中衛府(ちゅうえふ)は、奈良時代から平安時代初期にかけて存在した親衛軍組織。天皇側近の警固にあたる衛府の一つで、元明天皇即位直後の慶雲4年(707年)7月に設置された授刀舎人寮を改編した令外官とされている。
聖武朝の神亀5年(728年)7月に、内匠寮とともに設置されたもので[1]、神亀元年(724年)の聖武天皇の即位により、それまで皇太子首皇子だった天皇の側近の警固の任にあたった授刀舎人(第一次)を基盤として新たな衛府を編成し、元からの五衛府に勝る地位と権力を付与したと考えられる。大将・少将からなり、のちに中将も設置され、管掌下の中衛舎人は当初は300人であったが、のち400人に増員されている。その武力は地方豪族層を主体とし、下級官人にも地方豪族出身者が多く見られている[2]。
なお、『類聚三代格』所収の格によると、『続紀』と相違があり、官員の種類やその数、位階等の記載が異なっている。
これには『弘仁格』編纂の際、天平神護元年(765年)の官制改革の際の格により、元々の勅の記載に改変が加えられている可能性がある[3]。
中衛府新設当時の大将は、藤原房前だったと推察される[4]。衣服令5条『令集解』所引2月23日格によると、養老6年(722年)2月、従三位であった房前は授刀寮の長官(授刀頭)であった[5]。このことは中衛府と藤原氏が密接な関係を持っていたことを示唆しており、とりわけ藤原仲麻呂は「中衛大将」として、その武力を自己の権勢の基盤としていた。
だが、藤原仲麻呂の乱後の天平神護元年(765年)の近衛府新設により中衛府の特権的地位は消失し、平城朝の大同2年(807年)には近衛府が左近衛府に、中衛府が右近衛府に再編され、六衛府制の左右近衛府が成立したことで、中衛府そのものが消滅した。
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