伊丹甚太夫

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伊丹 甚太夫(いたみ じんだゆう、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。豊臣秀長・豊臣秀保の家臣。のち豊臣秀吉に仕えた。名は神太夫とも。

経歴

甚太夫は豊臣秀長およびその養嗣子・秀保に仕え、600石を知行していた[1]。天正19年(1591年)の秀長死去後、秀保に従ったが、文禄3年(1594年)主家が断絶したため浪人となった。その後、慶長3年(1598年)2月に豊臣秀吉に召し出され、大和・伊賀・紀伊の3国において合わせて1860石(または1866石)を与えられた[1][2]。

『黄薔薇古簡集』によれば、秀保は天正19年9月26日(1591年11月12日)、甚太夫に新地行600石を与え、従前の知行地と合わせて1000石を安堵したとされる。また、慶長3年2月8日(1598年3月15日)には増田長盛代官所(紀伊国郡賀郡)において、新たに850石を与えられ、旧領大和・伊賀の1016石と合わせて1866石を安堵されたことが確認できる[2]。文禄4年(1595年)の秀保死去後、紀州は秀吉の直轄領となり、甚太夫は本田利朝・福田牛介・池田秀氏らとともにそれぞれ所領を与えられている[3]。

脚注

参考文献

  • 『戦国人名辞典』 新人物往来社、1990年、98頁。
  • 『和歌山県史 中世』 和歌山県、1994年。
  • 『鵜殿村史 通史編』 鵜殿村村史編さん委員会、1994年、125頁。