ボビー・クラーク
| ボビー・クラーク OC | |
|---|---|
|
2012年 | |
| 本名 | ロバート・アール・クラーク |
| 原語名 | Robert Earle Clarke |
| 生誕 |
1949年8月13日(77歳) フリンフロン |
| 身長 | 5 ft 10 in (1.78 m) |
| 体重 | 176 lb (80 kg; 12 st 8 lb) |
| ポジション | センター |
| ショット | 左打ち |
| 所属したチーム | フィラデルフィア・フライヤーズ |
| 代表 |
|
| NHLドラフト |
全体17位(1969年) フィラデルフィア・フライヤーズ |
| プロ選手期間 | 1969年 – 1984年 |
| 1987年殿堂入り | |
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 男子アイスホッケー | ||
| カナダカップ | ||
| 優勝 | 1976 カナダ | |
| 世界選手権 | ||
| 銅 | 1982 フィンランド | |

ボビー・クラーク(英語: Bobby Clarke OC, 1949年8月13日 - )は、カナダ連邦マニトバ州フリンフロン生まれの元プロアイスホッケー選手である。ポジションはセンター。
NHLではフィラデルフィア・フライヤーズに所属し、キャプテンを長く務めた。引退後も同チームのマネージメントを行う(マネージメントに参画してからはボブ・クラークと表記されることが多い)。ホッケーの殿堂入りを果すとともに、カナダ最高の勲章オーダー・オブ・カナダを受勲している。
経歴
クラークの故郷 Flin Flon は鉱業が主体の小さな村である。クラークは、毎日何時間か鉱山で作業を行いながら、8歳のときから加入していた地元ジュニアのホッケーチーム (フリンフロン・ボンバーズ, ジュニア・ウエスタン・ホッケーリーグ) でプレーし、荒々しいカナダ西部のジュニアリーグで、1967-1968シーズンには51ゴール、117アシスト、168ポイント、翌シーズンは137ポイントをあげて2年連続ポイント王となり、その得点力とリーダーとしての資質は、NHLのスカウトたちに高く評価された。
しかし、プロ入りには一つの大きな壁があった。それは、15歳の時糖尿病と診断され、毎日インスリンの注射を打って自己管理を行わなければ生命を維持できない体であったことである。
前述の理由から1969年のNHLドラフトで敬遠され続けた結果、2巡目(全体17位)でフィラデルフィア・フライヤーズから指名を受け、入団。プロからの指名がご破算となるのを懸念したクラークのコーチが北米でも指折りの医療機関といわれるミネソタ州のメイヨークリニックの医師に頼み込んで、クラークの持病がプレーするのに差し支えない旨の診断書を作成してもらったといわれる。ドラフト指名後、モントリオール・カナディアンズ、デトロイト・レッドウイングスの2チームから持病を抱えたクラークに対し、相次いでトレードのオファーがあったといわれており、クラークに対する評価の高さが窺われる。実際、プロ入り後にマイナーリーグ時代を一度も経験することはなかった。
フライヤーズ入団直後には、軽い朝食しか取らないでキャンプに臨んだために、昏倒してしまうといったこともあった。しかし、食事療法により病と付き合いながら徐々に成績を向上させ、1972年にはシーズン81ポイントを記録し、その忍耐強さ、克己心によってビル・マスタートン記念賞を受賞した。
1972年のサミットシリーズでカナダ代表に選出され、全8試合で2ゴール4アシストを記録した。ソビエト連邦代表と対決した際、この当時のカナダ代表はソビエト連邦の実力を見くびっていたともいわれ大苦戦するが、センターのクラークと彼が統率するトロント・メープルリーフスの両ウイング、ポール・ヘンダーソン、ロン・エリスの活躍もあってカナダはこのシリーズを4勝3敗1分けと辛勝した。なおクラークは、ソビエト連邦代表のスター選手であったワレリー・ハルラモフに対しスラッシュで足首を骨折させているが、当時のいわゆる冷戦状況の下において、カナダではこれを批判する声が少なく、むしろ追い詰められたチームのために汚れ役となったクラークの国民的人気に寄与したとされている。
フライヤーズでは、1973年に23歳で当時最年少のチームキャプテンに就任して1979年までと、1982年から1984年までその職を務め、1973年にはハート記念賞とレスター・B・ピアソン賞を、エクスパンション・シックスの選手として初めて受賞し、名実ともにリーグ最高選手の1人となった。1975年と1976年には、ハート記念賞に加えてファーストNHLオールスターチームにも選出され、1975-76シーズンはキャリアハイとなる119ポイントと、リーグ最高のプラス83を記録した。
1974年と1975年には、フライヤーズをスタンレー・カップ連続優勝の快挙に導き、1974年のスタンレーカップファイナル第2戦では、フランチャイズ史上最も重要なゴールと称されるリバウンドの延長ゴールを決め、1975年にはプレーオフ最多となる12アシストを記録した。
もっともクラークの率いた当時のフライヤーズは、厳しい当たりやラフファイトは頻繁で、他チームからはブロードストリート・ブリーズ (ならずもの、暴漢) とも揶揄された。クラーク自身も、単なる点取り屋にはとどまらず、時にラフプレーや乱闘に加わることもあったと伝えられ、やられたらやり返すタフな一面も持っていた。前述のサミットシリーズに加えて、1975年のスーパーシリーズでの荒いプレーもあって、クラークは特に海外で嫌われることとなった。
現役選手ながら1979年から1982年まではアシスタント・コーチも兼任し、かつてNHLのスカウトが見抜いたとおり、現役生活のほとんどにわたって、強烈なリーダーシップと献身ぶりを発揮した。1979-80シーズンにチームが35試合連続無敗記録を打ち立てた際、クラークはそのうち26試合で少なくとも1ポイントを記録し、1981年3月19日に本拠地スペクトラムで行われたボストン・ブルーインズ戦で通算1,000ポイント目を達成し、そして1983年には、リーグ最高の守備フォワードに贈られるフランク・J・セルケ賞を受賞した。
1969年から1984年までNHL通算で15シーズンをプレイしたが、そのキャリアすべてをフライヤーズ一本やりで通した。生涯358ゴール852アシスト、歴代5位となるプラス507の記録を残した。[1]
NHL引退後
引退後もフライヤーズとのかかわりをもち、チームの会長兼ゼネラルマネージャー (GM) を務める。1987年と1991年のカナダカップと1998年長野オリンピックのカナダ代表のGMも務めた。[2]
組織運営にも手腕を発揮し、2004-2005シーズンには、フライヤーズ傘下の2つのファームチーム、トレントン・タイタンズとフィラデルフィア・ファントムズのそれぞれが、所属のリーグで優勝を収めた。
選手としての特徴
後年、試合に臨んで食べたものは語り草になっており、まず、ゲーム前には炭酸飲料にスプーン3杯の砂糖を加えたものを摂り、試合のピリオド間の休憩や試合後、オレンジジュースに加糖したものを補給した。またチョコレート・バーやブドウ糖が添加されたガムを常にバッグに入れていたとも伝えられるが、これらはすべて60分間の試合において、激しい運動により血糖値が低下することを防ぐためであった。
アイスホッケーはいうまでもなく、身体の接触を伴うスポーツであり時に流血を伴い、一般的に糖尿病患者は感染症に弱いといわれるが、クラークのプレイスタイルは、ときにラフといわれるほど執拗なチェックを行うものであった。過酷なNHLで長く、しかも濃密といえる現役生活を送ることができた陰には、前述の食事に対する工夫などの努力があった。
卓越したプレーメーカーであり、疲れを知らないチェッカーであり、フェイスオフの名手であり、重要なペナルティをキルし、試合終了間際にリードを守り抜く勤勉で完成度の高い選手だった一方で、凶暴なスティックワークを持ち、卑怯な攻撃者、手に負えない扇動者にもなり得たクラークに対する評価は、「才能に恵まれた史上最高のチームリーダー」とするものと、「指折りのダーティな選手」とするものとが混在しているが、類いまれな知性とリーダーシップを氷上に持ち込み、フライヤーズのチームアイデンティティと自信を確立し、病を抱えながらも毎試合を攻守に全力でプレーして、チームを連覇に導いた稀有な能力と影響力に対して、多くの関係者はクラークを特別な存在に押し上げている。
詳細情報
通算記録
| レギュラーシーズン | プレイオフ | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| シーズン | チーム | リーグ | GP | G | A | Pts | PIM | GP | G | A | Pts | PIM | ||
| 1969–1970 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 76 | 15 | 31 | 46 | 68 | - | - | - | - | - | ||
| 1970–1971 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 77 | 27 | 36 | 63 | 78 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | ||
| 1971–1972 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 78 | 35 | 46 | 81 | 87 | - | - | - | - | - | ||
| 1972–1973 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 78 | 37 | 67 | 104 | 80 | 11 | 2 | 6 | 8 | 6 | ||
| 1973–1974 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 77 | 35 | 52 | 87 | 113 | 17 | 5 | 11 | 16 | 42 | ||
| 1974–1975 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 80 | 27 | 89 | 116 | 125 | 17 | 4 | 12 | 16 | 16 | ||
| 1975–1976 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 76 | 30 | 89 | 119 | 136 | 16 | 2 | 14 | 16 | 28 | ||
| 1976–1977 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 80 | 27 | 63 | 90 | 71 | 10 | 5 | 5 | 10 | 8 | ||
| 1977–1978 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 71 | 21 | 68 | 89 | 83 | 12 | 4 | 7 | 11 | 8 | ||
| 1978–1979 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 80 | 16 | 57 | 73 | 68 | 8 | 2 | 4 | 6 | 8 | ||
| 1979–1980 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 76 | 12 | 57 | 69 | 65 | 19 | 8 | 12 | 20 | 16 | ||
| 1980–1981 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 80 | 19 | 46 | 65 | 140 | 12 | 3 | 3 | 6 | 6 | ||
| 1981–1982 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 62 | 17 | 46 | 63 | 154 | 4 | 4 | 2 | 6 | 4 | ||
| 1982–1983 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 80 | 23 | 62 | 85 | 115 | 3 | 1 | 0 | 1 | 2 | ||
| 1983–1984 | フィラデルフィア・フライヤーズ | NHL | 73 | 17 | 43 | 60 | 70 | 3 | 2 | 1 | 3 | 6 | ||
| NHL 合計 | 1144 | 358 | 852 | 1210 | 1453 | 136 | 42 | 77 | 119 | 152 | ||||
表彰
- WCJHL ファーストオールスターチーム:2回 (1968, 1969年)
- WCJHL 年間選手賞:1969年
- ビル・マスタートン記念賞 (1972年)
- ハート記念賞:3回(1973年、1975年、1976年)
- レスター・B・ピアソン賞:1973年
- NHLオールスターチーム
- 1stチーム:2回(1975年、1976年)
- 2ndチーム:2回(1973年、1974年)
- スタンレーカップ優勝:2回(1974, 1975年)
- ルー・マーシュ賞:1975年
- レスター・パトリック賞:1980年
- オーダー・オブ・カナダ受勲:1981年
- フランク・J・セルケ賞:1983年
- フィラデルフィア・フライヤーズ ♯16 永久欠番(1984年11月15日)
- ホッケーの殿堂:1987年
- マニトバスポーツ殿堂:1987年
- 最高のNHLプレーヤー100人選出:2017年
記録
脚注
- ↑ 「NHL All-Time Plus-Minus Leaders」QuantHockey 2026年10月13日閲覧
- ↑ 「Bobby Clarke」 Elite Prospects 2026年8月3日閲覧
外部リンク
- ボビー・クラーク - Legends of Hockey
- ボビー・クラーク - The Internet Hockey Database
- Stu Hackel (2017年1月2日). “Bobby Clarke: 100 Greatest NHL Players” (英語). NHL公式サイト. NHL.com. 2026年10月13日閲覧。
- Joe Pelletier. “Bobby Clarke” (英語). GreatestHockeyLegends.com. 2026年10月13日閲覧。