モデスト・ムソルグスキー

ウィキペディアから、無料の百科事典
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー
Моде́ст Петро́вич Му́соргский
基本情報
出生名 モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキー
Моде́ст Петро́вич Му́соргский
生誕 1839年3月21日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 プスコフ州
死没 (1881-03-28) 1881年3月28日(42歳没)
ロシア帝国 サンクトペテルブルク
ジャンル 国民楽派
職業 作曲家
活動期間 1852年 - 1881年

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Моде́ст Петро́вич Му́соргский [mɐˈdɛst pʲɪˈtrovʲɪtɕ ˈmusərkskʲɪj] ( 音声ファイル),ラテン文字転写:Modest Petrovich Mussorgsky, 1839年3月21日 - 1881年3月28日)は、ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人。ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いた。国民楽派の作曲家に分類され、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』などが代表作とされる。

生涯

幼年期と音楽の学習

プスコフ州カレヴォ村にて地主階級の家に生まれる[1]。6歳から母の手ほどきでピアノを始める(そこから、やがてフランツ・リストの小品を弾くまでになったといわれる[2])。10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に入学。

ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になるが、音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカ(Porte-enseigne Polka)』が出版された。

2年間のうちに、ロシアの文化人との出会いを果たし、ダルゴムイシスキー、スターソフ、バラキレフ、キュイとの出会いは重要であった。バラキレフの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるが、1858年に軍務を退役する[1]。リャードフ少年に出会い、モスクワ詣でにも出向き、同胞愛や郷土愛に目覚める。

ムソルグスキーは、バラキレフに師事して、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を学んでおり、バラキレフの監督下に作曲された『4手のためのピアノ・ソナタ』は、この時期の習作である。作曲を続け、未完成のまま放棄した歌劇『アテネのオイディプス』も、またピアノ曲『古風な間奏曲(Intermezzo in modo classico)』(1867年に改訂し、管弦楽化)も、やはり民族主義的でない。ムソルグスキー家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキー自身は、非常に多くの時間をカレヴォで過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの失敗した。

官吏としての生活と声楽作品

この頃、ムソルグスキーはバラキレフの影響力から自由になり、ほとんど独学するようになった。1863年から1866年まで、歌劇『サランボー (Salammbô) 』に取り組む。ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計を立てる。ペテルブルクで、近代芸術や近代科学について読書し、議論を戦わせた。そのような影響のもとにムソルグスキーは、段々と「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。

「現実生活」の衝撃は、1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われた。この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。しかしながら26歳のムソルグスキーは、写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲『ゴパーク(Gopak)』と『愛しいサーヴィシナ(Darling Savishna)』は翌1867年に、初めて自力で出版された作品となった。1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でもあったが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されなかった。

文官としての職務は安定していなかった。1867年に余剰人員と宣告され、出勤しても無報酬であった。とはいえ芸術生活においては、決定的な展開が生じようとしていた。バラキレフを中心とした作曲家集団についてスターソフが「五人組」と名付けたのは1867年のことであったが、それまでにムソルグスキーはダルゴムイシスキーに接近した。

1866年よりプーシキンの原作歌劇『石の客』を作曲中であったダルゴムイシスキーは、テクストは「その内的な真実が捻じ曲げられないように、あるがままに」曲付けされるべきであると力説して、アリアとレチタティーヴォをやめデクラマシオンをよしとした。

『石の客』に影響されて、1868年に作曲された、ゴーゴリ原作の『結婚』の最初の11場では、戯曲の日常的な対話の抑揚を、旋律線によって自然に再現することが優先されている。『結婚』は、ムソルグスキーの自然主義的な曲付けにおいて極端な位置を占めている。この作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、その典型的なムソルグスキー流デクラマシオンは、その後のあらゆる声楽曲において聞き取ることが可能である。日常の話し言葉を扱う声楽書法は、歌曲や歌劇の重要な要素となった。

《ボリス》の上演と晩年

『結婚』を放棄した後、ムソルグスキーはボリス・ゴドゥノフの物語でオペラを書くよう励まされた。プーシキンの戯曲に基づき、自ら台本を書いて1869年に最初の稿を完成したが、帝室劇場の審査では上演を拒否された。主要な女声役がないことなどが問題とされ、1871年からマリーナの登場する場面などを加えて改訂し、1872年に第2稿を完成させた。[3] 本人による2つの稿と、後世の編曲者による版は区別される。[2] 1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われた。

1874年2月の『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、ムソルグスキーは、不運に終わった「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』にかかわって、このために『禿山の一夜』合唱版を作成し、歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手した。『ボリス・ゴドゥノフ』は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしかなかったが、聴衆には好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点をきわめた。

イリヤ・レーピン『作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像』(トレチャコフ美術館所蔵、1881年)

その後、ムソルグスキーは友人たちとの関係や生活環境の変化、飲酒の問題を抱えた。さらに友人ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)が死に(1873年のことである[2])、肉親やルームメートのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)も結婚して去って行った。1874年以降は、『陽の光もなく』、『モスクワ河の夜明け』(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、『展覧会の絵』が作曲されている、この時ムソルグスキーは35歳である。歌劇『ソロチンスクの定期市』にも着手し、さらに『禿山の一夜』の、別の合唱版も作成した。

やがて著名人のサークルと交際を始めたが、酒量が抑えられず、身近な人の相次ぐ死は心痛をもたらしたが、ムソルグスキーの最も力強い作品『死の歌と踊り』が作曲された。文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運であった。しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われたのである。1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行うことさえ許されていた。ただし、サンクトペテルブルクに戻ると再び以前の荒んだ生活に逆戻りした[2]。

1880年に公務員の地位を追われる。ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、『ホヴァーンシチナ』『ソロチンスクの定期市』を完成できるように寄付を集めようとした。『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達したが完成には至らなかった。

1881年2月には複数の発作を起こし、軍病院に入院した。[4] 3月28日に42歳で死去した。[5] イリヤ・レーピンによる有名な肖像画は、この最後の入院中に描かれたものである。

作品

増四度を積み重ねる技法や、原色的な和声感覚、作曲素材の大胆な対比などは、さしずめ印象主義音楽や表現主義音楽の前触れとなっている。

ムソルグスキー作品の目覚しい斬新さは、後世の編曲・校訂によって異なる形で伝えられた。ショスタコーヴィチも『ボリス・ゴドゥノフ』と『ホヴァーンシチナ』の管弦楽法を手がけている。[6]また『禿山の一夜』は、ディズニー映画『ファンタジア』に利用されて、いっそう有名になった。

想像力に富み最も演奏される作品は、ピアノのための連作組曲『展覧会の絵』である。この作品は友人であった建築家ヴィクトル・ガルトマンの遺功をしのんで作曲された。19世紀のうちから管弦楽への編曲が試みられていたが、ラヴェルの管弦楽版も広く演奏されている。[5]

ムソルグスキーは歌劇『ソロチンスクの定期市』を未完成のまま没したが、有名な舞曲『ゴパーク(英語読みでホパック)』は、しばしば単独で演奏され、またラフマニノフのピアノ用への編曲で有名になった。

また、歌曲『蚤の歌』はゲーテ『ファウスト』をアレクサンドル・ストルゴフシチコフがロシア語訳した詞に曲をつけたバス独唱曲。[7]その他の作品では、3大歌曲集(『子供部屋』(1872年完成)、『日の光もなく』(1874年)、『死の歌と踊り』(1877年完成))が有名である。

言葉、人物と歌曲

ムソルグスキーの声楽作品では、語り口や登場人物の動作を音楽に移すことが重要な役割を果たす。自作の詞による全7曲の《子供部屋》は、乳母に話しかける子供、叱られた子供、人形や飼い猫をめぐる出来事などを扱う。解説者マイケル・ジェイムソンは、〈乳母と〉の拍子の変化と朗唱的な書法を、子供の語りを描く具体例として論じている。[6]

一方、《日の光もなく》(1874年、全6曲)と《死の歌と踊り》(1875–1877年、全4曲)は、いずれもアルセーニー・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフの詩による。《死の歌と踊り》では、死が子守をする者、恋人、踊りの相手、司令官として現れる。同じ解説は、《子供部屋》の朗唱的な書法と《日の光もなく》の旋律性を対比している。[6]

本人稿、補筆と演奏用の版

《ボリス・ゴドゥノフ》には、1869年に完成した7場からなる最初の稿と、1871–1872年に大幅に改訂された稿がある。後者ではマリーナを含むポーランドの場面などが加わり、プロローグと4幕の構成となった。ムソルグスキー自身の改訂と、死後にリムスキー=コルサコフが行った管弦楽法・和声などの改変は、異なる段階の作業である。[3]

《ホヴァーンシチナ》は、17世紀末のロシアの政治・宗教対立を題材とする。スターソフの助言を受け、作曲者自身が史料から台本を組み立てたが、未完の箇所と未管弦楽化の部分を残した。リムスキー=コルサコフによる演奏用の版の後、ラヴェルとストラヴィンスキーがディアギレフのために手を加えた1913年の版も作られた。[4] ショスタコーヴィチはラームの校訂した資料を用いて、映画上演のために改めて管弦楽化した。出版社の作品目録はこの作業を1958年とし、1959年の映画版と1960年の舞台初演を分けて記録している。[8]

《禿山の一夜》も一つの固定した楽譜だけを指すわけではない。1867年の《禿山の聖ヨハネ祭の夜》は管弦楽曲として書かれたが、生前には演奏されなかった。ムソルグスキーは後に《ムラーダ》や《ソロチンスクの定期市》のために素材を転用した。今日広く知られるリムスキー=コルサコフの1886年の版は、これらを踏まえて再構成したもので、1867年の譜面をそのまま演奏する版とは異なる。[9]

《展覧会の絵》の成立と受容

《展覧会の絵》は1874年に書かれた独奏ピアノのための組曲である。前年に没した画家・建築家ヴィクトル・ハルトマンの遺作展に触発され、スターソフに献呈された。〈プロムナード〉が絵を巡る歩みを表し、個々の絵に対応する曲の間に姿を変えて現れる。[10] 組曲の題材となったハルトマンの作品は、すべてが同定されているわけではない。校訂者ペトラ・ヴェーバー=ボックホルトは、自筆譜を中心資料とし、リムスキー=コルサコフによる改変を含む1886年の初版を区別している。[11]

管弦楽化はラヴェル以前にも試みられ、トゥシュマロフの版は1891年に演奏された。ラヴェルはクーセヴィツキーのために1922年に管弦楽化し、同年10月22日にパリでクーセヴィツキーが初演した。これは、ムソルグスキーが1874年に作曲したピアノ原曲とは編成と成立年の異なる版である。[5]

ラヴェル以外にも管弦楽化が行われ、レオ・フンテクの版はラヴェル版と同年に完成した。[12]レオポルド・ストコフスキーも管弦楽版を作り、その版では〈テュイルリーの庭〉と〈リモージュの市場〉が省かれている。[13]吹奏楽への編曲もあり、マーク・ハインズリーによる1959年の版はラヴェルの管弦楽版に基づく。[14]

20世紀には演奏会用の編曲に加えて、録音を通じた新たな形も生まれた。エマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)は組曲をロックの編成に組み替え、1971年3月26日にニューカッスルのシティ・ホールでライヴ録音した。公式収録曲一覧には、〈The Sage〉や〈Blues Variation〉なども掲載されている。[15][16] 冨田勲は1975年のアルバムで同組曲を電子音響によって再構成した。音楽史家トム・ホームズは、収録曲〈古城〉のクレジットを「演奏・編曲・電子的制作は冨田、作曲はムソルグスキー」と区別して紹介している。[17] このアルバムは、冨田が音楽を担当した1966年のアニメーション映画《展覧会の絵》とは別の作品である。[18]

作品をたどる関係図

次の図は《展覧会の絵》の着想と、原曲を用いた後世の編曲・録音を示す。

ヴィクトル・ハルトマンの遺作展(1874年)
↓ 着想・追悼の対象[10]
ムソルグスキー:独奏ピアノ組曲《展覧会の絵》(1874年)
↓ 管弦楽化[5]↓ ロック編曲・録音[15]↓ 電子音響による編曲・録音[17]
ラヴェル
1922年
ELP
1971年のライヴ録音
冨田勲
1975年のアルバム

図の下段は、ムソルグスキーとの師弟関係や本人同士の共同制作を表すものではない。


舞台作品

ムソルグスキーは生涯で7つのオペラを作曲しているが、生前唯一完成させた有名な『ボリス・ゴドゥノフ』を除き、そのほとんどが未完成のまま残されている。また構想に終わったオペラもいくつか存在し、彼が1856年に創作を試みた『アイスランドのハン』(ヴィクトル・ユーゴーの台本による)という実現に至らなかった作品があるが、これが最古のものとされている。また死の数年前に『ホヴァーンシチナ』と『ソローチンツィの定期市』を作曲していた最中の1877年頃に『プガチョフシチナ』という構想のみに終わった作品もある。これはプーシキンの『大尉の娘』に基づいたオペラとして計画された作品である。

  • 歌劇『アテネのエディプス王』(Эдип в Афинах)(1858-60,未完)
初期に作曲された歌劇。ソフォクレスに基づき、V.A.オゼロフの台本で作曲が進められたが途中で放棄した。現在は合唱曲の『民衆の合唱』のみ現存。
  • 歌劇『サランボー(英語版)』(Саламбо)(1863-66,未完)
  • フローベールの原作に基づき、作曲者自身が台本を作成。しかし途中で放棄したため未完となる。現在は台本のほぼ大半と3曲のナンバーのみが現存する。
  • 歌劇『結婚(英語版)』(Женитьба)(1868,未完)
ニコライ・ゴーゴリの原作に基づいて、全4幕のオペラとして作曲が進められたが、作曲者が完成させたのは1幕のみ。ムソルグスキー自身による全曲の完成には至らなかった。
アレクサンドル・プーシキンの原作を基に作曲者自身が台本を作成。1869年に初稿を完成させたが、劇場側から上演を拒否されたため大幅な改訂を施し、1872年にプロローグと4幕の稿を完成させた。[3]未完となったオペラが多いムソルグスキーのオペラの中で唯一完成させたものである。
17世紀に帝政ロシアで起きた史実を基に作曲者自身が台本を作成。第1幕への前奏曲が有名
  • オペラ・バレエ『ムラーダ』(Млада)(1872,未完)
未完の合作。キュイらによる合作オペラだが、2曲現存する
ニコライ・ゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』に基づいて作曲者自身が台本を作成。『ホヴァーンシチナ』と同時並行で作曲が進められていたが、作曲者の死没により未完のまま残された。のちにアナトリー・リャードフらにより補筆完成。

管弦楽曲

  • 『禿山の聖ヨハネ祭の夜』(1867)
一般的には リムスキー=コルサコフが改作した交響詩『禿山の一夜』(1886)[9]で知られることが多い。ただし、近年は原典版の演奏も増えてきている[19]。
  • 古典様式による交響的間奏曲(1867)
  • 行進曲『カルスの奪還』(Взятие Карса)(1880)
原曲は未完となった合作オペラ=バレエ『ムラダ』のために作曲した『公と僧侶たちの行進』。『トルコ行進曲』という別名もある。

ピアノ曲

ムソルグスキーが最初に作曲したとされる『騎士のポルカ』は1852年に生み出されているが、彼が13歳の時の産物である。バラキレフの許で修業していた時期にピアノソナタも作曲しているが、これらは未完に終わったかもしくは紛失しているため、完全な形としては残されていない。彼のピアノ曲で有名なものは『展覧会の絵』であり、後に管弦楽版として編曲されている。晩年はオペラの制作に注いでいたため、作品数はごく少なく、演奏時間にして数分程度の小品が生み出されている。

  • 騎士のポルカ(1852)
最初期に書かれたピアノ曲。父が自費で出版した。
  • アレグロとスケルツォ ハ長調(1860)
  • 古典様式による間奏曲(1860-61)
  • 子供の頃の思い出(1865)
  • 気まぐれな女(1865)
  • 夢(1865)
  • 紡ぎ女(1871)
  • 組曲『展覧会の絵』(1874)
1891年、リムスキー=コルサコフの弟子であったミハイル・トゥシュマロフがこの曲の一部を初めてオーケストラ編曲を行って以降、さまざまな編曲がなされている。特に1922年モーリス・ラヴェルが行ったオーケストラ編曲版が非常に有名であり、その他ギターやマリンバ、シンセサイザーなど、様々な楽器によって演奏されている。また、クラシックだけでなく、ロックバンドによる編曲・演奏も行われている。
  • クリミア南岸にて(1880)
  • 涙(1880)
  • 村にて(1880)

合唱曲

他のジャンルと比べて、ムソルグスキーの合唱曲はごくわずかしか残されていない。

  • セレナヘリブの陥落(The Destruction of Sennacherib)(1866-67)
混声合唱と管弦楽のための作品。バイロンの詩による。
  • イエス・ナヴィヌス(Iisus Navin)(1874-77)
アルト、バリトン、合唱とピアノのための作品。『ヨシュア』の題としても知られる。歌詞は作曲者による。管弦楽伴奏版はリムスキー=コルサコフが1883年に作成している。

歌曲

ミリイ・バラキレフの下で音楽を学んでいた頃から没するまで、歌曲は生涯にわたって書き続けられている。『ラヨーク』では当時の社会を風刺した歌曲として知られる。

  • 小さな星よ、お前はどこに(1857)
N.P.グレコフの詞による。1858年に管弦楽伴奏版も作られている。
  • 夜(1864)
  • カリストラート(1864)
A.I.ネクラーソフの詞による。『カリストラートゥシュカ』の改訂版
  • ゴパーク(1866)
  • 神学生(1867)
  • きのこ狩り(1867)
L.A.メイの詞による。他者による編曲版が存在する。
  • いたずらっ子(1867)
  • 雄山羊(1867)
  • 古典主義者(1867)
  • イェリョームシカの子守歌(1868)
  • 歌曲集『子供部屋』(1868-72)
全7曲から構成される歌曲集。歌詞は作曲者自身による。
または『のぞきからくり』や『人形芝居』とも。歌詞は作曲者自身による。
全6曲からなる歌曲集。歌詞はアルセーニー・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフによる。[6]
全4曲からなる歌曲集。A.ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフの詞による。後にドミートリイ・ショスタコーヴィチによって管弦楽伴奏版も作られている。
  • 不幸は落雷のようにではなく襲った(1877)
  • 傲慢(1877)
  • 幻(1877)
  • 蚤の歌(1879)
ゲーテによる。『アウエルバッハの酒倉でのメフィストフェレスの歌』の題でも知られる。


創作と作品受容の年表

橙色の帯は作曲・改訂の期間、橙色の点(◆、W)は単年の作曲・完成を、濃色の点(●、E)は初演・出版・編曲・録音などの出来事を示す。作曲年と初演・出版年は対応表で区別する。3図は対象の年代に合わせて横軸の範囲を変えている。死後の図は後世の演奏家・編曲者らによる活動である。

1860年代から《ボリス》の上演へ(1860–1880年)

晩年の並行制作(1870–1890年)

死後の出版・編曲・録音(1880–1980年)

年表の作品

番号作品・編成作曲・改訂と上演背景・特徴
W01《禿山の聖ヨハネ祭の夜》
管弦楽
1867年作曲。生前には未演奏後の声楽を伴う稿や1886年のリムスキー=コルサコフ版とは区別される。[9]
W02《子供部屋》
独唱とピアノ
1868–1872年。全7曲自作の詞による。子供と乳母、遊びや日常の出来事を扱う。[6]
W03《ボリス・ゴドゥノフ》最初の稿
独唱、合唱と管弦楽
1869年完成。帝室劇場の審査で拒否プーシキンの戯曲に基づき、自ら台本を書いた7場の稿。[3]
W04《ボリス・ゴドゥノフ》改訂稿
独唱、合唱と管弦楽
1871–1872年改訂。1874年初演ポーランドの場面などを加え、プロローグと4幕の構成とした。[3]
W05《ホヴァーンシチナ》
独唱、合唱と管弦楽(未完)
1872年構想、1873年から作曲。1880年まで作業。未完史料を用いて自ら台本を作成。死後の補筆・管弦楽化によって異なる演奏用の版が生まれた。[4][8]
W06《日の光もなく》
独唱とピアノ
1874年。全6曲ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフの詩による歌曲集。[6]
W07《展覧会の絵》
独奏ピアノ
1874年6月作曲。初版1886年ハルトマンの遺作展に触発され、スターソフに献呈。自筆譜と死後の校訂版を区別する。[11][5]
W08《ソロチンスクの定期市》
独唱、合唱と管弦楽(未完)
1874–1880年。未完ゴーゴリの原作による喜劇的な歌劇。《禿山》の素材も用いた。[9][4]
W09《死の歌と踊り》
独唱とピアノ
1875–1877年。全4曲ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフの詩。子守歌、セレナード、トレパーク、司令官の4曲。[6]

年表の出来事

番号年出来事
E011874年《ボリス・ゴドゥノフ》の本人改訂稿がサンクトペテルブルクで初演された。[3]
E021881年3月28日、サンクトペテルブルクで死去した。[5]
E031886年リムスキー=コルサコフの改変を含む《展覧会の絵》の初版がベッセルから刊行された。[11]
E041886年リムスキー=コルサコフが《禿山の一夜》を再構成。1867年の本人稿そのものではない。[9]
E051891年《展覧会の絵》のトゥシュマロフによる管弦楽版が演奏された。[5]
E061922年ラヴェルが《展覧会の絵》を管弦楽化。同年10月22日、クーセヴィツキー指揮によりパリで初演された。[5]
E071958年ショスタコーヴィチが《ホヴァーンシチナ》を再管弦楽化。映画版は1959年、舞台初演は1960年。[8]
E081971年ELPが《展覧会の絵》のロック編曲をニューカッスルでライヴ録音。録音日は3月26日。[15]
E091975年冨田勲の電子音響によるアルバム《展覧会の絵》。ムソルグスキーの組曲を冨田が編曲・演奏し、電子音響で制作した。[17]

映画やポップ・カルチャーにおけるムソルグスキー

映画やテレビに転用されていっそう有名になった。またプログレッシブ・ロックやクロスオーバー、フュージョンなどの分野にも影響を与え、アレンジが試みられた。

関連項目

脚注

  1. 1 2 “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年9月29日閲覧。
  2. 1 2 3 4 ‘The Classic Collection’第99号
  3. 1 2 3 4 5 6 “Mussorgsky: Boris Godunov (1869 version, live)”. BIS Records. 2026年10月29日閲覧。
  4. 1 2 3 4 John Henken. “Prelude and Finale to Khovanshchina”. Los Angeles Philharmonic. 2026年10月29日閲覧。
  5. 1 2 3 4 5 6 7 8 Michael Steinberg. “Pictures at an Exhibition”. Boston Symphony Orchestra. 2026年10月29日閲覧。
  6. 1 2 3 4 5 6 7 8 Michael Jameson (1995年). “Musorgsky: Song Cycles, CDA66775, booklet pp.3–9”. Hyperion Records. 2026年10月29日閲覧。
  7. ↑ “Pesnya Mefistofelya o blokhe, The Song of the Flea”. Oxford Song. 2026年10月29日閲覧。
  8. 1 2 3 Gerard McBurney. “Moussorgsky – Shostakovich: Khovanshchina”. Boosey & Hawkes. 2026年10月29日閲覧。
  9. 1 2 3 4 5 Thomas Hodge. “St. John’s Night on Bald Mountain”. Los Angeles Philharmonic. 2026年10月29日閲覧。
  10. 1 2 “Pictures at an Exhibition”. Los Angeles Philharmonic. 2026年10月29日閲覧。
  11. 1 2 3 Petra Weber-Bockholdt (1992年). “Pictures at an Exhibition: Preface”. G. Henle Verlag. 2026年10月29日閲覧。
  12. ↑ “Pictures at an Exhibition / Näyttelykuvia — Orchestra: Score”. Fennica Gehrman. 2026年10月30日閲覧。
  13. ↑ Christopher Lambton (2012年1月20日). “Mussorgsky: Pictures at an Exhibition; A Night on the Bare Mountain; Boris Godunov Symphonic Synthesis; Khovanshchina - Entr'acte to Act IV”. BBC Music Magazine. 2026年10月30日閲覧。
  14. ↑ Richard Veit (2005年1月19日). “Wind Ensemble Welcomes Faculty Soloist”. Baylor University. 2026年10月30日閲覧。
  15. 1 2 3 “Timeline:1971 Pictures at an Exhibition”. Emerson, Lake & Palmer. 2026年10月29日閲覧。
  16. ↑ “Pictures at an Exhibition:track list”. Emerson, Lake & Palmer. 2026年10月29日閲覧。
  17. 1 2 3 Thom Holmes (2022年4月16日). “More Symphonic Music with Synthesizers”. Noise and Notations. 2026年10月29日閲覧。
  18. ↑ “展覧会の絵”. 手塚治虫公式サイト. 2026年10月29日閲覧。
  19. ↑ ドレミ楽譜出版社刊『ムソルグスキー 「展覧会の絵」全曲集』より

参考文献

  • 一柳富美子「ムソルグスキー 「展覧会の絵」の真実」(2007年 東洋書店)ISBN 9784885957277

外部リンク