中川銓吉

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中川 銓吉
人物情報
生誕 1876年7月18日
日本の旗 日本 石川県
死没 (1942-09-04) 1942年9月4日(66歳没)
出身校 第四高等学校
東京帝国大学
学問
研究分野 数学
幾何学
学位 理学博士
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中川 銓吉(なかがわ せんきち、1876年7月18日[1] - 1942年9月4日)は、日本の数学者、学校教授[2][3]。

来歴

1876年7月、石川県で士族の中川富三と、きくの間に生まれ[4][5]、1895年7月3日に第四高等学校第二部理科を卒業[6]。1897年7月10日東京帝国大学理科大学数学科で特待生を勝ち得て[7]、1898年に卒業した[8]。

1898年(明治31年)8月13日、第二高等学校教授を任ぜられた[9][10]。1899年9月5日、高等官七等で高等師範学校教授に任命された[11]。

1901年11月16日、文部科学省外国留学生として、日本を発ち[12]、ドイツに留学した[5]。1905年2月27日に帰国した[13]。

1904年11月25日、東京帝国大学理科大学助教授に任命された[14]。1907年5月21日、数学第一講座を任せられた[15]。この間に正六位を叙された[16]。また同年、論文「ハイパーボリック」を提出し、理学博士号を獲得した[17]。1910年代に幾何学模型を輸入した[18]。

1914年(大正3年)4月26日、東京帝国大学理科大学教授に任命された[19]。1920年数学第一講座を免し、数学第四講座を任せられた[20]。また、1921までに勲三等瑞宝章を[21]、1923年までに勲二等瑞宝章を叙された[22][23]。1935年、設立当初の数学第五講座を任せられた[24]。1937年に正三位を叙された[25][26]。1939年に大学を退官し、名誉教授となった[27]。

1942年9月4日没した[28]。

数学者としては主に射影幾何学や曲面論の研究をし、講義でも幾何学を取り扱った[29]。小島浩や清宮俊雄、矢野健太郎は彼の授業を受けている[30]。

私生活

千村正晴の長女、秀と結婚した[4]。

栄典等

著作

  • 「非ユークリッド幾何學特にろばちぇふすきー及びぼりあい両氏の研究に尽きて」『東京物理学校雑誌』第228号、1906年。 [44]
  • 『平面解析幾何学』富山房、1913年。NDLJP:952182。 
  • 『最新算術教科書』富山房、1919年。NDLJP:949079。 
  • 竹内端三 共著『新撰解析幾何学教科書 平面之部』富山房、1920年。NDLJP:960384。 
  • 黒河竜三 共著『高等立体幾何学通論』共立社書店、1932年。NDLJP:1175468。 
  • 『輓近高等数学講座』 27巻、共立社書店、1935年。NDLJP:1236809。 
  • 『最新代数 : 増課課程用』富山房、1935年。NDLJP:1275153。 
  • 『新編女子幾何』冨山房、1937年。 
  • 『新編女子算術教授資料』富山房、1938年。NDLJP:1275487。 
  • 『近世綜合幾何学演習』共立出版、1948年。NDLJP:1063414。 
  • 冨山房五十年記念「教科書に着手する迄の思ひ出噺」[45]。

関連項目

出典

  1. ↑ 『人事興信録 5版』人事興信所、1918年、な34頁。
  2. ↑ 『日本紳士録 第7版』交詢社、1901年、358頁。NDLJP:780096。
  3. ↑ 古林亀治郎『現代人名辞典』中央通信社、1912年、53頁。NDLJP:779591。
  4. 1 2 『人事興信録』人事興信所、1921年、28頁。NDLJP:1704027。
  5. 1 2 “中川銓吉 (第8版)”. 『人事興信録』データベース. 2024年9月21日閲覧。
  6. ↑ 『官報』3608号、大蔵省、1895年7月10日。NDLJP:2946883。
  7. ↑ 『官報』4208号、大蔵省、1897年7月13日。NDLJP:2947495。
  8. ↑ 『官報』4509号、大蔵省、1898年7月12日。NDLJP:2947798。
  9. ↑ 『官報』 4538巻、大蔵省、1898年8月15日。NDLJP:2947827。
  10. ↑ 『職員録 明治32年現在(甲)』印刷局、1899年、503頁。NDLJP:779776。
  11. ↑ 『官報』4856号、大蔵省、1899年9月6日。NDLJP:2948146。
  12. ↑ 『官報』5514号、大蔵省、1901年11月18日。NDLJP:2948815。
  13. ↑ 『官報』6503号、大蔵省、1905年3月8日。NDLJP:2949833。
  14. ↑ 『官報』6423号、大蔵省、1904年11月26日。NDLJP:2949747。
  15. ↑ 『官報』7166号、大蔵省、1907年5月22日。NDLJP:2950512。
  16. ↑ 『官報』8401号、大蔵省、1911年6月24日。NDLJP:2951758。
  17. ↑ 『官報』8413号、大蔵省、1911年7月8日。NDLJP:2951770。
  18. ↑ “幾何学模型の歴史”. 東京大学大学院数理科学研究科理学部数学科・理学部数学科. 2024年9月21日閲覧。
  19. ↑ 『官報』522号、大蔵省、1914年4月28日。NDLJP:2952622。
  20. ↑ 『官報』2477号、大蔵省、1920年11月3日。NDLJP:2954592。
  21. 1 2 『官報』2798号、大蔵省、1921年11月29日。NDLJP:2954914。
  22. ↑ 『官報』3199号、大蔵省、1923年4月2日。NDLJP:2955321。
  23. ↑ 『官報』57号、大蔵省、1927年3月11日。NDLJP:2956516。
  24. ↑ 『官報』2488号、大蔵省、1935年4月22日。NDLJP:2958967。
  25. 1 2 『官報』3089号、大蔵省、1937年4月22日。NDLJP:2959572。
  26. ↑ 『官報』3249号、大蔵省、1937年10月29日。NDLJP:2959735。
  27. ↑ 『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年、ナ27頁。
  28. ↑ 『官報』4698号、大蔵省、1942年9月5日。NDLJP:2961200。
  29. ↑ 『東京大学百年史 部局史 2』東京大学百年史編集委員会、1987年。NDLJP:12114631。
  30. ↑ 矢野健太郎『一幾何学者の回想 上 (数セミ・ブックス ; 1)』日本評論社、1892年。NDLJP:12223244。
  31. ↑ 『官報』 4578巻、大蔵省、1898年10月1日。NDLJP:2947867。
  32. ↑ 『官報』5086号、大蔵省、1900年6月18日。NDLJP:2948380。
  33. ↑ 『官報』5169号、大蔵省、1900年9月22日。NDLJP:2948463。
  34. ↑ 『官報』6936号、大蔵省、1906年8月11日。NDLJP:2950277。
  35. ↑ 『官報』7310号、大蔵省、1907年11月8日。NDLJP:2950656。
  36. ↑ 『官報』8405号、大蔵省、1911年6月29日。NDLJP:2951762。
  37. ↑ 『官報』575号、大蔵省、1914年7月1日。NDLJP:2952678。
  38. ↑ 『官報』871号、大蔵省、1915年6月28日。NDLJP:2952977。
  39. ↑ 『官報』1280号、大蔵省、1916年11月7日。NDLJP:2953393。
  40. ↑ 『官報』1301号、大蔵省、1916年12月2日。NDLJP:2953414。
  41. ↑ 『官報』1471号、大蔵省、1917年6月27日。NDLJP:2953584。
  42. ↑ 『官報』3608号、大蔵省、1922年1月21日。NDLJP:2954955。
  43. ↑ 『官報』3068号、大蔵省、1922年10月21日。NDLJP:2955186。
  44. ↑ るーしぇ、こんぶるーす 著、小倉金之助 訳『初等幾何學 第2卷 空間之部』山海堂出版部、1915年、784頁。NDLJP:1082037。
  45. ↑ “冨山房五十年”. 昭和館デジタルアーカイブ. 2024年9月21日閲覧。
  46. ↑ “統計図書館コラム”. 2024年9月22日閲覧。

参考文献

外部リンク