不道(ふどう)は、中国と日本の律令制度の律における犯罪または犯罪類型である。

漢代と唐代以降で大きな違いがあり、漢代にも前漢初期から末期にかけて変化がある。漢代のはじめ、不道とは行為と量刑に具体性を欠いていた。事件の蓄積により、皇帝や官・民を欺く行為を、棄市(死刑にしてさらし首)にするものとなった。

唐代以降は様々な量刑を持つ複数の犯罪をまとめた犯罪類型で、十悪の5番目にあたる。多数・異常な殺人など非人道的な一般犯罪を対象にした。

日本の律は唐のものを継承し、八虐の5番目にあてた。唐律の犯罪に加えて、目上の者に対する犯罪のうち悪逆ほど悪くないものを合わせた。

漢代の不道

漢の律で不道について記したものは見付かっていないが、『漢書』には不道を罪として裁かれた事件が多い。年代的な初例は漢の武帝の代(前141年 - 前87年)である[1]。廷尉の杜周がしきりと官吏の疑獄事件を追及したとき、証言のために出頭するよう命じられた人の中に、拷問で証言を強いられるのを恐れて逃げ隠れするものが多かった。彼らは十数年後に見付かると、多くが不道の罪とされたという[2]。彼らにあてられた刑はわからない。また、庶民の男が自らを死んだはずの皇太子だと詐ったことが、不道とみなされ死刑になった。

宣帝の時代(紀元前74年 - 紀元前49年)には、 互いに推薦し合って顕職に就こうとした楊興と賈捐之が不道とされ、賈捐之が死刑、楊興は減刑されて髠鉗城旦(懲役)となった[3]。

元帝が即位(前49年)して間もないとき、前将軍の蕭望之が大臣を非難し外戚を抑制しようとしたことが、皇帝を誣(あざむ)いて不道である、と告発され、取り調べを受けた[4]

成帝の代(紀元前19年から紀元前14年)には、かつて西域で武功を立てた陳湯が、衆を惑わし不道だと弾劾される事件が起こった。黒竜の出現を皇帝の微行のせいだと言い、中止された陵の造営が再開されて人々に移住が命じられると予想して衆を惑わしたことが、それぞれ大不敬と不道とされた[5]。廷尉と皇帝の判断により、衆を惑わした点について無罪となった[5]。

陳湯の事件では廷尉が「不道に正法なし。犯すところの劇易(激しいかそうでないか)をもって罪となす」と論じた[5]。具体的にどのような行為が不道にあたり、どのような刑になるか定まっていなかったようである[6]。判例ができるにつれて、棄市を量刑とし、政治的理由で「悪」とされた発言・行動が不道の名で裁かれるようになった。

漢代の不道事件

唐・日本の不道

不道の範囲

以上が唐律と日本律でともに不道とされた罪である。以下は唐律で不睦という別の類型に入れられ、日本では不道とされた罪である。

量刑

害の大きさに応じて刑の軽重を区別するのが律の原則であり、不道になってもならなくても、人を殺せば死罪になり、暴行ならより軽い罪になる。量刑は犯罪ごとに別に定められ、不道だからといって一律ではない。

不道の法的効果は、八虐・十悪に含められることで、減刑、恩赦の可能性がなくなることにあった。律で殺人はみな斬・絞の死刑にあたるが、様々な減刑の可能性も設けており、身分特権で死刑を免れたり、事情を汲んで死を免じることは珍しくなかった。八虐・十悪になるとその道が閉ざされた。

日本の律には現存しない部分があり、不道の量刑の一部がそれにあたる。『養老律』賊盗律の定めでは、一家のうち死罪でない3人以上を殺した者、人を殺して支解した者は斬となり、その子(息子)は縁座して徒3年になった[10]。

脚注

  1. ↑ 若江賢三「漢代の不道罪」、『秦漢律と文帝の刑法改革の研究』、汲古書院、2015年。
  2. ↑ 『漢書』杜周伝第30、ちくま文庫版『漢書』5の44頁。
  3. ↑ 『漢書』巻64下、厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝第34下、賈捐之伝。ちくま学芸文庫版『漢書』5の635-636頁。
  4. ↑ 『漢書』巻78、蕭望之伝第48。ちくま学芸文庫版『漢書』6の572 - 573頁。
  5. 1 2 3 『漢書』巻70、傅常鄭甘陳段伝第40、
  6. ↑ 若江「漢代の不道罪」、228 - 234頁。
  7. ↑ 国を除くとは、諸侯の地位を受け継ぐ者がなく、断絶すること
  8. ↑ 『漢書』巻71、雋疏于薛平彭伝大41、雋不疑伝。ちくま学芸文庫版『漢書』6の248頁。
  9. 1 2 3 4 5 6 『養老律』名例律第一、第6の八虐条。日本思想体系新装版『律令』16-17頁。
  10. 1 2 『養老律』賊盗律第七、第12の殺一家非死罪三人条。日本思想体系新装版『律令』93頁。

参考文献

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