『清代學者像傳』より

何焯 (仮名:カ-シャク, 拼音:hé zhuō) は、清朝康熙年間の学者。経書、史書、諸子百家に精通し、門下生は数百人にのぼった。 [1]

字は屺瞻[1](峐瞻とも)、号は茶仙[2]など。学者からは義門先生と呼ばれた。[1]康熙時代の「4人の学者」としても知られている。[3]

概要

順治18年 (1661) 出生。長洲県 (現江蘇省蘇州市) 出身。[1]

康熙41年 (1702)【41歳】直隷巡撫・李光地により在野の才人として薦挙され、南書房に採用された。[1]

康熙42年 (1703)【42歳】旧暦3月、挙人 (郷試及第者) の資格を賜り、会試に臨んだものの落第。[4]しかし学問優秀として進士 (会試及第者) の資格を賜り、殿試に及第。[4]翌4月、庶吉士 (官吏見習い) に選出。[5]

康熙45年 (1706)【45歳】「文義荒疏」(作文時に文章の意味を疎かにしている) を理由に庶吉士としての修練期間を延長。[6]

その後も南書房で勤め、皇八子胤禩の教育指導を任される傍ら、武英殿叢書の纂修を兼ねたが、相次いで両親を亡くし退官。[1][7]

康熙54年 (1715)【54歳】旧暦4月、「編修」の官職に就任。[8]11月、官職免黜、挙人・進士の資格剥奪。康熙帝は、郷試免除で挙人の資格 (科挙受験資格) を授与し、更に会試落第でも進士の資格 (及第資格) を授与したのに、その恩義をまるでわかっていないと憤慨していた。かてて加えて、幼女を康熙帝の許可もなく第八皇子・胤禩の自宅で養育させているなどの罪状の為に断罪されたが、能力を評価して死刑は免除され、「編修」の継続は許可された。[9]

康熙61年 (1722)【61歳】死去。[1]その生涯は康熙朝61年間と完全に重なる。

言説を記した『義門読書記』が伝わっている。[1]

逸話

脚注

  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “文苑一 (何焯)”. 清史稿. 484. 清史館
  2. 1 2 3 記事修正 (24.01.07) 前からあったため遺したが、典拠不詳。
  3. ↑ 近藤春雄『中国学芸大辞典』大修館書店(原著1980年)。
  4. 1 2 “康熙42年3月29日段19847”. 聖祖仁皇帝實錄. 211. 不詳
  5. ↑ “康熙42年4月15日段19858”. 聖祖仁皇帝實錄. 212. 不詳
  6. ↑ “康熙45年4月6日段20712”. 聖祖仁皇帝實錄. 225. 不詳225
  7. ↑ 参考:「改庶吉士。仍直南書房,授皇八子讀,兼武英殿纂修。連丁內外艱。久之,復以光地薦,召授編修。」(『清史稿』巻484) とある為、具体的な年次は不明ながら、康熙54年は「復職」であったと考えられる。
  8. ↑ “康熙54年4月22日段23049”. 聖祖仁皇帝實錄. 263. 不詳
  9. ↑ “康熙54年11月11日段23194”. 聖祖仁皇帝實錄. 266. 不詳
  10. ↑ “雍正4年6月3日段26167”. 世宗憲皇帝實錄. 45. 不詳
  11. ↑ “雍正4年3月30日段26107”. 世宗憲皇帝實錄. 42. 不詳

参照

文献

Webサイト

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