ユリエル・ジョーンズ
| ユリエル・ジョーンズ Uriel Jones | |
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ファンク・ブラザーズの一員としてのユリエル・ジョーンズ(右から2番目・2006年) | |
| 基本情報 | |
| 生誕 | 1934年6月13日 |
| 出身地 |
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| 死没 |
2009年3月24日(74歳没) |
| ジャンル | R&B、ソウル |
| 職業 | ミュージシャン |
| 担当楽器 | ドラム |
| 活動期間 | 1959年 - 2009年 |
| レーベル | モータウン |
| 共同作業者 | ファンク・ブラザーズ |
ユリエル・ジョーンズ[注釈 1](Uriel Jones、1934年6月13日 - 2009年3月24日)は、アメリカのミュージシャン。1960年代から1970年代初頭にかけて、モータウンの専属スタジオ・バンド、ファンク・ブラザーズのレコーディング・ドラマーとして活躍した。
略歴
ジョーンズは当初、モータウンのメイン・ドラマーであったベニー・ベンジャミンの代役として採用された。レコーディングの増加とベンジャミンの健康状態の悪化に伴い、リチャード・"ピストル"・アレンと共に、彼の役割は次第に重要なものとなっていった。ジョーンズがドラムを担当したヒット曲には、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレルによる1967年版およびダイアナ・ロスによる1970年版の「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」、マーヴィン・ゲイの「悲しいうわさ」と「エーント・ザット・ペキュリア」、テンプテーションズの「クラウド・ナイン」(スパイダー・ウェブも参加)、「悲しいへだたり(I Can't Get Next to You)」、「エイント・トゥー・プラウド・トゥ・ベッグ」、ジミー・ラフィンの「What Becomes of the Brokenhearted」、ジュニア・ウォーカーの「Home Cookin'」、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズの「トラックス・オブ・マイ・ティアーズ」と「アイ・セカンド・ザット・エモーション」、そしてスティーヴィー・ワンダーの「For Once in My Life」などがある。彼はジャズ・ドラマーのアート・ブレイキーらから影響を受けていた。モータウンでのレコーディングにおいて、ジョーンズはラディック、スリンガーランド、ロジャース、グレッチといった各社のパーツを組み合わせたドラムセットを使用しており、シンバルにはジルジャンが使われていたようである。ジョーンズは、ドキュメンタリー映画『永遠のモータウン』への出演を通じて、音楽ファンの間で広く知られるようになった。モータウンのアレンジャーであるポール・ライザーは、ジョーンズについて次のように語っている。「ユリエルのドラム・サウンドは最も開放的でゆったりとしていて、我々が抱えていた3人のドラマーの中で最もファンキーだった。彼は多様な感覚を併せ持ち、実に様々なスタイルを見事にこなすことができた」[1]。
2008年、デトロイトのディアボーン・ハイツにあるスタジオAで行われたカール・ディクソン・バンドトラックス(Carl Dixon BandTraxs)のセッションに参加。このセッションは、デトロイト出身のミュージシャンたちに敬意を表したいというカール・ディクソンの夢の実現を、彼と、同じくドラマーであるスパイダー・ウェブとで支えるものとなった。このセッションには、ジョーンズのほか、デニス・コフィー、ボブ・バビット、レイ・モネット、ロバート・ジョーンズ、スパイダー・ウェブ、ジョージ・カツァキス(ザ・ロイヤルトーンズ)、ギル・ブリッジス(レア・アース)、デニス・シェリダン、ラリー・フラタンジェロ、ジョン・トラデル、デヴィッド・ジェニングス、マーク・バーガー、ジョージ・ベンソン、エド・グーチ、ロブ・ピフォらが参加した。また、元モータウンのアレンジャーであるデヴィッド・ヴァン・デ・ピットが、イギリスから送られてきたオリジナルのデモ音源をもとに編曲を手がけ、スタジオでバンドを指揮した。
ジョーンズは、心筋梗塞の合併症により、ミシガン州ディアボーンにあるオークウッド病院&メディカル・センターにて74歳で亡くなった[2]。
脚注
注釈
- ↑ 「ウリエル・ジョーンズ」「ユーリル・ジョーンズ」の表記もある。
出典
- ↑ Goodman, Dean (March 25, 2009). “Motown drummer Uriel Jones dies in Michigan”. Reuters.
- ↑ Sisario, Ben [英語版] (March 25, 2009). “Uriel Jones, a Motown Drummer, Dies at 74”. The New York Times. p. B12.