日産生命保険
| 種類 | 相互会社 |
|---|---|
| 本社所在地 |
東京都目黒区青葉台3-6-30 北緯35度39分10.43秒 東経139度41分25.71秒 / 北緯35.6528972度 東経139.6904750度 |
| 設立 | 1909年5月5日 |
| 廃止 | 1997年10月1日 |
| 業種 | 保険業 |
| 金融機関コード | 9822 |
| 代表者 | 米本宏(解散時) |
日産生命保険相互会社(にっさんせいめいほけん)は、かつて存在した日本の生命保険会社。第二次世界大戦終結後では初めて[注釈 1]経営破綻した生命保険会社として知られている[3]。
概要
太平洋戦争開戦直前に日産コンツェルンへ経営権が移行し、戦後は春光グループ(日立・日産系列)の一員とされてきた[4]。1996年3月期決算における総資産額は2兆1674億円で、当時の国内生命保険会社およそ30社のうち16位という中堅企業であった[5]。
破綻直前の本社は、渋谷駅に近い目黒区青葉台にあった[6]。渋谷駅周辺にはこうした中堅生命保険会社の本社が集まり、業界内で「渋谷系」「246号族」などと呼ばれた[3][7]。バブル時代に大手が二の足を踏むハイリスクな財テク商品を売る積極攻勢で業績拡大を狙ったことが仇となり、バブル崩壊後の低金利時代に経営破綻が相次いだ[3][8]。その結果、1990年代末から2000年代初頭にかけて当社の破綻を皮切りに、東邦生命保険(本社・渋谷区渋谷、1999年6月破綻)、千代田生命保険(本社・目黒区上目黒、同年10月破綻)が相次いで破綻した。渋谷近辺以外を本社とする中堅会社も含めると、第百生命保険(2000年5月破綻)、大正生命保険 (同年8月破綻)、協栄生命保険(同年10月破綻)、東京生命保険(2001年3月破綻)と経営破綻が合計7社となり[3][8]「生保破綻ドミノ」と呼ばれた[3]。いわゆる「護送船団方式」と呼ばれる金融保護政策が、バブル崩壊後は銀行に続き保険業界でも崩れ去ることとなった[3]。
沿革
太平生命保険から日産生命保険へ
日産生命保険の元となった太平生命保険は、農商務省で保険課長を務めた楠秀太郎を中心として設立された[9]。1906年(明治39年)に楠が会社設立を呼びかける[10]とまず早川千吉郎が応え、発起人には楠に加えて板垣退助、柳原義光、中山佐市、横山隆俊、横山章らが名を連ねた。発起人会において楠が準備資金を全て建て替えたうえで単独で設立準備を行うと宣言[注釈 2]したことから、当初出資に賛同していた浅野総一郎や根津嘉一郎らが株式引き受けを辞退するなど混乱があったが、早川や村井吉兵衛、中村静嘉などの支援を得て必要な資本金を確保した[11]。

1909年(明治42年)3月20日に設立総会を開催した。出資者の多くが村井の保有する銀行関係者であり、その株式を代表する立場であった中村を初代社長とし、楠が専務取締役として実務を担当することとなった。同月25日に免許申請、翌4月28日に農商務省より営業許可を受け、5月5日に太平生命保険株式会社として営業を開始した[12]。しかし、板垣・柳原・中山らの保有株式はほどなく左右田金作とその一族に譲渡された。1910年(明治43年)には金作の婿養子である左右田棟一が取締役に選任され、左右田銀行が村井銀行と並んで影響力を持つようになった[13]。その後しばらくは、保険界で名をはせた楠という看板によって経営は順調であったが、やがて経営方針などを巡って中村と楠の対立が表面化し[14]、1916年(大正5年)に楠は取締役を辞任、保有株式も手放して保険界から去った[15]。翌1917年(大正6年)には中村が社長を退任、第2代社長に村井貞之助(吉兵衛の妹の夫)が就任した[16][17]。
1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が起きると、村井・左右田両銀行ともに経営破綻し、両行に多額の資金を預けていた太平生命も危機に陥った[18]。両行は大蔵大臣経験者の井上準之助に援助を依頼、井上は安田財閥の結城豊太郎と相談し望月軍四郎に白羽の矢を立てた。望月はこれに応諾し、両行の保有していた太平生命の株式を引き受けるとともに金銭的支援も約束した[19]が、取締役会においては望月は監査役の任を務めるにとどまり、社長は当面空席とした[20][注釈 3]。翌1928年(昭和3年)、会長に江口定条、第3代社長として石井徹を据えることとなった。
太平生命はその後の昭和恐慌を乗り切ったものの業績が期待ほど伸びず、望月は自身が社長を務める日清生命(1906年 - 1941年。のち野村生命保険)との合併を画策した。これに対して当時富国徴兵保険を有していたが生命保険会社を持たなかった根津嘉一郎が買収を持ちかけ、1932年(昭和7年)に望月から経営権を譲り受けた。根津が第4代社長に就任、富国徴兵から吉田義輝と小林中[注釈 4]が取締役として加わった[23][24]。太平生命の株式は当初彼ら取締役が保有していたが、根津財閥の土地・証券管理会社である日本土地証券に移譲され、佐竹次郎がこれを管理した[25]。
1940年(昭和15年)に根津が死去すると吉田が後任の第5代社長となった[26][25]が、生前から根津は太平生命の事業譲渡を画策していたとされ[27]、同年7月には根津財閥保有分の株式が日産に譲渡され、日産が全株式の過半数を掌握した[28]。これに伴い、第6代社長には日産火災社長だった伊吹震が就任した。根津財閥からは日産への譲渡に尽力した佐竹が取締役として留まった[29][30]。同年10月には日産生命保険株式会社と改称された[31]。
片倉生命保険の創立と合併
片倉生命保険は、片倉兼太郎や叔父の今井五介らを中心に設立された、片倉財閥の一角を担う生命保険会社であった。1919年(大正8年)に申請を提出したものの、認可は2年後の1921年(大正10年)であった[32]。当時生命保険を扱う事業者は乱立状態であったため農商務省は新規認可を抑制する傾向にあり、片倉生命保険は普通死亡保険を扱う会社としては戦前最後の認可であった[33][注釈 5]。
創業直後から順調な業績をあげ、1932年(昭和7年)には経営危機にあった大安生命保険[注釈 6]を買収する[35]など事業拡大を続けていたが、日中戦争から太平洋戦争へと進む時期で、商工省からの勧奨を受けて1942年8月に日産生命と対等合併した[36][37]。
最初の破綻と再生
太平洋戦争終結後、生命保険各社は海外資産の凍結や多額の保険金支払いなどによって業績が急激に悪化した[2][38]。日産生命も例外ではなく、加えて財閥解体の対象となったため日産系列各社の支援も受けられなかった[39]。伊吹は社長を退き、ニューギニアから生還した佐竹が第7代社長に就任した[40]。佐竹は受け皿となる新会社の設立に取り組み、1947年8月に相互会社として日新生命保険相互会社[注釈 7]を発足させた。社長(太平生命時代から数えて第8代)には江川武が就任した。翌1948年に契約を包括移転し、旧日産生命保険は解散した[42]。
1950年に江川が死去し、専務取締役の瀬戸口又が第9代社長に就任した。瀬戸口は専務時代から社内機構の改革に取り組む[43]とともに、旧日産系列のブランドを活用すべく旧社名の復活に取り組み、1954年5月に日産生命保険相互会社となった[44][45]。1960年に瀬戸口は退任し、日立製作所出身の藤本輝夫が第10代社長に就任した。藤本は旧日産コンツェルンとの結びつきを強化する取り組みを進め、1966年には春光会の創設に加わった[46]。
1967年に藤本輝夫が勇退し、日本生命から転身し取締役・副社長を歴任した藤本正雄が第11代社長に就任した[47]。1976年には旧日産生命からの生え抜き社員[48]である矢崎恭徳が第12代社長に[49]、さらに1987年には戦後の日新生命時代からの生え抜き[50]である坂本市郎左衛門が第13代社長となった[51]。
2度目の破綻へ
1980年代半ばに、業界初の歯科医療保険を開発し販売。この保険は保険請求が非常に多く経営の悪化を招いた。
1980年代後半には地方銀行などと組み、銀行ローンで保険料を一括払いさせるという形で、融資とセットで高い予定利率の個人年金を販売した[52]ことで資産規模が4年で4倍と急激に増大した[8]。こうした財テク商品の発売は他の中堅生命保険会社にも影響を与え、同業他社も追随する結果となった[8]。しかし1990年代前半の低金利時代到来により膨大な逆ザヤを抱える原因となり、無理な運用に走ることを招いた。また破綻直前は株式市場に運用資金を傾斜させたことも含み損を膨らませる結果となった[53]。
こうしたなか、1994年7月には米本宏が第14代社長に就任した[54]。米本は店舗の統廃合や人員整理を進め、事業費を2割程度削減したものの損失補填には及ばなかった[53]。1997年(平成9年)4月25日、債務超過により主務省である大蔵省より業務停止命令を受け倒産[3][8]。破綻時の債務超過額は約600億円、総資産は約2兆1,200億円、負債総額は約2兆1,000億円。
略譜
- プルデンシャル生命保険(1987年 - )- プルデンシャル・ファイナンシャル100%出資の日本法人として設立。
- あおば生命保険(1999年 - 2005年) - フランス企業のTawa S.A.が大株主となる。2004年に売却。
- あおば生命保険(1997年 - 1999年) - 生命保険協会出資により破綻事業の受け皿として設立。
- 日産生命保険相互(1954年 - 1997年)- 旧社名を復活させた。個人年金販売により破綻。生命保険協会が後継を設立。
- 日新生命保険(1948年 - 1954年)- 戦後の後継会社として発足。
- 日産生命保険相互(1954年 - 1997年)- 旧社名を復活させた。個人年金販売により破綻。生命保険協会が後継を設立。
- Tawa S.A.(2001年)- Artémisグループの投資会社。
- Artémis S.A. - ピノーグループのファッション・エンターテインメント投資会社(1992年設立)。
- あおば生命保険(1997年 - 1999年) - 生命保険協会出資により破綻事業の受け皿として設立。
- プルデンシャル・ファイナンシャル(1875年 - ) - アメリカ合衆国ニュージャージー州にて設立。1979年、ソニーとの合弁会社ソニー・プルデンシャル生命保険も設立。
- あおば生命保険(1999年 - 2005年) - フランス企業のTawa S.A.が大株主となる。2004年に売却。
破綻処理
戦後初の生命保険会社の破綻であり、当時は金融機関等の更生手続の特例等に関する法律(更生特例法)も保険会社への適用を想定していなかったことに加え、更生特例法は相互会社を対象としていなかったという形式上の障害もあり[58]、保険業法に基づく処理が行われた[注釈 8]。主務省である大蔵省は、生命保険協会を保険管理人に指名[60]。同社が相互会社であったことから株式売却という方法をとることはできず、他社との合併よりは契約移転がより容易であると判断された[61]。契約移転に当たっては、保険契約者保護基金より2,000億円の資金援助を受けたが、破綻の要因となった逆ザヤを縮小させるため、既契約の予定利率を一律2.75%に引き下げる[52]と共に、7年以内の解約に対しては解約返戻金を最大15%削減する規定が盛り込まれた。
移転先となる受け皿会社は、保護基金の2,000億円を得てもなお1,000億円の欠損を抱えるうえ、解約の増加による再破綻が懸念された。最初の対策として、欠損を補填することと新会社の信用を高めることを目的に、日産生命へ取締役・監査役を派遣していた日産・日立グループ8社[注釈 9]に出資の打診が行われた[62]。しかし8社とも応諾しなかったため、解約を抑制する次善策として早期解約控除制度[63]を導入することとした[64]。また業界団体である生命保険協会が100%出資で保険会社を設立することは独禁法上の懸念もあったため、新会社の業務を既存契約の維持管理に限定する条件を付すことで、公正取引委員会の同意を得た[65]。
また当破綻処理によって、保険契約者保護基金の資金枠が底をついたことから、破綻処理の新たな枠組みが議論される契機となった。
1997年10月1日、受け皿会社として設立されたあおば生命保険株式会社に契約を包括移転し、日産生命は解散した[66]。同じ日、最後の社長であった米本と一部役員、さらに前社長で同年8月に死去した坂本の遺族が、私財をあおば生命に寄付した[67][68]。この行為は日本的な経営責任の取り方と見なされる一方、こうした責任の取り方が過剰であるという懸念[69]や、破綻の全容を明らかにする方が先であるといった批判[70][71]など、多くの議論を呼んだ。奥村宏は難しい問題であるとしつつ「美談にしていいのか、などいろいろあるが、知らん顔しているよりは、そりゃあいい[72]」と評価し、高杉良は大蔵省の護送船団方式を踏まえて「『信じてついてきたら、つぶれてしまった』との思いから、大蔵省への当てつけで私財提供を思い立ったのではないか、と思うくらいだ[72]」と米本の含意を推察した。
その後、あおば生命も吸収合併によりプルデンシャル生命保険となった。目黒区青葉台の本社ビルはあおば生命が引き続き利用していたが、プルデンシャル生命に吸収された後に解体され、2009年には住友不動産による青葉台タワーが完成した[73]。
脚注
注釈
- ↑ 厳密には終戦から2年ほどの間に、当時存在した生命保険を扱う21機関のうち18が経営破綻しており[2]、それ以降を指して「戦後初」と表現される。なお、日産生命自体もこの時期に一度破綻している(詳細は沿革を参照)。
- ↑ この宣言の理由として、楠は自らが調査に奔走した大阪生命保険の反省から、少数の出資者による専横を防ぐためとしている。
- ↑ 望月が社長を務めなかった理由は明らかでないが、当時の業界誌は実質的な救済母体が安田財閥であるが、安田はこの当時生命保険業に関わらない宣言をしていたため表に出ることができなかった、との推測を示している[21]。
- ↑ 小林は帝人事件に巻き込まれたため1935年に辞任、根津の甥である福島茂富が後任となった[22]。
- ↑ この後に設立された4社はいずれも徴兵保険や団体保険を扱っていた。
- ↑ 1914年に木村利右衛門らによって創立した生命保険会社[34]。
- ↑ 新会社の名称は当初日産の名をそのまま用いていたが、GHQや政府の意向に沿って改称することとなった。公募により日進生命保険という名称が選ばれたが、最終的に「進」を「新」に改めた[41]。
- ↑ 保険業法に基づく破綻処理は続く東邦生命、第百生命、大正生命に対しても適用され、千代田生命以降は2000年に改正された更生特例法によった[59]。
- ↑ 日立製作所、日産自動車、ジャパンエナジー、ニチレイ、日産火災、日本水産、日立電線、日立金属
出典
- ↑ アイ・エス・エス 編『英和和英金融・証券・保険用語辞典』Wave出版、1995年4月、635頁。ISBN 4-900528-51-X。
- 1 2 福富暉夫「生命保険会社の再建整備について」『生命保険経営』第17巻第3号、生命保険経営学会、1949年3月、6頁。
- 1 2 3 4 5 6 7 “【特集・連載】あの日から 日本経済の転機 1997年4月25日 日産生命に業務停止命令『渋谷系』生保 破たんドミノ”. 東京新聞 Tokyo Web (2006年10月18日). 2016年8月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年7月14日閲覧。
- ↑ 佐藤 2020, p. 94.
- ↑ 「経営難の日産生命に業務停止命令 業界に支援要請 戦後初、発動へ」『朝日新聞』1997年4月25日、東京 朝刊、1面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 523.
- ↑ 渡邉光一郎 (2025年12月14日). “渡邉光一郎 私の履歴書(14)乱”. 日本経済新聞. 2026年7月14日閲覧。
- 1 2 3 4 5 植村信保. “6 生命保険会社の経営悪化”. 内閣府 経済社会総合研究所. 2020年12月6日閲覧。
- ↑ 日産生命 1989, p. 8.
- 1 2 「一大保険会社創立」『朝日新聞』1906年6月2日、東京 朝刊、3面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 13.
- ↑ 日産生命 1989, pp. 14–15.
- ↑ 日産生命 1989, p. 23.
- ↑ 『本邦生命保険業史』保険銀行時報社、1933年、175頁。
- ↑ 日産生命 1989, p. 25.
- ↑ 「太平生命社長更迭」『朝日新聞』1917年9月4日、東京 朝刊、4面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 31.
- ↑ 日産生命 1989, p. 53.
- ↑ 日産生命 1989, p. 55.
- ↑ 「太平生命の重役顔触れ変る」『朝日新聞』1927年6月30日、東京 朝刊、4面。
- ↑ 「太平生火両社譲渡のいきさつ」『保険銀行時報』第1325号、保険銀行時報社、1927年6月13日、10頁。
- ↑ 日産生命 1989, p. 78.
- ↑ 「太平生命重役」『朝日新聞』1932年1月31日、東京 朝刊、4面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 74.
- 1 2 日産生命 1989, p. 79.
- ↑ 「太平生命、富国徴兵社長決定」『朝日新聞』1940年1月17日、東京 朝刊、4面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 100.
- ↑ 「日産、生保事業に進出 太平生命株過半数掌握」『朝日新聞』1940年7月27日、東京 朝刊、4面。
- ↑ 「太平生命の新重役決定 社長は伊吹氏」『朝日新聞』1940年8月11日、東京 夕刊、4面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 101.
- ↑ 「太平生命改称」『朝日新聞』1940年10月16日、東京 朝刊、3面。
- ↑ 「片倉生命開業」『朝日新聞』1921年10月30日、東京 朝刊、4面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 141.
- ↑ 日産生命 1989, p. 159.
- ↑ 日産生命 1989, p. 158.
- ↑ 「日産、片倉両生命合併」『朝日新聞』1942年8月8日、東京 朝刊、2面。
- ↑ 日産生命 1989, p. 161.
- ↑ 日産生命 1989, p. 173.
- ↑ 日産生命 1989, p. 175.
- ↑ 日産生命 1989, p. 183.
- ↑ 日産生命 1989, pp. 198–199.
- ↑ 日産生命 1989, p. 176.
- ↑ 日産生命 1989, p. 213.
- ↑ 『日本生命七十年史 1889-1959』日本生命保険、1963年(リンク先は渋沢社史データベース)
- ↑ 日産生命 1989, p. 236.
- ↑ 「今や経済界も派閥横行時代に入る」『経済展望』第38巻第18号、経済展望社、1966年10月1日、17頁。
- ↑ 日産生命 1989, p. 295.
- ↑ 日産生命 1989, p. 346.
- ↑ 日産生命 1989, p. 344.
- ↑ 日産生命 1989, p. 394.
- ↑ 日産生命 1989, p. 392.
- 1 2 佐藤 2020, p. 91.
- 1 2 「日産生命破たん 最後の“賭け”が裏目に」『日経公社債情報』第1081号、格付投資情報センター、1997年4月28日、7,9頁。
- ↑ 「日産、社長に米本専務を内定」『Insurance』第3612号、1994年6月23日、2頁、ISSN 0910-4518。
- ↑ 人事興信所「木村利右衛門」『人事興信録』4版、人事興信所、1915年、き4。
- ↑ 保険銀行時報社「」『本邦生命保険業史』、保険銀行時報社、1933年。
- ↑ 人事興信所「大西正雄」『人事興信録』4版、人事興信所、1933年、を47。
- ↑ 佐藤 2020, p. 86 注12.
- ↑ 佐藤 2020, p. 85.
- ↑ 佐藤 2020, p. 84.
- ↑ 佐藤 2020, p. 91 注19.
- ↑ 佐藤 2020, p. 98.
- ↑ “Q12生命保険会社が破綻した場合の補償内容はどうなっていますか。”. 生命保険契約者保護機構. 2026年8月3日閲覧。
- ↑ 佐藤 2020, p. 100.
- ↑ 佐藤 2020, p. 102.
- ↑ 「「あおば生命」きょう開業」『朝日新聞』1997年10月1日、東京 朝刊、3面。
- ↑ 「日産生命社長が私財2000万円寄付 経営破たん引責であおば生命へ」『朝日新聞』1997年9月30日、東京 夕刊、1総。
- ↑ 「日産生命経営陣 私財1億円を寄付 米本社長ら破たん責任で」『日本経済新聞』1997年10月1日、朝刊、7面。
- ↑ 小野秀紀「経営責任とその対応(1)倒産会社役員の私財提供行為と株主代表訴訟の間」『経営コンサルタント』第592号、経営政策研究所、1998年2月、167-173頁。
- ↑ 花原國吉「最後の銀行局長・山口公生(2)」『銀行労働調査時報』第586号、銀行労働研究会、1998年7月、39頁、ISSN 1343-5671。
- ↑ 山田厚史「てん末公表こそ責任 破たんの日産生命社長が私財提供」『朝日新聞』1997年10月1日、東京 朝刊、1経。
- 1 2 「どう見る、日産生命社長の私財提供 高杉良氏と奥村宏氏に聞く」『朝日新聞』1997年10月1日、東京 朝刊、1経。
- ↑ “住友不動産青葉台タワー(ラ・トゥール青葉台)”. 日本ファブテック. 2026年7月24日閲覧。
関連項目
参考文献
- 『日産生命80年史』日産生命保険、1989年12月。NDLJP:13090987。
- 澤田茂雄「運用資産構成から考える生保の健全性―日産生命、東邦生命の経営破綻を事例として―」『年報財務管理研究』第10,11巻、日本財務管理学会、2000年3月31日、47-56頁、NDLJP:10735696。
- 佐藤元彦「日産生命破綻処理に関する覚書き」『生命保険経営』第88巻第5号、生命保険経営学会、2020年5月、82-107頁。
外部リンク
- 1997年4月25日 日産生命に業務停止命令『渋谷系』生保 破たんドミノ - ウェイバックマシン(2016年8月28日アーカイブ分) - 東京新聞