佐竹次郎

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さたけ じろう
佐竹 次郎
佐竹次郎(1955年頃)
生誕 1896年7月10日
山梨県中巨摩郡玉幡村
死没 1959年10月21日
東京都目黒区駒場
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
著名な実績 日産生命保険社長
富国生命保険社長
昭和電工社長
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佐竹 次郎(さたけ じろう、1896年7月10日 - 1959年10月21日)は、日本の経営者。富国生命保険、昭和電工などで社長を務めた。

経歴

1896年(明治29年)7月10日、佐竹作太郎の次男として山梨県中巨摩郡玉幡村(現在の甲府市)で生まれた[1][2]。

11歳で東京に転居、1915年(大正4年)に暁星中学校を卒業[3]。同級生には渡辺斌衡、阿部孝次郎、横河時介、金子光晴、近藤経一、町田敬二などがいた[4]。1918年(大正7年)に旧制第四高等学校を卒業し東京帝国大学に進学[3]。1921年(大正10年)に経済学部を卒業[2]。

当初南満洲鉄道に就職[3]したが、兄・源造が1925年(大正14年)に死去すると富国徴兵保険第一部長[5]、第十銀行監査役[6]などのポストを受け継いだ。当時富国徴兵社長であり、父・作太郎とも甲州財閥の一派として関係の深い根津嘉一郎に見込まれ[7][8]、1928年(昭和3年)に根津が設立した南朝鮮鉄道[注釈 1]では取締役[10][9]兼支配人として経営を一手に引き受けた[11]。

さらに根津財閥が保有する土地・証券の管理会社である日本土地証券社長となり[12]、根津財閥の中心的人物と評されるまでになった[13]。この頃、昭和火災保険の取締役として、同社の日産火災海上との合併交渉を行った[14]。1940年に根津が死去すると、さらに太平生命保険を日産コンツェルンに譲渡する交渉に携わり、太平生命改め日産生命保険の取締役となった[8][15]。

太平洋戦争が始まると、すでに40代後半という高齢にも関わらず海軍主計少尉となり[16][8]、西イリアンで民政府の業務を担当した[17]。終戦とともに一時捕虜となり、1946年6月に復員[16]。

同年7月、古巣の日産生命保険に復帰、第7代社長に就任した[18]。当時保険業界は海外資産の凍結や保険金支払いなどでほとんどの企業が破綻に直面しており、佐竹も受け皿会社としての日新生命を設立することに奔走[19]、わずか1年と15日で退任した[20]。その後、同じく根津傘下から独立し富国徴兵改め富国生命保険の社長を務めていた小林中の招きで副社長となり[21]、1951年4月には小林の後を継いで富国生命の第4代社長に就任した[22]。この間、大株主として昭和電工の取締役となっていたが、1953年10月には富国生命の社長職を辞して[23]石川一郎[注釈 2]の後を受けて昭和電工社長に就任[25][2]。

1959年1月、健康を害し昭和電工社長の座を安西正夫に譲って会長となった[26]。同年10月19日から休職していたところ、10月21日午前7時40分、目黒区駒場の自宅で死去。当初死因は狭心症と伝えられたが[27]、後に縊死であることが報道された[28]。63歳没。同月26日に青山斎場で葬儀が行われた[26]。

人物

プライベートではスポーツを好み、特に野球、ゴルフ、テニスを行った。

家族

  • 父・佐竹作太郎
  • 母・まつゑ(1870年生)[1]
    • 父は新海幸五郎(第十国立銀行取締役)、兄に新海栄太郎(山梨英和学院初代校主)[29]。
  • 兄・佐竹源造(1880年10月19日 - 1925年5月25日[30])
  • 姉・中村タケ(1887年7月生)
    • 中村藤一の妻。中村の姉が藤山雷太の最初の妻(伊吹震の実母)で、その縁から昭和火災・太平生命の売却において佐竹(根津側)と伊吹(日産側)が買収交渉を行った[14]。
  • 妻・壽枝(1902年生)

脚注

注釈

  1. ↑ 朝鮮鉄道の元になった南朝鮮鉄道(1920年設立、1923年解散)とは異なる。1936年に鉄道事業を国に譲渡し南朝鮮興業と改称[9]。
  2. ↑ 石川は昭和電工事件収拾のため持株会社整理委員会より推薦され会長職にあったが[24]、同時に社長に就任した永井清次の死去により社長職を務めていた[25]。

出典

  1. 1 2 3 「佐竹次郎」『大衆人事録 第5(昭和7年)版 ア-ソ之部』帝国秘密探偵社、サ之部20頁。
  2. 1 2 3 人事興信所 1959, さ18頁.
  3. 1 2 3 私の顔 1955, p. 170.
  4. ↑ 町田敬二『ある軍人の紙碑:剣とペン』芙蓉書房、1978年11月、34-35頁。
  5. ↑ 「富国徴兵の異動」『保険銀行時報』第1240号、保険銀行時報社、1925年9月、14頁。
  6. ↑ 「年表 大正十四年」『株式會社第十銀行創立五十年記念誌|publisher=第十銀行』1927年2月。
  7. ↑ 中外産業調査会 1937, pp. 408–409.
  8. 1 2 3 経済往来 1953, p. 197.
  9. 1 2 中外産業調査会 1937, p. 377.
  10. ↑ 『時代の事業会社:重要工業品と人 昭和9年度版』日本工業新聞社、1934年、365頁。
  11. ↑ 蒲田町人「東京に居る朝鮮関係の人々」『朝鮮公論』第23巻第10号、朝鮮公論社、1935年10月、65頁。
  12. ↑ 中外産業調査会 1937, p. 384.
  13. ↑ 「佐竹次郎」『山梨人事興信録 第3輯 第3版』甲府興信所、1940年、1576頁。
  14. 1 2 日産生命 1989, p. 100.
  15. ↑ 日産生命 1989, p. 101.
  16. 1 2 有竹修二、筑井正義 編『財人秘話』河出書房〈河出新書〉、1955年、112頁。
  17. ↑ 山崎広『溶明―溶暗:西イリヤンとはこんなところ』九魚洞、1965年、33頁。
  18. ↑ 日産生命 1989, p. 183.
  19. ↑ 日産生命 1989, pp. 189–195.
  20. ↑ 日産生命 1989, p. 185.
  21. ↑ 富国生命 1981, p. 88.
  22. ↑ 富国生命 1981, p. 112.
  23. ↑ 富国生命 1981, p. 123.
  24. ↑ 昭和電工 1977, p. 115.
  25. 1 2 昭和電工 1977, p. 128.
  26. 1 2 昭和電工 1977, p. 195.
  27. ↑ 「訃報 佐竹次郎氏(昭和電工会長)」『朝日新聞』1959年10月21日、東京 夕刊、5面。
  28. ↑ 『読売新聞』1959年10月22日、朝刊、11面。
  29. ↑ 「新海栄太郎」『人事興信録 4版』人事興信所、1915年、し64頁。
  30. ↑ 「(広告)佐竹源造」『朝日新聞』1925年5月27日、東京 朝刊、6面。
  31. ↑ 「佐竹源造」『人事興信録 5版』人事興信所、1918年、さ26頁。

参考文献

  • 人事興信所 編『人事興信録 第20版 上』人事興信所、1959年。 
  • 「佐竹次郎 昭和電工社長」『私の顔:現代社長アルバム 第2集』ダイヤモンド社、1955年、170-171頁。NDLJP:2996936/88。 
  • 『中堅財閥の新研究 関東篇』中外産業調査会、1937年。NDLJP:1463033。 
  • 「人物論 昭和電工社長 佐竹次郎」『経済往来』第5巻第11号、経済往来社、1953年11月、196-197頁、NDLJP:1412084/102。 
  • 『昭和電工五十年史』昭和電工、1977年4月。NDLJP:11952085。 
  • 『日産生命80年史』日産生命、1989年12月。NDLJP:13090987。 
  • 『富国生命五十五年史』富国生命保険、1981年11月。NDLJP:11954905。 
先代
石川一郎
昭和電工社長
第7代:1953年 - 1959年
次代
安西正夫