綏和2年(紀元前7年)に哀帝が即位すると、傅晏の娘の傅皇后が皇后に立てられ、傅晏は孔郷侯となった[1]。
元寿元年(前2年)正月に後ろ盾の傅昭儀が死去[2]。同月に傅晏は大司馬衛将軍となったが、わずか10日で免ぜられた[3]。元寿2年(前1年)6月に哀帝が死去すると、王莽と王政君が実権を握った。7月に王莽が王政君に出させた詔により、傅晏は傅昭儀とともに弾劾され、孔郷侯を免ぜられ妻子と合浦郡に流された[1]。
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