
1388年(洪武21年)、進士に及第し、首席の成績を挙げて状元となった。翰林院修撰に任じられた。1392年(洪武25年)、詹事府少詹事・兼修撰となった[2]。1394年(洪武27年)5月、礼部尚書に任じられた[3]。1395年(洪武28年)、秦王朱樉が死去し、喪礼について定めるよう洪武帝の詔が下ると、亨泰は輟朝一日とするよう意見した[4]。世子襲爵の礼について定めた。8月、龍州の趙宗寿が討伐されることになり、亨泰は厳震直とともにベトナム陳朝への使節をつとめた。1396年(洪武29年)2月、帰国した[3]。ベトナムの非公式の市場で購入した南方の人を下僕としたことから、監察御史に降格された。ほどなく思明府土官が陳朝と境界争いを起こすと、亨泰はその責任を問われて免官された。著書に『遺稿』2巻[5]があった。
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