中村宗平

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中村 宗平
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 不明
死没 建久6年3月21日(1195年5月9日)[1]
別名 中村庄司
幕府 鎌倉幕府 御家人
主君 源義朝、頼朝
氏族 坂東平氏中村氏
父母 父:平常宗[注 1][2]
兄弟 宗平、摩々局/山内尼[3]
子 重平、土肥実平、土屋宗遠、二宮友平、堺頼平、岡崎義実の妻[4][5]
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中村 宗平(なかむら むねひら)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の相模国の武士。

概要

相模国余綾郡中村郷(現・神奈川県小田原市東部)の人で、同地を自らの名字の地とした在庁官人。天養元年(1144年)源義朝が大庭御厨を侵略した際の配下として三浦義継・義明父子とともに名が見え、そのころには自領を有力権門に寄進して中村庄を成立させ[注 2]、自らその荘官になっていた[5][6][7]。宗平の子らはいずれも相模国南西部を領し、中村党というべき武士団を形成した[7]。

嫡子の重平は早世したとみられるが[8]、治承4年(1180年)義朝の子の頼朝が挙兵した時には中村党から孫の景平、盛平や土肥実平、遠平、土屋宗遠、義清[注 3]、忠光らが従軍している[8]。同年、鎌倉に入った頼朝の命で頼朝の異母兄・朝長の旧宅である松田亭を修築した[9]。文治2年(1186年)頼朝の命を受けて三浦義澄とともに困窮した相模国内の百姓らに米を与えている[6]。中世、中村党においては土肥氏や土屋氏が栄えた一方で、中村氏は振るわなかった[1]。

脚注

注釈

  1. ↑ 『尊卑分脈』は平良文の子に宗平を載せるが、明らかに年代が合わない。
  2. ↑ 中村庄の荘園領主である本家・領家はともに不明で、寄進先は明らかではない[6]。
  3. ↑ 土屋義清は岡崎義実の子だが、母は宗平の娘であり外孫にあたる[8]。

出典

  1. 1 2 石野 1956, p. 356.
  2. ↑ 湯浅 2011, pp. 11–13.
  3. ↑ 福田 1993.
  4. ↑ 外岡 2007.
  5. 1 2 伊藤 1989.
  6. 1 2 3 鈴木 & 鈴木 2004, §中村庄・中村郷.
  7. 1 2 湯浅 2011, p. 11.
  8. 1 2 3 石野 1956, p. 353.
  9. ↑ 石野 1956, pp. 354–355.

出典

  • 外岡慎一郎「中村氏」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社、2007年。ISBN 978-4-582-03400-4。 
  • 伊藤一美「中村氏」『国史大辞典』吉川弘文館、1989年。ISBN 978-4-642-00510-4。 
  • 福田以久生「山内首藤俊通」『国史大辞典』吉川弘文館、1993年。ISBN 978-4-642-00514-2。 
  • 湯浅学『相模武士』 3巻、戎光祥出版、2011年。ISBN 978-4-86403-014-4。 
  • 鈴木棠三; 鈴木良一 編『神奈川県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、2004年。ISBN 978-4-582-91033-9。 
  • 石野瑛『神奈川県大観』 4巻、武相出版社、1956年。