ボビー・ハル
| ボビー・ハル OC | |
|---|---|
|
シカゴ・ブラックホークスでの現役時代 | |
| 本名 | ロバート・マーヴィン・ハル |
| 原語名 | Robert Marvin Hull |
| 愛称 | ゴールデン・ジェット |
| 生誕 |
1939年1月3日 ポワーント・アン |
| 死没 |
2023年1月30日(84歳没) イリノイ州ウィートン |
| 身長 | 5 ft 10 in (1.78 m) |
| 体重 | 191 lb (87 kg; 13 st 9 lb) |
| ポジション | 左ウィング |
| ショット | 左打ち |
| 所属したチーム |
シカゴ・ブラックホークス ウィニペグ・ジェッツ ハートフォード・ホエーラーズ |
| 代表 |
|
| プロ選手期間 | 1957年 – 1980年 |
| 1983年殿堂入り | |
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 男子アイスホッケー | ||
| カナダカップ | ||
| 金 | 1976 カナダ | |
ボビー・ハル(英語: Bobby Hull OC, 1939年1月3日 - 2023年1月30日[1])は、カナダ連邦オンタリオ州ポワーント・アン(Pointe Anne 、ベルヴィル近郊)生れの元プロアイスホッケー選手。ポジションは左ウィング。愛称は"ゴールデン・ジェット"("The Golden Jet")。カナダ勲章受勲者。
経歴
11人の兄弟姉妹の5番目として育ったボビー・ハルは、マイナーホッケー時代はベルヴィル、ジュニアではOHLのセントキャサリンズ・T.P.sでプレーし、当初はセンターを務めていたが、類まれなゴールスコアラーとしての素質を見出され、後に左ウィングに移動した。
NHL時代
マイナーリーグでの出場を経ずに、ハルは1957年にシカゴ・ブラックホークスに昇格した。シカゴでの3シーズン目となる1959-1960年、ハルはNHLの最多ポイント選手に贈られるアート・ロス記念賞を初めて受賞し、翌1960-1961シーズンには、ブラックホークスをスタンレー・カップ優勝(チーム3度目、約30年ぶり)に導いた。元々背番号は16番であったが、このカップ優勝後に7番に変わり、さらに後には、ホッケーにおいて栄誉あるとされる9番に変更された。
さらに1961-1962シーズンに再びアート・ロス記念賞を受賞し、モントリオール・カナディアンズのモーリス・リシャール(1945年)とバーニー・ジョフリオン(1961年)に続き3人目となる50ゴールを記録した。1964-1965シーズンには、最優秀選手に贈られるハート記念賞と、スポーツマンシップを称えるレディ・ビング記念賞を受賞し、チームメイトのスタン・ミキタがアート・ロス記念賞を獲得した。
1966年3月12日のニューヨーク・レンジャース戦で、シーズン51ゴール目を叩き込んだハルは、最終的に1965-1966シーズンでリーグ史上最多となる54ゴールを記録し、自身3度目となるアート・ロス記念賞と、2度目のハート記念賞を受賞した。
966-67年シーズンに52ゴール、1968-69年シーズンに58ゴール、そしてシカゴでの最終シーズンとなった1971-72年シーズンには50ゴールを記録した。ハルはNHLで最多ゴールを4年連続を含む7回記録し、モーリス・"ロケット"・リシャール賞が創設される以前は最多記録であった。またファーストNHLオールスターチームに10回選出され、NHLオールスターゲームには12回出場している。
WHA 時代
ボビー・ハルは、1972年に10年間で100万ドルと当時では破格の契約で新興のWHAのウィニペグ・ジェッツ(後のフェニックス・コヨーテズ)に選手兼コーチとして入団した、ハルの移籍は同僚選手たちのために高い年俸を獲得し、安定したNHL に対しライバルリーグとしてのWHA に威信をもたらす効果があったとされる。ジェッツでは、スウェーデンのスター、アンダース・ヘドバーグやウルフ・ニルソンと長年にわたり共演した。
その後1979年にWHA はリーグ崩壊してしまう(ウィニペグ・ジェッツを含む所属4チームはNHL に参加)が、2003年にこのリーグが再生されたとき、そのコミッショナーとして指名される。1980年2月27日、将来の対価との交換でウィニペグからハートフォード・ホエーラーズへトレードされ、9試合に出場した後、プロ選手としての現役生活を終えた。
こうして、NHLのライバルリーグに参加したために、1972年のサミットシリーズでカナダ代表に参加することを認められなかった。1974年にソビエト連邦代表との間で行われた対抗戦、1974年サミット・シリーズでWHAのカナダ代表に選出された。しかし、このシリーズではWHAは5連戦のシリーズで3敗と敗北した。1976年のカナダカップにもカナダ代表の主力として参戦し、このトーナメントの優勝に貢献した。
引退後
1983年にホッケーの殿堂入りを果たし、同年12月18日にはハルの背番号9が、シカゴ・ブラックホークスの永久欠番に認定された。
2007年にシカゴ・ブラックホークスの公式アンバサダーに任命され、正式な形で組織に復帰した。
2011年10月22日、ユナイテッド・センターの屋外でハルとミキタの像が除幕された。[2]
2017年に最高のNHL選手100人の1人として、息子のブレット・ハルとともに唯一の親子選手として選出された。
2023年1月30日に84歳で亡くなった。[3]その時点で、ステージ2のCTE(慢性外傷性脳症)であることが明らかになった。ハルは晩年の10年間、短期記憶障害と判断力の低下に苦しんだと言われる。[4]
選手としての特徴

ハルの持ち味は、そのスピードと時速120マイルにも及ぶスラップショットの正確性であった。身長こそ5フィート10インチ(約178センチメートル)に満たなかったが、体の作りは頑健そのもので、現役時代の体重は185ポンド(約84キログラム)、上腕二頭筋の太さは16インチ(40センチ強)もあったといわれ、アイスホッケー史上でも、抜群の当たり強さ、速さ、技術の巧みさを持っていたと伝えられる。ウェイトトレーニングは一度もしたことがなく、幼少期から大自然の中で育ち、干し草を積み上げたり、木を切り倒したりしながら力を付けた。
半ば伝説になっているが、118マイル毎時、時速190キロのスラップショットを放ったとされている。このショットを放った時スピードガンで計測が行われていなかったため真偽のほどは定かではないが、もし本当であれば史上最速のショットスピードである。いかに強烈なパワーを持ち合わせていたのかを示すエピソードの一つとしてアイスホッケーファンの間では語り継がれている[5]。
当時ハルはNHLで最も速いスケーター (パックを持って28.3マイル、パックなしで29.7マイル) でもあり、映画スターのような容姿とカリスマ性を持ち、ウェイン・グレツキー以前にアメリカ合衆国でアイスホッケーを普及させる大きな貢献をした。ハルの長年のチームメイトであるスタン・ミキタは、かつて「ボビーが素晴らしい選手なのは言うまでもないが、私が彼を尊敬していたのは人に対する彼の態度でした。彼はいつもファンのために惜しまずサインをするのが好きで、本当に親切な人だった。」と語っている。高いお金を払ってホッケーの試合を見に来てくれるファンには、最高に楽しむ権利があるという、ショービジネス的な考えをキャリアを通して持ち続けた。
1998年にロシアのメディアによって、ナチズムに賛成する発言を行ったのではないかとする論争に巻き込まれた。後に同発言は、通訳のミスによるインタビュアーの誤解であると述べている。
家族
息子のブレット・ハルもNHLの元名選手である。また、弟のデニス・ハルもボビーとともにシカゴ・ブラックホークスに所属した。
詳細情報
通算成績
| レギュラーシーズン | プレイオフ | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| シーズン | チーム | リーグ | GP | G | A | Pts | PIM | GP | G | A | Pts | PIM | ||
| 1957-1958 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 70 | 13 | 34 | 47 | 62 | - | - | - | - | - | ||
| 1958-1959 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 70 | 18 | 32 | 50 | 50 | 6 | 1 | 1 | 2 | 2 | ||
| 1959-1960 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 70 | 39 | 42 | 81 | 68 | 3 | 1 | 0 | 1 | 2 | ||
| 1960-1961 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 67 | 31 | 25 | 56 | 43 | 12 | 4 | 10 | 14 | 4 | ||
| 1961-1962 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 70 | 50 | 34 | 84 | 35 | 12 | 8 | 6 | 14 | 12 | ||
| 1962-1963 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 65 | 31 | 31 | 62 | 27 | 5 | 8 | 2 | 10 | 4 | ||
| 1963-1964 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 70 | 43 | 44 | 87 | 50 | 7 | 2 | 5 | 7 | 2 | ||
| 1964-1965 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 61 | 39 | 32 | 71 | 32 | 14 | 10 | 7 | 17 | 27 | ||
| 1965-1966 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 65 | 54 | 43 | 97 | 70 | 6 | 2 | 2 | 4 | 10 | ||
| 1966-1967 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 66 | 52 | 28 | 80 | 52 | 6 | 4 | 2 | 6 | 0 | ||
| 1967-1968 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 71 | 44 | 31 | 75 | 39 | 11 | 4 | 6 | 10 | 15 | ||
| 1968-1969 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 74 | 58 | 49 | 107 | 48 | - | - | - | - | - | ||
| 1969-1970 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 61 | 38 | 29 | 67 | 8 | 8 | 3 | 8 | 11 | 2 | ||
| 1970-1971 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 78 | 44 | 52 | 96 | 32 | 18 | 11 | 14 | 25 | 16 | ||
| 1971-1972 | シカゴ・ブラックホークス | NHL | 78 | 50 | 43 | 93 | 24 | 8 | 4 | 4 | 8 | 6 | ||
| 1972-1973 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 63 | 51 | 52 | 103 | 37 | 14 | 9 | 16 | 25 | 16 | ||
| 1973-1974 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 75 | 53 | 42 | 95 | 38 | 4 | 1 | 1 | 2 | 4 | ||
| 1974-1975 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 78 | 77 | 65 | 142 | 41 | - | - | - | - | - | ||
| 1975-1976 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 80 | 53 | 70 | 123 | 30 | 13 | 12 | 8 | 20 | 4 | ||
| 1976-1977 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 34 | 21 | 32 | 53 | 14 | 20 | 13 | 9 | 22 | 2 | ||
| 1977-1978 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 77 | 46 | 71 | 117 | 23 | 9 | 8 | 3 | 11 | 12 | ||
| 1978-1979 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 4 | 2 | 3 | 5 | 0 | - | - | - | - | - | ||
| 1979-1980 | ウィニペグ・ジェッツ | WHA | 18 | 4 | 6 | 10 | 0 | - | - | - | - | - | ||
| 1979-1980 | ハートフォード・ホエーラーズ | NHL | 9 | 2 | 5 | 7 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
| WHA合計 | 411 | 303 | 335 | 638 | 183 | 60 | 43 | 37 | 80 | 38 | ||||
| NHL合計 | 1063 | 610 | 560 | 1170 | 640 | 119 | 62 | 67 | 129 | 102 | ||||
国際大会
| 年度 | チーム | 大会 | GP | G | A | Pts | PIM | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1974 | カナダ | サミットシリーズ | 8 | 7 | 2 | 9 | 0 | |
| 1976 | カナダ | カナダカップ | 7 | 5 | 3 | 8 | 2 | |
| シニア 合計 | 15 | 12 | 5 | 17 | 2 | |||
ヘッドコーチ歴
| チーム | 年度 | レギュラーシーズン | ポストシーズン | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 勝 | 敗 | 引分 | ポイント | 順位 | 勝 | 敗 | 勝率 | 結果 | ||
| WPG | 1972–73 | 78 | 43 | 31 | 4 | 90 | ウェスタン2位 | 9 | 5 | .643 | アブコカップ決勝敗退 (NEW) |
| WPG | 1973–74 | 78 | 34 | 39 | 5 | 73 | ウェスタン4位 | 0 | 4 | .000 | 準々決勝敗退 (HSA) |
| WPG | 1974–75 | 13 | 4 | 9 | 0 | 8 | 解任 | — | — | — | — |
| WHA 合計 | 169 | 81 | 79 | 9 | 9 | 9 | .500 | プレーオフ進出 2回 | |||
表彰
- アート・ロス記念賞(ポイント王)- 1960年、1962年、1966年
- NHLオールスターチーム
- 1stチーム:10回(1960年、1962年、1964年、1965年、1966年、1967年、1968年、1969年、1970年、1972年)
- 2ndチーム:2回(1963年、1971年)
- スタンレーカップ優勝 - 1961年
- NHLオールスターゲーム出場 - 1960, 1961, 1962, 1963, 1964, 1965, 1967, 1968, 1969, 1970, 1971, 1972年
- NHLオールスターゲームMVP - 1970, 1971年
- ハート記念賞(リーグMVP)- 1965年、1966年
- レディ・ビング記念賞 - 1965年
- レスター・パトリック賞 - 1969年
- WHAオールスターチーム
- 1stチーム:3回(1973年、1974年、1975年)
- 2ndチーム:2回(1976年、1978年)
- WHA 最優秀選手 - 1973年、1975年
- オーダー・オブ・カナダ受勲 - 1978年
- ホッケーの殿堂入り - 1983年
- シカゴ・ブラックホークス ♯9 永久欠番 - 1983年12月18日
- カナダのスポーツ殿堂:1988年
- マニトバスポーツ殿堂:1989年
- ウェイン・グレツキー国際賞:2003年
- 最高のNHLプレーヤー100人選出:2017年
脚注
- ↑ “Former Blackhawks great Bobby Hull dies at 84”. Dairy Herald (英語). 2023年1月30日. 2023年1月31日閲覧.
- ↑ 「25 IN 25: Monuments to Excellence」Blackhawks.com 2026年10月15日閲覧
- ↑ 「Bobby Hull dies at 84, legendary Blackhawks goal-scorer, Cup champion」NHL.com 2026年10月15日閲覧
- ↑ 「NHL great Bobby Hull had degenerative brain disease CTE when he died 2 years ago」AP通信 February 19, 2025 2026年10月15日閲覧
- ↑ 現代ではカーボン製スティックが主流であり、リンクに叩きつけるようにショットを放つとバネのようにしなってショットスピードを増すことが出来る。ハルが現役当時はカーボン製ほどしならない木製スティックしか存在しないため、この点もハルの伝説を補強する要因となっているが、当時は曲げられたブレードが流行り出した時期であり、湾曲率が制限され始めた1967-68シーズン以前であれば、相当なスピードが出た可能性もある。
外部リンク
- NHL.com, or Eliteprospects.com, or Eurohockey.com, or Hockey-Reference.com, or Legends of Hockey, or The Internet Hockey Database
- Career Overview and Biography
- Bobby Hull - The Golden Jet
- Bob Verdi (2017年1月1日). “Bobby Hull: 100 Greatest NHL Players” (英語). NHL公式サイト. NHL.com. 2026年10月15日閲覧。
- Joe Pelletier. “Bobby Hull - The Golden Jet” (英語). GreatestHockeyLegends.com. 2026年10月15日閲覧。