモン1世の弟イオセブはソロモン1世に教会の独立と世俗権力への関与を求めた。もう一人の弟アルチルは、ソロモン1世に要塞と所領を求めた。ソロモン1世は弟たちの要求を拒否した。アルチルはアハルツィヘのパシャやカツィア2世・ダディアニと同盟を結び、ソロモン1世に対抗するために協力を申し出た。このことを知ったソロモン1世は、弟たちに王への忠誠を誓わせ、要求を放棄させた。
アハルツィヘのパシャであるスレイマン(在任: 1767年–1769年、1770年–1791年)は、アブハジア方面からイメレティを攻撃するため新たな準備を進め、カツィア2世・ダディアニも味方につけた。しかし、ソロモン1世は先手を取り、イメレティ国境に駐屯していたカツィア2世・ダディアニとアハルツィヘのパシャの軍勢を破り、オディシの村々を荒らした。これに対してカツィア2世・ダディアニはラチャへ侵攻し、王領を荒らした。
1772年、ロシア帝国とオスマン帝国の間で一時的な停戦が成立した。アハルツィヘ・パシャリクとカルトリ=カヘティ王国との間にも和平が成立した。しかし、アハルツィヘのパシャがイメレティに対してレキ人の襲撃部隊を差し向けた。ソロモン1世はイメレティへ侵入したレキ人の部隊を撃破した。その後、イメレティ王国とオスマン側との間でも一時的な停戦が発効した[70]。
ロシア軍が撤退した後、ジョージアの王たちはトートレーベンの策謀によって生じた対立を解消し、1758年に結ばれた同盟を更新した。1773年7月末、カルトリ=カヘティ王エレクレ2世とイメレティ王ソロモン1世は会談し、軍事同盟を結んだ。1773年10月、この条約に基づいてジョージアの王たちは共同でジャヴァヘティへ遠征した。イメレティ王国軍とカルトリ=カヘティ王国軍はゴリに集結し、総勢1万1,000人の連合軍がジャヴァヘティへ侵攻した[72]。連合軍はカルスおよびアルダハンまで進軍したが、ソロモン1世が病にかかったため、それ以上の前進は不可能となり、引き返した[73]。

ジャヴァヘティへの遠征に対する報復として、アハルツィヘのパシャは4,000人の軍をイメレティへ派遣し、略奪を行わせた。サメグレロ公カツィア2世・ダディアニとの合意に基づき、両軍は二方向からイメレティを攻撃することになっていた。ヴァハニ要塞の所有者であるアバシゼ家はソロモン1世を裏切り、敵軍を通過させた。カツィア2世・ダディアニもイメレティの国境に到着した。ソロモン1世はエレクレ2世に援軍を求めた。エレクレ2世は直ちに応じ、2,000人の兵士を援軍として派遣し、カツィア2世・ダディアニを撤退させた。オスマン軍は罠に陥ったことを悟って撤退を始めたが、ソロモン1世は退路を遮断し、オスマン軍をチヘリメラ川の渓谷に追い詰め、1774年2月6日に大敗させた。レキ人の著名な指導者ラジャブも捕らえられた。ラジャブはカルトリ=カヘティ王国を幾度も襲撃していた人物であり、ソロモン1世はラジャブを贈り物としてエレクレ2世に送った[74]。
チヘリメラ川の渓谷での戦闘の後、ソロモン1世は、このままではオスマン帝国から難を逃れることはできないと認識し、1774年11月、ダヴィト・クヴィニヒゼを団長とする特別使節団を派遣し、エカチェリーナ2世に対して、イメレティをロシアの保護下に置くよう公式に要請した。しかし、この時点ですでに戦争は終結し、停戦協定も締結されていたため、イメレティの要請は拒否された。
露土戦争は、1774年7月10日に現在のブルガリア北部カイナルジャで結ばれたキュチュク・カイナルジ条約によって終結した。条約第23条では西ジョージアについて定められ、西ジョージアは引き続きオスマン帝国の臣属国にとどまった。ただしオスマン帝国は、人を捕虜として連れ去ることや、その他の貢納を要求してはならないとされた。また、オスマン帝国政府はジョージアにおける信仰を迫害せず、オスマン帝国との戦争に参加したことを理由としてジョージア人を処罰しない義務を負った。バグダティ要塞、ショラパニ要塞、クタイシ要塞もオスマン帝国に返還された。しかし、戦争以前にソロモン1世の命令によって破壊されていた要塞を、オスマン帝国は利用できなかった。戦争によって弱体化したオスマン帝国には、要塞を再建する余力もなかった。これにより、ロシアは以後、南コーカサスにおけるジョージアの利益の保護者として公式に行動するようになり、オスマン帝国もロシアのこの権利を認めた[75]。
1774年–1784年のイメレティ王国
ロシア軍の部隊がイメレティから撤退した後、ソロモン1世はマミア4世・グリエリとカツィア2世・ダディアニを服従させることを固く決意した。政治的立場が不安定だったマミア4世・グリエリに対し、ソロモン1世はグリアへ繰り返し侵攻した。1775年、ソロモン1世は2度グリアに侵攻し、マミア4世・グリエリの抵抗を打ち破った。1776年、ソロモン1世はマミア4世・グリエリと同盟してオディシに侵攻し、いくつかの要塞を占領した。さらに、ソロモン1世の妻の兄弟にあたるカツィア2世・ダディアニに、ソロモン1世への臣従を表明させ、ソロモン1世と和解してイメレティ王の至上権を認めるよう強いた。カツィア2世・ダディアニの命令によって、オディシの教会当局もイメレティのカトリコスに服従した。その後、カツィア2世・ダディアニとマミア4世・グリエリはソロモン1世側に立った。ただし、両者の同盟関係には時折、小さな亀裂が生じた[76]。
ソロモン1世が諸公の服従と教会の統一を実現したことで、イメレティ王国の勢力が増した。これによって、オスマン帝国はソロモン1世に対する外交姿勢を変えざるを得なくなった。1776年10月、オスマン帝国の使節団はイメレティ王に高価な贈り物を贈ったが、これはまれな出来事であった。
1778年、ソロモン1世の政策に不満を抱いていたイメレティの封建諸侯の一部は、唯一の王位継承者であったアレクサンドレ王子を擁して、ソロモン1世に対する反乱を起こそうとした。陰謀の首謀者は、ダヴィト・アバシゼとモウラヴィのタマザ・メスヒであった。陰謀には、メラブ・ニジャラゼ、エヴゲニ・アバシゼ、スヴィモン・ミケラゼ、およびアレクサンドレ王子の父方の従兄弟であるベジャン、ヴァフタング、ギオルギ、ドシテオス、クヴェリのツェレテリ家の人々が参加した。この陰謀には、ソロモン1世の従弟でギオルギ7世の子であるダヴィト2世も同調した。反乱者たちはロムシアンティ渓谷、チヘリ要塞、および上イメレティ全域を占領したが、パプナ・ツェレテリとズラブ・ツェレテリの所領は除かれた。要塞守備兵と農奴がソロモン1世側に立ったため、反乱者たちはそれ以上の領土を占領することができなかった。ラチャの農民であったマチャラシヴィリ家は、クヴァラ要塞を反乱者たちに引き渡すことを拒んだ。ソロモン1世は、ツェレテリ家とツルキゼ家の支援を受けて反乱を厳しく鎮圧し、反乱者を処罰した。ダヴィト・アバシゼを官職から解任し、その官職をズラブ・ツェレテリに与えた。さらに、所領と農奴を没収したうえで、イメレティから追放した。メラブ・ニジャラゼについては、まず所領を没収し、その後に失明させた。陰謀に加わったツェレテリ家の人々は、父祖伝来の所領から追放した。ソロモン1世は息子アレクサンドレをエヴゲニ・アバシゼの娘と離縁させ、代わってベリ・ツルキゼの娘ダレジャンを娶らせた。ダヴィト2世はイメレティから追放された。アレクサンドレ王子はカルトリ=カヘティ王エレクレ2世のもとに身を寄せ、その後、エレクレ2世に対して、自分とソロモン1世を和解させるよう求めた。アレクサンドレ王子は1780年に死去し、イメレティ王位の継承問題が深刻化した[77]。
1779年末、オスマン帝国はアブハジア方面からイメレティを攻撃するための準備を始めた。オスマン帝国は、サメグレロ公国の服従によってイメレティ王の勢力が大きく強まったことを問題視していた。オスマン帝国はアブハジアにジク人、アラン人、チェルケス人、その他の山岳民の軍勢を集め、さらにクリミア・タタール人も加えて、サメグレロの征服を試みた。ソロモン1世はイメレティ=グリア連合軍を率いてカツィア2世・ダディアニを支援するために進軍した。ルヒでの戦闘は、1779年末に行われたとする記述がある[42]。一方、1780年初頭に行われたとする記述もある[78]。ジョージア軍は大勝利を収めた。ルヒの戦いの結果、ソロモン1世と諸公の間に友好関係が築かれた。カツィア2世・ダディアニはイメレティ王の至上権を認め、国内の平和はいっそう強固になった。
その後、オスマン帝国はアチャラとグリアの方面からイメレティを脅かした。オスマン帝国はこの方面で要塞を強化し、軍を集結させ始めた。1784年の元日の夜明け、オスマン側の命令を受けたアチャラのベグ・アブドゥラ・ヒムシアシヴィリは、グリアのアケティ村に侵攻した。マムカ・タヴダギリゼの指揮下にあったグリア軍は侵攻軍を厳しく打ち破り、アブドゥラ・ベグ自身も戦場で戦死した。この侵攻への報復と下グリアの解放のため、ソロモン1世はイメレティ=グリア軍を率いてバトゥミへ向けて遠征した。当初は成功したものの、カツィア2世・ダディアニがこの遠征についてポティのオスマン側パシャに事前に知らせたことで、ソロモン1世は苦しい敗北を喫した。オスマン側のパシャはイメレティ=グリア軍の後方にあるツィヒスジリ付近に軍を上陸させ、帰還するソロモン1世を、いわゆるナチシクレヴィの狭い通路で待ち伏せした。ソロモン1世とその従者たちは、かろうじて捕虜となることを免れた。この戦闘は1784年3月9日に行われた(ナチシクレヴィの戦い)。ナチシクレヴィでの敗北はソロモン1世に大きな打撃を与えた。その後まもなく、同年4月23日午後2時、ソロモン1世はホニでギオルギの日の祝祭に向かう途中、49歳で突然死去した。遺言に従い、ソロモン1世はゲラティに埋葬された。ソロモン1世の死の知らせはオスマン帝国では喜びをもって受け止められ、ジョージアでは大きな哀悼を引き起こした[79]。
王位をめぐる争い
ソロモン1世には王位継承者が残されなかった。1780年に死去したアレクサンドレ王子には、婚外子のギオルギがいたが、ギオルギは王位に就くことができなかった。ソロモン1世は生前、弟アルチルとエレクレ2世の娘エレネとの間に生まれたダヴィトを王位継承者と認めていたが、イメレティの大貴族たちは、アルチルの子ダヴィトではなく、ギオルギ7世の子ダヴィト(ダヴィト2世)をイメレティ王位に就けた(1784年–1789年)。ダヴィト2世はソロモン1世の従弟にあたる。この選択は、エレクレ2世の孫を王に即位させることによって、カルトリ=カヘティ王国のイメレティ王国に対する影響力が強まることを大貴族たちが恐れたためであった。さらに、その場合には東西ジョージアの統一が試みられる可能性があり、そのことは大貴族たちにとって到底受け入れ難いものであった。ダヴィト2世を即位させた勢力の指導者は、イメレティで最も影響力のあるタヴァディであったパプナ・ツェレテリと、ボカウルトゥフツェシのベリ・ツルキゼであった。カツィア2世・ダディアニ(ダヴィト2世の従弟)がこの勢力を支持した。アルチルの子ダヴィトは当時カヘティのエレクレ2世の宮廷におり、そこで養育されていた。アルチルの子ダヴィトの支持者たちは、将来の王が幼少であり、その即位が再び混乱を招く可能性があったため、積極的な行動を控えた。
ソロモン1世の死から4日目、大貴族たちは新王ダヴィト2世に誓約を立てさせ、その誓約によれば、新王は捕虜売買を禁止し、忠実な臣下を尊重して敵を処罰し、追放された裏切り者を追及し、教会を強化し、ロシアとの関係を継続する義務を負った。これはソロモン1世の政策を継承することを意味した[80]。
ダヴィト2世は慎重な統治者であることを示した。ダヴィト2世はエレクレ2世の孫から王位を奪ったにもかかわらず、ロシアを介してカルトリ=カヘティ王国との良好な関係を築こうとした。アルチルの子ダヴィトが成年に達するまで、エレクレ2世はダヴィト2世の即位を一時的に受け入れた。当然ながら、エレクレ2世はダヴィト2世にソロモン1世の遺言を履行するよう求めた。1784年5月、エレクレ2世はイメレティ王に対し、アルチルの子ダヴィトにイメレティにおける農奴・所領を返還するよう求めた。ギオルギの子ダヴィトが即位すると直ちにロシアの保護下に入る意思を表明したため、ロシア政府は代表者S・ブルナショフを通じて直ちにイメレティの問題に介入した。エレクレ2世の要求に従い、イメレティ王はアルチルの子ダヴィトを王位継承者とし、農奴・所領を与え、成年に達した後には王位を譲ることを約束した[81]。
イメレティ王国では内乱が起こった。このような状況の下で、大貴族たちは新王ダヴィト2世に容易に影響を及ぼし、ダヴィト2世から農奴・所領を奪い取った。パプナ・ツェレテリはオニを自領とし、カツィア2世・ダディアニはサチラオ=サミケラオを自領としたため、イメレティの他の封建領主たちの憤慨を招いた[82]。
イメレティの対外情勢も悪化した。イメレティ王国がロシアと結び付いたことで、オスマン帝国は警戒を強めた。オスマン帝国の政権は、自らにとって都合のよい王をイメレティ王位に就けようとした。オスマン帝国政府は当初、2人の王位請求者を見いだした。1人はラチャ公ロストムの子ギオルギであり、ギオルギは「キョル=ベイ」の名でオスマン帝国に仕えていた。もう1人はレヴァン・アバシゼの子カイホスロ・アバシゼであり、カイホスロ・アバシゼはソロモン1世の即位直後にイスタンブールへ逃れていた。最終的に、オスマン帝国から王位を授ける勅令を受けたのはカイホスロ・アバシゼであり、カイホスロ・アバシゼのために軍勢が集められ、イメレティへの遠征に備えた。カイホスロ・アバシゼはカツィア2世・ダディアニとギオルギ5世・グリエリを味方に付けようとしたが、カツィア2世・ダディアニとギオルギ5世・グリエリはアバシゼを王として認めなかった[42]。
オスマン帝国の脅威によって、ロシアとイメレティの接近は加速した。1784年9月中旬、イメレティ王ダヴィト2世は使節団をサンクトペテルブルクへ派遣した。使節団は、カトリコス・マクシメ2世、家令ズラブ・ツェレテリ、ムディヴァンベギのダヴィト・クヴィニキゼによって構成されていた。使節たちはロシア政府に対し、ギオルギの子ダヴィトをイメレティ王として承認すること、イメレティ王国をロシアの保護下に置くこと、オスマン帝国に対する支援を求めた。一方、ロシア政府はイメレティの使節たちとの交渉が行われている間、イスタンブール駐在の使節を通じて、オスマン帝国軍のイメレティ侵入を防ごうとした[83]。
オスマン帝国のスルタン・アブデュルハミト1世(在位: 1774年–1789年)は、ロシアの外交的な働きかけを顧慮せず、1784年10月30日、カイホスロ・アバシゼは6,000人の軍勢を率いてグリアに侵攻した。カイホスロ・アバシゼはオズルゲティまで到達したが、住民は避難しており、捕虜を得ることができなかった。ダヴィト2世は4,000人の軍勢を率いてギオルギ5世・グリエリを支援するため急いで進軍し、サジャヴァホに陣を敷いた。ダヴィト2世はサジャヴァホからコーカサス戦線の司令官グリゴリー・ポチョムキンに支援を要請したが、拒否された。ダヴィト2世は、ロシア軍の部隊がダヴィト2世を支援するために来援するとする偽の情報を流した。オスマン軍は恐れをなし、戦闘装備をすべてグリアに残した。カイホスロ・アバシゼはイスタンブールへ逃れた。この戦争では、ギオルギ5世・グリエリ、カツィア2世・ダディアニ、イメレティ全土の封建領主、および農民が王側に立った。
1785年12月31日、ロシアに滞在していたジョージア人の使節たちは帰国させられた。1786年の冬には使節たちはモスクワにおり、春にはアストラハンに到着してグリゴリー・ポチョムキンの返答を待った。返答が遅れたため、1787年春、使節たちはイメレティに戻った。使節たちは、ポチョムキンとの外交関係を構築するため、モズドクにマクシメ2世を残した[51]。
1787年7月、ダヴィト2世は新たな使節としてベサリオン・ガバシヴィリを派遣した。ダヴィト2世はイメレティ王国を再びロシア帝国の保護下に置くことを求めた。ベサリオン・ガバシヴィリはウクライナのクレメンチュークに長期間足止めされ、1789年までサンクトペテルブルクに到着することができなかった[84]。
1787年、露土戦争が始まった。この新たな情勢は、ダヴィト2世に対し、カルトリ=カヘティ王国が1783年にロシアとの間で締結したゲオルギエフスク条約と同等の条約をロシアと締結できるとの期待を抱かせた。しかし、この情勢はイメレティにとって望ましい結果をもたらさなかった。

その間、イメレティでは再び封建的な内紛が始まった。1788年、サメグレロ公カツィア2世・ダディアニが死去し、グリゴル・ダディアニが公に擁立された。ダヴィト2世はグリゴル・ダディアニの擁立を受け入れられないものと考え、サメグレロの征服を企てた。カツィア2世・ダディアニの死から2か月後、ダヴィト2世はサメグレロに侵攻した。グリゴル・ダディアニはレチフミへ逃れ、マヌチャル2世・ダディアニが公に擁立された。グリゴル・ダディアニの支持者の中には、イメレティ王位の継承請求者であるアルチルの子ダヴィトも加わっており、アルチルの子ダヴィトはイメレティ王位に就く好機を待っていた。招請を受けると直ちに、アルチルの子ダヴィトはカルトリからイメレティへ移り、その後レチフミへ向かった。レチフミでは、グリゴル・ダディアニの姉妹マリアムがアルチルの子ダヴィトと結婚した。対立する両陣営は軍勢を集め、戦闘の準備を整えた。エレクレ2世は、イメレティで自らの孫を王に即位させることを望み、カルトリ=カヘティの軍勢をイメレティとの国境まで進めた。戦闘は1789年7月11日、ホニ=マトホジの河畔地で行われた。マトホジの戦いでは、ダヴィト2世が敗北し、アハルツィヘへ逃れた。アルチルの子ダヴィトがイメレティ王位に就き、叔父に敬意を表して「ソロモン2世」と称した(在位: 1789年–1790年)[85]。
1790年、ダヴィト2世はオスマン帝国軍とレキ人の軍勢を率いて再びイメレティへ侵攻した。ダヴィト2世はゾヴレティの戦いでソロモン2世を破り、再び短期間王位を回復した。王位を追われたソロモン2世は、支援を求めて祖父であるエレクレ2世と、義兄であるグリゴル・ダディアニに頼った。エレクレ2世はソロモン2世を支援し、カルトリ=カヘティの軍勢を出動させ、その指揮をイオアネ・バトニシヴィリに任せた。一方、グリゴル・ダディアニはサメグレロからクタイシへ向けて進軍した。1790年、ダヴィト2世はロムシアンティ渓谷の戦いで敗北し、再びアハルツィヘへ逃れた。そして、ソロモン2世は再びイメレティ王位に就いた(在位: 1790年–1810年)[42]。
1794年、ソロモン2世に敗れた反乱者たちは再びアハルツィヘに集結した。しかし1795年1月11日、ダヴィト2世が天然痘で死去したことで、反乱者たちはその指導者を失った。ダヴィト2世の死後も、イメレティに平和は訪れなかった。今度は、イメレティ王位に別の王位請求者が現れた。それは、1780年に死去したアレクサンドレの庶子ギオルギであり、ギオルギはゲラティ主教と数人のイメレティのタヴァディから支持を受けていた[86]。陰謀者たちはアハルツィヘに滞在していたグリゴル・ダディアニと連絡を取り、グリゴル・ダディアニもオスマン軍を率いて急いで進軍した。しかし、ソロモン2世が先手を打って陰謀者たちを逮捕した。王位を求めるギオルギはムフリ要塞に幽閉され、ゲラティ主教はイメレティから追放された。
グリゴル・ダディアニは陰謀が発覚したことを知ると引き返した。この時、グリゴル・ダディアニの妻子がソロモン王の宮廷にいたためである。その後、アハルツィヘのパシャはグリゴル・ダディアニへの支援を拒否し、エレクレ2世も支援を拒んだ。エレクレ2世は息子アレクサンドレと孫イオアネを派遣し、ソロモン2世とダディアニ家の間に和平を成立させようとした。しかし、イメレティに到着したグリゴル・ダディアニをソロモン2世は拘束した。
グリゴル・ダディアニは、公の地位を得ることはできないと確信すると、叔父のギオルギ・ダディアニと秘密裏に結び付き、ギオルギ・ダディアニとともに行動計画を立てた。その計画は、レチフミのモウラヴィであるカイホスロ・ゲロヴァニを味方に引き入れるというものであり、これは王位をめぐる争いにおいて重要であった。ギオルギ・ダディアニはゲロヴァニを味方に付け、グリゴル・ダディアニはクタイシから脱出してノガ要塞へ連れて行かれた。グリゴル・ダディアニはノガ要塞からイメレティ王に赦免を求める書状を送り、停戦を求めたが、ソロモン2世は受け入れなかった。ソロモン2世はノガ要塞を包囲したが、攻略できず、敗北してクタイシへ戻った。グリゴル・ダディアニはレチフミへ入り、レチフミの要塞群を確保したが、サメグレロ公の地位を奪取することはなおできなかった。ソロモン2世はギオルギ・ダディアニとグリゴル・ダディアニを謀殺することを決意していたが、グリゴル・ダディアニはこれを知り、引き返した。ソロモン2世もまたグリゴル・ダディアニと和睦し、グリゴル・ダディアニをサメグレロの統治者として認めざるを得なかった。1798年、ソロモン王2世とグリゴル・ダディアニの間でオジョラにおいて平和条約が締結され、マヌチャル2世・ダディアニは遺領としてサリパルティアノを得た[87]。しかし、ソロモン2世とグリゴル・ダディアニの間の対立はこれで終わらなかった。1802年、ソロモン2世は再びグリゴル・ダディアニからサメグレロ公国を取り上げることに成功し、今度はグリゴル・ダディアニの弟タリエルをサメグレロ公に擁立した(在位: 1793年–1794年、1802年)。グリゴル・ダディアニは、オスマン帝国寄りのアブハジア公ケイレシュ・シャルヴァシゼに支援を求めた。ケイレシュ・シャルヴァシゼは、人質としてグリゴル・ダディアニの長男{{仮リンク|レヴァン5世・ダディアニ|ka|ლევან V დადიანი|label=レヴァン}}と金銭を要求したが、グリゴル・ダディアニはこの取引に応じることができず、決定的な局面でロシアに支援を求めた。この行動によって、グリゴル・ダディアニはソロモン2世から自らを救い、サメグレロ公国の「独立」を守ろうとした。まさにこの時、ロシアの外交はコンスタンティノープルにおいて、オスマン帝国を説得し、サメグレロとイメレティに対するロシアの保護を認めさせようとしていた。グリゴル・ダディアニのロシアに対する執拗な要請は、まさに時宜にかなったものであった。パーヴェル・ツィツィアノフはサメグレロ公と関係を結んだ[41]。
1803年7月、パーヴェル・ツィツィアノフは保護条約の文案を作成し、グリゴル・ダディアニから忠誠の誓約も受けた。同年10月2日、グリゴル・ダディアニは条約に署名した。この文書は、12月にオスマン帝国がサメグレロをロシアに正式に「譲渡」した際に発効した。保護条約は、アレクサンドル1世が1804年7月に承認した。サメグレロ公国は限定的な自治権を認められた形でロシア帝国の一部となった[41]。
すでに1804年、サメグレロにはロシア軍の連隊が駐屯し、海上からもロシア軍はクレヴィ港に艦船で新たな軍事力を投入した。クレヴィの軍事拠点は、すでにオスマン軍の守備隊が置かれていた黒海沿岸にくさびを打ち込むように進出していた。これは、コーカサスにおける支配をめぐってロシアが戦争をせずに達成した大きな勝利であり、その「最大の功績」はグリゴル・ダディアニに帰せられた。イメレティの征服はもはや時間の問題であった。サメグレロのロシア帝国への編入は、ソロモン2世にとって大きな打撃であった。ソロモン2世は、サメグレロを失うことによって、イメレティを失う危険が迫っていることを理解した[41]。
ジョージア統一の試み
ジョージア統一の構想は、1790年代に入ると、具体的な政治課題として浮上した。その背景には、対外的にも国内的にも有利な情勢があった。この時期、オスマン帝国は大きく弱体化しており、ジョージア統一を阻止することができなかった。ペルシアもジョージア統一を妨げる脅威とはならなかった。むしろ、ペルシアのシャーは、名目的な属国であったカルトリ=カヘティ王国がイメレティ王国を併合することを歓迎したとみられる。ロシアもまた、イランとオスマン帝国によるジョージア支配を防ぐため、ジョージアの勢力強化を支援するとみられた[88]。
対外的な条件と同時に、国内的にも有利な条件が整った。1784年にソロモン1世が死去した後、ギオルギ7世の子ダヴィトとアルチルの子ダヴィトの2人がイメレティ王位を争っていた。イメレティのタヴァディの一団は、エレクレ2世に対してジョージア統一の問題を提起した。この問題の中心となったのは、イメレティの家令ズラブ・ツェレテリ、司令官カイホスロ・ツェレテリ、クタイシ府主教ドシテオスとゲラティ主教エクヴティメ、セフニア・ツルキゼ、イオアネ・アバシゼ、イオアネ・アギシヴィリ、カイホスロ・チジャヴァゼらであった。彼らはエレクレ2世に対し、ギオルギ5世・グリエリもカツィア2世・ダディアニもジョージア統一を支持していると報告した。また、民衆にもジョージア統一の支持者がいたとみられる。エレクレ2世が収めた軍事的勝利や、カルトリ=カヘティで実施した改革が、民衆に影響を与えていたと考えられる。
エレクレ2世は大評議会を召集し、3日間にわたる審議の末、イメレティの直接併合を拒否した。エレクレ2世は、自らの孫であるアルチルの子ダヴィトをイメレティ王位に就けることが、ジョージアの統一を示すことになると考えた。
当時、ジョージアの統一は実現しなかったものの、統一に向けた諸勢力の協力は進展した。1790年6月、ソロモン・リオニゼの主導によって、いわゆる「イベリアの王国と公国に関する条約」が締結された。条約には、カルトリ=カヘティ王エレクレ2世、イメレティ王ソロモン2世、サメグレロ公グリゴル・ダディアニ、グリア公シモン3世・グリエリが署名した。この条約は、敵に対する共同作戦を目的としていた[89]。
クルツァニシの戦い
ペルシアで実権を握っていたザンド朝の君主カリーム・ハーン(在位: 1750年–1779年)が1779年に死去すると、ザンド朝では後継者をめぐる争いが始まった。ザンド朝ではカリーム・ハーンの死後、後継者をめぐる争いが続いた。ルトフ・アリー・ハーンは1789年にザンド朝の君主となり、シーラーズをめぐってアーガー・モハンマド・ハーンと争った。一方、カリーム・ハーンの宮廷で人質となっていたアーガー・モハンマド・ハーンは、カリーム・ハーンの死後に宮廷を離れ、ペルシアの支配権掌握に向けて勢力を拡大した。アーガー・モハンマド・ハーンは1788から1789年にかけてテヘランへ拠点を移し、1794年にルトフ・アリー・ハーンを捕らえてザンド朝の支配を終わらせた。アーガー・モハンマド・ハーンがシャーとして正式に戴冠したのは1796年である。オスマン帝国の統治者たちと同様に、アーガー・モハンマド・ハーンも、南コーカサスにおけるロシアの影響力拡大を脅威とみなした。彼はエレクレ2世に対し、ロシアとの同盟関係を解消し、カルトリ=カヘティ王国に対するペルシアの宗主権を認めるよう求めた。しかし、エレクレ2世はこの要求を拒否した。アーガー・モハンマド・シャーはこれに対抗してカルトリ=カヘティ王国への遠征を決定し、エレクレ2世はゲオルギエフスク条約にもとづいてロシアに援軍を求めた。エレクレ2世はゲオルギエフスク条約に基づいてロシアに援軍を求めたが、援軍は派遣されなかった。エレクレ2世は約5,000人の兵力で、約3万5,000人とされるペルシア軍を迎え撃った。1795年、両軍はトビリシ近郊のクルツァニシ平原で交戦し、エレクレ2世の軍は敗北した[88]。
クルツァニシの戦いには、エレクレ2世が率いるカルトリ=カヘティ軍に加え、イメレティ王ソロモン2世が派遣した軍も参加した。イメレティ軍の兵力は約2,000人とされる[90]。従来の研究では、イメレティ軍が戦闘中にエレクレ2世を裏切ったため、ジョージア軍が敗北したと説明されることがあった。しかし、複数のジョージア語史料を比較した研究によれば、イメレティ軍全体がエレクレ2世を裏切ったことを示す確実な証拠は確認されていない。
一方、一部の研究者は、ズラブ・ツェレテリと、その周囲にいた約40人からなる一団の略奪行為に注目している。こうした行為は、後にイメレティ軍全体の評判を損なう材料として利用された。具体的には、トビリシを出発した後、金銭欲に駆られた封建領主ズラブ・アバシゼが、自らの農奴の一部に軍を密かに離脱して村々を略奪し、戦利品を自分のもとに届けるよう命じたという。ソロモン2世は、この略奪行為を把握していなかったとされる。この事件は、クルツァニシの戦いで戦死した約1500人のイメレティ兵の名誉を損ない、ソロモン2世自身の名誉も傷つけた[42]。
独立をめぐる戦い
1801年9月12日、新たに即位したロシア皇帝アレクサンドル1世は、カルトリ=カヘティ王国の王制を廃止し、同王国をロシアに併合することを宣言した(アレクサンドル1世の宣言)。1802年4月9日、将軍カール・クノーリングが、この目的を達成するためにトビリシへ到着した。クノーリング将軍は4月12日、王制の廃止とロシアによる統治の開始を宣言した。
イメレティ王ソロモン2世は当初、ロシアへの忠誠を保っていた。ソロモン2世は1796年、1798年、そして1801年8月にロシアへ使節を派遣し、ロシアの保護下に入ることを求めたが、皇帝はクノーリング将軍に対し、オスマン帝国との既存の協定に違反することなく、イメレティ王との友好関係を築くよう指示した。
1798年にカルトリ=カヘティ王エレクレ2世が死去すると、東西ジョージア間の関係は悪化した。後継のギオルギ12世(在位: 1798–1800年)は、ソロモン2世がダディアニ家との戦いを通じて推し進めていた西ジョージアの統一政策を支持せず、むしろ娘婿であるグリゴル・ダディアニを支援した。ソロモン2世は、母の異母兄に当たるギオルギ12世よりも、ダレジャン王妃の息子たちとの結びつきを強めた。ソロモン2世はイウロンをカルトリ=カヘティの王位継承者として認め、カルトリ=カヘティ王家の権力争いにおいてはダレジャン王妃派に加担した。
1799年以降、東ジョージアにおけるロシア軍の段階的な増強は、西ジョージアの政治情勢に顕著な影響を及ぼした[91]。
ソロモン2世は、イウロン派を通じて、ペルシアからの支持を得ていた王弟アレクサンドレとも関係を持っていた。こうした関係を背景に、ソロモン2世はロシアの政策に反対する立場を強めた。ロシア帝国とソロモン2世の関係は行き詰まりを見せていた。ソロモン2世は、カルトリ=カヘティの王制廃止がイメレティ王国にも影響を及ぼすことを認識していた。
1801年8月4日、ソロモン2世は使節ジャパリゼをロシアへ派遣した。この使節派遣の主な目的は、イメレティに対するロシアの保護を取り付けること、カルトリ=カヘティにおける王制を復活させること、そしてイウロン王子をカルトリ=カヘティの王位に就けることであった。しかし、クノーリング将軍は使節団のロシアへの入国を認めず、送り返した。また、ロシアはオスマン帝国との既存の協定に違反すべきでないと通告した。イウロン王子の即位に関しては、カルトリ=カヘティの処遇はすでにロシア皇帝によって決定されており、ソロモン2世の要求は皇帝に対する侮辱に当たると伝えた。[92]。
同時期、ロシア帝国はイメレティ王国の内政にも積極的に干渉した。1802年、アレクサンドル1世は外務参議会の官吏ソコロフをジョージアに派遣し、ムフリ要塞に拘束されていたコンスタンティネ(ダヴィド2世の子)の解放について交渉するよう命じた。ソロモン2世はこの動きを脅威と捉え、アレクサンドル1世の要求を拒否した。しかし、ロシアはこれを敵対的な行為と見なした。イメレティの政治指導者たちは、ロシアとの関係を悪化させることは損失を招くと判断し、方針を転換した[42]。

1802年、クノーリングに代わってパーヴェル・ツィツィアノフがジョージアへ派遣された。皇帝アレクサンドル1世は、ツィツィアノフにコンスタンティネを釈放するよう命じ、ソロモン2世が拒否した場合には武力を行使するよう指示した[92]。ツィツィアノフはソロモン2世を屈服させるためにさまざまな手段を用いた。ツィツィアノフは、ロシア軍をイメレティ王国の国境に進出させることさえした。4か月にわたる交渉の後、ソロモン2世はコンスタンティネを釈放し、イメレティ王位の継承者として認めた[93]。グリゴル・ダディアニがロシア政府と保護下入りを交渉していたことを、ソロモン2世は看過しなかった。イメレティの指導者たちは、サメグレロに続いて自分たちもロシアの干渉を受けると認識していた。そのため、イメレティの指導者たちは、1783年にカルトリ=カヘティとロシアとの間で成立したものと同じ条件で、ロシアの保護下に入ることを決定した。この目的で、ソロモン2世は1803年8月5日、ソロモン・リオニゼを使節としてサンクトペテルブルクへ派遣した。ソロモン・リオニゼは、ロシア皇帝アレクサンドル1世に、次の主要条項を提示した。
- ロシアがイメレティ王国を保護下に置く場合、ロシアはその旨をすべての国家に通知しなければならない。
- イメレティ王の使節は、総督を介することなく、皇帝に直接謁見する権利を有する。
- 皇帝はイメレティ王に証書を与えること。また、必要に応じて、総督はイメレティを援助するために1,000人の部隊を派遣すること。
- ソロモン2世が希望する人物への王位継承を、皇帝が認めること。
イメレティ王側の義務は、次のように定められていた。
- ソロモン2世は、ロシア皇帝に忠誠を誓うこと。
- ロシアに対して船舶建造用の木材を供給すること。また、ロシアが黒海沿岸で漁業を行うことを認め、ロシアの船舶がリオニ川を通ってイメレティに入ることを認めること。
- オスマン帝国との戦争が発生した場合、ロシア側について戦うこと。
- ロシアの黒海支配に資するため、アブハジア公国を併合すること。[94]
ソロモン2世は同時に、オスマン帝国のスルタンにも使節を派遣し、ロシアの圧力からイメレティ王国を守るための援助を求めた。また、グリゴル・ダディアニにも和解を申し入れた。しかし、いずれの試みも失敗に終わった。ダディアニは和解を拒否し、オスマン帝国も支援を断った。オスマン帝国はフランス帝国の皇帝ナポレオン1世による征服の脅威に直面しており、イメレティ王国への支援よりもロシアとの関係を重視していたためである。ツィツィアノフは、コンスタンティノープルへの使節派遣について知ると、アレクサンドル1世の宮廷に報告し、軍を率いてイメレティ王国へ入る許可を求めた。ロシアはソロモン・リオニゼとの交渉を直ちに打ち切り、イメレティ王国をロシアに併合する問題について、事実上、ツィツィアノフに全権を委ねた[95]。
ツィツィアノフはオスマン帝国を刺激することを避け、決定的な措置を取らなかった。しかし、間もなく、コンスタンティノープル駐在ロシア大使アンドレイ・イタリンスキーから、スルタンはイメレティの割譲に反対していないとの知らせを受けた。オスマン帝国は、ナポレオン1世の侵略に対抗する戦いにおいて、ロシアを自国の保護者と見なしていたためである。その後、ツィツィアノフは、皇帝からイメレティ王国を武力で占領するよう命じられていたことを隠さなかった。一方で、流血を避けるため、平和的にイメレティを支配下に置こうとした。
ツィツィアノフは、ソロモン2世との交渉のため、ミハイル・ヴォロンツォフ(後のカフカース総督)を派遣した。ツィツィアノフは、イメレティ王にロシアの保護下に入るよう求める草案を作成し、ヴォロンツォフに託した。ソロモン2世はヴォロンツォフとの面会を引き延ばしていたが、最終的に1804年3月20日に謁見を許可した。ソロモン2世はアレクサンドル1世への忠誠を誓う意思を示したものの、ソロモン・リオニゼがロシアから戻るのを待っていたため、要求事項には署名しなかった[91]。
ツィツィアノフは軍事介入を決断したが、まず貴族たちの買収から始めた。表向きはソロモン2世に忠誠を誓っていた貴族たちも、すぐにツィツィアノフ側へと寝返った。ソロモン2世は最終的に、交渉を求めるツィツィアノフの提案を受け入れ、1804年4月19日にイメレティ国境のエラズナウリ村(現在のハラガウリ地区ヴァハニ村付近)で、イメレティ王ソロモン2世とロシア将軍パーヴェル・ツィツィアノフが会談した。ツィツィアノフは、アレクサンドル1世の臣下となることをソロモン2世に提案した。4月20日、ロシア軍はイメレティとの国境を越えて村々を占領し、現地住民にアレクサンドル1世への忠誠を誓わせた。ソロモン2世は最終的に屈服した。4月25日、イメレティ王ソロモン2世とロシアの将軍ツィツィアノフは再びエラズナウリで会談し、エラズナウリ協定に署名した。この協定により、イメレティ王国はロシア皇帝に臣属することとなったが、ソロモン2世は王位を維持し、イメレティ王国も政治的実体として存続した。7月4日、ロシア皇帝アレクサンドル1世は協定を承認する証書を発した[96]。
ロシアが西ジョージアで達成した成果を維持するには、西ジョージアへの駐留軍を増強する必要があった。しかし、1804年のムティウレティ蜂起によりダリアリ渓谷が封鎖されていた。こうした状況下で、ロシア政府は軍を海路で輸送する必要があると判断した。しかし、制海権はオスマン帝国が握っていた。ロシア政府はクリミアから黒海を経由してポティへ軍隊と物資を輸送することを決定したが、ポティの要塞はオスマン帝国の支配下にあったため、オスマン帝国の同意が必要であった。イタリンスキー大使は、この件に関する交渉を行う任務を帯びていた。最終的に、ロシアはポティを一時的に使用する権利を得た。オスマン帝国は、ポティ港からロシア軍が輸送されたことを知り、ロシアに説明を求めた。その結果、ロシアはポティ港を一時的に使用することも認められなくなった。オスマン帝国がポティの港を明け渡すつもりがないことはロシア政府にとって明らかとなり、そのためアレクサンドル1世はツィツィアノフに対し、ポティを武力で奪取するよう命じた。 ツィツィアノフは西ジョージアへ特使ピョートル・リトヴィノフを派遣した。リトヴィノフには次の任務が与えられていた。
- 可能であれば、武力衝突を避けてポティ港を占領すること。
- ロシア軍が西ジョージアに進軍する前に、グリゴル・ダディアニとソロモン2世を和解させること。
- ロシア軍を海路でサメグレロに入れること。
- ソロモン2世とグリゴル・ダディアニの政争に介入し、グリゴル・ダディアニの勢力を強め、ソロモン2世の勢力を弱めること。[91]
1804年6月4日、リトヴィノフはクタイシに到着し、ソロモン2世と西ジョージア諸公の間で合意を成立させようとした。リトヴィノフはサチラオでソロモン2世とグリゴル・ダディアニを引き合わせ、両者は平和を維持することを約束した。ソロモン2世はツィツィアノフに対し、グリゴル・ダディアニがそれまでに占領していたレチフミを返還するよう求めたが、ツィツィアノフは逆にグリゴル・ダディアニを支持した。レチフミを奪われたことに強い不満を抱いたソロモン2世は、クタイシにとどまることを恐れ、ロシア支持派のベサリオン・チコンディデリが所有するスジュナの聖ゲオルギオス修道院へ居所を移した。
ソロモン2世は、エラズナウリ協定を時間を稼ぐための手段と考えていた。ペルシアは戦争の準備を進めており、オスマン帝国もコーカサスの情勢に目を向け始めていた。ソロモン2世は、ジョージアの王族、ハーン、パシャ、ペルシアのシャー、オスマン帝国の宮廷と連絡を保っていた[97]。
しかし、ソロモン2世は日ごとに弱体化していた。リトヴィノフはグリゴル・ダディアニをソロモン2世の敵側に引き入れた。一方、グリゴル・ダディアニの代理人たちはソロモン2世の支持基盤を崩し、「ピツィス・カツェビ」に属するアヴァリアニ家、メスヘ家、イオセリアニ家の人々を寝返らせた。それでも、ソロモン2世にも小さな成功があった。1804年6月12日、ダヴィト2世の子コンスタンティネはトビリシから逃亡し、ソロモン2世のもとに到着した。ロシアは王位継承者を失い、ソロモン2世に圧力をかける手段を一つ失った。
ポティ港がロシア軍にとって利用できなくなると、ロシア軍は兵員を上陸させられる別の場所を探し始めた。その候補となったのが、ホビスツカリ川の河口に位置するクレヴィ村であった。クレヴィ村には小要塞レドゥト=カレが築かれ、1804年10月、ロシア軍は同地から上陸した。ロシア軍の進出に不安を抱いたソロモン2世は、クタイシを離れて居所を移した。冬季はヴァルツィヘに滞在し、夏季はオクリバとゴギで過ごした[4]。
ソロモン2世は独立をめぐる戦いを続けた。ソロモン2世は、ロシアとオスマン帝国の間に戦争が起こることに期待を寄せていた。イメレティにおけるロシアの勢力は徐々に拡大し、ソロモン2世は次第に困難な立場に追い込まれた。ちょうどその頃、アハルツィヘのパシャからの使節が、オスマン帝国のスルタン・ムスタファ4世の提案を携え、豪華な贈り物とともにソロモン2世のもとを訪れた。使節は、イメレティが再びオスマン帝国の保護下に入るよう提案した。オスマン帝国はイメレティとサメグレロを失ったことに不満を抱いていた。オスマン帝国が特に懸念していたのは、ロシアが黒海に足場を築き、レドゥト・カレ要塞を建設したことであった。ナポレオン1世の戦果を背景にオスマン帝国とフランスは同盟関係を強め、オスマン帝国はフランス側からの働きかけも受けて、1806年にロシアに宣戦布告した(露土戦争、1806–1812年)。1807年、オスマン帝国艦隊はレドゥト・カレ要塞を攻撃したが、攻略できなかった。ロシア軍もイオナ・ルイコフ将軍の指揮下でポティ要塞を攻撃したが、要塞の占領には失敗した。ソロモン2世はこれらの戦闘には参加しなかった。
1808年3月、総督のイワン・グドーヴィチ将軍は、イメレティの王権を廃止し、ソロモン2世を一家とともにロシアへ移送し、イメレティに臨時統治機構を設けるよう命じる皇帝の秘密命令を受け取った。当時、ロシアとオスマン帝国の間には一時的な休戦が成立していたため、グドーヴィチは決定的な措置を控えた。
1808年、西ジョージアに駐屯していたロシア軍の司令官ルイコフ将軍が突然死去した。グドーヴィチは後任にディミトリ・オルベリアニ将軍を任命し、無用な流血を避けながらソロモン2世を王位から退けるよう命じた。クタイシに到着したオルベリアニは、その任務に着手した。オルベリアニはソロモン2世をクタイシに誘い出そうとしたが、ソロモン2世はクタイシへの来訪を拒否した。1809年、グドーヴィチに代わってアレクサンドル・トルマソフ(在任: 1809–1811年)が総督となり、オルベリアニにポティ要塞への攻撃を命じた。1809年5月14日、ロシア軍は再びポティ要塞を攻撃したが、失敗した。ロシア軍は長期の包囲戦に備えた。オスマン帝国から守備隊を救援するため、兵力9,000人の軍が進軍した。1809年11月2日、マミア5世・グリエリは、グリゴレティとマルタクヴァの間に野営していたオスマン軍を背後から攻撃し、全滅させた。同年11月15日、ポティ要塞の守備隊司令官クチュク=ベイ・シェルヴァシゼは抵抗をやめ、要塞の鍵をディミトリ・オルベリアニに引き渡した[4]。
ポティ要塞の陥落はソロモン2世に大きな失望をもたらした。1810年初頭、ソロモン2世はトルマソフとの交渉を試みた。一方、トルマソフは決定的な戦いに向けて準備を進めていた。それに先立ち、トルマソフはソロモン2世に大きく3つの条件を提示した。
- ソロモン2世は3日以内に、サンクトペテルブルクへ派遣する使節を差し出すこと。その使節には、コンスタンティネ、ソロモン2世の娘婿マルハズ・アンドロニカシヴィリ、ソロモン・リオニゼ、セフニア・ツルキゼ、カイホスロ・ツェレテリ、ロストム・ニジャラゼが含まれること。
- 直ちに居所をクタイシへ移すこと。
- 使節を通じて、ロシア皇帝がイメレティを永続的に臣下として受け入れたことに対する謝意を表す正式な請願書を提出すること。
トルマソフはソロモン2世に3日間の猶予を与えた。ソロモン2世はトルマソフの意図を理解していた。サンクトペテルブルクに送る使節にはソロモン2世の最も忠実な側近が含まれており、彼らが出発すればソロモン2世の立場は弱まり、クタイシへ移ればソロモン2世は捕らえられることになる。
ソロモン2世は交渉を引き延ばそうとした。ソロモン2世は使節団を派遣することには同意したが、派遣者の名簿は自ら作成すると述べた。また、謝意を伝える書簡も使節団に持たせ、使節団の帰国後にクタイシへ戻るとした。ソロモン2世との交渉を何度も重ねても成果が得られなかったため、総督トルマソフは、1810年2月20日までに軍部隊と、その同盟者である西ジョージアの諸公に準備を整えさせるよう命じた。目的は、武力によってソロモン2世を追放し、国土をロシアに併合することであった。2月20日、クタイシの諸聖堂で、ソロモン2世の統治権を廃止するというトルマソフの布告が公表された[98]。
これと同時に、ロシア軍部隊は各方面からイメレティ王国に攻め込んだ。ソロモン2世は4,000人の兵を率いてヴァルツィヘに立てこもっていた。ソロモン2世を捕らえるため、カルトリ、クタイシ、サメグレロ、グリア、レチフミから軍勢が同時に進軍した。1か月にわたる戦闘の後、ソロモン2世はヴァルツィヘを離れ、アハルツィヘへ向かうためにハニスツカリ渓谷に向かったが、その道も封鎖されていた。すべての退路を断たれたソロモン2世は、ロシア側が提示した条件に同意し、ロシア軍の指揮官たちとの交渉に応じた。3月15日、ソロモン2世は500人の兵とともに、カルトリとの境界でトルマソフと会うために進んだ。しかし、その途中でロシアへの移送が計画されていると知り、逃亡を試みたものの失敗した。ソロモン2世には、ロシアの「名誉ある捕虜」であると告げられた。1810年3月28日、ソロモン2世とトルマソフ将軍はヴァリアニ村で会談した。トルマソフ将軍は、ソロモン2世の処遇についてロシア皇帝アレクサンドル1世の返答を待っていると述べた。その後、ソロモン2世はトビリシへ移送され、厳重な監視下に置かれた。
ソロモン2世が捕らえられると、ロシア軍はイメレティの要塞を占領し、不測の事態を避けるため、そのうちのいくつかを破壊した。臨時政府が設置された。イメレティは、クタイシ、ヴァケ、バグダティ、サチヘレ、チヘリ、ラチャの6地区に分割された。住民は武力によってロシアへの忠誠を誓わされた[99]。

1810年5月10日、厳重な警備にもかかわらず、ソロモン2世はカイホスロ・ツェレテリが立案した計画に従って脱出し、アハルツィヘへ移った。5月13日、ソロモン2世はアハルツィヘ・パシャリクで叔父アレクサンドレと会い、アレクサンドレはソロモン2世の脱出をイメレティの住民に急報した。ソロモン2世はイメレティの住民に蜂起を呼びかけ、多くの人々が呼びかけに応じた。イメレティの町や要塞に駐屯していたロシア軍の守備隊は包囲された。イメレティの統治者に任命された将軍フョードル・シマノヴィチ(在任: 1810–1815年)は、クタイシから出ることができなかった。6月中旬、ソロモン2世は少数のレキ人部隊を伴ってイメレティに入り、トカチリのアギアシヴィリ家の邸宅に滞在した。反乱軍はソロモン2世の周囲に集まり始めた[100]。
反乱軍はカルトリとつながる道路をすべて封鎖し、シマノヴィチの守備隊はクタイシに閉じ込められた。トルマソフはシマノヴィチを救援するため、急いで1個大隊を送った。最初の本格的な戦闘は6月22日、サカラ村で起こった。カイホスロ・アバシゼの指揮下にあったジョージア軍はロシア軍を破り、ロシア軍司令官カラトゾフを殺害した。蜂起は次第に拡大し、ロムシアンティヘヴィが蜂起の中心となった。東ジョージアのロシア軍を西ジョージアへ移動させられなかったため、ロシア統治当局は蜂起を鎮圧できなかった[100]。
総督トルマソフは蜂起を鎮圧するため、ディミトリ・オルベリアニを派遣した。スラミに到着したオルベリアニは、軍を二つに分けた。一個大隊をアリ方面の街道に向かわせ、オルベリアニ自身はヴァハニ街道を通ってイメレティへ進み、ロムシアンティヘヴィに陣取った反乱軍を包囲しようとした。アリ街道を進んでいた分遣隊は反乱軍に進路を遮断され、全滅させられた。反乱軍はアリ渓谷を封鎖し、オルベリアニの部隊の進撃も阻止した。オルベリアニは軍の残存部隊を救援するため、アリ渓谷へ向かわざるを得なかった。アリ渓谷で戦闘が行われ、4日間の戦闘の後、スラミからロシア軍の援軍が到着し、ロシア軍は敗北を免れた[101]。
スラミに駐屯していたオルベリアニ将軍はトルマソフに増援を求めたが、トルマソフは拒否した。トルマソフはペルシアがいつ介入してもおかしくないと考えており、イメレティにそれほど多くの兵力を送ることは誤った軍事行動だと判断していた。オルベリアニ将軍が反乱軍に敗れると、トルマソフはオルベリアニを罷免した。トルマソフは代わりに、男爵の称号を持つイヴァン・ローゼン将軍を任命し、イメレティ蜂起を速やかに鎮圧するよう命じた。オルベリアニはローゼンの到着を待たず、攻撃によって反乱軍の包囲線を突破し、チヘリ付近で反乱軍と戦った。反乱軍は退却し、オルベリアニはチヘリ要塞を解放した。ローゼンの指揮下に入ったロシア軍は、チヘリ、ツフラツカロ、クヴィリラ川、シモネティでも反乱軍と大規模な戦闘を繰り広げた。7月29日、ローゼンはクタイシを包囲していた反乱軍を破り、シマノヴィチ将軍の部隊と合流した[102]。
その後、イメレティ王国軍はゲリラ戦術に切り替えた。ロシア軍はソロモン2世を捕らえるため、部隊を動員した。8月3日と10日の戦闘(それぞれリオニ川付近とナガレヴィ付近)で、ローゼン将軍は反乱軍の部隊を壊滅させることができなかった。8月26日、上サカラ付近で戦闘が行われた。ロシア軍はこの戦闘に勝利した。トビリシとクタイシの連絡路が再び開通した。9月初め、ソロモン2世はハニスツカリ渓谷へ逃れて、そこに立てこもった。アハルツィヘから兵力1,500人の援軍が到着したが、9月25日、ソロモン2世はシマノヴィチ将軍に敗れ、再びアハルツィヘへ逃れた。アハルツィヘに逃れたソロモン2世は、王位を失った後も形勢を逆転させようとした。ソロモン2世は再びフランス皇帝とオスマン帝国のスルタンに援助を求めた。しかし、ロシアがオスマン帝国とブカレスト条約(1812年)を、ペルシアとゴレスターン条約(1813年)を締結し、両国がジョージアをロシアの支配領域と認めると、ソロモン2世は希望を失った。ロシアへの併合に抵抗したソロモン2世は、1815年に亡命先で死去し、トレビゾンドに葬られた[103]。
西ジョージアにおける捕虜売買
オスマン帝国の侵攻や1555年のアマスィヤの講和などを背景に、西ジョージアでは対外貿易と国内商取引が衰退し、従来の交易路や交易関係が失われた。当時のジョージア社会では、人々を誘拐して外国の奴隷市場で売却する行為が問題となっていた。ここでいう「捕虜売買」は、戦闘で捕らえた敵兵の売買ではなく、ジョージア人が同じジョージア人を誘拐して売却する行為を指す。こうした取引は封建領主の収入源となり、世俗の人々だけでなく聖職者も関与していた[42]。
ジョージアのタヴァディやアズナウリも捕虜売買に積極的に関与し、こうした行為は広く見られるようになった。西ジョージアでは、17世紀以降、捕虜売買が特に深刻化した。フランス人旅行家ジャン=バティスト・タヴェルニエは、次のように記している。
戦争で捕虜を手に入れると、すぐにオスマン帝国へ売るために送り出される。この国では人の売買があまりにも普通のことになっているため、夫または妻が金を必要とすると、自分の子供のうち一人を売りに出す。あるいは、子供を行商人のもとへ送り、リボンや麻布の切れ端、その他同様の品物と交換することもある。[104]
1672年8月から12月まで西ジョージアに滞在した商人ジャン・シャルダンは、次のように伝えている。
捕虜売買によって、サメグレロの人口は、1640年代からわずか30年間で4万人から2万人に減少した……。……貴族の一人は、かつて数人の司祭を売り、そのうえ自分の妻も売った。これは、愛していた新たな花嫁を身請けする資金と結婚費用を得るためであった。[105]
イタリア人宣教師アルカンジェロ・ランベルティは、注目すべき事例を一つ記している。
オディシには、チラゼという姓の有力貴族がおり、捕虜を売ることを常としていた。ある年、トルコ船が来航した際、チラゼは自邸で必要な別の商品を購入するため、オスマン側に売る捕虜を12人必要としていた。これを知ったチラゼの農奴たちは、チラゼの手に落ちて自由を失うことを避けるため、逃亡した。しかし、チラゼは必要な人数を確保するための策略を用いた。チラゼは、ある祝日に荘厳な典礼を執り行うと発表し、自邸の付属聖堂の一つに司祭たちを招いた。司祭たちには、典礼を執り行えば多額の褒賞を与え、豪華な宴会を催すと約束した。この偽りの約束に司祭たちはだまされ、指定された日には12人の司祭が集まった。司祭たちは荘厳に典礼を執り行い、チラゼも深い敬虔さをもってこれに列席した。典礼が終わり、司祭たちが約束どおり褒賞を受け、宴会に招かれると期待していたところ、チラゼは聖堂の扉を閉め、鎖を持ってこさせて12人全員を鎖につないだ。さらに、司祭たちの髪と長いひげを剃らせ、司祭たちをそのままトルコ船に送り、売却した。[106]
領主やタヴァディが暴力によって人々を捕らえる一方、密かに人々を誘拐して売却する方法も行われていた。
人や子供を盗み、ひそかにトルコへ売る盗賊もいる。[106]
この種の捕虜売買を主に行っていたのは、社会の下層に属する人々であった。
16世紀にはすでに、捕虜売買、強盗、教会財産の略奪が著しく増加し、教会会議を開く必要が生じていた。イメレティ王バグラト3世は教会会議を召集し、深刻な社会問題を審議した[107]。会議には、アブハジアのカトリコスであるエウデモン、カルトリのカトリコスであるマラキア、および西ジョージアの10人の主教が出席した。出席した10人の主教は、クタイシ、ゲラティ、チコンディディ、ベディア、モクヴィ、ドランダ、ツァゲリ、ホニ、ニコルツミンダ、ツァイシの各主教座に属していた。会議は、国内で広く行われていた「捕虜売買」、窃盗・強盗、殺人、教会財産の略奪、その他の悪行に対する取り締まりを強化する決議を採択した。会議は捕虜売買を特に重視し、これを行った者に厳罰を科すことを定めた。捕虜を売却した者には死刑を科すこととされた。会議は、23条からなる「カトリコス法」を制定した[24]。
しかし、タヴァディの権勢が強い状況では、この決定を実施することは極めて困難であった。バグラト3世の治世中、決議は一定の効果を上げたものの、死後には状況が再び悪化した。捕虜売買を行う者たちがオスマン帝国の後ろ盾を得たためである。オスマン帝国は、西ジョージアへの影響力をさらに強めていった[17]。
捕虜売買がどれほど広く行われていたかは、オスマン帝国の旅行家・外交官エヴリヤ・チェレビの記述からも分かる。
18世紀前半に人身売買は最盛期を迎え、王からコサックとなった農民に至るまで、あらゆる社会階層がこれに関与していた。人身売買への関与者には、アレクサンドレ4世、マミア3世・グリエリ、ギオルギ・アバシゼ、チョコンディディのガブリエル、クタイシのスヴィモン、ハラガウリのアズナウリであるキクナゼ家、農民のブルジャナゼ家などがいた[4]。
ソロモン1世が1752年に王位に就いた当時、上述のような弊害は常態化していた。厳しい対策が必要であった。対策を講じなければ、住民の中でも優れた人々が国外へ流出するおそれがあった。1759年12月4日、ソロモン1世は教会会議を召集し、翌日、捕虜売買を禁止する決議が採択された。世俗の人々と聖職者は、今後捕虜を売らないと誓約した。法に違反した者に対しては、教会が破門を、王が死刑を科すと警告した。捕虜売買は減少したものの、根絶には至らなかった。イスラム諸国に売られた捕虜の大半は奴隷となるか、オスマン帝国のイェニチェリ軍、エジプトのマムルーク軍、ペルシアのゴラーム兵(奴隷兵)として従軍した。一方、女性たちはハーンやパシャなどのハレムに入れられた。18世紀から19世紀にかけて、捕虜売買は新たな段階を迎え、レキ人による襲撃が始まった。ロシア当局もレキ人の襲撃を止めることができなかった。また、黒海沿岸の要塞でも捕虜取引が盛んに行われていた。これらの要塞は依然としてオスマン帝国の支配下にあったためである[4]。
イメレティ王国では、こうした状況が特に深刻であった。度重なる災厄に続いてペストが流行し、1811年だけで3万2,000人以上が死亡した。ソロモン・リオニゼも同年に、アハルツィヘ滞在中にペストで死亡した。ペストの後には飢饉も発生した。飢饉は深刻で、親がパン一切れと引き換えに自分の子供を奴隷として売らざるを得ないほどであった。このような状況の中、イメレティ王国ではレキ人の襲撃も起きた。レキ人は、カルス、アハルツィヘ、トラブゾンのパシャたちから保護されていた。1830年代以降、アブハジアの公たちは捕虜売買を後援し、扇動するようになった。ロシアに仕えていたジョージア人のタヴァディたちも捕虜売買を行った。他地域と比べ、グリアでは捕虜売買がより広く行われていた。これは、グリアがオスマン帝国と直接国境を接していたためである。グリアにおける捕虜売買は、1850年代以降、衰退した[4]。
国家体制
18世紀末から19世紀初頭にかけて、イメレティ王国の人口は約12万人であった。イメレティ王国にも、ジョージアの他地域と同様、封建的な領主・農奴関係が存在した。イメレティ王国には、多くのサタヴァド(タヴァディの所領)が存在した。その例として、ムヘイゼ家、チヘイゼ家、ミケラゼ家、ラチャのエリスタヴィ家、イアシヴィリ家、チジャヴァゼ家、ロルトキパニゼ家、アバシゼ家、アギアシヴィリ家、ツェレテリ家、ツルキゼ家、レチフミのサタヴァドなどが挙げられる。これらの所領は、租税・行政上の免除特権を獲得し、一部では司法上の免除特権も有していた。各所領は、領域的にも政治的にも分立した封建単位を形成していた。
18世紀半ば、イメレティ王国には約100人のタヴァディがいた。タヴァディは、王または王族の封臣であった。しかし、タヴァディの中でも有力な者たちは、主権の獲得を目指し、イメレティ王と絶えず争っていた。イメレティ王国の最高統治者は王であった。王は、バグラティオニ朝の西方系統、すなわちダヴィト・ナリンに連なる家系に属していた。王の権力は形式上、制限されていなかったが、実際の権力行使は大貴族の意向に大きく左右されていた。イメレティ王国の宮廷には、「ダルバジ」と呼ばれる国家評議会が設けられていた。ダルバジには、世俗・聖職両界の有力な封建領主が参加し、大きな権限を有していた。イメレティ王国の統治機構は、カルトリ王国とカヘティ王国の制度にならって整備されていた。
イメレティ王(1463年–1810年)
| 在位期間 | 王名[108][106][109][110][111] | 備考 |
|---|---|---|
| 1463年–1478年 | バグラト2世 | イメレティ王: 1463年–1466年、カルトリ=イメレティ王: 1466年–1478年 |
| 1479年–1484年 | コンスタンティネ2世 | |
| 1484年–1510年 | アレクサンドレ2世 | |
| 1510年–1565年 | バグラト3世 | |
| 1565年–1583年 | ギオルギ2世 | |
| 1583年–1590年 | レヴァン | |
| 1590年–1604年 | ロストム | |
| 1604年–1639年 | ギオルギ3世 | |
| 1639年–1660年 | アレクサンドレ3世 | |
| 1660年–1661年 | バグラト4世 | |
| 1660年 | ヴァフタング・バグラティオニ | チュチュナシヴィリ、簒奪者 |
| 1660年 | ヴァメク3世・ダディアニ | 簒奪者 |
| 1661年–1663年 | アルチル2世 | |
| 1663年 | デメトレ・グリエリ | |
| 1663年–1668年 | バグラト4世 | 再即位 |
| 1668年–1669年 | デメトレ・グリエリ | |
| 1669年–1678年 | バグラト4世 | 再即位 |
| 1678年–1679年 | アルチル2世 | 再即位 |
| 1679年–1681年 | バグラト4世 | 再即位 |
| 1681年–1683年 | ギオルギ3世・グリエリ | 簒奪者 |
| 1683年–1690年 | アレクサンドレ4世 | |
| 1690年–1691年 | アルチル2世 | 再即位 |
| 1691年–1695年 | アレクサンドレ4世 | 再即位 |
| 1695年–1696年 | アルチル2世 | 再即位 |
| 1696年–1698年 | ギオルギ5世 | ゴチア |
| 1698年 | アルチル2世 | 再即位 |
| 1698年–1701年 | シモン | |
| 1701年–1702年 | マミア3世・グリエリ | 簒奪者 |
| 1702年–1707年 | ギオルギ・アバシゼ | イメレティの事実上の統治者、簒奪者 |
| 1703年–1711年 | ギオルギ6世 | |
| 1711年–1712年 | マミア3世・グリエリ | 簒奪者 |
| 1712年–1713年 | ギオルギ6世 | 再即位 |
| 1713年–1714年 | マミア3世・グリエリ | |
| 1714年–1716年 | ギオルギ6世 | 再即位 |
| 1716年 | ギオルギ4世・グリエリ | 簒奪者 |
| 1719年–1720年 | ギオルギ6世 | 再即位 |
| 1720年–1741年 | アレクサンドレ5世 | |
| 1741年 | ギオルギ7世 | |
| 1741年–1746年 | アレクサンドレ5世 | 再即位 |
| 1746年–1749年 | マムカ | |
| 1749年–1752年 | アレクサンドレ5世 | 再即位 |
| 1752年–1766年 | ソロモン1世 | |
| 1766年–1768年 | テイムラズ | |
| 1768年–1784年 | ソロモン1世 | 再即位 |
| 1784年–1789年 | ダヴィト2世 | |
| 1789年–1810年 | ソロモン2世 |
脚注
注釈
- ↑ リフト=イメリ(ジョージア語: ლიხთ-იმერი)は、「リヒ山脈のあちら側」を意味する。リヒ山脈の西側、主にイメレティを指す。
- ↑ リフト=アメリ(ジョージア語: ლიხთ-ამერი)は、「リヒ山脈のこちら側」を意味する。リヒ山脈の東側、主にカルトリを指す。
- ↑ 原文では იმერთ-ოდიშართ დედოფლად と記載されている[41]。
- ↑ トゥグ(ブンチューク)は、馬などの尾を付けた権力の標章である。オスマン帝国では、その本数によってパシャの地位が示された。
- ↑ ヴァフシティ・バグラティオニによれば1733年[3]とされる。
- ↑ 「サジャラド」(ジョージア語: საძალადო)は、ここでソロモン1世が廃止の対象とした税・負担を指す。ミヘイル・レフヴィアシヴィリは、イメレティの国家税として「サウリ」(ジョージア語: საური)と「サウディエロ」(ジョージア語: საუდიერო)を挙げた上で、「サジャラド」税の廃止が必要であったと述べている[52]。
- ↑ 「キョル=ベイ」は、ジョージア語では ქიორ-ბეი と表記される。ラチャ公ロストムの息子ギオルギは、1769年にソロモン1世によって片目を失わされ、投獄された後に脱獄し、「キョル=ベイ」と改名してイスタンブールへ逃れ、オスマン帝国のスルタンに仕えた[15]。この呼称は、トルコ語の kör bey、すなわち「盲目のベイ」に由来すると考えられる。kör は「盲目の」を意味し[65]、bey はオスマン帝国などで用いられた称号「ベイ」である[66]。
出典
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