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仁宇城
(徳島県)
別名 和食城、仁宇山城
城郭構造 平城
築城主 湯浅兼朝
築城年 戦国時代
主な城主 山田宗重
廃城年 寛永15年(1638年)
遺構 空堀、土塁
指定文化財 未指定
位置 北緯33度51分35.9秒 東経134度30分07.7秒 / 北緯33.859972度 東経134.502139度 / 33.859972; 134.502139
※座標は蛭子神社
地図
仁宇城の位置(徳島県内)
仁宇城
仁宇城
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1.仁宇城(和食城)跡(蛭子神社)、2.仁宇山城址碑、3.小仁宇城跡、4.仁宇城址碑

仁宇城(にうじょう)は、徳島県那賀郡那賀町仁宇・和食(わじき)にあった日本の城。別名は和食城、仁宇山城。

歴史

天正年間は湯浅対馬守(藤原兼時)の居城であり天正13年(1585年)に蜂須賀家政が阿波国に入るまで仁宇谷地域を押さえていた[1]。

蜂須賀氏が入部した直後、湯浅氏を首謀者とする仁宇谷衆は一揆を起こすが鎮圧された。仁宇城は阿波九城のひとつの支城として整備され、一揆を鎮圧した山田宗重を城代とし、5000石を有した[2]。一国一城令により寛永15年(1638年)に廃城となった。

城跡比定地

現地に複数ある城郭遺構について、どれを仁宇城に比定するかについては諸説ある。

福永素久や高田徹は、那賀川右岸の蛭子神社境内の城郭遺構を比定地とするが、本田昇は『日本城郭大系15巻』などで蛭子神社の西約1.8キロメートルの畑地に位置する城郭遺構を阿波九城の仁宇城と比定している[1]。徳島県発行の遺跡分布地図では、蛭子神社を「和食城」、西の城郭遺構を「小仁宇城」としている[3]。

2017年(平成29年)4月から徳島県立埋蔵文化財総合センターが実施した、西の城郭遺構(小仁宇城)地点の発掘調査では、空堀や土橋、15棟以上の掘立柱建物跡のほか、15世紀代の遺物が多数出土し[4]、小仁宇城跡として確認したと報じられた[5]。

なお、近くにある那賀町立鷲敷小学校校内には「仁宇山城址碑」があり、那賀川の対岸・仁宇地区の民地にも「仁宇城址碑」があるなど、直接城跡ではない地点に石碑類が複数存在する。

脚注

[脚注の使い方]
  1. 1 2 福永素久 2007, p. 46f.
  2. ↑ 福永素久 2007, p. 38.
  3. ↑ 福永素久 2007, p. 56.
  4. ↑ webmaster (2017年7月10日). “2017小仁宇城跡の現地説明会を開催しました!”. 徳島県立埋蔵文化財総合センター. 2019年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月10日閲覧。
  5. ↑ 徳島新聞 2017年6月29日付

参考文献

関連項目

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