二宮彦可
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二宮 彦可(にのみや げんか、1754年(宝暦4年)- 1827年(文政10年10月11日)は、江戸時代後期の医師。骨接ぎの発展に寄与した人物。
生涯
石見国浜田藩の侍医で国学者であった小篠敏の長男として、遠江国浜松近郊の増楽村に生まれる。名は献。字を彦可・齢順といい、号を叟楽・擁鼻と称した。幼少時に乳母から梅毒が感染したため病弱のため廃嫡となるが、明和4年(1767年、同藩の口中科医である二宮元昌の養子となった。
19歳の頃から各地で医学を学び、口中科を広島藩の山県良班、内科を恵美三白、眼科を大坂の三井玄孺、産科を京都の賀川玄吾、内科を山脇東門に学んだ。また赤穂藩の赤松滄洲、岡山藩の湯浅常山、長州藩の栗山考庵、福岡藩の亀井南溟を歴訪した。天明8年(1788年)には長崎に留学して吉雄耕牛にオランダ外科を学び、さらに吉原杏蔭斎のもとで整骨術の秘訣を伝えられた。寛政3年(1791年)、浜田に帰り藩主の侍医を務め、同5年(1793年)藩主に随行して江戸に赴き、木挽町5丁目に住んだ。文化5年(1808年)、『正骨範』二巻を出版したが、これは吉原杏蔭斎に学んだ整骨術に改良を加え、中国・西洋の諸書を参考としてまとめたもので、整骨術の古典として評価されている。文政10年10月11日没。74歳。浅草長遠寺に葬られた。法号は擣簁院了服日治居士。墓石は関東大震災で失われたため、合葬された[1]。