伊藤頼時

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伊藤頼時
時代 戦国時代
生誕 弘治元年(1555年)
または弘治3年(1557年)[1]
死没 天正10年8月20日(1582年9月16日)
または天正12年10月7日(1584年11月9日)
別名 伊藤頼辰
通称:三郎
官位 左近亮、美作守
主君 吉見正頼
氏族 須子氏→清和源氏範頼流石見吉見氏庶流 伊藤氏
父母 父:須子和泉守
養父:伊藤実信
妻 正室:伊藤実信の娘
子 元利、就安
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伊藤 頼時(いとう よりとき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。石見吉見氏の家臣。父は伊藤実信。名前の表記は「伊藤頼辰」とも。

生涯

弘治元年(1555年)または弘治3年(1557年)[1]、吉見氏家臣である須子和泉守の嫡男として生まれる。同じく吉見氏家臣である伊藤実信の娘を妻とした[2]。

永禄12年(1568年)10月の大内輝弘の乱において伊藤実信が戦死した[3]が、実信には嗣子がいなかったため、頼時が婿養子として実信の後を継いだ[2]。

しかし、実父方の一族である須子某に遺恨があったことから、天正10年(1582年)8月20日または天正12年(1584年)10月7日に頼時は須子某を討ち果たしたが、相討ちとなり頼時も死去した[2]。享年28。嫡男の元利が後を継いだ[2]。

脚注

  1. 1 2 『閥閲録』巻66「伊藤彦右衛門」家譜によれば、頼時の没年齢は28歳と記されているが、没年は天正10年(1582年)と天正12年(1584年)の2説があり、天正10年没であれば弘治元年(1555年)生まれ、天正12年没であれば弘治3年(1557年)生まれとなる。
  2. 1 2 3 4 『閥閲録』巻66「伊藤彦右衛門」家譜。
  3. ↑ 『毛利元就卿伝』p.577。

参考文献